『古代に真実を求めて』第六集
神話実験と倭人伝の全貌1・ へ
『盗まれた神話』 第七章 天孫降臨地の解明 へ

お断り:この講演記録は、現在の古田氏の考えと違っております。現在の考えを理解する一助で公開します。


<講演記録> 二〇〇二年七月二八日 大阪市 天満研修センター

神話実験と倭人伝の全貌(ぜんぼう)1

古田武彦

 外を歩いているだけでも、くらくらするようなこの陽気の中を、これだけたくさんの方々が来ていただいて、わたくしの講演を聞いて頂くだけでもありがたいと思っております。近年とくにそうなのですが、おもしろく重大な問題が続出しております。与えられた時間では、全部を話すと言うわけにはいきません。
 それで「多元的古代」研究会・関東の機関誌『多元』や『古田史学会報』で展開している問題は思い切ってカットします。それで最近の倭人伝について、わたしも思いもかけなかった問題。それについて述べたいと思います。このようなときは、いつも早口になりますが、ゆっくりと要点を述べたいと思います。みなさんもお楽になって、お聞きください。

 

 一 一大率について

 まづ最初のテーマに入らせていただきます。倭人伝の全貌については後で述べます。それと関連がありますが倭人伝の一画において、わたしにとって従来よく分からなかった問題がありました。それが解明されてきましたので、まずこれについて述べさせていただきます。
 この問題のわたしにとって始まりは、十数年前から始まりました。三十年前に『「邪馬台国」はなかった』を書いたときは、『魏志』倭人伝を見ますと、初めに対馬のことらしい「對海國」が出てきて、そのあと壱岐と考えて疑いないところに「一大国」が出てくる。「一大国」にたいしては、わたしはこれは「一つの大いなる国」である、そのように書きました。ですが十数年前、問題に気がついたのです。はっきり言ってしまえば、間違っていた。それもとんでもない間違いである。何が間違っていたかと言いますと、「一大国」のすぐあとに「一大率」が出てくる。この「一大率」をめぐってはいろいろな学者が論じておりますし、松本清張さんなどは、これは中国・魏の軍隊が駐留していたしていたという証拠であると言われました。その他いろいろな説が出されています。それで、この「率」というのは軍団の長です。この「一大率」は、その前に出てきた「一大国」の「率」である。その軍団の長だと考えるのが当たり前である。小学生でも、いちばん分かる理屈ではありませんか。その読みを従来誰もしていなかった。そう読むと「伊都国」に壱岐の軍団が来て、常時駐在している。その軍団を、ほかの国々は畏憚している。たいへん恐れている。そういう理解になる。それなら、そう書けばよかった。あれだけ先頭に陳寿が言おうとしていることを、そのまま受け取ると書いたのに。ですが、そう書きながら壱岐の軍団が常駐していることは、他の学者と同じく書けなかった。それは読めばそのように書いてあるから、事実はその通りでも、これは何を意味するか分からなかった。
 とくにわたしの場合は、これは弁解になりますが、この場合『魏志』倭人伝だけが対象で、『盗まれた神話』を書く四年前ですから『古事記』『日本書紀』はよくみえていなかった。ですから『魏志』倭人伝では、「伊都国」に壱岐の軍団が来て駐在していて、その軍団の長を、ほかの国々は非常に恐れていた。これは、そのように読むことは出来ても、なぜだと答えられない。なぜなら『魏志』倭人伝では、それ以上答えが出ない。だから答えられない。そこでいちばん自然な解釈をせずにいた。他の学者も同じくそうですが、やはりこれは正しくない。やはり一番自然な解釈として、文章を理解すべきである。『盗まれた神話』を書いて、この問題に気がつきはじめた。
 こう言いますと、ご存じのとおりです。つまり『古事記』『日本書紀』の神代の巻の一番メインテーマは「天孫降臨」である。「天孫降臨」という事件は何かと言いますと、「天照(あまてる)大神が孫のニニギノミコトを、筑紫の日向(ひなた)の高千穂のクシフル岳へ天下らせた。」という有名な事件です。有名と言いましたが第二次世界大戦前の教科書では、常に語られていたこの問題です。戦後は教科書でも出てこないので、有名とは言えないかも知れませんが。それで『古事記』『日本書紀』をみるかぎり神代の巻では、一番強調して高らかに述べられていることは間違いがない。それでこの問題が従来、ゆがんだ解釈になったのは、この「天孫降臨」の場所が、南九州である。ほとんどの学者によって、そう信じられていた。その元凶と言っては申し訳ないが、元は本居宣長である。彼は『古事記』の「天孫降臨」に対して、「筑紫」というのは九州全土。つぎの「日向」は、宮崎県の「日向 ひゅうが」と読んだ。「高千穂」は有名な霧島連峰にある高千穂岳か霧島岳である。最後の「クシフル岳」という地名は、残念ながら今は失われのであろう。そのように考えた。
 なぜ、そういう読みを考えたかと言いますと、『日本書紀』の「神武紀」の先頭には「筑紫の日向国」とあり、そこには「日向国」と書いてあり、「国」が付いてあるかぎり絶対に宮崎県である。『古事記』どおり日向(ひなた)と読めば、筑紫とは福岡県であり、そこには「筑紫の日向ひなた」が存在する。「高千穂」は、語幹が高祖山連峰と同じ「高」であり、「高千穂」は、高祖山連峰のことである。もっとも重要なことは「クシフル岳」が存在する。地図にはなくとも農民の生活語の中では使われている。「今日はクシフルから、兎がたくさん出てくる」と、このように使われている。
 本居宣長は、『古事記』優先のはずなのに、『日本書紀』の「神武紀」を参考にしたから、「日向 ひなた」は「日向 ひゅうが」に成ってしまった。先頭の「筑紫」がじゃまになるから、全九州のことだと言った。しかし、九州宮崎県に行って、ここは筑紫ですかと聞いてみてください。返答は、ここは筑紫ではない、日向(ひゅうが)です、と答えるに決まっている。しかし本居宣長は、強引に全九州=筑紫ということに、また『日本書紀』の例により、日向を南九州にしてしまった。
 しかし本居宣長には気の毒である。なぜなら当時考古学的な出土分布が分からなかった。未熟だったのです。ですが天照大神は天孫降臨にのとき、「三種の神器」について盛んに言っています。この「三種の神器」、藤田友治さんは「三種の神宝」が正しい呼び方であると。それはそのとおりですが、つまり普通に言う三種の神器です。それが天照大神にとって、権力の、支配のシンボルであることは間違いがない。
 ところが福岡県の西側、高祖(たかす)山連峰の日向(ひなた)なら、三種の神器が出ている唯一の地帯である。筑紫で一番はやい三種の神器が出てきた吉武高木遺跡。福岡市早良区の字日向(ひなた)のそばの遺跡です。つぎが西の前原市の三雲遺跡。東側へ行って中国の絹が出てきた春日市にある須久(すぐ)岡本遺跡。中国の絹が唯一出てきたのは、この遺跡だけです。また前原市に戻って井原(いはら)遺跡。最後に原田大六氏が執念をかたむけ大型の鏡が出てきた平原(ひらばる)遺跡。一人の女王のために漢式鏡が三十六面出てきました。これら全ての遺跡が高祖(たかす)山連峰を囲んでいる。壱岐でも、当然ながら三種の神器が出てきました。ところが、南九州ではまったく出てきていない。半地下式の隼人(はやと)塚の世界。これはこれで貴重な遺跡ですが、三種の神器が出てこない遺跡であることは明らかである。そんなことは、今の考古学者や歴史学者はみんな知っている。やはり考古学を知らなかった本居宣長の『古事記』『日本書紀』の読み方はダメである。
 しかし、その本居宣長を受け継いで、考古学者・歴史学者・神話学者・民俗学者など、すべての学者は「天孫降臨」を南九州にしている。これはまったくダメです。

 もう一つ念押しで、つけ加えますと、わたしのように戦前の教育を受けた者にとって、天照大神(あまてらすおおみかみ)の印象的な言葉がある。
 「葦原の千五百秋(ちいほあき)の瑞穂(みつほ)の國は、是、吾が子孫(うみのこ)の王たるべき地(くに)なり・・・」

 考えてみたら厚かましい言葉で、「葦原の千五百秋の瑞穂の國」とは、水田耕作の盛んであるところという意味ですが、「そこをわたしの子孫が支配するのだ。」、つまり、そう言っている現在は、天照大神はまだ「葦原の千五百秋の瑞穂の國」を支配していない。そこを、わたしが侵略し支配し、わたしの子孫が、そこを支配するのだ。未来予想のような言葉である。その未来予想の言葉を、すでに既定の計画として述べている。わたしは絶対に実行する。このように言っている。その水田耕作の豊かな土地とはどこか。糸島・博多湾岸。唐津湾の南の端、菜畑(なばたけ)遺跡。最古の縄文水田遺跡。糸島郡に来ると、唐津湾にのぞむ二丈町の石崎というところに曲田とか大坪という縄文水田の遺跡がある。それから博多に来れば一番有名で福岡空港のそばの広大な板付(いたつけ)遺跡。
 天照大神は「わたしはそこを、断固支配する。」そのように意志を表明している。天照(あまてる)は、なんとすごい女性である。これだけ意志強固で実行力豊かで、未来へのイメージをハッキリ持っている女性は見たことがない。しかし、それは逆の側から侵略される側・支配される側から言えばもっとも憎むべき支配者。どれだけ恨んでもあきたらない憎むべき人物である。評価は二面をもっていますので、どちらが正しいとは言いませんが、日本の歴史の中では見あたらない強固な意志を持った人物である。それで、彼女は稲作の地帯を支配すると。ところが南九州は水田の稲作は始まっていません。もっとも最近は、それとは別の系統である陸稲と推定される稲の栽培が、発見されているという報道がされています。中国南部・インドネシアあたりから来たと言われています。それはそれで貴重な稲作の経路と考えますが、先に述べた問題とはだいぶ性質が違います。今の問題は、中国・朝鮮半島からも稲を刈る石包丁なども連続している。とにかく稲作の中心は、北部九州であることは明らかである。南九州や宮崎など、その周辺にはない。
 「天孫降臨」地は以上の考えで分かりますように、稲作の面からも、三種の神器の面から、北部九州である。南九州が「天孫降臨」の地であるとがんばってみても、考古学の出土史料が、これを許さない。

 これも、一言言わせていただきますと、最近、『新・古代学』、『古代に真実を求めて』などの雑誌で、さまざまな論争が盛んに行われ、わたしとしては楽しいというか、愉快だと思う。そして学界では行われていない論争が盛んに行われています。たとえば大和斑鳩法隆寺は太宰府観世音寺から移築された。いやそうではないと議論されております。その場合、一つ注意すべきことは、小説的なイメージ展開。これはおもしろいし退けるべき考えでもない。幻想史学と言っておられる方もおります。楽しい分野です。しかしそれと歴史学とは分野が違う。なぜならば歴史学の場合はやはり事実の裏付け。つまり考古学の裏付け、それが必要なのです。もちろん文献を解読する論理性、ルールは重要です。わたしはここが好きだから、このように理解する。それでは小説的イメージになっても、学問には成らない。一定の論理性をもって文章解読が展開していることが必要。しかし論理性だけでは自分の好きな方向にどこにでも走れますので、考古学的な裏付けが要る。それではじめて歴史学の名に値する。それに対して、「自分はそれにこだわらない。考古学的な裏付けは後回しだ」。そういう人はそれでよい。ですが、そういう人と、そうでない人が論争してもあまり意味がない。いい例が「邪馬台国」論争である。「邪馬台国」論争は一時盛んになって、本があふれた。しかし、その中身は歴史学ではない。考古学的裏付けがあるわけでもない。そのうちに、読者はいやになってくる。それが結局、論争がしぼんでいった理由である。

 これも率直に言わせていただければ現在の大学のほとんど歴史学は、幻想歴史学になってしまっている。だって南九州が「天孫降臨」の地であると、歴史学者はみんな言っています。考古学者の森浩一さんも、そのように言っている。それでは南九州に、天孫降臨の証拠である三種の神器が出てきたのか。こう言えば森さんや梅原猛さんも答えられない。困るはずです。なくてもよい。そのうちに出てくると言うのでしょうか。
 これも一言言っておきますが、歴史学者の津田左右吉は、わりと考古学に頭が回らない人である。それには理由があります。自分で書いています。彼の少年時代、宮崎県知事が、莫大なお金を費やして、大々的に発掘をおこなった。その目的は、「天孫降臨」の遺跡の発掘である。つまり明治維新のときに、薩長政権に宮崎県は後れをとった。薩摩に遺跡をみんな決められてしまって、明治二・三年に、ニニギノミコトのお墓など鹿児島県にすべて比定されてしまった。それで明治天皇がわざわざ鹿児島に遥拝(ようはい)に来ています。ようするに政治目的に使った。それで歯ぎしりをしたのが宮崎県である。日向(ひゅうが)の地は宮崎県である。もっと立派な三種の神器があるに違いない。そう考えて、大発掘をおこなった。ところが何も出なかった。空振りは当たり前だと思いますが、いろいろのものが出てきましたが三種の神器はない。県知事が狙った物は、まったく出なかった。
 学問からは、身元を明らかにする上で大成功であると考えます。ですが普通はそのようにとらえないから、大失敗だと考えます。これには考古学者の梅原末治さんなども影響を受けたらしく、「神話などを考えては失敗する。考古学の発掘一本槍で行こうと決心した」と書いています。逆に歴史学者の津田左右吉も「考古学は相手にしてはならない。死ぬまで文献批判で徹底しよう」と考えたらしい。分かれて行くけれども、両方とも神話と考古学は関係なくてもかまわない。どうせ神話と考古学は結びつかない。このように明治末の宮崎県の大発掘は、少壮な青年たちに、このような精神的影響をもたらしたのです。

 もう一度結論を述べますが、天照(あまてる)の天孫降臨先は、南九州ではなくて、北部九州である。福岡県の高祖山連峰の周辺であることは動かない。
 その出発した原点の方は、壱岐・対馬である。これも『盗まれた神話』でご存じのように、「国生み神話」の中に、亦の名は何々というひじょうに古い形で、国の名前が出てくる。それらのなかに「天の○○○○」と呼ばれるグループがある。もちろん呼ばれないグループもある。ところが「天の○○○○」と呼ばれるグループは、その場所がほとんどが対馬海流上に集中している。ちょうど「筑紫の○○」と言われるグループは、筑紫の中にあるように。同じように「天の○○○○」と言えば、天国(あまくに)の中にある。「天」と書いてあるから、漢字にだまされているだけで、この「天」は「あま(海女 海士 海部)」である。今でも出雲隠岐島の島前には、海士(あま)町がありますが。その海士(あま)国に対して、「天国」という字を当てたのである。
 もう一つの根拠は、記・紀に「天降あまくだる」という独特の言葉がある。この言葉で示される天降って行く場所は、意外にも三カ所しかない。しかもその天降る場所には途中経過地がない。ということは、天(あま)と呼ばれる場所は、新羅(しらぎ)・筑紫(ちくし)・出雲(いずも)の三カ所にはさまれた地帯である。もちろん筑紫は福岡県、出雲は島根県、新羅は韓国東海岸です。つまり対馬海流上の島々である。
 それで天照大神の原点は、対馬海流上の壱岐・対馬である。このあいだ対馬の阿麻氏*留(あまてる)神社に行ってまいりましたが、その阿麻氏*留(あまてる)がアマテラスオオミノカミ、本来はアマテルオオカミの原産地名であろうと、ご存じのように今回の旅行でも述べてきました。
     氏*は、氏編の下に一。JIS第3水準、ユニコード6C10

 ですから「天孫降臨」は、壱岐・対馬に海上武装船団があって、それが中国・朝鮮半島から銅器・鉄器という武器を手に入れて、当時最強の武装集団になりました。それまで出雲が覇権をにぎっていたのは、隠岐島・道後町の黒曜石をバックにしており、縄文の出雲が栄えていました。ですから記・紀によれば、出発点は壱岐・対馬である。その到着点は筑紫の高祖山連峰である。そこへ軍事集団を派遣する。会報でさらに詳述しています。
 最近の考古学の発掘の成果によれば、わたしが出発点だとしている壱岐・対馬から、ぞくぞく三種の神器が出てきている。いよいよ間違いがないと思います。としますと、魏志倭人伝の読み方としては、初めに述べた素直な読み方で良かったのです。一大率は一大国の軍団である。その軍団の長を、ほかの国々は非常に恐れていた。伊都国に一大国の軍団が来て駐在していた。伊都国は、高祖山連峰のすぐそばです。
 彼らは侵略者であり、占領軍である。かれらを選んだのなら、何もおじけづくことはないですよ。そうでなく一方的にやってきて、鉄の意志で支配を貫徹した。だからこそ回りは、みな恐れおののいている。ですからあの倭人伝の叙述は、「天孫降臨」という神話ではなく基本を成す歴史事実をバックにして作られた文章である。
 そういうことは、今になってみるとよく分かる。しかし『「邪馬台国」はなかった』で、『魏志倭人伝』を解読したときは、そこまで頭がまわらなかったので、解くけなかったことを報告させていただきます。

 

 二 一大国と対海国

 さて、次は一大国の理解についての話。
 わたしが『「邪馬台国」はなかった』を出してから、倉田さんという当時佐賀県で現役の裁判官の方から長いお手紙をいただいた。その方が言うのには、もし法廷で邪馬台国か邪馬壱国かを争うならば、わたしは邪馬壱国の方に裁定をおこなうというものでした。(笑い)
 その方は有名な裁判官で、法律に関する論文や本を数多く出され、法理論の先端を歩いていた方です。その方が「古田さんの見解で、どうしても一つ納得できないところがある」。古田は『魏志』倭人伝に記載されて名前や国名は中国人が付けたと理解し、その前提で『「邪馬台国」はなかった』を書いた。それに対してクレームを付けられた。中国人が、壱岐というあんな小さな島に「一つの大きな国」という国名を当てるはずがない。いま一言でいえば簡単なことですが、その方は裁判官らしく便箋を何枚も使って理々整然と微に入り細をうがって論じていただいた。わたしはまったくそのとおりだと思ったし、今聞いている皆さんもそう考えて方も多いでしょう。わたしもギャフンと言った。わたしはすぐご返事をさしあげた。あなたの言われるとおりです。それに対して、わたしはすぐお答えすることはできません。一つの宿題にさせていただきたい。そのような手紙をお送りした。宿題にしたままでしたが、今回それが解けてきた。
 今回出版した『「姥捨て伝説」はなかった』で、言葉というものを先入観なしに一語一語、これまでの考えにとらわれず分析していく中で、あたらしい知見を獲得することができました。  『古事記』
 次に伊技(いき)島を生みき。亦の名を天比登都柱(あめひとつはしら)と謂ふ。次に津(つ)島を生みき。亦の名を天之狭手依比賣(あめのさでよりひめ)と謂ふ。

 壱岐につきまして、『古事記』では、またの名を「あめひとつはしら」と書いてあります。これを見ると、天に大きな柱があり、そびえたつように思えたから、わたしは初め壱岐に行ったときに、そんな高い山があるかと見渡したが、全然なかった。その思い出がある。しかしそれは姥捨て伝説とおなじく漢字の字面にだまされていた。表面の言葉にとらわれると、だまされる。そのようなことから解放されて、日本語の言葉として一語一語丁寧に分析し直してみる。
 そうしますと「天比登都柱 あめひとつはしら」をこのように考えます。

 「天」は海部(あま)人の海部です。「比」は太陽を意味する「日」であり、「比」を当てることがあります。「登」は、これは戸口の「戸」であろう。東を意味するのでしょう。「都」は都(みやこ)という字を当ててありますが、これは港を意味する「津」である。「比登都=日戸津=ひとつ」と言うのは、太陽の戸口を成す港という用語である。漢字の方は当て字だから、当てにすると間違う。
 「柱はしら」とは何か。「ハ」は、「葉」で、木の葉のように広い場所が「葉」である。たとえば博多(はかた)ですが、これは、海辺の潟(かた)に、広い場所・潟という意味で、「葉」を付けたものである。それに「博多ハカタ」という字を、あてたものです。
 「シ」という言葉が解けたのがわたしにとって大きい意味を持っています。この言葉については、信州松本に何回か講演に行って、そこで尋ねられた中で、解けた問題です。たとえば長野県塩尻(しおじり)、塩をここで交易していたから「塩尻」であるという説、以前居たときに、一番先に聞かされた説です。これがどうもおかしい。「シ」は、信濃(しなの)、更科(さらしな)など、たくさんある。信濃(しなの)という言葉は、野原の野(の)と、水辺の那(な)である。海でも河でも水辺の土地です。そうすると語幹は「シ」である。その「シ」は何か。今時間の関係で、途中を省略して結論から言いますと、「人間が生き死にする広い場所」が「シ」であるという結論に到着しました。陸地でも海上でもよい。黒潮(くろしお)の「シ」も、そのような「シ」です。島(しま)の「シ」もそうです。後の懇談会でも質問があれば再度説明いたします。「ラ」は、簡単でして、村・空など、日本語で一番たくさんある接尾語の「ラ」です。
 そうしますと「ハシラ」というのは、人間が生き死にする広い場所という意味の地名である。ですから「比登都柱ヒトツバシラ」というのは、「太陽の戸口をなす港の側の、人が生き死にする広い場所」と理解される。それはどこか。それはまさに壱岐・原辻(はるのつじ)遺跡である。今回の発掘で三種の神器が、たくさん出てきたところです。壱岐の中でもいちばん平地の多い所である。その原辻遺跡を「人が生き死にする広い場所」という意味で「柱 ハシラ」と言っている。柱を大きな木の柱が立っていると理解するから、どうにもならなくなり、迷い道にはいる。その原辻遺跡の東側には、すぐ渓谷が港につづいている。あれが「比登都=日戸津=ひとつ」で、太陽の戸口を成す港です。
 以上、まさに「天比登都柱(アメヒトツバシラ)」とは、原辻(はるのつじ)遺跡をさす。これで永年悩んでいた問題の突破口ができた。
 永年の宿題である『魏志倭人伝』の「一大国」の意味を考えるときが来ました。原辻(はるのつじ)遺跡を倭人が「天比登都柱(アメヒトツバシラ)」と言っているとしますと、「日戸津(比登都ヒトツ)」というのは、「太陽の戸口をなす港」という意味がありますが、同時に数字の「一いち」でもある。意味は違うが同音ですから、「ヒトツ」を「一」で、倭人が表記した。
 今度は、「人が生き死にする広い場所」という意味の「ハシラ」を「大」で表記した。倭人にとっては、壱岐は一番大きな島です。中国人から見たら、ちっぽけな島ですが、あの周辺の倭人にとっては、一番大きな島ですから「大」と表記した。ですから「一大国」は倭人が名づけた漢字の国名である。今度は具体的に、『魏志倭人伝』の「一大国」は『古事記』の、またの名の「天比登都柱あめひとつはしら」と同じ意味である。そのように論じたわけでございます。しかし「一大国」の国名の解釈は、わたしの一つの解釈に過ぎません。うまく解釈してみたが、本当にそうなのか。わたしもそう考えたし、皆さんもそう思うでしょう。それで、もう一つの例で解ければ、今のわたしの解き方は、単なるでたらめ、思いつきではない。そのように言える。三・四カ所が解ければ、さらに確実である。それでは対馬を、どう解くか。『魏志倭人伝』では、対馬を対海国としてある。海に面しているから対海国だと、わたしも単純にそう思っていた。しかしそうではない。それなら海に面していたら、日本国中、「対海国」だらけになる。すぐに分かるけれども、よく考えたら分からなくなる表記だ。
 それで「一大国」と同じように考えると、『古事記』では、
  次に津(つ)島を生みき。亦の名を天之狭手依比賣(あめのさでよりひめ)と謂ふ

 とある。ここで狭手(さで)とは何か。はじめは知らなかった。ところが島根県隠岐島に行きまして、始めて知りました。われわれから見ると、竹の熊手(くまで)ですが、そこに紙で「サデ」と書いてありました。そうしますと、狭手依比賣(さでよりひめ)と言いますのは、この「狭手さで」を、依代(よりしろ)にしている神様。たぶん海の神様でしょう。
 その「狭手さで」を見せますが、(竹製の熊手を指す)これは読者の方が贈って頂いたものです。わたしが神話実験をおこなったときは、このような立派な熊手ではなく、もっと雑で、柄が長くて、十数本以上の手がありました。この手は、ちょうど八本、大八島の八本、さすが出雲産です。(笑い)
 つぎに「対海(對海)国」について調べるのに「對」という字を、はじめて諸橋大漢和辞典を引きました。今まで分かっているものと思いこんでいたので、引いて驚いた。たいへんな意味を持っていました。
  ※對 タイ、テ、tuei 意味1、こたえる。(『諸橋大漢和辞典』)

 この意味を端的に表しているのが、「對越(タイエツ)」です。これは「天地神明に答える。」とありました。
 ですから對は、「天地神明にお答する」という意味なのではないか。われわれは、たんなる海に対面すると考えていたが、そうではない。そうしますと「海」も、単なる物理的な海ではなく、海神を意味していたのではないか。神様のお住みになる海という意味である。
 ですから對海は、「海神の心霊に天地神明にお答する」という意味に考えてもよい。
 対馬の北側に豊(とよ)という町があり、いまでも狭手依比賣を祭る神社が、たくさんあります。この一年間狭手依比賣(さでよりひめ)の教えを守って、一年間無事に過ごしてまいりましたと、お祭りをする。この季節には、船を出さないとか、風の向きを見て変わったことがあれば、二・三日後には船を出さない。そういう海の掟(おきて)がある。そういう掟(おきて)は、漁師の方々にとっては狭手依比賣(さでよりひめ)の教えである。「その縄文の女神の教えを忠実に守り、一年間無事に過ごせました」。あるいは、「その教えを破ったために、誰々は海の藻屑(もくず)と消えました。まことに申し訳ございません。」つまり海神さまに、感謝しかつ詫びるお祭り。そうしますと「天之狭手依比賣あめのさでよりひめ」は、海神の心霊に天地神明にお答する対海国と、ピタリ一致する。これは中国が付けませんよ。そういう精神生活を持っている倭人が、漢字を利用して付けた国名です。

 この二つ、壱岐と対馬の例が解けたので、これで良いのではないかと考えています。
 しかもこの問題には副産物として、わたしが不思議と考えていたことが理解できてきました。それは矛・戈です。もとは稲を刈るのが鎌(かま)で、それが武器に変わったのが戈(か)です。また突き刺すための槍(やり)が矛(ほこ)です。中国では、これは武器です。ところが日本に来たら武器であるより祭器です。お祭りの道具です。考古学者もそう言ってますし、わたしもそのように考えてきました。ですが中国では武器なのに、なぜ日本に来れば祭器に変わったのか。これが分からなかった。それで今まで悩んでいた。
 今一つの仮説として述べます。天之狭手依比賣(あめのさでよりひめ)を祭るとき、この「狭手さで」を立てて、祭ったと考えます。お祭りでは何本も立てて、依代(よりしろ)にして祭っていたと思う。すると、そこへ矛や戈が入ってきた。それで矛や戈も「狭手さで」と並んで立てたのではないか。だから祭器に変わっていった。狭手依比賣(さでよりひめ)のお祭りが前提にあったから、武器である矛や戈も祭器に変わっていった。受け皿になった。こう考えました。そのように考えると、すべて解けたわけではないが、一つの重要な発見でした。

 もう少し言いますと、中国では戈(か)が古く、矛(ほこ)が新しい。殷(いん)は戈が圧倒的に多く、矛がほとんどない。ところが周(しゅう)になると逆転して矛が圧倒的に多く、戈はほとんど出ない。漢も『三国志』の魏も矛(ほこ)です。これも有名な「矛盾」という説話がございます。商人が矛を売っていた。どんな盾も突き通す矛である。しばらくして、今度は盾を持ってきて、どんな矛もはじき返す盾である。そう言っていたら、この矛で、この盾を突いたらどうなるのかと、尋ねられたその商人は返答できなかったというお話。わたしは、この話は周のはじめの話であると思う。矛というものを人々がよく知らなかった時代、コマーシャルを必要とした時代の説話です。だから「矛盾」という言葉ができた。
 ついで、わたしは周が殷に対して革命を起こせたのは、矛(ほこ)の威力によってであると考えています。戈(か)は、たしかに人の首を取るには威力はありますが、見方が離れていなければあぶなくて使えません。それに相手の首に持っていくのに少し時間がかかる。ところが、矛だと、いきなり突き刺せばよい。スピードがちがう。だいいち見方がきちんと並んで戦える。ですから戈の集団と矛の集団が戦えば、ぜったい矛の集団が強い。周が殷に対して反乱を起こして勝った本当の理由は、この矛の威力だと思う。殷の紂王が、淫乱で乱暴であったというのは、後でつけた理屈です。本当は家来である周が、殷にたいして反乱を起こした。しかも殷に亡命を許され西安(シーアン)の近くにいた。ですから恩を仇で返したようなものである。それを美化するために、紂王を悪者にした。このように考える。
 そうしますと、中国から一番先に、殷から戈がはいってきた。つぎに周から矛がはいってきた。この考えのいくらか良いところは、戈はサデに少しは似ていませんか。祭祀の道具として立てるには、都合がよい。矛は似ていませんが。
 ですからはじめは、狭手の代わりに戈を立て、やがて矛が戈を押しのけたから、矛に変わってきた。そのように考えて、我が意を得た思いがした。それで、わたしにとって喜びは、二十数年ぶりに倉田さんの疑問に答えることができたことです。

 

 三 神話実験

 演題にも入れてあり、先ほど、神話実験という言葉を申しました。これに入っていきます。神話に関して、わたしのおおまかなイメージの中で、どうも変であると考えていたことがありました。

岩波古典文学大系『古事記』

是に天つ神。諸の命以ちて、伊邪那岐の命、伊邪那美の命、二柱の神に、「是の多陀用幣流(ただよえる)國を修め理り固め成せ。」と詔りて、天の沼矛を賜ひて、言依さし賜ひき。故、二柱の神、天の浮橋に立たし【立を訓みてタタシと云ふ。】て、其沼矛を指し下して、畫(か)きたまへば、鹽(しお)許袁呂許袁呂迩【コヲロコヲロ 此の七字は音を以ゐよ。】畫き鳴し【鳴を訓みてナシと云ふ。】て引き上げたまふ時、其の矛の末(さき)より垂り落つる鹽、累なり積りて嶋と成りき。是れ淤能碁呂嶋なり【オノゴロ 淤より以下四字は音を以ゐよ】(中略)
生める子は、淡道之穗之狹別嶋、次に伊豫(いよ)の二名嶋を生みき。・・・次に隱伎(いき)の三子嶋を生みき。亦の名は、天之忍許呂別【アメノオシコロワケ】。次に筑紫の嶋生みき。・・・次に伊岐嶋を生みき。亦の名は、天比登都柱【アメヒトツハシラ】と謂ふ。次に津(つ)島を生みき。亦の名を天之狭手依比賣(あめのさでよりひめ)と謂ふ。次に佐度嶋を生みき。次に大倭豐秋津嶋を生みき。亦の名を天御虚空豐秋津根別と謂ふ。故、此の八嶋を先に生めるに因りて、大八嶋國(おほやしま のくに)と謂ふ。・・・既に國を生み竟へて。更に神を生みき。・・・

 わたしが「おかしい」と感じていたこと。それは矛を突き立てて持ち上げたとき、シホコヲロコヲロと垂れて、大八島国ができた。このイメージです。本当にそうなのか。
 しかしわたしの単純な頭の実験では、矛(ほこ)を持ち上げたとき垂れる滴(しずく)は、一点に集中して、大八島国には広がらない。一点に落ちるばかりである。同じく戈(か)でも疑問である。鎌のような形ですから、少しは広がりますが。ですが滴は、大八島国には広がらないと思いました。これがもやもやとした疑問でした。それがもやもやとした疑問から、ハッキリと意識した疑問に変わったのはつぎの問題である。
 わたしは、この話が福岡県・筑紫を原点とする話であることは最初から疑わなかった。なぜなら弥生時代、矛や戈が集中的に遺跡から出土するのは、糸島・博多湾岸である。実物も鋳型も。だからこの話は、弥生時代の筑紫でつくられた。このように考えていた。この点、津田左右吉のように、六世紀の大和朝廷の歴史官僚が頭で考えた。でっちあげたという考え、それが戦後通用しています。ですがわたしはこの考えは、おかしいと思います。なぜなら、大和朝廷の歴史官僚が頭で考えて、なぜ弥生時代の矛や戈を思いつく必要性があるか。とくに奈良県大和に矛や戈が出ればよいが、大和には弥生時代には出ない。福岡県まで、六世紀の大和朝廷の歴史官僚が発掘に行って、知った。そんなことは、考えられない。
 ですから三世紀の弥生時代の権力者たちが、考えた神話であると思います。それが神話理解の出発点であると思います。まず
 しかし今考えると追求がなおざりになっていた。
 それで問題は次にある。記・紀では、有名な話ですが、陰神(めがみ)がまず唱えて言いました。「あなにえや、うましおとこを」と。そして後で、陽神(おがみ)が「あなにえや、うましおとめを」と言いました。そうしますと、不具の子ができた。なぜ失敗したのかを、海の神様である天神(あまつかみ)にお伺いをたてに行った。そうすると天神が言うのには、女が出しゃばって先に言ったから失敗した。男が主導権を持って、先に行わなければならない。神様がそう言われたので、その通りにイザナギが先に言ったら、うまく大八島国(おおやしまくに)が生まれた。このように書かれてある。
 これは完全に男女差別の神話である。つまり縄文というのは女性中心の社会。ところが弥生時代には、男性中心の世界に変わってきた。生産力や、おそらく戦争などがひんぱんにおこなわれた関係でしょう。それで男性中心の世界に変わってきた時期に、弥生時代につくられた。弥生時代でも初めは女性が主導権を持っていた。それでは失敗するよ。男が中心にならなければならない。男が偉いということを強調するために、教訓するためにつくられた神話である。
 これもだいたい『日本書紀』をつくった六世紀の大和朝廷の歴史官僚がこんな話を作るはずがない。もう六世紀には、男社会になって久しい。弥生時代という女性中心の社会から男性中心の社会へという転換期につくられた神話だから、そのように語られている。
 同じ事は、バイブルで語られている。もっとひどい。女は馬鹿だと言わんばかりの扱いをうけている。女は男の脇腹の骨から造られた。女は馬鹿であって、だから蛇にだまされた。エデンの園を追われた。そういう話は有名ですが。女にすべてを、しわよせをすべて押しつけたひどい時代だったから、あのようなバイブルの話になった。縄文時代にバイブルをつくったら、もっと違う形になった。現代でバイブルが作られたらもちろん代わった形になる。その時代、その時代の常識を反映したバイブルが作られる。これは当たり前の話ですが。ところが、
  『日本書紀』神代上、第四段、第十
 一書に曰く。陰神、先ず唱えて曰わく。妍哉(あなにゑや)可愛少男(えをとこ)を」とのたまふ。便ち、陽神の手を握りて、遂に為夫婦(みとのまぐはひ)して、淡路嶋を生む。次に蛭児(ひるこ)。

 わたしの頭の中では、この一書でも、男の方が後に言ったと思いこんでいた。ですが違います。男は一言もしゃべっていない。よく見ると違います。男の方はひたすら「まぐはひ」している。それで淡路島を生む。蛭子(ひるこ)を生む。
 『古事記』や『日本書紀』の前にある文章を先に見ている。だから頭の中で考えると失敗している。しかしよく見るとそうじゃない。ぜんぜん「失敗した」とは、書いていない。それに淡路島は失敗作ではない。かがやく淡路島が生まれた。同じくかがやく蛭子大神が生まれた。女性がリードしたから成功した。そのような縄文神話である。すると、これはかがやく淡路島であり、かがやく蛭子大神です。この神話には、戈・矛がいっさい出てこない。わたしはこれに気がついて愕然(がくぜん)とした。そうしますと、この神話は福岡県が中心ではない。淡路島が中心である。ここには地理的に淡路島しかないから、淡路島が中心の神話である。そのように考えるのが一番すなおな理解である。ところがなんと皆さんご存じの西宮戎(えびす)。一月九日、二万人が参拝するという十日戎で有名な兵庫県西宮市の西宮戎。ここの有名な神社の祭神はご存じですか。蛭子大神(ひるこおおかみ)。わたしはそうではないかと考えていたが、神社に電話をしたら、間違いなく祭神は蛭子大神とお答えがあった。おなじく大阪の有名な今宮戎も同じく蛭子大神。同じく徳島県には、はっきり蛭子大神を祭っている有名な神社がある。ここでわたしが言いたいのは、これらの神社は淡路島を囲んでいる。淡路島を囲んだ巨大蛭子圏。日本書紀の神話と、神社群が偶然の一致だと思いますか。
 かくして淡路島と蛭子大神は、このようにお生まれになった。そのような縄文神話なのです。それをバックに二十一世紀の今日まで、西宮戎などの祭祀が行われている。これには少し驚きました。
 しかもそれが国生み神話の原点であり原型を成している。縄文ですから、銅矛・銅戈がないのがあたりまえです。つぎに、中国殷・周から銅戈・銅矛が入ってきた。その武器を手にした壱岐・対馬の海人集団が、最強の軍事集団になった。それで、それまで御主人だった出雲に対して反乱を起こした。「国譲り」という美しい名目で権力を奪った。そして、その後「天孫降臨」という名目で、福岡の稲作地帯をおそって征服し支配した。
 そのあと一番先に、自分たちの祭器である銅戈・銅矛の神話につくり代えた。まず銅戈神話をつくり代えた。つぎに銅矛神話につくり代えた。銅矛は一番数が多い。ですから銅矛神話は一番古いと思ったけれども、弥生の中では一番新しい。それより弥生の中では、やや古いのが銅戈の神話である。それよりもずっと、ずっと古いのが熊手の神話である。
 なお、付け加えて言います。熊手、神話の中で語られた道具、これは塩田で使うものだと考えていました。考古学者の森浩一さんなどが、これは塩田の作業が影響しているのではないかと『考古学と神話』(朝日新聞社)などに少しですが書かれていた。ところが、川口さんという、塩田に対してすばらしい生き字引の方がおられる。その方の芦屋の家にお伺いしまして、塩の作り方をご教授いただいた。それと本を何冊もお借りしてきた。その本には塩田の道具が描かれてあります。しかし資料をよく見て考えると、それらの道具は少し違っている。
 それで迷ったあげく結論は、結局元にもどりました。つまり熊手で貝を採る。人間の手、人間というお猿さんの手より、熊手で砂をかき分け貝を取ったほうが、たくさん取れる。ということは、縄文とは貝塚の時代である。貝を食べた時代。貝を手で採ったばかりではなくて、これで採ったのではないか。当時の新兵器。
 今、手にとっているこの熊手が、足が八本とは出来すぎていますが。これで採ったから大八島洲が出来たという話に展開していった。
 銅矛・銅戈でポトン、ポトンとしたたり落ちるのでは、思うように島はできない。ですから『古事記』『日本書紀』では、苦労して書かれてある。「オノゴロ島」という一つの島だけ、まずできたように描いてある。一つの島だけつくったように書かれてある。後は、その島において大八島国をおつくりになった。神々をお造りになった。国をつくった話と、神々をつくった話が並べてありますから、何かおかしい。二人の男女の神様だから、神々をおつくりになったという事は分かりやすい。しかし国土をつくった。大八島国をつくるという話はおかしい。島をつくるぐらいの能力があるなら、理屈を言えば天上ででもつくればよいであって、別に「オノゴロ島」はなくともよい。ですから読み返せば、読み返すほどおかしい構成である。
 本来は熊手でつくればスムースにできている話を、中国からの戈(か)を中心とする話に作りかえた。まったく新しくつくれば戈が出土する地域だけの話に、たとえば大六島や大七島の話になったのに、それがどうもできなかった。やはり大八島をつくったという話が完全に定着していたから、だから道具だけを戈(か)に取りかえる。それから、また戈を矛(ほこ)に取りかえた。部分改竄(かいざん)をおこなった。『盗まれた神話』はここで、すでに成立していた。「盗んだ神話」のほうは、戈・矛の神話。「盗まれた神話」は熊手の神話。その本来の神話、それは淡路島を中心とした神話である。

 もう少し、意外なことを言いますと、今日も来ておられる合田(ごうだ)さん。愛媛県松山で、新しい研究を開始されておられますが。その方の言われるのに愛媛という県名も不思議である。愛(いと)しき媛(ひめ)、女神。縄文ですよ。この間、愛媛県北条市のほうに行きましたら、大きな岩が切り立って並んでいた。女性のセックスのシンボルの形をしたたいへん大きな岩があり、その片面が大きな鏡岩であり、目の下の潮流の方向に相対していた。海峡を向いてそのような大きな鏡岩がいくつもある。これを見て愛媛(エヒメ)と呼ばれていても、不思議ではないという感じをもちました。今後の探求の課題です。
 以上、今言ったことをもう一度言いますと、第一段階は熊手の蛭子大神。太陽が輝くという意味の「ヒル」ですが、ただ輝くだけでなく干上がったときにも使いますから、干上(ひあ)がるの「ヒル」。砂州が干上がって、干潟になったほうが貝が取りやすい。満潮の時は取りにくい。干潟になったほうがよい。蛭子の「ヒル」の語幹は、そういうことに関係した言葉ではないか。それが第一の段階。縄文神話。
 それでは、なぜ淡路島が中心か。わたしのイメージでは、岡山から高松へ瀬戸大橋ができました。その工事中に、その橋の下から何万点の旧石器が出てきました。サヌカイト。十万点を越えていると思いますが。橋のそばの展示館に、今ホンの一部が展示されていますが。わたしも、旧石器が出たというので、さっそく行って館長さんにお聞きしました。わたしが展示館に行ったときのイメージでは、「サヌカイトを舟で運び出したのでしょうか。」とお聞きしました。館長さんは、「それもあるでしょうが、それだけではとても、あれだけの膨大な量にはならない。今の瀬戸内海の海底に、それを使う人々の世界・国があったのだと思います。」と答えられた。これは非常に自然な考えです。あれだけ大量に旧石器が出たということにたいして、説明が着く。これは、もちろん館長さん一人の考えではなくて、発掘調査員全体の意見です。臨時の方を含めて、毎月会議を開いて、何年も発掘した結果、そのような考えに落ち着いた。
 ですから知らざる旧石器の世界が、この瀬戸内海の海の底に眠っている。当時はもちろん海の底ではなかった。湖や池があるような世界だった。以前、十年前までは、「西日本は縄文時代の遺跡はたいしたものはない。東日本だ」。そのように言われていた。しかし最近は、鹿児島県を中心とした縄文早期。ものすごい遺跡があって、縄文が発展したことが分かってきました。
  しかしそれより前に、 ーー旧石器は縄文早期より前ですよ。ーー 旧石器が瀬戸内海の底に眠っている。おそらく海底考古学の仕事になるでしょう。ですから日本神話の原点は淡路島。わたしは久しく日本神話の原点は筑紫だと考えていましたが、違っていました。ある段階からは筑紫。金属器が入ってきてからは、筑紫が原点。『日本書紀』のように、オノゴロ島中心の神話に作りかえられました。それまでは淡路島が中心の縄文神話があった。
 その輝ける蛭子大神をけなすために『古事記』『日本書紀』があった。蛭子は不具だと。
 出雲で伝承されている神話に、夜這いに行って、あわてて帰るときに鰐鮫(ワニザメ)に片足を食いちぎられてしまった。それ以来、その神様は片足のない神様になられた。この神様が蛭子大神です。夷(えびす)さまとも言います。
 ですから出雲の本来の主神は、輝ける蛭子大神。参勤交代みたいに一年に一度、神様は出雲に集まってくる。あの集める神は誰か、ほんらいは蛭子大神。天照大神は、蛭子大神の家来だった。後代の大国主は一人ですから、代々ということはない。代々は蛭子大神。それを結局、天照大神(あまてるおおかみ)は反乱を起こしたから、相手の蛭子大神を悪者に仕立て上げた。不具だと、あしざまに悪口を言った。
 確かに、この蛭子大神は不具である。それに片足がないのだから。わたしは片足のない神様は、かっこいい神様と思いますが。漁師は、一生の間にいろいろな事件にあう。片足がなくなったり、手をもぎとられたり、いろいろな目にあう。しかし、それはベテランの勲章ではないでしょうか。神様は人間に似せて、いろいろな姿に描く。そういう漁師たちが片足のない神様を描くというのは、本当にすばらしい。出雲あたりに、片足のない神様の銅像を建てませんか。ニューヨークの自由の女神に負けないくらいの銅像を建てませんか。
 ですから漁民の神様としては、蛭子大神はすばらしい神様である。それを馬鹿にして、『古事記』は不具にして流した。もう蛭子の時代ではない。このように言っている。こう宣伝した。逆に言いますと『古事記』の前に、輝ける蛭子大神の時代がありました。このように告白しているのが『古事記』である。
 このように神話実験というのは大事だ。実験というものは行ってみるものだ。このように感じたわけでございます。

(休憩)

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古田武彦講演会二〇〇二年 七月二八日(日) 午後一時から五時
 場所:大阪市 天満研修センター


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