『新・古代学』 第2集 へ


『新・古代学』古田武彦とともに 第2集 1996年 新泉社

私の実験考古学

高田清子

 青森市民古代史の会に入会させて頂いて丸三年になります。古田先生の方法論に感銘し、出来るだけ自分の頭で、自分の眼で見据えてみたい。そんな想いのさなか、昨年、青森三内丸山で、縄文時代のイメージを根底から覆えす程の世界的な遺跡が発堀され、私も早々に現地説明会に参加出来る幸運に恵まれました。あの北の盛り土遺構のすさまじい程の土器片で埋めつくされている出土状況、そして南の盛り土遺構の三メートル近く掘りこんだトレンチに層をなしている無数の土器片を見た時、真夏の暑さの中で、全身に鳥肌がたつ程の興奮と感激を覚えたものでした。そのびと土器を作ってみたい、ほんの少しでも丸山人(びと)の心と技に触れてみたい、土器作りを体験することによって、何かが見えるのではないか、その想いは、土器作りの体験者である、お仲間の秋田フサさんの盛り土遺構に対する的確な視点での発想に触発されて生まれたものです。
 盛り土遺構というのは、今から五千五百年前、縄文前期中葉より四千年前の縄文中期までの千五百年の永きにわたって、土器片、完形土器、ヒスイの大珠や、土偶・石器等が、堅穴住居や堀立て柱住居を建てた際の廃土と共に積み重ねられて行った土の層であり、灰土、炭化土も見つかっているということです。この遺構(遺物廃棄ブロックといわれています)を現代感覚の燃えないごみ捨て場という観念で絶対に見て欲しくないと思っております。この夏、東岳縄文野焼祭実行委員会によって、第四回野焼祭が開催されることとなり、六月十一日に念願の土器作りに挑戦するため、参加いたしました。実行委員の方から教えられ、助けられ、初めて粘土を手にする私でも、何とか描いて来たイメージに近いものが出来上り、結果は大満足でした。しかし、その後何回か土器を作っていく中に、道具の不備に気がついたのです。紋様を描くのに紐と竹串が用意してあり、土器をしめるのに紐を巻いた板片が用意されていたのですが、竹串で掘ると粘土屑がくっつくし、板片は亦弓曲した部分には使えないのです。縄文人達は何を使っていたのだろう、様々な石器の道具の中に何かあるのではないの、という疑問が、秋田さんとの意見交換の中で、そんな会話も出ておりました。そんな折、我が家の庭から様々な石器様の石が見つかったのです。詳しいことは省きますが、その中に、これで土器をしめたのではないかと思われる大小様々のアイロン状の石や、紋様を描くのに都合の良い石器もあります。これらの石を使って土器作りの実験をする、というのが、二人の来年の課題です。土器をしめるという作業が、水漏れするかどうかの重要なポイントになるのです。私でも土器は作れました。けれど、実際、使用に耐え得るかというと、否です。来年の土器作りの最大の目標は、この作業を成功させることです。
 七月二十二日の野焼きまで四十日程、屋内で自然乾燥させます。ところが、今までの私の頭では、「乾燥させるのは天日に当てて」という思い込みしかなかったので、「急に天日に当てるとヒビが入るし、雨に当てないためにも、屋外で乾かしてはいけない」と教えられた時には、ほんとにびっくりしてしまいました。頭でだけ描いた事象が、これ程当てにならないもの、と分っただけでも大変な収穫でびとした。このことは、三内丸山人(びと)達が、あれだけの大量の土器を、どこで作り、どこで乾燥させたか、という問題を解決し得る一つの視点を提供してくれたのではないでしょうか。
 そのことから一私案として、土器を作るための作業場は、大型竪穴住居跡といわれる約二百畳敷の日本最大の広さを持つ遺構(この建物の不思議は、雨が降った時、流れ込まないための立ち上りも認められない、出入口も見つからないということだし、湿気をどう解決していたのか、疑問だらけです)とし、そこでは様々な仕事の共同作業場だったと理解しております。そして、土器乾燥場として、中期大型堀立て柱建物跡群といわれる長方形の六本柱高床建物が使われたのでは、という考えに至っているわけです。倉庫としての用もあったはずですから、相当の広さを必要としたと思われますので、二階建てにしていたかも知れません。直径一メートルの巨木の工事が出来る位の技術がある丸山人(びと)にとって、二階建ての建物を作ることはたやすい工事であったに違いありません。そうでなかったとしても、上層にかなりの棚が作られていただろうし、それなりの工夫が施されていたはずです。でなければ、土器の乾燥の問題は解決しないだろうと考えております。三内丸山遺跡のすぐ近くにある近野遺跡(縄文中期前葉)、八戸市の風晴遺跡(縄文後期)、上北郡六ケ所村の富ノ沢遺跡(三内丸山遺跡に匹敵する程の同時代の遺跡)等の、大量土器出土遺跡に大型建物群が見られる、ということも一つの示唆だろうと思います。

 堀立て柱建物跡群、巨大木柱跡の柱穴の中央からの間隔が、いずれも四・二メートルであり、一部には、二・一メートル、二・八メートル、三・五メートルもある、という問題で、一つの実験を試みてみました。
 八戸工業大学教授高島成侑氏は次のようにいっておられます。
「縄文尺ともいえる基準物差しがあったと考えられる。一五〇センチから一六〇センチという縄文人の身長から考えると大人三人が両手を広げた分と一致する。偶然にも七〇センチの倍数で全部割り切れる。縄文人が身長の一部を物差しの尺度にしていたとすると七〇センチはどの部位になるのか。その半分の三五センチとすると最小軍位の物差しはヒジに当たるのだろうか」(東奥日報社『三内丸山遺跡』より)

 私も身体差しの縄文尺は絶対にあると思っておりますが、氏の最小軍位の部位の取り方と少々違っております。私の身長は一五五センチで標準的な縄文人の体格なので、利用したであろうと思われる身体部位(手か足か?)を抽出して計ってみることにしました。何事も実験してみなければという信念からです。その結果は図の通りですが、計るうえでの問題が多く、ほとんどの部位で多少のズレができ、正確さに頼りなさがありました。けれど、指だけは指の股に物差しがきっちり決まり、何回計っても同じ寸法になります。人指し指が七センチという事から、縄文人の指に対する意識、それに計り良さを知った上で人指し指の五倍数を基本物差しとしたのではないでしょうか。指以外で当てはまるものはありませんでした。因に、家族の身長と人指し指・中指の長さを調べてみました。主人は一七〇センチ、七センチ、八・五センチ、息子は一七一センチ、七・五センチ、九センチ、嫁は一五六センチ、七センチ、八センチという結果が出ました。

身長155センチのわたしの手足の数値 私の実験考古学 高田清子 『新・古代学』第2集


 北のまほろばシンポジウム基調発表の中で、富山市教育委員会事務局主幹藤田不二夫氏は、

「結論的にいえば、四〇センチが単位となる物差しもあり、長野県の縄文中期の建物に卓越している様です。この様に長さの基本単位として三五センチと四〇センチが顕著な地域があります。(中略)この様に三五センチ単位という物差しを用いると少なくとも東北から日本海沿岸、富山湾周辺までの、いわゆる多雪地帯の縄文遺跡の大型建物の主要部位の長さが、ある程度割り切れるという事がわかってきました」(アサヒグラフ『三内丸山遺跡』より)

と提唱しておられます。私の実験から、その三五、四〇という数字が人指し指の七センチ×五、中指の八センチ×五として浮かび上がって来たのです。縄文人の手仕事から手指に対する想いは、想像を越えたものであろうと思っております。そして人指し指を基にしようと思った人達、中指を基にしようと思った人達の指に対する想いの違いは、一体何であったのであろうか。人種の違い(身体的な違い)によるものか、一番便利な長さの感じ方の違いなのか、今かねなお、鯨尺を使った京間、矩(かね)尺を使った江戸間といった長さの単位の違いが、尾を引いている現在の有様(ありよう)にも大変興味を覚えている昨今です。
 七月二十二日、青森市を包み込むように丘陵が広がっておりますが、その東部の一角滝沢村「ケシネグラ沢」で、眞夏の炎天下、野焼きが行われました。秋田さんは野焼きに関して次の様な説を主張しておられます。

「最初に土器を野焼きした時、焼きしめた土に直接土器をのせ、土器と土器を斜めに互いにもたせかけて焼いたため、焼きムラが出来ました。三内丸山遺跡から出土した土器には焼きムラが余り見当たらないのは何故か。焼きムラとは火がうまく廻らないため煤けた状態で焼けることです。現在本焼きをしている人はレンガの上で焼いているのです。レンガを敷くとレンガ自体に熱が加わり、その熱で土器が焼かれるわけです。そうすると三内丸山遺跡の盛り土遺構に敷きつめられた土器片は、現在のレンガの役目をしているのではないでしょうか。三内丸山の土は粘土質で排水が悪いけれど、年々土器を積み重ねる事により、排水を良くし土の湿度を少なくしたのではと考えております。だから盛り土遺構で土器は焼かれたという結論に達しました」

 私達はその説を立証するため、秋田さんの提言によって土器の代りに素焼鉢を敷き、その上に土器をのせて焼くことにしました。結果は予想した通り、土器はまんべんなく焼け大成功でした。縄文人達がこわれた土器片を、土器作りに再利用したであろうということが見えて来たのです。野焼きは別表の様に行われたのですが、やはり私に思い違いがありました。私が思っていたのは、土器を並べ薪を盛り上げ火をつける、と単純に考えておりましたが、予想に反し、周りから徐々に熱を伝らせてから、時間をかけて火力を強くし焼きしめるという自然の理にかなった工程があったのです。急激に強い火力を与えると、乾燥の時と同様当然ヒビが入ってしまいます。なんでもやってみるという基本姿勢がいかに大切であるかを、身を以て体験出来た貴重な時間でした。
 この焼くという工程でかなりの灰と炭化土が出来るので、盛り土遺構から灰土と炭化土の混り合った層が見つかっているということも土器生産の場であったという立証になるのではないかと考えております。盛り土遺構から土器以外にヒスイの大珠・土偶・装身具・石器等、祭祀に使用されたような遺物も出土しており、祭祀場でもあったはずです。それは土器を作る生産の祈り(現在でも窯の火入れに際し必らず祈りの儀式があります)、使用済みの土器は魂送りの祈りをもって鎭める、それは偏(ひとえ)に人の生と死に係わる縄文人の精神世界の中で行われていたのではないでしょうか。
 三内丸山遺跡の粘土採掘場・超大型竪穴住居跡・南と北はさまの盛り土遺構に挟(はさま)る様に存在する中期大型堀立て柱建物跡群・そして盛り土遺構、これらの夫々の配置はしっかり四点セットとなっており、土器生産に係わる場、すなわち一大土器製造工場としてつながっているという説の証明手段に、土器作りの実験は大変有意義であったといわざるを得ません。
 どんな小さなことでも見えたらいいと出発した土器作りでしたが、思いのほか色々なことが見え始め、意外な方向に広がって行くことが体感出来、今後の私達の探究の一助ともなればと図々しくも考えているこの頃です。今後の課題は、三内丸山遺跡を女の視点でとらえ、女でなければ解明出来ない事項を一つ一つ探究していきたいと念願しております。私達がこの稿で投げかけた問題に一人でも多くご意見をお寄せ下さいますようお願い申し上げ、私の感想文を了らせて頂きます。

〈注〉粘土について
 土器を作る粘土にはつなぎとして、がまの穂とか山砂等様々なものが使われますが、縄文祭で使用した粘土は山砂を加えたものでした。加曽利博物館の後藤和民氏は森浩一対談集『古代技術の復権』の中でこういっておられます。

「粘土ならなんでもいいと考えるのは、とんでもない話で、漏れない土器が作れる粘土というのは、どこにでもあるというものじゃない。特定の場所に限られています。 ・・・中略・・・ われわれが作っている土器は出土土器よりも鉄分が非常に多かったんです。粘土自体に、すでに過分の鉄分が含まれている。これはおかしい、ひょっとして、漏れる漏れないにも関係しているのではないだろうか、という事で鉄分を下げる方法を探したわけです。鉄分の最も多いロームはやめて、鉄分の少いものを混ぜると、鉄分の比率が下がりますでしょう。それには砂がいいんです。そこで山砂だけを粘土に入れてやってみたら、これが非常にうまくいきました」

 そこで、今の私の一番の願いは、三内丸山遺跡出土の土器の成分分析を一日も早く実施して欲しいということです。さらに県内各遺跡の土器の成分がわかると、三内丸山遺跡の流通の解明につながるのではないかとの考え方から、土器成分の分析の必要性を痛感しております。そこから三内丸山遺跡の不思議の扉が一つまた一つと開かれるのではないでしょうか。(一九九五年八月記)



『新・古代学』 第2集 へ

ホームページへ


これは研究誌の公開です。史料批判は、『新・古代学』各号と引用文献を確認してお願いいたします。

新古代学の扉 インターネット事務局 E-mailは、ここから

Created & Maintaince by“ Yukio Yokota“