弥生の土笛と出雲王朝(古田武彦講演記録)

『古代に真実を求めて』 (明石書店)第九集 講演記録 君が代前ぜん
二〇〇五年七月三〇日 京都市商工会議所大ホール
[第一部 対談] 古田武彦が語る古代史 古賀達也/古田武彦 
第二部古田武彦講演 「君が代ぜん
1歌の始まり “あなにえや、えおとこを” 
2『古事記』の「淡道之穗之狹別あわぢのほのさわけ 
3『古今和歌集』の「古いにしえの歌」 

4九州年号と神籠石山城 5枕詞について 6古代日本語の甲類・乙類について 7日本書紀の倭(夜摩苔 ヤマト)は、筑紫である 8藤原京はなかった 質問


古田武彦講演会

君が代前ぜん

古田武彦

 それでは、第二部に移らせていただきます。お話したいテーマはたくさんありますが、幸いにも九月二十四日京都アバンティーホールで新東方史学会を立ち上げる講演もあり、また今日と共通のテーマでは、十一月には一泊二日で大学セミナーで「君が代」などの話をさせていただきますので、本日は簡単でポイントを突いた話ができれば幸いです。

 

1 歌の始まり “あなにえや、えおとこを”

 まず我が国で歌というものは、いつ始まったか。歌の発生は縄文、本来は旧石器にさかのぼると思いますが、すくなくとも縄文時代にさかのぼると考えています。
 何かといいますと、有名な『古事記』『日本書紀』に有名な一説がございます。それは何かと申しますと、有名な国生み神話のところです。

日本古典文学体系(岩波書店)
『古事記』
その島に天降りまして、天の御柱を見立て、八尋殿見立たまひき。・・・
ここに伊邪那岐命、詔りたまひしく、「然らば吾と汝とこの天の御柱行き迴り逢ひて、美斗能麻具波比みとのまぐはひを爲む」とのりたまひき。如此(かく)(ちぎ)りて、乃ち「詔汝は、右より迴り逢へ、我は左より迴り、逢はむ。」と詔りたまひ、約(ちぎ)り竟(を)へて迴る時、伊邪那美命、先に「阿那迩夜志愛あなにやしえ袁登古袁をとこを」と言い、後に伊邪那岐命、「阿那迩夜志愛あなにやしえ袁登賣袁をとめを」と言ひ、各(おのおの)言ひ竟えて後、其の妹に告曰げたまひしく、「女人をみなさきに言へるは良からず」とつげたまひき。然れども雖久美度迩(くみどに)興して生める子は、水蛭子(ひるこ)。此(か)の子は葦船(あしぶね)に入れて、流し去(う)てき。次に淡嶋を生みき。是も亦、子の例(たぐひ)には入れざりき。
是に二柱の神、議(はか)りて云ひけらく。「今吾が生める子良からず。猶なお天つ神の御所に白もをすべし。」いひて、即て共に參上りて、天神の命を請ひき。爾に天神の命以(も)ちて、布斗麻迩爾(ふとまにに)ト相(うらな)ひて、詔りたまひしく。「女先に言へるに因りて良らず。亦還り降りて改め言へ。」とのりたまひき。故爾に反り降りて、更に其の天の御柱を先の如く往り迴りき。是に伊邪那岐命、先に「阿那迩夜志あなにやしえ愛袁登賣袁をとめを」と言ひ、後に妹伊邪那美命、「阿那迩夜志あなにやしえ愛袁登古袁をとこを」と言ひき。如此(かく)言に竟へて御合(みはひ)して、生める子は、淡道之穗之狹別(あはじのほのさわけ)の島。次に、伊豫之二名嶋(いよのふたなのしま)を生みき。此の島は身一つにして面(おも)四つ有り。面毎(おもごと)に名有り。故(かれ)、伊豫國は愛比賣(えひめ)と謂ひ、讚岐國は飯依比古(いひよりひこ)と謂ひ、粟國は大宜都比賣(おほげつひめ)と謂ひ、土左國は建依別(たけよりわけ)と謂ふ。・・・・・

 ここであげてあるのは『古事記』ですが、「あなにやしえ をとめを」と女が言った。そうすると後が悪い。『古事記』『日本書紀』ともに、うまくいかなかった。また不具の子が生まれた。そこで天神(あまつかみ)に相談に行った。なぜわたしたちは失敗したのでしょうか。このようにイザナギ・イザナミの神が天神にたづねた。それは女がさきに言葉を発したのが悪い。男がリードして先に言わないからだめなのである。こう答えた。それで言われたとおりに男のほうが、「あなにやしえ をとめを」と先に言うと、順調にいって大八洲が生まれた。

 この話ですが、ハッキリ言いますと女性差別の神話である。これはバイブルも一緒です。女の方が蛇の誘惑に負けてリンゴを食べたから、妊婦が苦しむようになったのだ。女が悪い。まさに女性差別でバイブルは始まっている。これは地球上のいわゆる人間の歴史の中では、両者共通でありまして、三千年や五千年の違いはたいした違いはない。要するに男性優先、女性を蔑視する時代が始まって、その時期に造られた神話である。その点においてはバイブルも『古事記』『日本書紀』も共通しているわけです。

 そのなかで『日本書紀』の中に、非常に優れたひとつの説話がございます。それが、『日本書紀』第十一章の神話です。
(神代上、第四代、第十「一書」」日本文学大系、岩波書店)。

 陰神(めがみ)先ず唱えていわく、「あなにえや、えおとこを」と。すなわち陽神(おがみ)の手を握り(と)て、遂に為夫婦(みとのまぐはひ)して淡路島を生む。次に蛭児(ひるこ)

 これは失敗ではない。なんと男前だと、女が言ってます。他の節を見て失敗したと覚えていたから失敗だと思っていましたが、これは間違いです。そのようなことは書かれていない。「すばらしき蛭児ひるこ大神がお生まれになった。淡路島に。」だから舞台は淡路島。そして女性がリードして成功した話なのです。ですから、この話は弥生時代でなく縄文時代の話である。縄文時代は言うまでもなく女性中心の時代であると、わたしは理解している。土偶のほとんどはオッパイがある。女性が中心の時代に造られた神話ですから、女性が成功した話になる。
 これも言っておきますが蛭子大神は太陽神。「蛭ヒルは、太陽が輝くという意味です。それで今の淡路島を取り囲むところ、西宮、徳島、大阪には蛭児(ひるこ)大神が今でも祭られています。淡路島でも、とうぜん祭られています。蛭子すなわち恵美須様という形で祭られています。恵美須(エビス)様が外国の神様とはとんでもない話です。「エビス」の「エ」は、輝くという意味。「ヒ」は太陽の「日」。「ス」は須磨、鳥栖と同じでして住まいの「ス」。「輝く太陽の住まい」という意味です。

 それで元に戻りまして、わたしは「あなにえや、えおとこを」という言葉、これは縄文時代の、それももっとも早い時期の縄文のポエム・詩である。そのように考えております。

2 『古事記』の「淡道之穗之狹別あわぢのほのさわけ

 次に『古事記』の「淡道之穗之狹別あわぢのほのさわけ」の問題にいきます。これは先ほど紹介いたしました「国生み神話」で、最初に生んだ島として書かれております。
 「淡道之穗之狹別」ついては、長い間悩んでいまして、今年の1月結論が出ました。それで1月の講演会ではお話したいと思っていた。しかし少し唐突ではないかと迷っていましたら、最後の質問の時間にテレビタレントでした上岡龍太郎さん。今は引退されて隠居生活を楽しんでおられますが、その方がこの件で質問された。わたしが言いたいと思っていたことを察知されたかのように質問され、わたしは待ってましたとばかりお答えした。なぜなら、これは素晴らしいテーマです。
 なぜなら、「アワヂ」というのは、「ア」は接頭語。「ワ」は、祭りの場で「三輪」と同じ。「ヂ」というのは、何かといえば神様です。
 それは「カミ」の「ミ」という神様以前に、「チ」という神様がいることは明らかにされている。たとえば大穴持(おおなむち)、手名椎(てなづち)、足名椎(あしなづち)、八岐大蛇(やまたのおろち)。これらの「チ」はすべて神様です。これはわたしの先輩の梅沢伊勢三さん。終生『古事記』だけを研究され、古事記学会の会長をされた。その亡くなられた梅沢伊勢三さんが、ひじょうに詳しく明らかにされたテーマです。
 同様に「ヂ」という神様を祭るまつりの場を「アワヂ」と言います。次の「ホ」は優れたという意味。そして「サワケ」の「サ」は接頭語で、「ワ」は、先ほどと同じ祭祀の場。「ケ」、これもまた神様。ところが「チ」と違う言語源の神様。「タワケ」とか「オバケ」、これも神様を意味する言葉です。「モノノケ」、若い人もよく知っているもののけ姫の「ケ」は、神様を意味する言葉です。元をたどれば、これは東北青森の「津保化(ツボケ)族」。大陸からやって来た靺鞨族です。土器の神様である「ツボケ」。神様を「ケ」と呼ぶ言語・文明もあった。

 日本には何種類もの民族が各地から来ている。それが結びついて日本語になっている。ですから日本語というのは単純そうに見えてなかなか単純な言語ではない。何種類もの言語の複合体である。
 先ほど言いましたように、「チ」を神様と言った段階。そして「ケ」を神様と言った段階。もう何千年も時間が違う段階。それが一つにまとめられているのが「淡道之穗之狹別あわぢのほのさわけ」ではないか。それを、このように呼んだのは誰か。ズバリ答えを言いますと、旧石器・縄文の人々です なぜかと言いますと瀬戸大橋を造るときに大発見があった。それは香川県から出るサヌカイト。
 瀬戸内海、岡山から高松へ渡る橋が、最初に出来ました。その橋桁の下を掘ったら、旧石器時代のサヌカイトを削った石器がつぎつぎ出てきました。この橋は二階建の橋ですから、橋桁を深く掘らなければならない。そうしますと旧石器層にぶつかった。わたしが聞いたときは二万点近く出ている。そう聞いて驚いて行きました。ですが橋が完成した直後に資料館に行きますと、その時は二十万点近く出ていました。そして「もう五十万点を超えており、おそらく百万点ぐらいにはなるでしょう。」と香川県の資料館の館長さんに言われました。高松への終着点の一つ手前の坂出、橋のそばにシックでスマートな資料館がありました。そこの館長さんにお会いして、お聞きしました。
  「だれが使ったのですか。」そうお聞きすると、「今の海底の人々が使ったのではないでしょうか」とお答えになりました。つまり旧石器の時代には、今の瀬戸内海は海ではなかった。もちろん池や湖はあったでしょうが陸地だった。そこは旧石器時代の人間が住んでいた。国(洲)があった。もちろんこれは館長さん一人の見解ではなくて、アルバイトを含めて頑張っておられた五十人以上いた発掘された方全体の共同の結論です。毎月一度会議を開いて、何年も発掘した結果、そのような結論に達した。それはそうでしょう。あのような何点かの橋げたの下に居た人々だけが使った。そんなことはありえない。海底の人々が使ったという考えが一番自然なのです。今は海底になっているが当時は陸地であり、そこに住んでいた人々、旧石器の人々がサヌカイトを使ったと考えるのが自然なのです。
 それから先の問題は、わたしの考えたテーマの一つです。その人たちは石器だけ作って、神様には関心はなかったのか。無神論者たちだったのか。そんなことはない。わたしには見てはいないが、そのようなことは考えられない。かれらにとっては石器も大事だが、石器以上に大事だったのは神様であった。このように考えても間違いではない。すると当時の人々がいたら、東の太陽が出るところを神が生まれたところと見れば、そこは淡路(島)である。今は島と言っていますが、瀬戸内海の底に居た人々から見れば、そこは平らな山や山裾です。そこを神のいた場所と見たのが「アワヂ」です。そして彼らにとっての神様が、太陽の神「蛭子ヒルコ」です。それが『古事記』『日本書紀』に記録されている。そのように理解しています。もちろん愛媛県の「エヒメ」も、この「あなにえや、えおとこを」と関連がある言葉だと考えます。愛媛県という言葉は新しいように見えますが、そうではありません。愛媛県にも行ってきましたが、女性の陰部を表すような大きな岩を祭っているところがございます。男性のシンボルを祭っているところもある。
 以上この「淡道之穗之狹別あわぢのほのさわけ」という言葉の理解は、従来の古代史の壁を突き破って、より古い歴史を突き破る可能性がある言葉です。それを上岡龍太郎さんが質問していただいた。ですから、この言葉の理解を原点にして問題が広がる可能性のある言葉です。また新しい進展があれば、そのつど報告いたします。

 

3 『古今和歌集』の「古いにしえの歌」

 本日のメインテーマともいうべき『古今和歌集』。これほど誤解されている歌集はないのでないか。なぜかと申しますと、『古今和歌集』に現在集められ ているのが千百十一首、これも偶然ではないような気がしますが、そろいすぎている。本当はこれもそろえたのでしょうが。この中で作者が分かっているのが三分の二弱。「多元的古代研究会・関東の会」で亡くなられた高田かつ子会長さんが調べられ統計されたものです。千百十一首の中で、「読人しらず」の歌が四百二十五首、三分の一以上です。作者が書いている歌は、ほとんどすべて平安時代の歌です。九九パーセント平安時代の人です。しかも歌集の題は『古今和歌集』で、 今の歌と昔の歌を集めました。そうすると作者の分かっている歌は、全て平安時代の人です。それらの歌は、とうぜん「古いにしえの歌」ではない。平安時代の人が平安時代の歌を、「古の歌」と言うはずがない。三分の二弱の歌は、とうぜん今の歌。そうすると「古いにしえの歌」はどこへ行った のか。言わなくてもおわかりでしょう。「古の歌」は、作者の書いていない歌。三分の一強の四百二十五首の歌が、「古いにしえの歌」です。 それではなぜ四百二十五首の歌を、「読人しらず」にしたのか。作者をなぜ「詠み人知らず」にしたのかという問題が浮かび上がる。
 これには有名な話・エピソードがある。平忠度(たいらのただのり)の話である。彼が源平合戦のあげく、もう平家の命運は極まったとして京の地を去り、これ から西へ行くときのことである。その時藤原俊成という歌壇、当時の歌のボスのところへやって来て、「これから西に行く。ただ一つ気掛かりなことがある。勅 撰和歌集が出来るとき、わたしの歌が載らないことです。ここにわたしの造った歌の中で、優れた歌と思うものを百首ばかり書いてきました。これを置いておき ますので、勅撰和歌集を造るとき、この中から(あなたが優れた歌と思う歌があれば、)入れていただければありがたい。」そう言って、西へ去って行った。彼 は一ノ谷の戦いで死んだのでしょう。
 それで平家が滅んで源氏の天下となり、鎌倉時代に『千載和歌集』が出来た。その歌集を造るとき藤原俊成は彼の残していった歌の中から一首を選んで載せた。

『千載和歌集』巻一 春歌 六十六 (岩波文庫)
故郷ノ花といへる心をよみ侍りける   読人しらず
さゞ波や志賀の都は荒れにしを昔ながらの山ざくらかな

 その歌を選んで『千載和歌集』に載せた。ただ彼は逆賊だから、平家はそのとき朝敵であるから、「読人しらず」として載せた。しかし題は代えて、「故郷の花こきょうのはな」として載せた。
 考えてみますと、源氏だ、平家だと言っても、現代のわれわれから見れば天皇家のスポンサーが代わっただけの話で、たいした違いはない。コップの中の嵐だ。それでも朝敵だから「読人しらず」として載せた。題は載せている。
 ところが『古今和歌集』の「雅哥がのうた」の先頭にある「君が代」は、題も消してあるし「読人しらず」である。これではとんでもない人が作った歌にな りますね。「君が代」だけではない。四百二十五首の「読人しらず」の歌は、とんでもない人々の歌になる。名前を出せない人々の歌。それが古(いにしえ)の 歌となる。
 そうしますとその「古いにしえ」とはなにか。奈良時代は平安時代のすぐ前である。現在から見て明治・大正時代に当たる時代ですから「古(いにしえ)」 とは言えない。そうすると「古いにしえ」とはなにか。結論から言えば七〇一以前、七世紀以前の歌は、名前はカット。だから『古今和歌集』のなかの名前 のない三分の一強の歌は、七世紀以前の古歌である。このような事実が浮かび上がる。この会場の方は初めてのかたが多いと思いますが、初めて聞かれても(論 理的には、)何も違和感を感じないとおもいますが。
 そうすると『古今和歌集』の歌を、ぜんぶ平安時代の歌であると言っていたのは、とんでもない。しかも七〇一以前の歌を、なぜ作者不明にしなければならなかったのか。それは、とうぜん王朝が変わったからだ。「古の歌」は、近畿天皇家の歌ではない。
 それに題をつけるぐらいのことは簡単ではないか。忠度の歌は「故郷の花」と題を付けたが、それで済むなら題を付けることぐらいは簡単にできる。しかし「古の歌」は題すら付いていない。題はあるが、作者はついていないものもある。
 この話は従来の国文学者や『古今和歌集』を研究している人にとってはとんでもない話だ。
 わたしも教わったり、そう教えていたが『万葉集』までが奈良時代以前の歌であり、『古今和歌集』は平安時代の歌。このように習った。しかし今の話はそうで はない。平安時代の歌は、『古今和歌集』のなかの読み人がわかっている歌であり、そうでない歌は七〇一以前の歌である。奈良時代以前の歌である。
 これらの歌の雰囲気が違うという話は、とうぜん出る。それは、わたしから見れば当然です。七世紀の歌と八・九世紀の歌とは違うし、七世紀以前でも宮中の人 と一般の歌はとうぜん違う。毎年お正月に行われる歌会始の儀式の歌でもお分かりのように、(最近の歌は、われわれの知っている歌とよく似てきたけれど も、)以前の歌は違っていて宮中の歌は雅びやかな歌ばかりだった。宮廷風の歌と一般風の歌は、まったく違っている。
 このような話を始めるとおもしろいが、宮中の歌会始の歌には不倫の歌はぜんぜんない。不倫をまったくしない人ばかりが歌を造るのでしょうか。そんなことはないと思いますが。だって『万葉集』では、天武天皇は額田王とすごい不倫の歌を作っている。

『万葉集』巻一二十一番
紫草むらさきの にほへる妹いもを憎くあらば 人妻ゆゑにわれ戀ひめやも

 これに対して現代の宮中では、それに匹敵するような歌を聞いたことがない。それは制度として宮中用の歌としてセレクトされて載せてある。もちろん宮中でなければ、不倫の歌もたくさんあるだろうし、みごとな恋の歌もあるだろう。ですから同じ時代でも、それぞれの場でふさわしい歌を選んでいる。作風が 違っているのは当たり前です。金太郎飴のように同じ作風であるはずがない。
 もう一つ言えば、平安時代になってわれわれが知っているあれだけの歌が、一気に平安に花咲いたという考え方もおかしい。
 はやり宮廷歌の伝統があって、平安の歌が出来たと考えるのが歴史的なものの見方です。奈良時代には『万葉集』のような歌しか作っていなくて、平安にあって 空中楼閣のように、花開き『古今和歌集』になったというのは、(口では言うのは簡単だが)そんな簡単なものではないと思います。
 ここから問題はたいへん反転しますが、有名な問題では後でもう一度述べますが有名な甲類・乙類の問題があります。『万葉集』には甲類・乙類の区分があるが『古今和歌集』にはない。そのように従来の学者は言っています。
 しかし、この問題は簡単でして、たとえば『万葉集』でも『古今和歌集』でも良いが、みなさんこれらの歌を現代仮名遣いに書き直してみてください。これは簡 単に書き直せます。全部は大変ですが、気に入った十首を選んで書き直してみてください。簡単に書き直せます。それと同じ。つまり『古今和歌集』は「平安仮名遣い」で全部書き直している。つまり歴史的な「仮名遣い」として文献として残っていても、実際は(平安時代には)あまり使われていない。それで平安時代の「現代仮名遣い」として表記している。今われわれが言っている『歴史的仮名遣い』と言っていますが。それだけのことです。このような問題は、専門家ほどゾクゾク出てきますが、しかし今わたしが言っている基本的な事実は変らない。
 もう一度言いますと、『古今和歌集』という以上は、「今歌」と「古歌」があるはずだ。「古歌」は奈良時代以前の歌。柿本人麻呂も「古歌」に入っていますか ら。名前が付いている歌はほとんど平安時代の人の歌である。それは「今歌」である。名前のないのは、ほとんど「古歌」である。「君が代」もまた「古歌」の 一つである。「古歌」には題だけあって作者がないもの、題も作者もないものがある。一番隠そうとしている「古歌」は、題も作者もない。
 だから「君が代」は、とうぜん天皇家のもとで造られた歌ではない。皆さん、なにを言うのだ。そうお思いでしょうが、論理的にはたいへん簡単な、それ以外の考えようのない話でございます。


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