古田武彦著作集 親鸞・思想史研究編 2 親鸞の中心思想ー三願転入の論理ー 部分です。

 インターネット事務局注記 2003.7.15
 これは論文の一部分です。史料批判の対象である漢文そのものが、表示が困難なため一部略しております。論証には影響ありませんが、この見本を元にして史料批判は出来ません。古田氏の著作を閲覧して下さい。

親鸞思想

その史料批判
古 田 武 彦 著

明石書店

第2章 親鸞の中心思想ー三願転入の論理ー
(部分)

     一

 親鸞は
生涯の著述たる教行信証の中で、みずからの精神的閲歴を明晰な論理的文脈の中に凝縮した。「三願転入」と通称される、左のごとき短文がそれである。

是ヲ以テ・愚禿釋ノ鸞仰キ論主ノ解義ヲ依テ宗師ノ勸化ニ久シク出テ萬行諸善之假門ヲ永ク離ナル雙樹林下之往生ヲ入シテ善本徳本ノ眞門ニ偏ヘニ發シキ難思往生之心ヲ然ルニ今マ特(ヒトリ)コトニ出テ方便ノ眞門ヲ入セリ選擇ノ願海ニ速カニ離レテ難思往生之心ヲ欲(オモ)フ遂(トケント)難思議往生ヲ果遂之誓良ニ有ルニ由(ユヘ)哉(カナ)(化身土巻本) (1)

 右の文章によって、われわれの認識し得るのはつぎの点である。
 まず、親鸞は精神的に三段階の発展を遂げた、と自覚していること。その第一段階は「萬行諸善之暇門」「雙樹林下之往生」と呼ばれる境位である。次の第二段階は「善本徳本ノ眞門」「難思往生之心」と呼ばれ、最終の第三段階は「選擇ノ願海」「難思議往生」と呼ばれる。
 つぎに、初の第一より第二の転回は、「入」と呼ばれ、後の第二より第三への転回は、「入」と呼ばれている。
 さらに、「回入」の場合の動因は「論主ノ解義 (2)」「宗師勸化 (3)」によるものとされ、「転入」については「果遂之誓」(第二十願)の「由(ユヘ)」あることの現われである、とされている。

 さて以上のごとき三段の階梯の内実について、通常、左記のごとく分析・配列せられている。

 (一)第十九願ー観無量寿経ー邪定聚機ー双樹林下往生
 (二)第二十願ー阿弥陀経ー不定聚機ー難思往生
 (三)第十八願ー大無量寿経ー正定聚機ー難思議往生

 右は要するに、その第一段階は自力の諸行・諸善をもって往生を遂げんとする境位であり、聖道の諸教がこれに配当せられた。第二段階は自力の念仏と言われるものであり、「専修ニシテ而雑心 (4)」と呼ばれ、念仏をもって自己の善根と見なす境位に属する。これらに対して、最後の第三の境位こそ、絶対他力の「金剛信心」(金剛真心・金剛真言とも書かれる)の立場であり、弥陀の側より与えられた真実信心をそのままうけ入れて疑惑することなき、純粋の境位を示すものであった。


     二

 右のごとき理解については、親鸞自身の明文が存し、一般に争いなき通念に属するものと言えよう。
 これに対し、古来重大な争点を提供しているのは、三願転入の転入時点である。第一の「回入」時点、第二の「転入」時点が具体的に、親鸞の生涯中のいかなる時点であるか、という問題なのである。このことは親鸞の思想的発展の研究上、回避しがたい、基本的な問題点となって来るであろう。

 今、従来の学説を簡明に列記しよう。

(一)吉水入室時、第三段階転入説。この場合、三願転入の歴程は、吉水入室以前の精神的苦闘を叙述したものと見なされる。したがって、建仁元年(二十九歳)、法然の膝下に入って以後、弘長二年(九十歳)に死去するまでの親鸞、換言すれば、独自の思想家としての本領を発揮したすべての時期は、三願転入以後に属する。すなわち、彼の本格的生涯にとって、三願転入はいわば前史的意義を有するに過ぎぬ。古くは、道隠の「教行信証略讚(5)」これを説き、近くは、梅原真隆 (6)・宮崎円遵 (7)・笠原一男 (8)・松野純孝 (9)・赤松秀俊(10)らの諸氏こぞってこれを支持せられ、ほとんど「定説」的位置を占めていると言い得よう。


(二)これに対し、第三段階への「転入」を吉水入室以後の時点に求める各説がある。

 (A)三願転入の信仰的歴程を吉水門下(二十九歳〜三十五歳)にあった時期に求めるもの。(東派の皆往院師)(11)

 (B)「転入」時点を越後流罪時代(三十五歳〜四十歳)に求めるもの(山田文昭氏)(12)

 (C)「回入」点を吉水入室時に求め、「転入」点を関東時代の、ある時期に存した、と見なすもの。(金子大栄(13)、竹内義範氏(14)

 (D)右に類同するものとして、家永三郎氏によって特唱せられた元仁元年(五十二歳)「転入」がある(15)。 氏の場合、教行信証「晩年撰述説(16)」の上に立たれたため、翻って末法計算の起点とされている「元仁元年」の特殊意義を、“過去の「転入」時点に対する記念”と見なされたのである。晩年撰述説の崩壊するにいたった現在、氏の立論の基礎もゆらいだかに見えたが、最近重松明久氏によって支持せられている。(17)

 (E)歓喜三年(五十九歳)「転入」説。(川崎庸之氏)(18)

<なお、右における「回入」と「転入」の用語区別は、諸氏の分別せられたところではない。しかしながら、筆者が親鸞の使用した、この用語区別を重要視すること、後述のごとくである。>


(三)つぎに、三願転入の各時期を歴史的時間に配当することが、本質的に不当である、とする立場がある。

 これは宗教的な永遠の体験を説くに当り、仮に“時間的表現”を借りて表明したものにすぎないとして、右の第一・第二説のごとく、親鸞の生涯の中の特定時点にこれらを否定せんとすることを、原理的に拒否する論者である。古くは東派の恵空がこれを説き(19)、近くは神子上恵龍氏がこの立場に属する。(20)(21)


     三
 
 右第三の立場に立てば、三願転入時点に関する諸説の対立を一挙に止揚し得るかに見えよう。
 しかしながら、これは問題を、永遠の相下にある、一箇の“偉大なる比喩”として解し去らんとする道にほかならぬ。きわめて“賢明なる”方途であることは論をまたぬけれども、その実、かくも理念的・観念的に問題を局蹐(せき)せしむることは、親鸞の文面の有する、いきいきとした具体的迫力、実体験的切実性に対し、みずから眼をそむけんとするものであろう。さらに、この文面中にちりばめられた、「久」「永」「今」といった具体的時間表現の用語が、はたして超時間的な抽象的表現として使用された事例があるか否か、が実証的なポイントとなろう。この点、あくまで親鸞自身の自著文献の全使用例を通して、検証せられねばならぬ。(この点、後述。)
 これに対して、第一・第二説の対立点は、より先鋭である。第一説の場合、三願転入の歴程は、専修念仏者親鸞にとって、前史的なテーマにすぎぬ。第二説の場合は、純一なる絶対他力の立場の「転入」点を、「吉水入室」以後に求めるのであるから、親鸞独自の立場の自覚せられた、もっとも注目すべき時点が別に存することになろう。ゆえに、三願転入の論理は、吉水入室以前に対する回顧的告白でなく、彼の独自の思想形成そのものの自覚的告白となるであろう。
 この場合、親鸞の全思想は、直接に三願転入の論理の上に、理解せられ、追跡せられねばならぬ。京都・越後・関東時代の思想形成の結実が、この論理に集約せられているのみならず、晩年の京都時代の思想も直接この論理の骨格の上に立ち、これを深化せしめたものとなるであろう。
 このようにしてみると、この「回入」「転入」時点の問題は、単なる史的考証の領域にとどまり得るものではないであろう。実に親鸞の思想そのものをいかに把握するか、という起点において、いわば基本的な“裂け目”を与えざるを得ぬ問題性格を内蔵しているのである。


     四

 第一説の依拠点を列記しよう。

 (一)「若し親鸞の弘願轉入の時期についてこれを考へるとすると、ここに當然問題とすべきは『教行信證』の後序に、『然愚禿釈鸞、建仁辛西暦、棄雑業行兮歸本願』とあることである。即ち親鸞の弘願轉入は建仁元年二十九歳吉水入室の時といふべきであり、従って右の説のやうにそれを元仁元年に認めまいとすることには無理がある、といはねばならぬ。(22)」(宮崎円遵)

 (二)「この三願転入の歴程は聖人が比叡の学山から吉水の禅房に帰入するまでのあいだ辿られたものである。三願転入の辿りが比叡の山上であったということは、新しい意味をもって、比叡の山の修行が価値づけられるのである。この転向は自力を棄てて他力に皈せられたのであるが、これをくわしくいえば、聖道を捨てて浄土に皈し、要門を出てて真門に入り、三選の批判を経て第十九願の要門より第二十願の真門に入り、第二十願の真門より第十八願の弘願に転入せられたもので、これを略述して、『棄雑業行兮帰ス本願』ともうされたのである。
 さらに『御伝絵』第二段の『他力摂生の旨趣を受得し、飽迄、凡夫直入の真心を決定しましましけり』という記録と一致することである。
 これは要するに、聖人は建仁辛酉の暦、吉水に皈入されたとき、弘願他力に皈依せられたのである。(23)」(梅原真隆)

 (三)「われわれは、親鸞に第一回の廻心と、決定的廻心の二度の廻心を考えることは出来ないのである。親鸞は廻心とは如何なる意味のものであるかについて、次の如くいっている。

 一向専修のひとにおいては、廻心といふこと、たゞひとたびあるべし。その廻心は、日ごろ本願佗力真宗をしらざるひと、弥陀の智慧をたまはりて、日ごろのこゝろにては往生かなふべからずとおもひて、もとのこゝろをひきかへて、本願をたのみまひらすることをこそ、廻心とはまふしさふらへ。

すなわち、親鸞にあっては廻心とは唯一度あるべきものであり、今まで本願他力の真宗を知らない人が、弥陀の智慧によって、今までの心をひるがえして、はじめて本願をたのむことこそを廻心というのであった。そして、親鸞があらゆる余行・雑行・助行を捨て去って、ただ一筋によき人法然の教示によって、ひたすら本願をたのむ生活に入ったのは建仁元年『棄雑業行兮帰ス本願』したその時にもとめなければならないのである。(24)」(笠原一男)

 (四)彼には、勢至や弥陀はそのまま源空の中に移行し、源空そのものとして顕現していた。したがって、そのような源空以外に別に勢至や弥陀を求める要はなく、ただ源空一師でも十分でもあった。こうして彼には『偏依源空』の態度が、また源空信仰ともなっていった。こうなれば彼の廻心は彼の生涯を決定したものであり、このことがただ一回限りという廻心の事実をよく示していると思われる。彼が廻心によって『金剛の信心』に住すると言ったのは、こうした廻心を称したのである。ここまで追求してくれば、彼の『偏依源空』による廻心は、きわまれり、ともいうべきものでこれ以上語る要はないであろう。(25)」(松野純孝)

右諸氏の論点に対し、依拠史料の分析を試みよう。

(一)「建仁辛西暦、棄雑業行兮帰本願」の文面について。これは第一説最大の拠点である。けれども、先に筆者によって論証された、いわゆる「後序」成立時点の史料批判的分析によると、今や左のごとき事実が明らかとなっているのである。(26)

 1. 承元の奏状(申状)ー竊以・・・五年居諸

 2. 法然入滅の賛文ー皇帝・・・見別伝
 
  <中間結合の辞>然愚禿釈鸞

 3. 吉水入室の記録ー建仁・・・本願

 4. 元久文書ー元久・・・決定往生之微也
 
  <末尾結びの辞>仍抑悲喜之涙由来之縁


 右、四文書の成立時点はつぎのごとくである。

  1. の文面に存する、「今上」の用語追跡によって、これが承元四〜五年の間に提出された、親鸞の奏状の一部を摘出記載したものであることが明らかとなった。

  4. の文面は、法然七十三歳を「今年」とする、元久二年時点において、記述された、感激的な文面の摘出記載にほかならぬ。

  2. の文面は、法然追悼の賛文の部分掲載である。(27)

 このように判明し来った現在、問題の 3. の文面についても、当然吉水入室当時の感激の文面の肝要部抜萃と見なさねばならぬ。もしこれが、後時(教行信証著述時)の記述ならば、かえって当然記入せられねばならぬはずの“記念すべき入室年月日”をいっさい記載しない点も、この見地を支持するであろう(28)。(この前後の文面では、すべて月もしくは日を精記している。)
 さらに、「棄雑業行兮帰本願」という雄勁簡潔な語気も、吉水入室当時の若々しき親鸞にこそもっとも適切である。すなわち、三願転入の論理成立以前の素朴な形姿が、これを改変することなく摘出記録せられていると見なすとき、もっとも自然に理解せられ得るであろう。何となれば、三願転入以後の親鸞による造文ならば、それが第二段階の「方便真門」の境位か、第三段階の「絶対他力・金剛信心」の境位か、後代の論者の疑問の余地のなからしむ程、明々白々の表現を採用していると思われるからである。

 換言すれば、吉水入室当時の親鸞の意識においては、「雑行か、本願か」「聖道門か、浄土門か」という、簡明な選択を迫られていたのであって、未だ三願転入というごとき、より複雑な論理的思考の段階ではなかったのではないか、という見地を支持するものであろう。すなわち、この問題はかえって第二説に相応する性格を有するのである。

(二)「凡夫直入の眞心を決定しましましけり」について。この一句は覚如より蓮如を経由し来った本願寺の宗学的伝統の上に、甚大な影響を与えたものである。けれども史料批判の場において、つぎの二点が問題となろう。
 
 (A)学的研究において、覚如の立場と親鸞の立場を即一なるものとして「予断」することは許されぬ。覚如の著述は、親鸞文献としては第三史料(29)であるから、それをもってただちに親鸞第一史料の内容を判定する基準とすることは、史学方法論上不用意のそしりをまぬがれるものであろう。

 (B)「伝絵」は、法然と親鸞の師嗣関係(ひいてはいわゆる「三代の伝持」)を平易に宣布せんとする文書である。必ずしも、親鸞の思想進展の内実を克明に記録せんとするものではないのである。かかる性格の著述に対し、直接に親鸞の思想展開の事実判定を求めんとすることは早計であろう。

 (C)さらに注意すべきは、覚如自身、けっしてこの段を、「三願転入記事」として、記載したわけではない、という一点である。したがって、この点からも、当史料の操作上十分の配慮が必要とせられねばならぬ。(30)

 以上を要するに、この覚如史料はこれ自体のみでは「三願転入時点」判定の客観的証拠とはなり得ぬ性格のものであることが判明しよう。

(三)「廻心一回説」について。この場合、史料操作上及び用語使用上において、五箇の問題がある。

 (A)笠原氏はこの文面を親鸞の言葉として引用しておられる。これは明らかに氏の錯覚であって、「歎異抄」の地の文であるから、唯円の言葉である。

 (B)つぎの問題は、氏の引用せられた箇所の直前の文面との関係である。

「信心の行者、自然にはらをもたて、あしざまなることをもおかし、同朋同侶にもあひて口論をもしては、かならず廻心すべしといふこと。この条、断悪修善のこゝちか。(31)

 批判の対象となっているのは、聖道門的な日常不断・断悪修善の「無限廻心」の立場なのであった。専修念仏運動親鸞集団の働き手たる唯円が、これを批判したのは当然である。しかしながら、氏は唯円の論理をもって、「二回の廻心」を否定せんとせられる。概念の適用対象の変換が行われているのであるが、この論法を押し進めるときは、親鸞がみずから二回の転回点を体験した、と述解する「三願転入」の事実そのものを、ついに否認するに到らざるを得ないであろう。

 (C)氏は、「第一回の廻心と決定的廻心と二度の廻心を考えることは出来ない。」と言われる。けれども親鸞の場合、一は、「入」であり、一は「入」である。これを「二回の廻心」問題として一括せられる点に、用語規定の不明晰性が生じるのである。

 (D)「廻心」の語は、親鸞にとって実際にいかなる意義において使用されているのであろうか。

 第一に教行信証中では、唯一例である。

「夫レ雑業雑修其ノ言ハ一ニ而シテ其ノ意惟(コレ)異ナリ於(オイテ)雑之言ニ入ス萬行ヲ對シテ五正行ニ有リ五種ノ雑業雑ノ言ハ人天菩薩等ノ解行雑セルカ故ニ・曰ヘリ雑トヨリ自本ト非ス往生ノ因種ニ廻心回向之善ナリ故ニ曰フ浄土之雑行ト也」(化身土巻本)(32)

 断悪修善の「無限廻心」の立場という、マイナスのシンボルとして使用せられている。

 第二に、肯定的なシンボルとして使用された事例はつぎのごとき場合である。

「『但使廻心他念佛(たんし ゑしむ た ねぶち)』といふは、但使廻心はひちへに廻心(ゑしむ)といふは自力(じりき)の心(しん)をひるがへしすつるをいふなり。」(唯信鈔文意、専修寺本)(33)

 親鸞らしい、換骨奪胎の他力主義的転釈が行われている。しかし、唯円のいう「一回限りの廻心」というような、割り切った表現には至だ到っていないことが注意せられよう。

 第三に注目せられるのは、親鸞の全書簡中、一例もこの用語の出現を見ないことである。この点から見ると、親鸞は未だこの用語を、唯円的定義の簡明さをもって布教用語化するに至っていなかったもの、と見なすほかはないであろう。

 (E)これに対して、「心」の場合は異なる。

「欲ス使シメムスト善悪ノ凡夫回心シ起行盡ク得エ往生ヲ此(コレ)亦是證生増上縁ナリト已上」(行巻)(34)

「以テ佛願力ヲ五逆ト之興ト十悪罪滅シ得(エシム)生ヲ謗(ソシル)法闡提回心スルハ皆往クト出抄」(信巻)(35)(36)

 右はいずれも善導の用語の引用文であるが、積極的に肯定的なシンボルとして位置づけられている。(37)
 これに対し、親鸞は三願転入の文面において、「難思往生之」の境位に「入」したといっている。とりもおさず、これは「回心」に他ならぬ。事実、親鸞は「正信念仏偈」において、

「凡聖逆謗齊(ヒトシク)回入レハ如シ衆水入テ一味ナルカ」(行巻)(38)

と記しているが、これが前記善導の行文を承述したものであることは疑いない。すなわち「回入」は「回心」の義において用いられているのである。

 してみると、この問題は親鸞の段階に関する限り、「心」問題というよりも、「心」問題として操作するほうが、より正確なことが判明する。しかもこの「回心」は、第一次転回点を指しているのであるから、笠原氏の結論に反し、第二説に有利な性格をいちじるしく露呈しているのである。

 (四)「偏依源空」について。親鸞が二十九歳の法然入室時より九十歳の没年まで、源空崇拝において一貫していたことは疑いがない。問題はその直後に生ずる。彼が関東時代において、格段の境地を開明し、客観的には法然自身も未踏なりし境位を開いたとしても、その主観的意識においては、法然の真意の発見にほかならず、いわゆる「偏依源空」はいよいよ深まさりいったであろう。「偏依の中の独創」こそ彼の思惟方式の特性である。してみると松野氏の所論は当面の第一・二説に対立に関しては、何ら問題解決の基準を与え得ないであろう。(別にこの問題の有する重要性に関しては後述する。)

 以上の検証によって、つぎのことが判明したように思われる。すなわち、ながらく「定説」的な位置にあった第一説は、意外にも史料批判の場において、脆弱なる要素を内包しているのである。


    五

 第一説のもっとも通過しがたき“狭き門”は、思うにつぎの地点であろう。すなわち教行信証執筆中の親鸞は「三願転入の体験」を叙述する際、

    コトニ
マ、特   出テ方便ノ真門ヲ入セリ選択ノ願海ニ
    ヒトリ

と記録した。第一説の論者は「吉水入室時点」という数十年昔(39)の一時点が何故「今」として特記せられているのか、という問題を回避することはできないのである。このような特殊な「今」の用法がはたして親鸞の同時代に存在していたか、ことに親鸞自身の他の事例の中に存在するか否か、という問題の客観的な検証を経ずして、牽強附会の言辞を弄ぶことは許されぬところであろう。

 けれどもこの検証に立ち入る前に、坂東本教行信証における当該部分の原本状況を確認しておこう。けだし、現親鸞研究界の研究水準において、かかる操作は研究の基本作業として必須の要件となっているからである。
 当部分は、美濃紙・八行本文であり、坂東本の約八割を占める基本筆蹟に属する。(小川・赤松両氏はこれを六十三歳頃の筆蹟として比定せられた。)故に元仁元年(五十二歳)を執筆時点のメルクマールとする「原教行信証」に属している。(40)
 しかし注意すべきは、「今特」の二字の様態である。最初記された字の墨色を削り直してその上に書き込まれている。しかも狭い箇所(一字もしくは一・五字分)に書きこまれたため、「今」の字が極度に圧縮されている。(通例親鸞の「今」の運筆は、最終画が長い縦棒をなしているのであるけれども、ここではその余地を失っている。)そして削り消される前の、最初の字面にも、同じく「今」の字が存した公算が大きい。その理由はつぎのごとくである。

 通例、版本ではこの部分をつぎのように版刻している。(41)

   マコトニ
 今マ特  (親鸞聖人全集教行信証)(42)
   ヒトリ

 ところが、この右訓「マコトニ」は不可解である。教行信証中には、他に十一箇の「特」字が出現している。(43)

(1) 特(コトニ)-1/5(総序) (2) 特(コトニ)7/50(行) (3) 特(コトニ) -3/58(行) (4) 特(ヒトリ コトニ) -2/58(行) (5) 特(コトニ ヒトリ) 4/84(行) (6) 特( ニ)4/95(信) (7) 特( ニ) 2/158(信) (8) 特(トク コトニ) -1/223(真仏土) (9) 特(コトニ) 8/226 (真仏土)  (10) 特(コトニ)-2/309 (化身土)

 右によると、 (6)(7) が訓不明のほか、訓の明記された八箇とも「コトニ」と記されている。中でも、 (4)(5) は「コトニ・ヒトリ」を左右に訓記する点、「三願転入」項の場合と全く同一のケースである。(教行信証中、「マコトニ」と訓ぜられるのは、「良・信・誠・覈・([示氏])」等の字である。)

 かくのごとき事実から、ふたたび坂東本中の当該部分を子細に検証したところ、「マコトニ」の「マ」字と、「コトニ」字とは、それぞれ明らかに墨色濃度と筆蹟状況を異にしていることが判明した。すなわち、右の「マ」の部分は、削り落とす前の、最初の字(おそらく、大きく書かれた「今マ」の字)の右訓部分が削り残されていたものであった。

              コトニ
したがって、当該文面は「今マ特」として、確定し得るのである。
              ヒトリ


     六

 わたしは、今や、親鸞と同時代の文献における「今」の使用事例を検証すべき段階に立ちいたった。第一説の解するごとき、「過去の一点」を「今」と指称するような事例の存在の可否を検せんがためである。

(一)恵信尼文書(総計15例出現)

A 叙述時(執筆時)現在を指すもの ー13例。<例>いまはあまりとしよりて候て 1/185
B「添加」の慣例用法(「さらに」の意義)ー 2例。<例>いま一体 3/188

(二)覚信尼文書( 2例)<例>いまはこのたびぞ

この二例は、執筆現在の用法である。

以上(一)(二)例を通じて、異例なるものは認められなかった。


(三)愚管抄。教行信証と同期の著述であり、親鸞と同じく天台比叡山の文辞素養深き慈円のものである。同書中、総計九十例の「今」が各巻につぎのように出現している。

 (第一巻)8 、(第二巻)2 、(第三巻)16、(第四巻)7 、(第五巻)12、(第六巻)16、(第七巻)29。

 右につき、用法によって分析すると、左のごとくであった。

A 叙述時(執筆時)現在ー71例。

B「添加」の慣例用法ー10例。

C「即刻」の慣例用法ー 3例。<例>タヾ世ハウセ候ナンズ-5/292

D 直接法引用文内のものー 6例。<例>ハ我コソハ大将軍ヨ19/312

 なお、愚管抄の場合、つぎのような用例が注目せられる。

 (1) 此仲哀ノ御父ハ日本武尊ハ尾張国ノ熱田大明神是也。 10/50
 (2) ヤ宝剣モムヤクニナリヌケル他19/132

 (3) 将軍ガアトノ武士、イマハアリツキテ数百候ガ、主人ヲウシナイ候テ、一定ヤウヤウノ心モ出キ候ヌベシ 7/314

 右の中、(1) は過去の事件・人物等と叙述時現在の事物・現実との関連を指摘する場合の用法で、第一巻に頻出する。(2)(3)は一定の事件の生起した時点より、叙述時現在にいたる時間の幅が「今」に含まれている。しかし、あくまで叙述時現在の基盤の上で、使用されているのであるから、叙述時現在時点の基盤の上で使用されているのであるから、「叙述時現在」の用法に属することは当然である。

 以上を要するに、愚管抄の場合、つぎのように集約せられよう。

 (α)「添加」「即刻」の慣例用法、直接法引用文内の用法を除いて、その他はすべて、叙述時(執筆時)現在の用法に属している。

 (β)ただし、叙述時(執筆時)現在を起点として、“いかなる範囲の時限”を内包し得るかは、「今」を含む各個の文脈がこれを決定する。


(四)道元文献について。(彼の全生存期間は親鸞の生涯に含まれている。)

 (1)学道用心集(4例)(44)
・・・
<略>
・・・

 一方、わたしは「三願転入時点」論争において、第三説の論説が事柄全体を宗教的な“永遠の相下”において“超時間的な時点”において理解せんとしたのを見た。第二説の論者の場合も、必ずしも別軌ではない。いったん、吉水入室時(建仁元年)という歴史的時点をもって第三段階への転入時点としながら、「今マ特(コトニ ヒトリ)」の「今」に対して、“親鸞にとって、建仁元年時点より、数十年後の当該文面執筆時点にいたるまで、すべての時点が、念々刻々「今」であったのだ”というごとき、“特殊宗教体験的”な特異な「今」の解釈を導入せざるを得ないからである。
 かくしてみると、「大悟徹底」に関して、念々刻々の「今」を重視した道元の宗教時間的境地と親鸞の場合も同一であったかに見えよう。
 正法眼蔵中、「今」の語は頻出する。総計四九五箇という「今」の出現を見ているのである。けれども、これら四九五箇の用例の一つ一つを子細に検証してみると、意外にもそのすべての事例が一つの例外もなく、明晰なる叙述時現在の用法を中軸とする、A〜Eの意義において使用されていたのである。

<例>○而今のさとり昨日にあらすといはす、いまはしめたるにあらす、かくのことく参取するなり 9/170
   ○かの行持を見成する行持は、すなわちこれわれらかいまの行持なり、行持のいまは、自己の本有元住にあらす、行持のいまは、自己の去来出入するにあらす、いまといふ道は、行持よりさきにあるにはあらす、行持現成するを、いまといふ。 4/18

 これらは、いずれも「大悟」「行持」というごとき全身心をあげた宗教的体験の世界が、「今」という特定の時間的・歴史的時点を看過しては存在し得ないこと、ゆえに、その歴史的現在時点において、「只管打坐」の実修行を行う、その行為の中に「大悟」「仏祖の行持」というごとき“永遠の相”がおのずから宿り来ること、それを彼は執拗に説き尽くさんとしたのであった。
 換言すれば、道元は観念・観想主義の宗教思想家ではない。「現在」時点の実行的修行に心身を投入し、その一点に「修証一如」の境を体験せんとした、すぐれて体験的な宗教者であった。してみれば、如上のような「今」の使用法も、彼の立場の自然なる文献的反映なのであった。

 わたしは、これらの中に、親鸞文献と対比すべき、つぎのような「今」の使用例を見出す。

<例>○いまわれら宿善のたすくるによりて、如来の遺法にあふたてまつり-5/441
   ○むかし正法像法のあひたは、佛弟子のみなこをしれり、修習し参學しき、いま千比丘のなかに一両箇の八大人覺しれるものはし、あはれむへし澆季の陵夷、たとふるにものなし 1/566上

 親鸞と同時代的思惟様式の上に立ちつつ、「今」の用語が用いられているのを見るであろう。さらにわたしは「三願転入」の文面における「今」と、まことに相似深き文脈の中の使用事例に相逢するにいたったのであるが、この点については後述しようと思う。


     七

 わたしは親鸞の第一史料における「今」の使用事例を直接検証すべき時にたちいたった。
 
(一)親鸞の現生存全書状中、二十二個の「今」が出現している。

 A 叙述時(執筆時)現在の用法 ー10例
<例>今は父子のぎはあるべからずさふらう。(古写書簡三)

 B 「添加」の慣例用法 ー 1例
<例>いますこし乗善房の御こゝろのそこのゆきつかぬやうにききさふらふこそ、よく御案あるべくやさふらふらん。(末燈鈔一五) -1/98

 E 修辞的現在の用法 ー11例(末燈鈔八中にすべて出現)
<例>いまこの安楽浄土は報土なり(末燈鈔八)6/80

 右のEは「いま按ずるに」の省略形であり、基本的にAの用法に属している。(48)


(二)和文著述(親鸞聖人全集和文篇)中、十九箇の「今」が出現している。

 A 叙述時(執筆時)現在の用法 ー12例

<例>おほよそ過去の久遠に三恒河沙の諸佛のよにいでたまひしみもとにして、自力の菩提心をおこしき、恒沙の善根を修せしによりて、いま願力にまうあふことをえたり、(唯信鈔文意、専修寺本) 8/176

 この注目すべき「今」の使用事例は、康元二年正月二十七日に、八十五歳の親鸞が「ゐなかのひとびとの文字のこゝろもしらず、あさましき愚痴きわまりなき」人々のために書いたものである。したがって、右の文中の「今」は、各個の特定個人の、「過去の特定入信時点」を指すものではなく、また康元二年の執筆時点という「特定の年」を指すものでもない。「過去久遠」という、インド的仏教的な、おびただしい時間の拡がりに対して、ここは末法日本の専修念仏親鸞集団の人々の生存し、新しき信心にむかいつつある、対照的に微妙な現在時点が「今」と呼ばれているのである。そして、そういう叙述時現在は、康元二年という執筆時点を機軸として語られているのである。

 E 修辞的現在の用法 ー 7例
<例>いま修多羅とまふすは大乗なり(尊号真像銘文略本)2/49

(二)漢文著述(親鸞聖人全集漢文篇)中、七箇の「今」が出現している。

 A 叙述時(執筆時)現在の用法 ー3例
  <例>ノ時キ起シ悪ヲ造コト衆罪ヲ恒常ニシテ如シ暴風駛雨(ボフシウ)ノ(入出二門偈頌)1/123

 E 修辞的現在の用法 ー 4例
  <例>(イマ)斯(コ)ノ深信者ハ、他力至極之金剛信心、一乗旡上之真實信海也。(愚禿鈔、顕智書写本) -5/26

 右のEの例は、教行信証中のEの事例と内容上重要な一致点を有すること、後述のごとくである。

(四)和讃中、十箇の「今」が出現し、そのすべてが、A(叙述時現在)の用法に属している。

<例>彌陀成佛のこのかたはいまに十劫をへたまへり(浄土和讃) 2/8

右のごとく、教行信証以外の親鸞自著文献中における「今」の使用法は、すべてA〜E中に属していた。


 八

 教行信証中には一二七箇の「今」が出現している。その内訳は次のとおりである。

1. 経典中のもの ー七十四箇
2. 論釈中のもの ー七十四箇
3. 親鸞の地の文中のもの ー七十四箇


右を使用方法によって分類すると、つぎのごとくである。(ただし三願転入の文を除く)

A 叙述時現在の用法ーー 116例

<例>
 1. 如キ是ノ次第ニ至マテ今(イマ)劫濁・煩悩濁・衆生濁・大悪煩悩濁・闘諍悪世ノ時(トキ)・人壽百歳ニ切白法盡・一切諸悪闇( クラク)翳(エイナラム カスカナリ) -4/344
 2. 如ノ是ノ悪ノ衆生ノ中ニ我世シテ菩提樹下ニ初テ成レリ正覺ヲ -1/344
 3. 於此(コヽ)一、娑婆佛土ノ所有諸ノ菩薩等摩訶薩及諸ノ聲聞一切無ク餘悉ク来集セリ此ニ為ノ聞法ノ故ニ我レマ為ニ此ノ所集ノ大衆ノ示セシム甚深ノ佛法ヲ 3/346
 4. 我レマ・謝スヘシ過ヲ1/347
 5. 如キモ我カ今(イマ)於シテ世尊ノ所(ミモト)ニ受シ教勅シテ於己レカ境界ニ言説教令ス -4/347
 6. 所有ノ行法・住シ法ニ順シテ法ニ厭*捨セム悪ヲ者ノハ悉ク付嘱ス汝等(ナンタチ)カ手ノ中(ウチ)ニ 3/348

 右は、化身土巻末中の「大方等大集経」巻六月蔵文中、諸天王護持品第九の長引用文中に出現する一連の「今」である。この文は、「此ノ賢劫ノ初(ハジメ)人壽四萬歳ノ時鳩留孫佛出興シタマヒキ於世」という叙述ではじまっている。そのはるかなる過去世に対し、「劫濁・煩悩濁・衆生濁・大悪煩悩濁・闘諍悪世ノ時(トキ)・人壽百歳」なる現在を「今」と指称し、その「今」の時、「世菩提樹下初成正覺」「為此ノ所集ノ大衆ノ示甚深ノ佛法」「謝」「於世尊所頂受・・・」「悉付嘱汝等手ノ中」といった、一連の具体的行為が行われる。換言すれば、(仏説)の叙述時現在時点における、一連の具体的行為を「今」として記述しているのである。

B 「添加」の慣例用法ーー 1例
<例>更(サラ)ニ為ニ行者ノ説テノ譬喩ヲ守護シテ信心ヲ以テ防(フセカ)ム外邪異見之難ヲ

E 修字的現在の用法ーー11例
<例>此ノ『観經』菩薩ハ蔵ニ収(シュ)サム頓ノ教ノ攝ナリト -3/278

 右の示す所は、A〜E内の通常の用法にとどまる。前節まで検証し来った、同時代文献・教行信証以外の親鸞の自署中の全使用例と、一点の齟齬する所もない。

 右の中、親鸞の地の文中に出現している「今」の全使用例を左に挙げよう。

 1.爰(ココ)ニ愚禿釋ノ親鸞慶(ヨロコハ)シイ哉西蕃(セイハン)月支ノ聖典東夏日域ノ師釋ニ難シテ得タリ遇コトヲ難シテ聞已ニ得タリ聞クコトヲ(総序) 4/7

 2. 彌勒菩薩付嘱之一念ハ即是一聲ナリ・一聲即是・一念ナリ・一念即是・一行ナリ・一行即是正行ナリ・正行即是正業ナリ・正行即是正念ナリ・正念即是念佛ナリ・即是南旡阿弥陀仏(行巻)3/70

 3. 按スルニ三心ノ字訓(クン オシヘ)ヲ眞實ノ心ニシテ而虚假旡シ雑コ正直ノ心而(シテ)邪偽旡シ雑コト真ト知ヌ疑蓋旡(キ)カ間雑故ニ是ヲ名ク信楽ト即是一心ナリ・一心即是眞實心(コヽロトイフ)ナリ(信巻)4/116

 4. 是ヲ以テ據(ヨル)ニ大聖、眞説ニ難化三機難事ノ三病者ハ憑(タノミ)大悲ノ弘誓ヲ帰スレハ利他ノ信海ニ哀(オホキニアハレム)シテ斯ヲ治ス憐憫(レンビンシテ アハレミアハレミアハレム)斯ヲ療シタマフ喩ヘハ如シ醍醐ノ妙薬ノ療スルカ一切ノ病ヲ濁世ノ庶(ショ)類穢悪ノ群生應シ念ス金剛不懐ノ真心ヲ(信巻)-2/183

 5. 夫レ據(ヨル)ニ諸大乗ニ説ケリ難化ノ機ヲ『大經』ニハ言ヒ唯除五逆誹謗正法ト或ハ言(ノタマヘリ)唯除造无間悪業誹謗正法及諸聖人ト『観經』ニハ明シテ五逆ノ往生ヲ不ス謗法ヲ(信巻)-3/184

 6. 又云ヘル難思義往生ト是也、假之(ケノ)佛土ト者(ハ)在テ下ニ應シ知ル既テニ以テ眞假皆是レ酬報セリ大悲ノ願海ニ故ニ知ヌ報佛土也(ナリ)トイフコトヲ良(マコト)ニ假ノ佛土ノ業因(ハカリ)・千差(シナワイ)ナレハ土モ復應シ千差(タカフ)ナル
是ヲ名ク方便化身化土ト由テ不ルニ知ラ眞假ヲ迷(メイ マトヒ)失ス如来廣大ノ恩徳ヲ因テ[玄玄]レニ・顯ス眞佛眞土ヲ斯レ乃チ眞宗之正意也(真佛土巻)6/266

 7. 然ニ據(ヨル ヨキトモ)ニ『大本』ニ發ス眞實方便之願ヲ亦『観經』ニハ顯彰ス方便眞實之教ヲ『小本』ニハ唯開テ眞門ヲ無シ方便之善是ヲ以テ三經ノ眞實ハ選擇本願ヲ為宗ト也(化身土巻本)4/287

 8. 又問『大本』ト『観經』ノ三心ト興(ト)『小本』ノ一心一異云何ソヤ答就テ方便眞門ノ誓願ニ有リ行有リ信亦有リ眞實有リ方便(化身土巻本)-4/292

 9. 按スルニ三經ヲ皆ナ・以テ金剛ノ眞心ヲ為セリ最要ト眞心即是大信心ナリ(化身土巻本)5/294

 10. 将サニ談セムト一心一異ノ義ヲ當ニ此ノ意ナル也、三經一心ノ義答ヘ竟ヌ(化身土巻本)8/294

 11. <三願転入項>(化身土巻本) 6/309

 12. [八/小]ハ者穢悪濁世ノ群生不末代旨際ヲ毀(ソシル)僧尼威儀ヲノ時ノ道俗思量セヨ己レカ分ヲ(化身土巻本)-2/313

 13. 窮(ヒソカ)ニ以(オモンミレハ)聖道ノ諸教ハ行證久シク廢(スタレ)浄土ノ真宗ハ證道盛ナリ然ニ諸寺ノ釋門昏(クラク)教ニ会[八/方](ケイ)シテ不知ラ眞假ノ門戸(コ ト)ヲ洛(ラク)都ノ儒(シユ)林迷(マヨ)フ(ミヤコミヤコソクカクシャウナリ)行ニ[八/方](ケイ)無シ辯コト邪正ノ道路ヲ (化身土巻末) 3/380

 右を先記の分類によって分類すれば左のごとくである。(11. は省略)
1. A
2. E
3. A
4. A
5. E
6. A
7. A
8. E
9. A
10.A
11. <三願転入項>(化身土巻本)
12. A
13. A

 このように、すべてA・E何れかの用法に属し、他奇なきものである。

 つぎに、右の十三箇所について、坂東本の料紙・筆蹟を検すると、左のごとくであった。
  坂東本    紙数       行数    筆蹟
1. 教 行    3(欠損)  七行本文   晩年筆蹟(85歳頃)
2. 教 行   108     八行本文   基本筆蹟(63歳頃)
3. 信      41     八行本文   基本筆蹟
4. 信     160     八行本文   基本筆蹟
5. 信     161     二行短紙   基本筆蹟
6. 真仏土    75     八行本文   基本筆蹟
7. 化身土本   39     八行本文   基本筆蹟
8. 化身土本   48     八行本文   基本筆蹟
9. 化身土本   51     八行本文   基本筆蹟
10. 化身土本   52     八行本文   基本筆蹟
11. 化身土本   80     八行本文   基本筆蹟
12. 化身土本   87     五行短紙   基本筆蹟
13. 化身仏末   91     八行本文   基本筆蹟

 上のように、総序の 1. を除くほか、すべて基本筆蹟に属している。すなわち、元仁元年を執筆時点のメルクマールとして成立した「原教行信証」中に出現するのである。しかも、 1. のみは「」の呼応形で出現し、長期な進行中現在の文型をもって表現されている点、 2. 〜13. のごとき、単独の「今」使用と異なっている。
 さらに13. については、「後序」に対する史料批判において記したごとく、承元四〜五年を執筆時点とする承元奏状に属するものであるから、この場合の「執筆時現在」の「今」の基点は承元四〜五年の間となろう。

 なお、われわれは 2. 〜13. の間の十一箇所の用例について、まことに興味深い、共有の特徴を発見し得る。

2. 真実行信・・・歓喜地・・・顕選択易行ノ至極ヲ・・・南旡阿弥陀仏
3. 真実心・・・信楽・・・真実信心
4. 利他ノ信海・・・金剛不懐ノ真心
5. 大經・・・唯除五逆誹謗正法(十八願)・・・観経
6. 難思義往生・・・真仏真土・・・真宗之正意
7. 大本・・・真実方便之願・・・観経・・・小本・・・三経真実・・・撰択本願
8. 大本・・・観経・・・小本・・・方便真門誓願
9. 三経・・・金剛真心
10. 三経一心義
11. <三願転入項>(観経) 双樹林下之往生・・・(小本)難思往生・・・(大本)難思義往生
12. 穢悪濁世・・・末代旨際・・・僧尼威儀

 右の中、 2. 〜11. のいずれにおいても、「三願転入」の立場に立ちつつ、「方便真門」の立場、もしくは「難思義往生・金剛真心」の立場を顕開する際の文面において、問題の「今」の出現を見ているのである。さらに12. の場合も、11. の「三願転入」項の文面を直接承述しつつ、その立場よりの道俗批判を行う際の文脈上に出現している。
 かくのごとくして、われわれは『原教行信証』中に出現する「今」が、その共有の特徴として、「三願転入論」という論理的脊梁によって骨太く貫かれている事実を認識せざるを得ないであろう。

 つぎに、「三願転入」項の文脈構造の展開方法を文体上から追跡しよう。

 この箇所は、家永氏の注意せられたごとく、つぎの「元仁元年」項と呼応しつつ、左のような文章の時間的連関を構成している。

(イ)然特出方便眞門入選擇ノ願海ニ速離難思往生心欲遂難思義往生

(ロ)[八/小]者ハ穢悪濁世ノ群生不末代ノ旨際ヲ毀(ソシル)僧尼ノ威儀ヲノ時ノ道俗思量セヨ己レカ分ヲ

(ハ) 按レ三時教ヲ者(ハ)勘(カンカフ)ニ如来般(ハチ)涅槃ノ時代ヲ當レリ周(シウ)ノ第五ノ主穆(ホク)王五十一年壬(ミツノヘエ)申ニ其ノ壬申至マテ我カ元仁元年甲(キノエ)申ニ二千百八十三歳也、又依ニ『賢劫經』・『仁王經』・『涅槃』等ノ説ニ巳ニ以テ・入テ末法ニ六百八十三歳也

 われわれはこれと対照すべき史料を、同時代の道元による記述の中に見出すであろう。

 (s)いま宏智禅師よりのち、八十餘年なり、かの坐禪箴をみて、この坐禪箴を撰す、いま仁治三年壬寅三月十八日なり、今年より紹興二十七年十月八日にいたるまて、前後を算數するに、わつかに八十五年なり、いま撰する坐禪箴これなり、(正法眼蔵坐禅箴)-1/176〜4/177

 (t)いまの大宋諸山の長老等は、應菴の内外をうかかはす、音容すへて境界にあらさるなり・・・先師天童古佛、ある夜間に方丈にして普説するにいはく・・・この道取は大宋寶慶二年丙戌春三月のころ、夜間やや四更になんなりとするに、上方に鼓聲三下きこゆ、・・・それよりこのかた、日本寛元元年癸卯にいたるに、始終一十八年すみやかに風光のなかにすぎぬ、(正法眼蔵諸法実相)-6/285上〜-1/285下

 (u)世尊、在摩竭陀國、為衆説法、是時将欲白夏、・・・しかありしよりこのかた、すてに二千一百九十四年当日本寛元三年乙巳歳なり、堂奧にいらさる兒孫、おほく摩竭掩室を無言説の證據とせり、いま邪黨おもはくは掩室坐夏の佛意は、それ言説をもちゐるは、ことごとく實にあらす(正法眼蔵安居) 3/387〜10/387


 右の(s)においては、「いま」・・・「いま」と記し来った後、当文面執筆時現在たる、日本の「仁知三年」より中国の「紹興二十七年」までの年数を算定している。この点、先の
教行信証「三願転入」項以降の文面において、「今」・・・「今」と記し来った後、「穆王五十一年」から「我元仁元年」までの年数を算定しているものと、まったく同巧異曲の文脈である。
(t)においても、「いま」の表記より始まって、「大宋宝慶二年」の先師「諸法実相」真義説法時より、当文面執筆時点たる「日本寛元元年」までの年数を算定している。
(u)にいたっては、釈迦の在世(安居)時より、執筆時現在点までの年数を「二千一百九十四年」と算定し、その時点を「当日本寛元三年乙巳歳」と記載し、その基点において「いま」と呼称する。親鸞の記載方法および内容と酷似しているのである。

 さらに「永平広録」巻第六に「涅槃会上堂。今日此娑婆世界教主。・・・入般涅槃。至已得二千二百載一。」 (-5/545下) とあるのは、仏滅時より叙述時現在時点たる、「今」にいたる年数を算定したものである。

 このような諸例に対比するとき、親鸞の場合、同時代の宗派を超えた仏教徒的慣例書式に準拠してこと、一目瞭然たるものがあろう。

 してみれば、教行信証の当該文面において、「三願転入」の第三段階転入時点を「今」と記述しつつ、その執筆時現在時点を「我元仁元年申申」と記録し、この時点より、釈迦入滅時たる「周第五主穆王五十一年壬申」までの年数を算定し、「二千一百八十三歳也」と記定した、という事態は、もはやこれを疑い得ないのである。


  九

 後代の学者は、特定の宗学的見解の影響を受けつつ、その予断に合致せしめるべく、この文面を解せんと欲した。ために「永遠の今」のごとき、茫乎とした宗教哲学的概念をもって擬定せんとする者も現れたのであった。しかしながら、これを鎌倉期の同時代文献の文体表記様式と対照せしめて検証する時、文脈上何の他奇もなき、自然の形式にほかならぬものなのであった。
 如上の縷(る)々たる論述は、けっきょく、“「今」とは「現在」を指す者であって、「過去の一点」を指すものではない”という、自明の真理を証明したことに尽きるのである。
 今や、われわれは必要にして十分なる立証の基礎の上に立ちつつ、次のように帰結することができるであろう。

1. 原教行信証は、元仁元年を執筆時点のメルク・マールとする時点において成立した。(49)

2. 右の 叙述時現在時点において、彼は「今」の語を使用している。

3. したがって、「三願転入」の自覚は元仁元年の時点において、「現在」の意識をもって成立していた、と見なされる。

4. ゆえに、三願転入の自覚の中で、この執筆時点(元仁元年)を基点として末法計算を行ったのである。

5. 右のような原教行信証における原形体は、その後くりかえし行われた、改訂・削減・増補の中でも本質的に改変されることはなかった。

 さらにわれわれは教行信証構成論上重要な、左の事実を認識する。
 
親鸞の地の文の中にちりばめられた十一箇の「今」( 2. 〜12. )が、いずれも「三願転入」の論理を背景にし、あるいはこれと直結しているという事実は、原教行信証構成の論理的骨格がこの点に存した、ということを反映しているのである。
 換言すれば、親鸞が「三願転入」の論理の自覚に到達した時、叡山・吉水時代以来の精神的苦悩は、一連の思想的関連性を与えられることとなった。その論理の場より、従来の模索と研学と思索の帰結を「原教行信証」の形で構想し得る地点に立つことができたのであった。


  十

 「三願転入」の成立時点に関する実証的検証によって、われわれは簡明なる帰結に到達した。この地点から、思想的次元の問題は出発しなければならないであろう。

 今、われわれに要請されるのは、つぎの問題である。右のごとき帰結の場に立脚した場合、親鸞の生涯の各時点はそれぞれいかなる意義を有するか、という問題。究極して鳥瞰すれば、その思想的発展の具体的全体像意如何、という問題である。

 右につき、以下詳述しよう。
 (一)十九願的「万行諸善」期の上限について
・・・
<略>
・・・
 (二)吉水入室時点の意義と親鸞における法然像。
・・・
<略>
・・・
 (三)若き親鸞の面接した法然像。
・・・
<略>
・・・
 (四)「金剛真心」への「転入」時点
・・・
<略>
・・・
 (五)親鸞の歴史思想
・・・
<略>
・・・
     コトニ
 (五)「特」の秘義
    ヒトリ
・・・
<略>
・・・


  十一

 以上の論述によって、わたしは本稿の目途せる頂に達した。最後にこの地点より、親鸞晩年の書簡群を俯瞰してみよう。関東の門弟等に告ぐる「自信」などの言々、「教人信」の句々、いずれも「三願転入の論理」の上に、その直流の発展として展開せられてあるのを知るであろう。
・・・
<略>
・・・
 以上のように、親鸞は門弟たちに対し、あくまでも「三願転入の論理の場」より、述懐し、勧化し、弾圧分析・状況解明を行い、境位判定を行っていたのである。

 けれども、後代の親鸞系集団の中では、「三願転入の論理」は親鸞の生前において果たしていた、いきいきとして機能から切り離されてしまうこととなった。わたしたちはその端的なる文献的反映を、先の文面の錯文として成立した、親鸞聖人御消息集第十通(畧本)に見出し得るであろう。

○諸佛稱名の願とまふし、諸佛咨嗟の願とまふしさふらふなるは、十万衆生をすゝめんためときこへりたり。また十万衆生の疑心をとゞめん料ときこへてさふらふ。『彌陀經』の十万諸佛
の證誠のようにてきこへたり。詮ずるところは、方便の御誓願と信じまひらせさふらうべし。(親鸞聖人御消息集一〇) 155

 十八願的世界を明示すべき「諸仏抄名の願」(十七願)が観経的世界の「方便の誓願」(十九願)と同一視されている。この不可思議な文脈が、文献的には「親鸞聖人血[月永]文集」(蓮行寺本)の、第三・四通間の錯乱から起こったことは、すでに筆者によって論証された(58)。しかし、このような重大かつ明白な錯雑を有する文面が、永らく本願寺等真宗教団内に依用され来って怪しまれなかったことは、単なる一校異・一考証の問題に尽きるものではない。

 体制的権力を背景にした聖道門の観経的世界の「毀謗」「悪逆」に包囲され、絶えざる攻撃をうけると共に、専修念仏運動自体の中にも多くの動揺分子をかかえていた、古代末の実践的思想家たる親鸞。彼にとって「三願転入」の論理は、一方では内心の堅固たる信心の場を確立し、他方では専修念仏集団内外の迫害と動揺を解明すべき不可欠の、生ける“思想の武器”であった。けれども、権力側の新しい体制にふたたび順応し、戦闘的切迫性に代わって、“穏健なる布教の大道”を歩みはじめた後代の真宗教団にとって、「三願転入の論理」はその原初的思想の骨太くダイナミックな性格のままでは、これをうけ入れ難いものとなり去ったのである。

 ここに、“三願転入の歴程が吉水入室以前に押しやられ、前史的性格においてのみ処理せられる”という宗学的理解にとっての、真の時代的基盤が用意されていた。覚如の「伝絵」は、「三願転入の論理」を叙述の背景に押しやることによってその端緒を開き、後代の宗学はこれを拡充し、完成した。

 このような歴史の場の変転を通じて、親鸞の苦渋し、創造した思想の原初的切迫性は、空しく忘却の淵に埋没されるにいたったのであった。




(1)坂東本教行信証。化身土巻本。七九〜八〇頁。親鸞聖人全集 教行信証 2 三〇九頁。(以下頁数は後者による。)

(2)天親(他に上二祖説あり)

(3)善導(他に曇鸞または下五祖説あり)

(4)親鸞聖人全集 教行信証 2 三〇八頁。

(5)明治29 顕道書院

(6)梅原真隆編『御伝鈔の研究』選択付属(第五段)

(7)『教行信証撰述の研究』所収「親鸞の立場と教行信証の撰述」

(8)『親鸞と東國農民』

(9)『親鸞ーその生涯と思想の展開過程』

(10)『続鎌倉仏教の研究』所収「親鸞の妻帯について」一一六頁10〜11頁

(11)「教行信証報恩記」十三巻

(12)『真宗史之研究』第一編一「親鸞聖人と越後」(大正十一年)五頁 ただ、「親鸞とその教団」(昭和三年)第二章在叡時代(五四〜五五頁)では第一説の立場を明記している。思うに、前者の場合も、第三段階について、「その体験は、越後時代にもっとも深められたものではないであらうか。」と言っているにとどまるのであるから、必要にして十分な意義において、第二説に属するとは言い難たいであろう。

(13)『日本仏教史観』(岩波書店昭和十五年刊)二二〜二四頁

(14)「教行信証の哲学」

(15)『中世仏教思想史研究』三〇頁

(16)中沢見明氏の説かれた所であり、「『教行信証』の如きは、寛喜三年(聖人五九歳)以後の著作であろう、私は寧ろ聖人帰洛後の撰述であらふと思ふ。」(「史上之親鸞」一四一頁)とある如くである。そして「然れば聖人帰洛の年代も嘉禎三年聖人六十五歳以後であったと思ふ。」(同書一六三頁)とあるように、中沢氏の「晩年撰述説」とは「六十五歳以後撰述説」であった。すなわち「元仁元年」より十三年以上経た時点に著作時代が求められたのである。

(17)小倉豊文編「地域社会と宗教の史的研究」(柳原書店)所収「親鸞における三願転入と関東」(昭和三十八年刊)

(18)「いわゆる鎌倉時代の宗教改革」(歴史評論一五号)

(19)「視聴記」

(20)「改訂教行信証概観」(永田文昌堂)三〇六〜三〇八頁

(21)第一説も、部分的に第三説の立場を混在せしめざるを得ないこと、後述の如くである。

(22)注(7) 書四頁

(23)注(6) 書八二〜八三頁

(24)注(8) 書一六五頁

(25)注(6) 書二五頁。なお、松野氏は笠原氏の「廻心一回説」に賛同した上で、「偏依源空説」を補足されたのである。

(26)『真宗史の研究』(宮崎博士還暦記念会、永田文昌堂一九六六年所収)所収「親鸞の奏状と教行信証の成立ー「今上」問題の究明」(第二篇第三章第一節参照)

(27)法然没年(建暦二年)に近き時点(一周忌、三回忌等)における造文と思われる。

(28)当該文書の末尾には、執筆時点(元仁元年)の年月日が明記されていた、と思われる。かかる文書形式の中においてみれば、この文面に月日のないのも自然である。

(29)覚如自身の思想をうかがうに、第一史料たるにすぎぬ。

(30)したがって、この文面より、直ちに覚如の「三願転入時点」観をうかがうことが可能か、どうかは疑問の存する所である。

(31)歎異抄

(32)二九〇頁

(33)親鸞聖人全集和文編一六七頁

(34)四八頁(観念法門)

(35)一九一頁(法事賛)

(36)他につぎのごとき例がある。
○普ク観ム道場ノ同行ノ者(ヒト)ヲ努力(ユメユメ)回心シテ帰去来(イサイナム)(五三頁)
○但使レハ回心シテ多ク念佛セ能ク令シム瓦礫ヲシテ變シテ成(サムカコトセ)金ト(五四頁)

後者の例は、唯信鈔文意において、「廻心」となっていること。そしてそれはプラスのシンボルの用法であった点が、注意せらる。

(37)ことに後者は信巻の問題を決着すべき重要な位置に出現する。

(38)八六頁

(39)第一説の論者も、教行信証の著述時記を五十歳代以降におくことは変わりはない。したがって建仁元年(二十九歳)の吉水入室時は二十年〜三十年昔となる。

(40)この点、筆者の最新の論文によって論証された点に基づく。「原教行信証の成立ー元仁元年問題の史料科学的研究」(本書第二篇第三章第三節)

(41)真宗聖教全書(二宗祖部)では、坂東本を対校して、「コトニ」と訓読している。(底本たる西本願寺本では「マサニ」)一六六頁

(42)三〇九頁

(43)ここに挙げたほかには、奇特5/14(教巻)、奇特(キトク)8/14(同上)の如き熟字がある。

(44)道元文献の頁数行数はすべて「道元禅師全集全」による

(45)親鸞聖人全集和文編一五九頁

(46)ただこれは地の文に限り、引用経典内のものは省略した。

(47) 1/169

(48) 道元文献「学道用心集」のEの例参照。

(49)これは、注(40)論文の結論である。

・・・
<略>
・・・

(57)蓮光寺本に関しては、筆者による下記の論文参照「性信の血[月永]文集と親鸞在世集団 ー新史料蓮光寺本をめぐって」(本書第二篇第一章第二節)

(58)注(57)論文参照

インターネット事務局注記2003.7.15
[/henn漢字*] は、異体字など表示できません。近い表現を表しています。なお論証に関係ありません。

[八/小]・[玄玄]・[八/方](ケイ)も当て字です。


内容は古田武彦著作集 親鸞・思想史研究編2 親鸞思想ーその史料批判ーと同じです。

新古代学の扉 事務局  E-mail sinkodai@furutasigaku.jp


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