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上岡龍太郎が見た古代史 上岡龍太朗/古田武彦

名代論 ーー孝季と崇道天皇 古田武彦


『新・古代学』古田武彦とともに 第1集 1995年 新泉社
特集2 和田家文書「偽書説」の崩壊

貴方は何処へ行くのか

桐原氏へ

古田武彦

   一
 貴方に対して書きはじめる、この一文はわたしにとって“心重い”ものです。
 もちろんそれは、わたし「自身」に対してではありません。全くありません。わたし自身に関していえば、青天白日、何一つやましいところのないこと、誰よりも貴方がよく御承知の通りです。
 わたしが“憂え”ているのは、ただ一つ、貴方の娘さん(Aちゃん)と息子さん(B君)に関することです。もしお二人の父君、つまり貴方が、恥ずべき陰謀の“片棒”かつぎの役をになっていることを知ったら、若い魂にどれほど打撃をうけるか。わたしが“心重い”理由は、たった一つ、それだけです。

   二
 今「恥ずべき陰謀の“片棒”かつぎの役」と言いましたが、慎重に、かつ論理的に、表現すれば、貴方の果している役割は、次の三つのうちの一つ、ということになりましょう。
 第一、貴方が最初から「仕掛人側」に立っていて、その企画に従って、わたしに接触を求めたか。
 第二、経過の途中の「ある時点」で、「仕掛人側」の掌中におち入ったか。
 第三、最後段階(今年初頭以来)、「ある力」に屈して、「沈黙」を強(し)いられる状態に入ったか。
 ことの「経過の真相」は、以下にのべる通り、やがて明らかになる日が来ましょう。けれども、それは、ことの本質においては、わたしには(率直にいえば)関知するところではありません。
 わたしは、広島二中(旧制)時代の後輩だという貴方に対し、その学校の校長だった亡父の名にかけて、信じようとした、それだけなのです。

    三
 わたしが、お会いして間(ま)のない貴方を信じ、再度「送金」することになったのも、お子さんの件でした。貴方には、よく御存知のことですが、後に明らかにさせていただきます。このようなことは、「他」の前で申すべきことでは、本来ないのですが、わたしから貴方に送った金の受金通帳を、どのような事情があるにせよ、貴方は「公開」されました。
 憎むべき「陰謀者」たちは、この受金通帳を、あたかも「和田家文書(寛政原本)偽作」の証拠であるかのように、デッチ上げました(『季刊邪馬台国』五五号および『アサヒ芸能』第四九巻第三六号)。
 これ(『季刊邪馬台国』五五号)を知ったとき、貴方は「よくも、ここまで」と言っておられました。そしてどのような場(雑誌・弁護士事務所)でも、右の記事が虚偽であることを「明言」し、「公言」することを、くりかえしのべられました。
 (それらの貴方の言葉は、すべて電話録音されて、今、わたしのもとにあります。それらを、後日のためにしっかり「電話録音」してくれるよう、くりかえし、強く要請されたのは、御承知のように、貴方御自身でした。)

 その後、貴方の「沈黙」がはじまりました。今年(一九九五)の一月中句以後、貴方の「音信」は絶えたままです。誰かの「力」(「金」か、その他の圧力)で、「沈黙」させられた。わたしには、そう見えています。
  しかし、今年の正月(一月六日午後三時)の貴方からかかってきた電話で、わたしが「Aちゃんに代って下さい」と言うと、すぐAちゃんが出て来ましたね。そこで、わたしが、
 「お父さんは、正しい方の味方ですから、信じています。そうお父さんに言って下さい。」
 Aちゃんの好きな、スポーツの話のあとで、そう言うと、Aちゃんはうれしそうに、
 「ハイ。」
と答えました。Aちゃんとわたしは、共に貴方が「虚偽の証人」の“わな”から抜け出す日を、毎朝毎夕待っているのです。

   四
 最初、貴方がわたしに接触してこられたのは、一昨年(一九九三)六月上句、例のNHKテレビ公開論争(安本美典氏と和田喜八郎氏とわたし、六月一日)の直後でした。
 そのとき、貴方は、今テレビを見て大変憤慨した。全体の画面構成が全く安本氏寄りに作られている、とのべ、自分は前にある事件で安本氏に接触があり、彼の手口はよく知っている、と言われました。
 その後も、くりかえし電話があり、自分は広島の人間であり、旧制広島二中に学んだ(ただし卒業せず)人間であることをのべられましたが、わたし自身も少年時代を広島ですごした上、旧制広島二中を出て(「四修」で旧制広島高校にすすむ)いましたから、大変親近感をおぼえました。
 その上、貴方は「広島の人間には、金では動かん、そういう人間がおるんですわ」という「せりふ」をくりかえし、言っておられましたね。今、つくづくと思いかえしています。
 わたしが貴方にはじめてお会いしたのは、一九九三年六月一四日(月)、広島のグランドホテル(八丁堀)のロビーでした。貴方は直ちに、己斐にあるお宅(マンション)にわたしを案内されました。そこでAちゃんにお会いしたのですね。明るく、健康なお嬢さんでしたが、貴方からお聞きした話は、わたしの心の奥底に衝撃を与えました。
 かつて貴方が奥さん(Aちゃんのお母さん)と共に京都に遊んだとき、暴走族の車に衝突され、一瞬に奥さんを失い、御自分も足に重傷を負われた、とのこと。それ以後、一人でお嬢さん(と息子さん)を育てて今日に至った旨、語られました。
 その上、

「わたしには、今までの過去において、いろいろなことがありました。それは否定しません。しかし、これと思う人は決して裏切りません。そういう人間であることは今後おつきあいいただければ、分られます。」

と、真情を“吐露”されたことを忘れません。
 その後、東京へ帰ってから、貴方の御要請通り、「金、一〇〇万円」を送りました。その理由(使途)は、「紙の検査」であり、山陰(鳥取県)の紙の産地の現地へ行き、和紙生産の歴史を探り、その報告をする、とのこと。その費用は、「五〇万円以内」だが、念のため、さらに「五〇万円」を加え、計一〇〇万円を送ってほしい。しかし、決して実費は「五〇万円以上」は使わず、もし使ったとしても、「五〇万円以上」は絶対に請求しない、とのことでしたね。
 貴方はすでに、日本家屋の構造や和紙の変遷について幾多の情報を、電話やファックスで送ってきてくれていましたから、貴方の技術的情報収集力、判断力についてはかなり「信頼できる」と考えていました(日本家屋の構造は、和田家文書の所在に関する考察でした)。
 そのため、第一回の送金を行ったのです。これも、御承知の通りです。

   五
 けれども、この第一回の送金について、もう一つの事情が「伏在」していたことを、もう隠す必要はありますまい。
 それは、安本美典氏がわたしに送ってきた一通の文書に起因していました。一九九三年の二月頃、わたしのもとに到着した文書を見て、わたしは眉をひそめました。それは、ある“興信所”(株式会社損害保険リサーチ青森)が、和田喜八郎氏の身辺について身上調査したものでした。和田家の「親族」中、喜八郎氏に反感をもっているらしい人々から、赤裸々というより、悪口雑言といった内容のつめこまれたものです。もちろん、全篇「プライバシーの侵害」そのもの、という“代物しろもの”で、とてもここに「公開」できるようなものではありません。
 調査の依頼者は、現在和田喜八郎氏と裁判で係争中の人(野村孝彦氏)です。このような文書を、(表面上は)第三者のはずの安本氏がわたしの所へ送りつけてくる。この行為自体、「法の精神」に反し、「プライバシーの侵害」ではないでしょうか。
(あまり、その内容の“ひどさ”に、わたし自身、最近まで和田喜八郎氏にそれを言えませんでした。しかし、そのような文書が来ていることに最近ふれた〈和田氏に話した〉ところ、是非見せてほしい、と言われ、コピーをお送りしたところ、肝心な点においてはことごとく“真っ赤な、ニセ証言”だったようです。)

 ともあれ、この安本氏の行為は、わたしに「深い不安」を与えました。このような「ルール違反」と「非道」を敢えてして恥じぬ、そういう安本氏ですから、このわたし自身についても、いろいろと「秘密の調査」を試みているのではないか。そういう「不安」でした。そこで、弁護士事務所の調査員的な仕事もやっているという貴方にお聞きすると、「それは、おやすい御用です。向う(安本氏)が何をやっているか、やっていないか、調べれば、すぐ分かりますよ」との返事でした。そこで、その件、
 「安本氏の、わたしに対する調査の有無」の情報をお願いすることとなったのです。
 これは、先の「紙の検査」に対する、いわば「付帯事項」にすぎなかったのですが、わたしの中に右のような心理(不安)の存在したことを、今隠すつもりはありません。これも、ありのままの真実なのですから。
 今回の『季刊邪馬台国』五五号は、皮肉にも、わたしが桐原氏に依頼した「付帯事項」の真相を、ありありと世間に公示することとなりました。「にせ念書」と「にせ証人」の操作という、犯罪的行為と共に。
 それは、予想外の「収穫」でした
 
   六
 次に、第二回の送金の件にうつります。一九九三年、七月上旬、貴方はわたしのもとに電話し、緊急に「四〜五〇〇万円」の借用を申しこまれました。その理由は、Aちゃんが没頭しているスポーツのため、この夏休、アメリカヘ行かなければならない。しかし、そのために貯金してあった金を他のことに消費してしまったので、何とか、この九月上句まで、貸してほしい。必ず、返す、とのことでした。
 もちろん、このような要請に対する、わたしの態度は、平常からきまっています。お断りすること、これしかありません。わたしはそのような「金の貸借」には、なずまない人間ですから。
 ですが、そのとき、わたしの頭に、一つの“想念”がよぎりました。それは、亡き父の声です。

 「他(ひと)から借金を申しこまれたら、ことわれ。決して貸さぬこと。これは、親戚でも、誰でも、同じだ。困って借りようとしている者に、えてして返せるはずがない。必ず、関係がこじれる。
 そしてもし、本当に相手が可哀そうだ、と思ったら、“貸す”のではなく、やれ。相手の言ってきた額の、三分の一でも、一〇分の一でも、自分に“できる”範囲で、渡し、『お返しいただかなくても、いい。これで再起をはかる一端にして下さい」と言って、渡したらいい。そしてそれが“返される”ことを決して期待するな。』

 これが、くりかえし聞かされた、父の処世訓、人間の知恵でした。
 わたしの父は、旧制広島二中の校長でした。広島の原爆公園には、父の書いた、広島二中の生徒への追悼の短歌の刻まれた記念碑が立っています。
 その父の意を“体して”、わたしは旧制広島二中出身の(正確には、そう名乗った)、貴方に「貸す」のではなく、返されることを期待せずに「送る」ことを決心したのです。
 否、それは正確ではありません。貴方のためではなく、Aちゃんのため、亡母の人生を送りつづけきたAちゃんに「渡す」、そのつもりで、わたしは第二回目の金「一〇〇万円」を送ったのでした。
 ですから、今、わたしは後悔していません。なぜなら、わたしの「送金」の行為がそのようなものであったことを、誰よりも、わたしが知り、貴方が知り、天上の亡き母上が知っておられるのですから。
 もし、貴方がとんでもない「にせ証言」の「にせ証人」に仕立てられている、としても、依然、わたしと貴方と亡母とは共に右の真実をハッキリと了知している。真実は変えようがないからです。
 第一、右の事実を一番よく知っている貴方が、「心の中から」わたしを裏切り、虚偽を“言いつづけ”、虚偽の沈黙を“通せる”はずがない。
 もし、それができるなら、貴方は「人間」でもなく、「広島人」でもない。そのことを一番悲しみつづけるのは、他でもない、Aちゃんです。

   七
 以上が真実のすべてです。何もつけ加えるべきことなし、です。
 もしこれに対し、なおこれを疑い、「にせ念書」と「にせ証人」作りに「加担」しようとする人があるならば、その人のなすべきことは、たった一つです。それは、

「古田が桐原氏に“和田家文書偽物の作製“を依頼した、依頼状(古田自筆)を出せ。」

 これです。これなしに、他(古田)を冤(えん)罪におとし入れることは、法治国家において許されません。決して、許されません。
 もしくは、わたしが桐原氏に「偽文書の作製を依頼した」テープ(古田の声)を提出してほしい。
 桐原氏は、わたしに対して“自分と古田との対話をテープ電話録音してほしい”とくりかえし要請しました。そのため、わたしの手もとには、それが「累積」されています。
 それらの中には、一貫して「わたし(桐原氏)と古田とのつながりは、一〇〇パーセント潔白であること、これに反し、安本氏側は絶えず『金』で動かそうとしてきていること。」
 これが証言されつづけています。
 このように、テープ電話録音に深い関心をもち、わたしに実行をすすめてくれた桐原氏ですから、本当にわたしがそんな破廉恥な「偽文書作製依頼」をしたとすれば、「電話録音」もしくは(直接対面のさいの)「直接録音」をしていないはずはありません。それを出してほしい。
 いずれも、わたしの「自筆」と「自声」のはずですから、直ちに判別できます。
 それらの「自筆」や「自声」が出せないなら、やはり、今回の『季刊邪馬台国』五五号は「偽念書」と「偽証人」を操作していることとなる他ありません。とすると、この雑誌は、「言論の自由」にふくまれる資格のない「犯罪雑誌」「犯罪の実行誌」、そのように世間から呼ばれても仕方がなくなるのではないでしょうか。

   八
 『季刊邪馬台国』五五号の冒頭グラビアには、わたしが貴方にあてた「私信」が、わたしに無断で掲載されています。それは、葉書で、短い次の一文です。
 「仰せのもの、お送りいたします。よろしく、よろしく、お願いします。一九九三・六月二十日」
 これは、第一回の送金(一九九三年、六月一六日)のあと、貴方の要請によって、先の「安本氏から送られてきた、“興信所”(損害保険リサーチ青森)の文書」などを送ったときのものです。
 「安本氏が送ってきた、“興信所”(もしくは調査員)の報告書を見れば、自分には『蛇(じゃ)の道は、へび』で、大体の輪郭、向こうの手の打ち方が分る」そういう貴方のお申し出だったからです。
 「仰せのもの」とは、それと和田氏関係の若干の基礎資料を指します。「よろしく、よろしく」とは、先にのべた「和紙調査」の件と、この「付帯事項」など、貴方の手のとどく範囲で、かつ「五〇万円以内」の費用で可能な範囲で、しかるべくお願いする、との意味でした。これも、貴方のよく御承知のところ、ありのままの事実です。
 この種の調査は、とかく「金のかかる」ものです。わたしにも、学問上の研究調査の経験でよく分かります。従ってわたしは“多く”をのぞんだのではありません。ただ、経済的に負担のかかる貴方に、「足の出ない」範囲で、ことの真相、和紙生産の歴史やわたしに対する“防禦的調査”をお願いしたのです。
 その「私信」が、この雑誌では、全く別の内容を“暗示”する形で転用されているのです。右の「よろしく、よろしく」が、いかにも「和田家文書の偽作を、よろしく、よろしく頼んだしかのように“見せかけ”られているのです。
 しかしこの「手口」は、ありふれた「手口」です。なぜなら、よく推理ドラマで、「自殺」に見せかけて殺された死体のそばに置き手紙が残されてあり、そこには「すみませんでした。すべてはわたしの罪です」といった文面が書かれている。いかにも、覚悟の自殺の「証拠」と見えた。しかし、ドラマが解決してみると、全然別の「わび状」からの“転用”だった。あの「手口」、実に凡庸な「手口」です。
 この「犯罪心理学者」は、メロドラマ式の推理物を“なぞる”程度の「手口」がお得意のようです。
 逆にいえば、この程度の「私信」しか提示できなかったこと、その事実の中に、先にのべた、本当の証拠となりうる「自筆」や「自声」のもちあわせがないこと、このまぎれもない厳粛な事実が「自己告白」されているのです。「ころものそでから、よろい」のことわざそのものではありませんか。
 もちろんこれを、当雑誌の編集部に難詰すれば、「いや、これは、桐原氏と古田との間に交信関係があることをしめしただけです」と答えるかもしれません。そういう「逃げ道」が用意してあるのです。
 ですが、一般の読者には、今わたしの言った「偽作をよろしく」たのんだように見せかける、「心理的な手口」が仕掛けられているのです。まさに「犯罪心理学者による犯罪実験」と呼ぶべきものでしょう。

   九
 右のような「欠陥」は、仕掛け人側では当然分かっています。そこで、重ねて“仕掛け”られたのは、例の、貴方の署名による「偽念書」です。この『季刊邪馬台国』五五号を見たわたしが、すぐ貴方にお電話したところ、貴方はまだこの号の記事を御存知なく

「その署名は、わたしの自筆ですか。もし署名がわたしの自筆だったとしても、全体はわたしのものではありません。第一、わたしはそういうとき、ワープロで文章など書きません。自分の筆で書きますよ。それが当然でしょう。」

 そういう、明快な御説明でした。
 しかし、それはかりに、「貴方の自筆の念書」が存在したところで、それは「にせ念書」である点、全く変りありません。なぜなら、ことの真相、「合計二〇〇万円送金」の理由は、わたしが先にのべた通りです。一点の狂いもありません。彪大な和田家文書の「偽作」など、到底無理であること、貴方も、巻数を開き、わたしが大体を答えた(詳しくは「東日流外三郡誌」〈寛政原本〉七百四十巻、明治写本全体で四千八百十七冊)ところ、貴方は、

 「そりゃ、到底無理ですわ。ありえんことですよ。」

と笑っておられましたね。昨年(一九九四)の暮れ、『季刊邪馬台国』五五号が出たあとの会話、しっかりテープ電話録音されています。貴方の御要望通りに。
 ともあれ、「桐原氏自筆」がかりにあったとしても、この内容の念書なら、まちがいなく「にせ念書」です。「にせ証言」です。まして「ワープロ念書」においてをや。  ーーこれが結論です。
 これも、貴方には、すでに百も御承知のことです。

  一〇
 右について、もう一つ、見のがせぬ事実があります。それは、このワープロ念書はその“見せかけ”に反し、何等「和田家文書の偽作」など“証言”していない。この一点です。

 「  念   書
 一 私は、一九九三年六月から同年七月にかけて、いわゆる『和田家文書』とみられる文書のレプリカ作成を、昭和薬科大学教授古田武彦氏から確かに依頼されました。
 二古田教授からは、私に対し、右レプリカ作成の対価として、私名義の銀行預金口座(広島総合銀行普通預金口座番号一三六二四八八)への振込送金が左の とおりありました。
 一九九三年六月一六日  金一〇〇万円
    同年七月 五日  金一〇〇万円
 三 なお、事実の詳細については、本日吉沢寛法律事務所において安本美典教授および吉沢寛弁護士に対して申し述べ、テープ録音して頂いたとおりです。
     右のとおり相違ありません。
         平成六年七月一五日
                  (傍点・古田)」

 これが「ワープロ念書」(末尾の年月日中の「平成六年七月一五日」の数字部分だけ、肉筆)の全文です(最末尾に桐原氏肉筆の住所と氏名と印)。
 ところが、ここでは、作成依頼の「対象」は、「『和田家文書』とみられる文書のレプリカ作成」です。「偽作」「贋作」などとは、一言も書いてありません。「すでに存在する文書の『複製品』を作るよう依頼された」というだげのこと。たとえばわたしが和田喜八郎氏からあずかった「和田家文書」(明治写本)を、同氏に返却するにさいし、記念のために、“ソックリさん”の複製を依頼した、そのようにも“とれる”文章です。要するに、「依頼した」とされた、わたしにも、「依頼された」という貴方にも、何の犯罪もない。そういった文面なのですね。厳密に一字、一字読めば、そうです。
 ところが、これを「活用」するのが、「犯罪心理学者」です。当雑誌の読者(正確には、「うかつ」な読者)には、右の念書が、まぎれもない「古田の偽書作成依頼」であるかのように“読まされ”てしまうのです。心理的に“だまされる”ように仕組まれているのです。
 もちろん、わたしには、こんな「レプリカ」作成の趣味など、全くありません。貴方に対しても、そんな依頼をしたことなど全く皆無です。この点も、誰よりも貴方自身が一番よく御存知です。最初に書いたこと、それが事の真相のすべてなのですから。真剣に和田家文書(寛政原本)の出現を望み、準備しつづけているわたしには、まるで“考えもつかぬ”話、ナンセンスの極みです。
 では、なぜ、“仕掛け人たち”は、こんな変な、「的のはずれた」念書で“がまん”しているのか。
 そう考えると、おのずから回答は出てきます。彼等は「名誉殿損」の訴えを恐れているのです。彼等は、この「つくり話」の全体を知悉していますから、わたしから「当然」、名誉殿損の訴えがおこされること、それがこわいのです。それのみか、裁判の場へこちらを“ひきずりこもう”とする準備作業ともいえましょう。
 ですから、わざと「的をはずし」た文面を構築し、いざというとき(裁判の場で)、「何も、古田氏の名誉など毀損していない。だって、単なる『レプリカ』作成依頼をうけた、と言っているだけではないか。これがなぜ、名誉毀損に当るのか」と“言いのがれる”つもりです。そのために、わざと「的をはずし」たのです。
 しかも、それで読者に対しては、十二分に「古田の破廉恥な行為」を、心理的に印象づけうる。これがねらいです。「犯罪心理学者の狡智」と言えましょう。
 ですが、分かってみれば全く「子供だまし」の手口にすぎません。

  一一
 以上で、私の言いたいこと、書きたいことは終わりました。
 もしかすると、貴方自身も、私の方からこのような「真相の明白化」が行われる日を“期待”していたのかもしれません。なぜなら「強いられた沈黙」が他動的に“解除”される日の来ること、それを「疑わないしのは、誰よりもことの真相を知悉する、貴方自身なのですから。
 要は、冒頭にのべたように、

 「わたしと貴方との間がらは、清廉潔白であり、天地に恥じる行為は、全く何一つないこと。」

 この一点さえ、万人の眼前で明らかになれば、それでいいのです。そしてあらゆる“仕掛人たちの狡智”も、右の真実を打ち破ることはできない。この一点が本質です。
 貴方は、この日あるを予想してか、数多くの「テープ電話録音」を、まぎれもない、貴方の「自声」で残してくれています。いつの日か、わたしはAちゃんに、このテープを聞いてもらうつもりです。そして

 「お父さんの魂は、やっぱり潔白だった。」

 そう信じてもらいたい。そう思っています。


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