『古代に真実を求めて』第六集
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倭(ヰ)人と蝦(クイ)人 へ


<講演記録>二〇〇二年七月二八日 大阪市 天満研修センター

神話実験と倭人伝の全貌(ぜんぼう)

古田武彦

 外を歩いているだけでも、くらくらするようなこの陽気の中を、これだけたくさんの方々が来ていただいて、わたくしの講演を聞いて頂くだけでもありがたいと思っております。近年特にそうなのですが、おもしろく重大な問題が続出しております。与えられた時間では、全部を話すと言うわけにはいきません。
 それで「多元的古代」研究会・関東の機関誌『多元』や『古田史学会報』で展開している問題は、思い切ってカットします。それで倭人伝について、わたしも思いもかけなかった問題。それについて述べたいと思います。このようなときは、いつも早口になりますが、ゆっくりと要点を述べたいと思います。みなさんもお楽になって、お聞きください。

一、一大率について

 まづ最初のテーマに入らせていただきます。倭人伝の全貌については後で述べます。それと関連がありますがは倭人伝の一画において、わたしにとって従来よく分からなかった問題がありました。それが解明されてきましたので、まずこれについて述べさせていただきます。
 この問題のわたしにとって始まりは、十数年前から始まりました。『「邪馬台国」はなかった』を書いたときは、『魏志』倭人伝を見ますと、初めに対馬のことらしい「對海國」が出てきて、そのあと壱岐と考えて疑いないところに「一大国」が出てくる。「一大国」にたいしては、わたしはこれは「一つの大いなる国」である。そのように書きました。ですが問題に十数年前、気がついたのです。はっきり言ってしまえば、間違っていた。それもとんでもない間違いである。何が間違っていたかと言いますと、『朝日文庫』版では、「一大国」の、その一ページあとに「一大率」が出てくる。この「一大率」をめぐってはいろいろな学者が論じておりますし、松本清張さんなどは、これは中国・魏の軍隊が駐留していたしていたという証拠であると言われました。その他いろいろな説が出されています。それで、この「率」というのは軍団の長です。この「一大率」は、その前に出てきた「一大国」の「率」である軍団の長だと考えるのが当たり前である。小学生でも、いちばん分かる理屈ではありませんか。その読みを従来誰もしていなかった。そう読むと「伊都国」に壱岐の軍団が来て、常時駐在している。その軍団を、ほかの国々は恐怖して、たいへん恐れている。そういう理解になる。それなら、そう書けばよかった。あれだけ先頭に陳寿が言おうとしていることを、そのまま受け取る。ですが、そう書きながら壱岐の軍団が常駐していることは、他の学者と同じく書けなかった。それは読めばそのように書いてあるから、事実はその通りでも、これは何を意味するか分からなかった。
 特にわたしの場合は、これは弁解になりますが、この場合『魏志』倭人伝だけが対象で、『盗まれた神話』を書く四年前ですから『古事記』・『日本書紀』はよくみえていなかった。ですから『魏志』倭人伝では、「伊都国」に壱岐の軍団が来て駐在していて、その軍団の長を、ほかの国々はひじょうに恐れていた。これは、そのように読むことは出来ても、なぜだと答えられない。なぜなら『魏志』倭人伝では、それ以上答えが出ない。だから答えられない。そこでいちばん自然な解釈をせずにいた。他の学者も同じくそうですが、やはりこれは正しくない。やはり一番自然な解釈として、文章を理解すべきである。『盗まれた神話』を書いて、この問題に気がつきはじめた。
 こう言いますとと、ご存じのとおりです。つまり『古事記』・『日本書紀』の神代の巻の一番メインテーマは「天孫降臨」である。「天孫降臨」という事件は何かと言いますと、「天照(あまてる)大神が孫のニニギノミコトを、筑紫の日向(ひなた)の高千穂のクシフル岳へ天下らせた。」という有名な事件です。有名と言いましたが第二次世界大戦前の教科書では、つねに語られていたこの問題です。戦後は教科書でも出てこないので、有名とは言えないかも知れませんが。それで『古事記』・『日本書紀』をみるかぎり神代の巻では、一番強調して高らかに述べられていることは間違いがない。それでこの問題が従来、ゆがんだ解釈になったのは、この「天孫降臨」の場所が、南九州である。ほとんどの学者によって、そう信じられていた。その元凶と言ってはもうしわけないが、元は本居宣長である。彼は「天孫降臨」に対して、「筑紫」というのは九州全土。つぎの「日向」は「ひなた」でなく宮崎県の「日向ひゅうが」と読んだ。「高千穂」は有名な霧島連峰にある高千穂岳か霧島岳である。最後の「クシフル岳」という地名は、残念ながら今は失われのであろう。そのように考えた。
 なぜ、そういう読みを考えたかと言いますと、『日本書紀』の「神武紀」の先頭には「筑紫の日向国」とあり、そこには「日向国」と書いてあり、「国」が付いてあるかぎり絶対に宮崎県である。日向(ひなた)と読めば、筑紫(福岡県)の字地名であり福岡県の一部分。福岡市の西の一帯の高祖(たかす)山連峰の日向(ひなた)である。もちろん筑紫とは福岡県であり、「筑紫の日向ひなた」が存在する。「高千穂」は、語幹が高祖(たかす)山連峰と同じ「高」であり、「高千穂」は、高祖(たかす)山連峰のことである。もっとも重要なことは「クシフル岳」が存在する。地図にはなくとも農民の生活語の中では使われている。「今日はクシフルから、兎がたくさん出てくる。」と、このように使われている。
 本居宣長は、『古事記』優先のはずなのに、『日本書紀』の「神武紀」を参考にしたから、「日向ひなた」は「日向ひゅうが」に成ってしまった。先頭の「筑紫」がじゃまになるから、全九州のことだと言った。しかし、そんなことはありません。九州宮崎県に行って、ここは筑紫ですかと聞いてみてください。返答は、ここは筑紫ではない、日向(ひゅうが)です、と答える。同じく、鹿児島県に行って聞いてみても、ここは筑紫ではない、薩摩です、と答えるに決まっている。しかし本居宣長は、強引に全九州=筑紫ということを、『日本書紀』神武紀の「日向国」という一つの例により、南九州にしてしまった。
 しかし本居宣長には気の毒である。なぜなら当時考古学的な出土分布が分からなかった。未熟だったのです。ですから天照大神は天孫降臨にのとき、「三種の神器」について盛んに言っています。この「三種の神器」については、藤田友治さんが『古事記』・『日本書紀』では、そうは呼ばない。「三種の神宝」が正しい呼び方であるとさかんに言っていますが。それはそのとおりですが「三種の神宝」、つまり普通に言う三種の神器です。それが天照大神にとって、権力の支配のシンボルであることは間違いがない。

 ところが福岡県の西側高祖(たかす)山連峰の日向(ひなた)なら、三種の神器が、出ている唯一の地帯である。筑紫で一番はやく三種の神器が出てきた吉武高木遺跡。福岡市早良区の字日向(ひなた)のそばの遺跡です。つぎが西へいって前原市の三雲遺跡。これは江戸時代に出てきた三種の神器です。東側へいって中国の絹が出てきた唯一の春日市にある須久岡本遺跡。中国の絹が唯一出てきたのは、この遺跡だけです。また前原市に戻って井原(いはら)遺跡。最後に原田大六氏が執念をかたむけ大型の鏡が出てきた平原(ひらばる)遺跡。一人の女王のために漢式鏡が三六面出てきました。これら全ての遺跡が高祖(たかす)山連峰を囲んでいる。壱岐でも、とうぜんながら三種の神器が出てきました。ところが、南九州ではまったく出てきていない。半地下式の隼人(はやと)塚の世界。これはこれで貴重な遺跡ですが、三種の神器が出てこない遺跡であることは明らかである。そんなことは、考古学者や歴史学者はみんな知っている。やはり考古学を知らない本居宣長の『古事記』・『日本書紀』の読み方はダメである。
 しかし本居宣長を受け継いで、考古学者・歴史学者・神話学者・民俗学者など、すべての学者は「天孫降臨」を南九州にしている。これはまったくだめです。
 もう一つ念押しで、つけ加えますと、わたしのように戦前の教育を受けた者にとって、天照大神(あまてるおおかみ)の印象的な言葉がある。

「葦原の一千五百秋ちいほあきの瑞穂みずほの國は、是、吾が子孫うみのみこの王たるべき地くになり・・・・」

 これを天照大神が言っているときは、その土地をいまだ支配をしていない。
 これも、考えてみたら厚かましい言葉で、「豊葦原の瑞穂」とは、水田耕作の盛んであるところという意味ですが、「そこをわたしの子孫が支配するのだ。」つまり、そう言っている現在は、天照大神は「豊葦原の瑞穂」を支配していない。そこを、わたしが侵略し支配し、わたしの子孫が、そこを支配するのだ。未来予想のような言葉である。その未来予想の言葉を、仮説ですが、すでに既定の計画として建てられている。わたしは絶対に実行する。あの水田耕作の豊かな土地は、わたしの子孫が支配するところに成る。このように言っている。 その水田耕作の豊かな土地とはどこか。糸島・博多湾岸。唐津湾の南の端、菜畑(なばたけ)遺跡。最古の縄文水田遺跡。糸島郡に来ると、唐津湾にのぞむ二丈町の石崎というところに曲田とか大坪という縄文水田の遺跡がある。それから博多に来れば一番有名で福岡空港のそばの広大な板付(いたつけ)遺跡。
 天照大神は「わたしはそこを、断固支配する。」そのように意志を表明している。今度、天照(あまてる)は、なんとすごい女性である。これだけ意志強固で実行力豊かで、未来へのイメージをハッキリ持っている女性は見たことがない。しかし、それは逆の側から侵略される側・支配される側から言えばもっとも憎むべき支配者。どれだけ恨んでもあきたらない憎むべき人物である。評価は二面をもっていますので、どちらが正しいとは言いませんが、日本の歴史の中では見あたらない強固な意志を持った人物である。そのことは上記の会報をご覧いただければお分かりになるとおもいます。それで結論から言えば、彼女は稲作の地帯を支配すると言っています。ところが南九州は水田の稲作は始まっていません。もっとも最近は、それとは別の系統である陸稲と推定される稲の栽培が、発見されているという報道がされています。中国南部・インドネシアあたりから来たと言われています。それはそれで貴重な稲作の経路と考えますが、先に述べた問題とはだいぶ性質が違います。今の問題は、中国・朝鮮半島からも稲を刈る石包丁なども連続している。とにかく稲作の中心は、北部九州であることは明らかである。南九州や宮崎など、その周辺にはない。
 「天孫降臨」地は、以上の考えで分かりますように、稲作の面からも、三種の神器の面から、北部九州である。いかにほかの学者が、南九州が「天孫降臨」の地であるとがんばってみても、考古学の出土史料が、これを許さない。

 これも、一言言わせていただきますと、最近、『新・古代学』、『古代に真実を求めて』などの雑誌で、さまざまな論争が盛んに行われ、わたしとしては楽しいというか、愉快だと思う。そして学界では行われていない論争が盛んに行われています。たとえば大和斑鳩法隆寺は太宰府観世音寺から移築された。いやそうではないと議論されております。対立するさまざなA、B、C、Dという方の意見が真剣に交わされ、丁々発止の論争がおこなわれています。その場合、一つ注意すべきことは、小説的なイメージ展開。これはおもしろいし退けるべき考えでもない。幻想史学と言っておられる方もおります。楽しい分野です。しかしそれと歴史学とは分野が違う。なぜならば歴史学の場合はやはり事実の裏付け。つまり考古学の裏付け、それが必要なのです。もちろん文献を解読する論理性、ルール。わたしはここが好きだから、このように理解する。それでは小説的イメージになっても、学問には成らない。一定の論理性をもって文章解読が展開している。しかし論理性だけでは自分の好きな方向にどこにでも走れますので、考古学的な裏付けがある。それではじめて歴史学の名に値する。それに対して、自分はそれにこだわらない。考古学的な裏付けは後回しだ。そういう人はそれでよい。ですが、そういう人と、そうでない人が論争してもあまり意味がない。批判しても、批判にならない。そうなると、その時はおもしろいけれども、みんなが飽きてくる。いい例が「邪馬台国」論争である。「邪馬台国」論争は一時盛んになって、各県に候補地が出来た。本屋にコーナーができ、本があふれた。しかし、その中身は歴史学ではない。こう読みたいと考えて、少し方角を変えて望む方向へ持っていく。持っていくのだけれども、考古学的裏付けがあるわけでもない。そこに、三種の神器が出てきたのか。あるいは鏡や中国の絹が出てきたのか。そのうちに出てきますよ。そう言えば北海道や山形県でも比定できる。そんなことを言っているうちに、読者はいやになってくる。それが結局一時、あれだけ盛んになった邪馬台国論争がしぼんでいった理由である。
 これも率直に言わせていただければ現在の大学のほとんど歴史学は、幻想歴史学になってしまっている。だって南九州が「天孫降臨」の地であると、歴史学者はみんな言っています。考古学者の森浩一さんも、そのように言っている。それでは南九州が、天孫降臨の証拠である三種の神器が出てきたのか。こう言えば森さんや梅原猛さんも答えられない。困るはずです。なくてもよい。そのうちに出てくると言うのでしょうか。

 これも、一言言っておきます。歴史学者の津田左右吉は、わりと考古学に頭が回らない人である。それには理由があります。自分で書いています。彼の少年時代、明治の終わり大正のはじめに宮崎県知事が、当時としてはばく大なお金を費やして、大々的に発掘をおこなった。その目的は、「天孫降臨」の遺跡の発掘である。つまり明治維新の時に、薩長政権に宮崎県は後れをとった。薩摩に遺跡をみんな決められてしまって、明治二・三年に、ニニギノミコトのお墓など鹿児島県にすべて比定されてしまった。それで明治天皇がわざわざ鹿児島に遥拝(ようはい)に来ています。要するに政治目的に使った。それで歯ぎしりをしたのが宮崎県である。日向(ひゅうが)の地は宮崎県である。もっと立派な三種の神器があるに違いない。そう考えて、大発掘をおこなった。ところが何も出なかった。空振りに終わったのは当たり前だと思いますが、いろいろのものが出てきましたが三種の神器はない。県知事がねらったものは、まったく出なかった。
 学問からは、身元を明らかにする上で大成功であると考えます。ですが普通はそのようにとらえないから大失敗だと考えます。これは考古学者の梅原末治さんなども影響を受けたらしく、神話などを考えては失敗する。考古学の発掘一本槍で行こうと決心したと書いています。逆に歴史学者の津田左右吉も考古学は相手にしてはならない。死ぬまで文献批判で徹底しようと考えたらしい。このように片方に分かれていく。分かれて行くけれども、両方とも神話と考古学は関係なくてもかまわない。どうせ神話と考古学は結びつかない。このように明治末の宮崎県の大発掘は、少壮な青年たちに、このような精神的影響をもたらした。

 もう一度結論を述べますが、天照(あまてる)の天孫降臨は、南九州ではなくて、北部九州である。福岡県のの高祖(たかす)山連峰の周辺であることは動かない。

 その出発した原点の方は、壱岐・対馬である。これも『盗まれた神話』(朝日文庫)で、ごぞんじのように「国生み神話」がありますが、その中で、亦の名は何々というひじょうに古い形で、国の名前が出てくる。それらの中で「天の○○○○」と呼ばれるグループがある。もちろんないグループもある。ところが「天の○○○○」と呼ばれるグループは、その場所がほとんどが対馬海流上に集中している。ちょうど「筑紫の○○」と言われるグループは、筑紫の中にあるように。「出雲の○○」と言えば、出雲の中にある。同じように「天の○○○○」と言えば、天国(あまくに)の中にある。「天」と書いてあるから、漢字にだまされているだけで、この「天」は「あま(海女 海士 海部)」である。今でも出雲隠岐島の島前には、海士(あま)町がありますが。その海士(あま)国に対して、「天国」という字を当てたのである。

 もう一つの根拠は、『古事記』・『日本書紀』に「天下る」という独特の言葉がある。この言葉で示される天降りて行く場所は、以外にも三箇所しかない。しかもその天下る場所には途中経過地がない。ということは、天(海部)と呼ばれる地帯は、新羅(しらぎ)・筑紫(ちくし)・出雲(いずも)の三箇所にはさまれた地帯である。もちろん筑紫は福岡県、出雲は島根県、新羅は韓国東海岸です。この間に挟まれた地帯である。つまり対馬海流上の島々である。

 それで天照大神(あまてるおおかみ)の原点は、対馬海流上の壱岐・対馬である。このあいだ対馬の阿麻氏*留(あまてる)神社に行ってまいりましたが、その阿麻氏*留(あまてる)がアマテラスオオミノカミ、本来はアマテルオオカミの原産地名であろうと、ご存じのように今回の旅行でも述べてきました。
 ですから「天孫降臨」と言いますのは、壱岐・対馬の海上武装船団があって、それが中国・朝鮮半島から銅器・鉄器という武器を手に入れて、当時最強の武装集団になりました。それまでは出雲が覇権をにぎっていたのは、隠岐島(道後町)の黒曜石をバックにしており、縄文の出雲が栄えていました。ですから古事記』・『日本書紀』によれば、出発点は壱岐・対馬である。その到着点は筑紫の高祖(たかす)山連峰である。そこへ軍事集団を派遣する。ほんらい述べようとしていた問題はこの問題ですが、会報でさらに詳述していますので、ご覧ください。

氏*は、氏編の下に一

 ですから出発点は壱岐・対馬である。その到着点は筑紫の高祖(たかす)山連峰であることは、明らかである。しかも最近の考古学の発掘の成果によれば、わたしが出発点だとしている壱岐・対馬から、ぞくぞく三種の神器が出てきている。いよいよ間違いがないと思います。

 としますと、『魏志』倭人伝の読み方としては、初めに述べた素直な読み方でよかったのです。一大率は一大国の軍団である。その軍団の長を、ほかの国々はひじょうに恐れていた。伊都国に一大国の軍団が来て駐在していた。伊都国は、高祖(たかす)山連峰のすぐ側(そば)です。
(追加別記ー現在、古田氏は伊都国を、現在の前原市志登支石墓のある三雲神社の周辺に比定しています。)
 彼らは侵略者であり、占領軍であるから、一方的に恐れています。かれらを選んだのなら、何もおじけづくことはないですよ。そうでなく一方的にやってきて、鉄の意志で支配を貫徹し、従わない者をみな虐殺した。だからこそ回りは、みな恐れおののいている。ですからあの倭人伝の叙述は、「天孫降臨」という神話ではなく基本を成す歴史事実をバックにして作られた文章である。
 そういうことは、今になってみるとよく分かる。しかし『「邪馬台国」はなかった』で、『魏志倭人伝』を解読したときは、そこまで頭がまわらなかったので、説けなかったことを報告させていただきます。

二、一大国と対海国

 さて、次は一大国の理解についての話。
 わたしが『「邪馬台国」はなかった』を出してから、倉田さんという当時佐賀県で現役の裁判官の方から長いお手紙をいただいた。その方が言うのには、もし法廷で邪馬台国か邪馬壱国かを争うならば、わたしは邪馬壱国の方に裁定をおこなうというものでした。(笑い)
 その方は法曹業界ではたいへん有名な裁判官で、法律に関する論文や本を数多く出され、裁判官仲間でもたいへん尊敬されている方で、法理論の先端を歩いていた方です。その方が古田さんの見解で、どうしても一つ納得できないところがある。あんなちっぽけな島を、壱岐を中国人が「一大国」という名前を付けるはずがない。倉田さんは、古田は『魏志』倭人伝に記載されて名前や国名は中国人が付けたと理解し、その前提で『「邪馬台国」はなかった』を書いた。それに対してクレームを付けられた。中国人が、壱岐というあんな小さな島に「一つの大きな国」という国名を当てるはずがない。いま一言でいえば簡単なことですが、その方は裁判官らしく便箋を何枚も使って理々整然と微に入り際に入り論じている手紙をいただいた。わたしはまったくその通りだと思ったし、今聞いている皆さんもそう考えていたも多いでしょう。わたしもギャフンと言った。わたしはすぐご返事をさしあげた。あなたの言われるとおりです。それにたいして、わたしは答えを、すぐこたえることはできません。一つの宿題にさせていただきたい。そのようなお手紙をお送りした。二十年あまり宿題にしたままでしたが、今回それが解けてきた。
 今回出版した『「姥捨て伝説」はなかった』で、言葉というものを先入観なしに一語一語、これまでの考えにとらわれず分析していく中で、あたらしい知見を獲得することができました。

岩波古典文学大系
『古事記』
次に伊技いき島を生みき。亦の名を天比登都柱あめひとつはしらと謂ふ。次に津島を生みき。亦の名を天之狭手依比賣あめのさでよりひめと謂ふ。

 壱岐につきまして、『古事記』では、またの名を「あめひとつはしら」と書いてあります。これを見ると、天に大きな柱があり、そびえたつように思えたから、わたしは初め壱岐に行ったときに、そんな高い山があるかと見渡したが、ぜんぜんなかった。そのような久しい思い出がある。しかしそれは姥捨て伝説とおなじく漢字の字面にだまされていた。表面の言葉にとらわれると、だまされる。そのようなことから解放されて、日本語の言葉として一語一語丁寧に分析し直してみる。
 そうしますと「天比登都柱あめひとつはしら」をこのように考えます。

 「天」は海部(あま)人の海部です。「比」は太陽を意味する「日(ひ)」であり、「比」を当てることがあります。「登」は、これは戸口の「戸」であろう。東を意味するのでしょう。「都」は都(みやこ)という字を当ててありますが、これは港を意味する「津」である。「比登都=日戸津=ひとつ」と言うのは、太陽の戸口を成す港という用語である。漢字の方は当て字だから、当てにすると間違う。

 「柱はしら」とは何か。「ハ」は、「葉」で、木の葉のように広い場所が「葉」である。たとえば博多(はかた)ですが、これは、海辺の潟(かた)に、広い場所・潟という意味で、「葉」を付けたものである。それに「博多ハカタ」という字を、あてたものです。
 「シ」という言葉が解けたのがわたしにとって大きい意味を持っています。この言葉については、信州松本に何回か講演に行って、そこで尋ねられた中で、解けた問題です。たとえば長野県塩尻(しおじり)、塩をここで交易していたから「塩尻」であるという説、以前居たときに、一番先に聞かされた説です。これがどうもおかしい。「シ」は、信濃(しなの)、更科(さらしな)など、たくさんある。信濃(しなの)という言葉は、野原の野(の)と、水辺の那(な)である。海でも河でも水辺の土地です。そうすると語幹は「シ」である。その「シ」は何か。今時間の関係で、途中を省略して結論から言いますと、「人間が生き死にする広い場所」が「シ」であるという結論に到着しました。陸地でも海上でもよい。黒潮(くろしお)の「し」も、そのような「シ」です。島(しま)の「シ」もそうです。後の懇談会でも質問があれば再度説明いたします。「ラ」は、簡単でして、村・空など、日本語で一番たくさんある接尾語の「ラ」です。
 そうしますと「ハシラ」というのは、人間が生き死にする広い場所という意味の地名である。ですから「比登都柱ヒトツバシラ」というのは、「太陽の戸口をなす港の側の人が生き死にする広い場所」と理解され、それはどこか。それはまさに壱岐原辻(はるのつじ)遺跡である。今回の発掘で三種の神器が、たくさん出てきたところです。壱岐は対馬と違って平地の多い島ですが、その壱岐の中でもいちばん平地のおおいところである。その原辻遺跡を「人が生き死にする広い場所」という意味で「柱ハシラ」と言っている。柱を大きな木の柱が立っていると理解するから、どうにもならなくなり、迷い道にはいる。その原辻遺跡の東側には、すぐ渓谷が港につづいている。あれが「比登都=日戸津ひとつ」で、太陽の戸口を成す港です。
 以上、まさに「比登都柱アメヒトツバシラ」とは、原辻(はるのつじ)遺跡をさす。これで永年悩んでいた問題の突破口ができた。

 つぎに永年の宿題である『魏志倭人伝』の「一大国」の意味を考えるときが来ました。原辻(はるのつじ)遺跡を倭人が「比登都柱アメヒトツバシラ」と言っているとしますと、「日戸津(比登都ヒトツ)」というのは、「太陽の戸口をなす港」という意味がありますが、同時に、one, two, threeという数字の「一(いち)」でもある。意味は違うが同音ですから、「ヒトツ」を「一」で、倭人が表記した。
 今度は、「人が生き死にする広い場所」という意味の「ハシラ」を「大」で表記した。海部人の倭人にとっては、壱岐は一番大きな島です。中国人から見たら、ちっぽけな島ですが、あの周辺の倭人にとっては、一番大きな島ですから「大」と表記した。ですから「一大国」は倭人が名づけた漢字の国名である。『古代史をひらく』(原書房)でも、「一大国」と「一大率」の「一大」は同じである。倭人がつくった国名である。そのように論じておりましたが、今度は具体的に、『魏志倭人伝』の「一大国」は『古事記』の、またの名の「天比登都柱あめひとつはしら」と同じ意味である。そのように論じたわけでございます。

 しかし「一大国」の国名の解釈は、わたしの一つの解釈に過ぎません。うまく解釈してみたが、本当にそうなのか。わたしもそう考えたし、皆さんもそう思うでしょう。それで、もう一つの例で解ければ、今のわたしの解き方は、単なるでたらめ・思いつきではない。そのように言える。三・四箇所か解ければ、さらに確実である。それでは対馬を、どう解くか。『魏志倭人伝』では、対馬の全部ではないでしょうが 浅茅(あそう)湾あたりを「方四百里」として表してある。対海国という言葉は一番分かりやすい言葉である。海に面しているから分かりやすい。わたしも単純にそう思っていた。しかしそうではない。それなら海に面していたら、みんなその名前を付けることができる。日本国中、「対海国」だらけになる。信州や群馬などわずかな例外を除けば、全て海に面している。すぐに分かるけれども、よく考えたら分からなくなる表記だ。
 それで「一大国」と同じように考えると、『古事記』では、

次に津島を生みき。亦の名を天之狭手依比賣あめのさでよりひめと謂ふ

とある。ここで狭手(さで)とは何か。はじめは知らなかった。ところが島根県隠岐島、島前町の物産店に行きまして、始めて知りました。われわれから見ると、竹の熊手(くまで)ですが、そこに紙で「サデ」と書いてありました。そうしますと、狭手依比賣(さでよりひめ)と言いますのは、この「熊手さで」を、神代(よりしろ)にしている神様。この「熊手さで」を、海や山や河や大きな木などに立てて、祭る神様。たぶん海の神様でしょう。
その「熊手さで」を見せますが、これは読者の方が贈って頂いたものです。わたしが神話実験をおこなったときは、このような立派な熊手ではなく、もっと雑で、柄が長くて、十数本以上の手がありました。この手は、ちょうど八本、大八島の八本、さすが出雲産です。(笑い)
つぎに「対海(對海)国」について調べるのに「對」という字を、はじめて諸橋大漢和辞典を引きました。今まで分かっているものと思いこんでいたので、引いて驚いた。たいへんな意味を持っていました。

 對 タイ テ tuei 1、こたえる。『諸橋大漢和辞典』

 この意味を端的に表しているのが、「對*越(タイエツ)」です。これは「天地神明に答える。越は於で、對*二於天地の略。」とありました。

對*は別字です。

 ですから対(對)は、「天地神明にお答する」という意味なのではないか。われわれは、たんなる海に対面すると考えていたが、そうではない。そうしますと「海」も、単なる物理的な海ではなく、海神を意味していたのではないか。神様のお住みになる海という意味である。
 ですから対海(對海)「海神の心霊に天地神明にお答する」という意味に考えてもよい。
 そこから先はすこし寄り道して、わたしの考えを述べます。対馬の北側に豊(とよ)という町があり、いまでも狭手依比賣(さでよりひめ)を祭っている神社が、たくさんあります。その場合、この「熊手さで」を立てて、お祭りをする。この一年間狭手依比賣(さでよりひめ)の教えを守って、一年間無事に過ごしてまいりましたと、お祭りをする。この季節には、船を出さない。あるいは、風の向きを見て変わったことがあれば、二・三日後には船を出さない。そういう海の掟(おきて)がある。そういう掟(おきて)は、漁師の方々にとっては狭手依比賣(さでよりひめ)の教えである。「その縄文の女神の教えを忠実に守り、一年間無事に過ごせました。」 あるいは、「その教えを破ったために、誰々は海のもずくと消えました。まことに申し訳ございません。」つまり海神さまに、感謝しかつ詫びるお祭り。そうしますと「天之狭手依比賣あめのさでよりひめ」は、海神の心霊に天地神明にお答する対海国と、ピタリ一致する。これは中国が付けませんよ。そういう精神生活を持っている倭人が、漢字を利用して付けた国名です。

 この二つ、壱岐と対馬の例が解けたので、これで良いのではないかと考えています。
 しかもこの問題には副産物として、わたしが不思議と考えていたことが理解できてきました。何が不思議とかと言いますと、矛・戈があります。もとは稲を刈るのが鎌(かま)で、それが武器に変わったのが戈(か)です。また突き刺すための槍(やり)が矛(ほこ)です。突くのはもとは動物だったかも知れませんが。とうぜん中国では、これは武器です。ところが日本に来たら武器であるより、祭器です。お祭りの道具です。考古学者もそう言ってますし、わたしもそのように考えてきました。結果的にはそのとおりです。ですが中国では、あきらかな武器なのになぜ日本に来れば、あきらかに祭器に変わったのか。この理由が分からなかった。それで今まで悩んでいた。今回、それが理解できた。

 今一つの仮説として述べますが、天之狭手依比賣(あめのさでよりひめ)を祭るとき、この「狭手さで」を立てて、神代(よりしろ)にして祭ったと考えます。物産店では横に寝かせていたが、それではお祭りにならない。お祭りでは何本も立てて、神代にして祭っていたと思う。すると、そこへ矛(ほこ)や戈(か)が入ってきた。それで矛や戈も「狭手さで」と並んで立てたのではないか。だから祭器に変わっていった。狭手依比賣(さでよりひめ)のお祭りが前提にあったから、武器である矛や戈も祭器に変わっていった。受け皿になった。こう考えました。そのように考えると、すべて解けたわけではないが、一つの重要な発見でした。

 もう少しつっこんで考えたことを言いますと、中国では戈(か)が古く、矛(ほこ)が新しい。
 殷(いん)は戈が圧倒的に多く、矛がほとんどない。ところが周(しゅう)になると逆転して矛が圧倒的に多く、戈はほとんど出ない。漢も『三国志』の魏も矛(ほこ)です。これも有名な「矛盾」という説話がございます。中国洛陽で、商人が矛(ほこ)を売っていた。どんな盾(たて)も突き通す矛である。しばらくして、今度は盾(たて)を持ってきて、どんな矛(ほこ)もはじき返す盾である。そう商人が言っていたら、チャチャを入れる人がいて、この前の矛(ほこ)で、この盾(たて)を突いたらどうなるのかと、たずねた。尋ねられたその商人は答えに詰まり、返答できなかったというお話。わたしは、この話は周の初めの話であると思う。よく矛(ほこ)というものが、用いられていなくて分からず、人々がよく知らなかった時代、コマーシャルを必要とした時代の説話です。だから「矛盾」という言葉ができた。
 ついで、わたしは周が殷に対して革命を起こせたのは、矛(ほこ)の威力によってであると考えています。戈(か)は、たしかに人の首を取るには威力はありますが、見方が離れていなければあぶなくて使えません。それに相手の首に持っていくのに少し時間がかかる。ところが、矛(ほこ)だと、いきなり突き刺せばよい。スピードがちがう。だいいち見方がきちんと並んで戦える。ですから戈の集団と矛の集団が戦えば、ぜったい矛の集団が強い。周が殷に対して反乱を起こして勝った本当の理由は、この矛(ほこ)の威力だと思う。殷の紐王が、淫乱で乱暴であったというのは、後でつけた理屈です。本当は家来である周が、殷にたいして反乱を起こした。しかも殷に亡命を許され西安(シーアン)の近くにいた。ですから恩を仇で返したようなものである。それを美化するために、紐王を悪者にした。このように考える。
 そうしますと、中国から一番先に、殷から戈(か)がはいってきた。つぎに周から矛(ほこ)がはいってきた。この考えのいくらか良いところは、戈は「熊手さで」に少しは似ていませんか。祭祀の道具として立てるには、都合がよい。矛は似ていませんが。
 ですから初めは、熊手(さで)の代わりに戈を立て、やがて矛が戈を押しのけたから、矛に変わってきた。そのように考えて、我が意を得た思いがした。それで、わたしにとって喜びは、二十数年ぶりに倉田さんの疑問に答えることができたことです。

3 神話実験

 以上述べたことに対し、先ほどから「神話実験」という言葉が出てきました。わたしのおおまかなイメージの中で、どうも変であると考えていたことがありました。

岩波古典文学大系『古事記』

是に天つ神。諸の命以ちて、伊邪那岐の命、伊邪那美の命、二柱の神に、「是の多陀用幣流(ただよえる)國を修め理り固め成せ。」と詔りて、天の沼矛を賜ひて、言依さし賜ひき。故、二柱の神、天の浮橋に立【立を訓みてタタシと云ふ。】たして、其沼矛を指し下して、畫きたまへば、鹽許袁呂許袁呂迩【シホコヲロコヲロ 此の七字は音を以ゐよ。】畫き鳴し【鳴を訓みてナシと云ふ。】て引き上げたまふ時、其の矛の末(さき)より垂り落つる鹽、累なり積りて嶋と成りき。是れ淤能碁呂嶋なり【オノゴロ 淤より以下四字は音を以ゐよ】
其の嶋に天降り坐して、天の御柱を見立て、八尋殿を見立たまひき。是に其の妹伊邪那美の命に問曰ひたまはく、「汝が身は、如何に成れる。」ととひたまへば、「吾が身は、成り成りて成り合わざる處一處あり。」答曰へたまひき。爾に伊邪那岐の命詔りたまはく、「我が身は、成り成りて成り餘れる處一處あり。故、此の吾が身の成り餘れる處を以ちて、汝が身の成り合はざる處に刺し塞ぎて、國土(くに)を生み成さむと以爲(おも)ふ。奈何(なかに)。」【生を訓みて、ウムと云ふ。下は此れに效へ。】伊邪那美の命、「然し善けむ。」と答曰へたまひき。爾に伊邪那岐の命、詔りたまひしく、「然らば吾と汝と是の天の御柱を行き迴り逢ひて、美斗能麻具波比【みとのまぐはひ 此の七字は音を以ゐよ】爲む。」と、のりたまひき。如此期(ちぎ)りて、乃ち「汝(いまし)は右より迴り逢へ、我は左より迴り逢はむ。」と詔りたまひ、約(ちぎ)り竟(を)へて迴る時、伊邪那美の命、先に阿那迩夜志愛(上)袁登古袁【あなにやし えを をとこ を 此の十字は音を以ゐよ。下は此れに效へ。】と言ひ。後に伊邪那岐の命、阿那迩夜志愛(上)袁登賣袁【あなにやし えを をとめ を】と言ひ、各(おのおの)言ひ竟へし後、其の妹に告曰げたまひしく、「女人先に言へるは良からず。」とつげたまひき。然れども、久美度迩【くみどに 此の四字は音を以ゐよ】興して生める子は、水蛭子(ひるこ)。此のは葦船に入れて流し去(う)てき。次に淡嶋を生みき。是も亦、子の例には入れざりき。
是に二柱の神、議りて云けらく、「今吾が生める子良からず。猶天つ神の御所に白(まを)すべし。」といひて、即ち共に參上りて、天つ神の命(みこと)を請ひき。爾に天つ神の命以ちて、布斗麻迩爾【ふとまにに 此の五字は音を以ゐよ。】ト相(うらな)ひて、詔りたまひしく、「女人先に言へるに因りて良からず。亦還り降りて改め言へ。」のりたまひき。故(かれ)爾に反り降りて、更に其の天の御柱を先の如く往き迴りき。是に邪那岐の命、先に「阿那迩夜志愛袁登賣袁(あなにやし えを をとめ を)」と、言ひ、後に伊邪那美の命、「阿那迩夜志愛袁登賣袁(あなにやし えを をとこ を)」と、言ひき。如此(かく)言ひ竟(を)へて御合(はひ)して生める子は、淡道之穗之狹別嶋【あわじの ほの さわけ の しま 別を訓みてワケと云ふ。下は此れに效へ。】次に伊豫(いよ)の二名嶋を生みき。・・・次に隱伎(いき)の三子嶋生みき。亦の名は、天之忍許呂別【あめ の おしころ わけ 許呂の二字は音を以ゐよ。】。次に筑紫の嶋生みき。・・・
次に伊岐嶋生みき。亦の名は、天比登都柱【あめ ひとつ はしら 比より都までは、音を以ゐよ。天を訓むこと天の如くせよ。】と謂ふ。次に津(つ)島を生みき。亦の名を天之狭手依比賣(あめのさでよりひめ)と謂ふ。次に佐度嶋生みき。次に大倭豐秋津嶋(おほやまと とよ あきづ)を生みき。亦の名を天御虚空豐秋津根別(あまつ みそら とよ あきづ ねわけ)と謂ふ。故(かれ)、此の八嶋を先に生めるに因りて、大八嶋國(おほやしま のくに)と謂ふ。
・・・
・・・
既に國を生み竟へて。更に神を生みき。・・・

 それは矛を突き立てて持ち上げたとき、シホコヲロコヲロと垂れて、大八島洲ができた。このイメージです。本当にそうなのか。
しかしわたしの単純な頭の実験では、矛(ほこ)を持ち上げたとき垂れるのは、一点に集中して、大八島洲には広がらない。一点に落ちるばかりである。それは塩水であっても、そうはならない。同じく戈(か)でも疑問である。鎌のような形ですから、少しは広がりますが。ですが滴(しずく)は、大八島洲には広がらないと思いました。これがもやもやとした疑問でした。
 それがもやもやとした疑問から、ハッキリと意識した疑問に変わったのは次の問題である。
 わたしは、この話が福岡県・筑紫を原点とする話であることは最初から疑わなかった。なぜなら弥生時代、矛や戈が集中的に遺跡から出土するのは、糸島・博多湾岸である。実物も鋳型も。だからこの話は、弥生時代の筑紫でつくられた。このように考えていた。この点、津田左右吉のように、六世紀の大和朝廷の歴史官僚が頭で考えた。でっちあげたという考え、それが戦後通用しています。わたしはこの考えは、おかしいと思います。なぜなら、大和朝廷の歴史官僚が頭で考えて、なぜ弥生時代の矛や戈を思いつく必要性があるか。とくに奈良県大和に矛や戈が出ればよいが、大和には弥生時代には出ない。福岡県まで、六世紀の大和朝廷の歴史官僚が発掘に行って、知った。そんなことは、考えられない。
 ですから三世紀の弥生時代の権力者たちが、考えた神話であると思います。それが神話理解の出発点であると思います。
 その点は変わっていませんが、しかし今考えると追求がなおざりになっていた。
 それで問題は次にある。『古事記』・『日本書紀』では、有名な話しですが、陰神(めがみ)先ず唱えて言いました。「あなにえや、うましおとこを」と。そして後で、陽神(めがみ)が「あなにえや、うましおとめを」と言いました。そうしますと、不具の子ができた。なぜ失敗したのかを、海の神様である天神(あまつかみ)にお伺いをたてに行った。そうすると天神が言うのには、女が出しゃばって先に言ったから失敗した。男が主導権を持って、先に行わなければならない。神様がそう言われたので、その通りにイザナミが先に言ったら、うまく大八島洲(おおやしまくに)が生まれた。このように書かれてある。
 これは完全に男女差別の神話である。つまり縄文というのは女性中心の社会。ところが弥生時代には、男性中心の世界に替わってきた。生産力や、おそらく戦争などがひんぱんに行われた関係でしょう。それで男性中心の世界に替わってきた時期に、弥生時代につくられた。弥生時代でも初めは女性が主導権を持っていた。それでは失敗するよ。男が中心にならなければならない。男が偉いということを、強調するために、教訓するためにつくられた神話である。
これもだいたい『日本書紀』をつくった六世紀の大和朝廷の歴史官僚がこんな話を作るはずがない。もう六世紀には、男社会になって久しい。弥生時代という女性中心の社会から男性中心の社会へという転換期につくられた神話だから、そのように語られている。
 同じ事を横に広げれば、バイブルで語られている。もっとひどいのがバイブルだ。女は馬鹿だと言わんばかりの扱いをうけている。女は男の脇腹の骨から造られた。女は馬鹿であって、だから蛇にだまされた。エデンの園を追われた。そういう話は有名ですが。女にすべて、しわよせを全て押しつけたひどい時代だったから、その女性差別の時代につくられたから、あのようなバイブルの話になった。縄文時代にバイブルをつくったら、もっと違う形になった。現代でバイブルが作られたらもちろん代わった形になる。その時代、その時代の常識を反映したバイブルが作られる。これは当たり前の話ですが。

 ところが『日本書紀』の神代上、第四代、第十「一書」を見て下さい。

『日本書紀』神代上、第四代、第十(日本文学大系、岩波書店)
一書に曰く。陰神、先ず唱えて曰わく。[女幵]哉(あなにゑや)可愛少男(え をとこ)を」とのたまふ。便ち、陽神の手を握りて、遂に為夫婦(みとのまぐはひ)して、淡路嶋を生む。次に蛭児(ひるこ)。

これの『神の運命』、『古田武彦著作集』第1巻(明石書店)からの引用。
 陰神(めがみ)先ず唱えていわく、「あなにえや、うましおとこを」と。すなわち陽神(おがみ)の手を握り、遂に夫婦(めおと)になる。淡路島を生む。次に蛭児(ひるこ)。
    (神代上、第四代、第十「一書」」日本文学大系、岩波書店、訓は古田)

 わたしの頭の中の記憶では、男の方が先に言ったと思いこんでいた。ですが違います。男は一言もしゃべっていない。よく見ると違います。男の方はひたすら「まぐはひ」している。それで淡路島を生む。蛭子(ひるこ)を生む。
 『古事記』や『日本書紀』の前にある文章を先に見ている。だから頭の中で考えると失敗している。しかしよく見るとそうじゃない。「ぜんぜん失敗した。」とは、書いていない。それに淡路島は失敗作ではない。かがやく淡路島が生まれた。同じくかがやく蛭子大神が生まれた。女性がリードしたから成功した。第一〇番目は、そのような縄文神話である。すると、これはかがやく淡路島であり、かがやく蛭子大神です。ここで注目することは一〇番目の神話には、戈・矛がいっさい出てこない。わたしはこれに気がついて愕然(がくぜん)とした。そうしますと、この神話は福岡県が中心ではない。淡路島が中心である。ここには地理的に淡路島しかないから、淡路島が中心の神話である。そのように考えるのが一番すなおな理解である。ところがなんと皆さんご存じの西宮戎(えびす)。一月九日、二万人が参拝するという十日戎でゆうめいな兵庫県西宮市の西宮戎。ここの有名な神社の祭神はご存じですが。蛭子大神(ひるこおおかみ)。わたしはそうではないかと考えていたが、間違えたらいけないと考えて神社に電話をしたら、間違いなく祭神は蛭子大神とお答えがあった。おなじく大阪の有名な今宮戎も同じく蛭子大神。同じく徳島県には、はっきり蛭子大神を祭っている有名な神社がある。ここでわたしが言いたいのは、これらの神社は淡路島を囲んでいる。淡路島を囲んだ巨大蛭子圏。日本書紀の神話と、神社群が偶然の一致だと思いますか。
かくして淡路島と蛭子大神は、このようにお生まれになった。そのような縄文神話なのです。それをバックに二十一世紀の今日まで、西宮戎などの祭祀が行われている。これには少し驚きました。
 しかもそれが国生神話の原点であり原型を成している。そこには銅矛・銅戈はなかった。縄文ですから、銅矛・銅戈がないのがあたりまえです。それが時間の順序からいうと銅戈・銅矛ですが、中国殷・周から銅戈・銅矛が入ってきた。その武器を手にした壱岐・対馬の海人集団が、最強の軍事集団になった。それで、それまで御主人だった出雲に対して反乱を起こした。「国譲り」という美しい名目で権力を奪った。そして、その後「天孫降臨」という名目で、福岡の稲作地帯をおそって征服し支配した。
そのあと一番先に、自分たちの祭器である銅戈・銅矛の神話に作り代えた。まず銅戈神話を作り代えた。つぎに銅矛神話に作り代えた。銅矛は一番数が多いですから。

 ですから銅矛神話は一番古いと思ったけれども、弥生の中では一番新しい。それより弥生の中では、やや古いのが銅戈の神話である。それよりもずっと、ずっと古いのが熊手の神話である。
 これも時間をかけて言うとおもしろいけれども、少しだけ言います。わたしは初め神話の中で語られた道具、これは塩田で使うものだと考えていました。考古学者の森浩一さんなどが、これは塩田の作業が影響しているのではないかと『考古学と神話』(朝日新聞)などにすこしですが書かれていた。ところが、川口さんという、塩田に対してすばらしい生き字引の方が、古田史学の会員の方に居られる。大阪の塩の会社の社長を長らく務められ、現在引退しながら、なおかつ実質的に中心に居られる方だと思いますが。その方の芦屋の家にお伺いしまして、塩の作り方をご教授いただいた。専門家に聞くのだから、いちばん早い。それと本を何冊もお借りしてきた。その本には塩田の道具が描かれてあります。しかし資料をよく見て考えると、それらの道具は少し違っている。

 それで迷ったあげく結論は、結局元にもどりました。今、浜で行っていること。つまり熊手で貝を採る。現在でも熊手は六月ころから、そろそろ売れ筋になる。人間の手、お猿さんの手より、熊手で砂をかき分け貝を取ったほうが、たくさん取れる。
 と云うことは、縄文とは貝塚の時代である。貝を食べた時代。貝を手で採ったばかりではなくて、これで採ったのではないか。当時の新兵器。これなら縄文時代にも竹はありますから。
 今、手にとっているこの熊手が、足が八本とは出来すぎていますが。これで採ったから大八島洲が出来たという話に展開していった。
銅矛・銅戈でポトン、ポトンとしたたり落ちるのでは、思うように島は出来ない。ですから『古事記』・『日本書紀』では、苦労して書かれてある。読めばわかりますが、「オノゴロ島」という一つの島だけ、まず出来たように描いてある。一つの島だけつくったように書かれてある。後は、その島において大八島洲をお造りになった。神々をお造りになった。何か洲を作った話と、神々を作った話が並べてありますから、何かおかしい。二人の男女の神様だから、神々をお造りになったという事は分かりやすい。しかし国土を造った。大八島洲を作るという話はおかしい。島を作るぐらいの能力があるなら、理屈を言えば天井でも作ればよいであって、別に「オノゴロ島」はなくともよい。ですから読み返せば、読み返すほどおかしい構成である。。
 ですから、本来は熊手で作ればスムースに出来ている話を、もちろん熊手は佐渡や越にもあるとおもうが。そちらは津軽を中心とする別の文明圏。ですから越までが、こちらの文明圏。それで大八島洲(くに)が出来た。それが第一段階の縄文神話。
それを後から、中国文明からもたらした戈(か)を中心とする話に作り替えた。まったく新しく造れば戈が出土する地域だけの話に、たとえば大六島や大七島の話になったのに、それがどうも出来なかった。やはり大八島を造ったという話が完全に定着していたから、だから道具だけを戈(か)に取り替える。それから、また戈を矛(ほこ)に取り替えた。部分改竄(かいざん)をおこなった。『盗まれた神話』はここで、すでに成立していた。「盗んだ神話」のほうは、戈(か)・矛(ほこ)の神話。「盗まれた神話」は熊手の神話。その本来の神話、それは淡路島を中心とした神話である。

 もう少し、意外なことを言いますと、今日も来ておられる合田さん。愛媛県松山で、新しい研究を開始されておられますが。その方の言われるのに愛媛という県名も不思議である。愛(いと)しき媛(ひめ)、女神。縄文ですよ。この間、愛媛県北条市のほうに行きましたら、大きな岩が切り立って並んでいた。女性のセックスのシンボルの形をしたたいへん大きな岩があり、その片面が大きな鏡岩であり、目の下の潮流の方向に相対していた。海峡を向いてそのような大きな鏡岩がいくつもある。これを見て愛媛(エヒメ)と呼ばれていても、不思議ではないという感じをもちました。今後の探求の課題です。

 以上、今言ったことをもう一度言いますと、第一段階は熊手の蛭子大神。太陽が輝くという意味の「ヒル」ですが、ただ輝くだけでなく干上がったときにも使いますから、干上(ひあ)がるの「ヒル」。砂州が干上がって、干潟になったほうが貝が取りやすい。満潮の時は取りにくい。干潟になったほうがよい。蛭子の「ヒル」の語幹は、そういうことに関係した言葉ではないか。それが第一の段階。縄文神話。

 それでは、なぜ淡路島が中心か。わたしのイメージでは、岡山から高松へ橋が最初出来ました。その工事中に、その橋の下から何万点の旧石器が出てきました。サヌカイト。十満万点を越えていると思いますが。橋のそばの展示館に、今ホンの一部が展示されていますが。わたしも、旧石器が出たというので、さっそく行って館長さんにお聞きしました。わたしが展示館に行ったときのイメージでは、「サヌカイトを舟で運び出したのでしょうか。」とお聞きしました。館長さんは、「それもあるでしょうが、それだけではとても、あれだけの膨大な量にはならない。今の瀬戸内海の海底に、それを使う人々の世界・国があったのだと思います。」と答えられた。これは非常に自然な考えです。あれだけ大量に旧石器が出たということにたいして、説明が着く。これは、もちろん館長さん一人の考えではなくて、頑張っておられた五十人以上いた発掘調査員全体の意見です。臨時の方を含めて、毎月会議を開いて、何年も発掘した結果、そのような考えに落ち着いた。
 ですから知らざる旧石器の世界が、この瀬戸内海の海の底に眠っている。当時はもちろん海の底ではなかった。湖や池があるような世界だった。
 以前、十年前までは、西日本は縄文時代の遺跡はたいしたものはない。東日本だ。そのように言われていた。しかし最近は、鹿児島県を中心とした縄文早期。ものすごい遺跡があって、縄文が発展したことが分かってきました。
 しかしそれより前に、旧石器は縄文早期より前ですよ。旧石器が瀬戸内海の底に眠っている。おそらく海底考古学の仕事になるでしょう。
 それで、なぜ淡路島かとお考えになるでしょうが、実はそうではない。瀬戸内海の海底に住んでいた人たちにとっては淡路島は神聖な場所。淡路島の山は、今より高い位置にある。そびえ立つ淡路島の山々。そこに蛭子大神は居られる。そういうことではなかったか。今は、そのようにとらえています。

 ですから日本神話の原点は淡路島。わたしは久しく日本神話の原点は筑紫だと考えていましたが、違っていました。ある段階からは筑紫。金属器が入ってきてからは、筑紫が原点。『日本書紀』のように、オノゴロ島中心の神話に作り替えられました。それまでは淡路島が中心の縄文神話があった。

 その輝ける蛭子大神をけなすために『古事記』・『日本書紀』があった。蛭子は不身(ふぐ)だ。

 これも話が長くなりますが言いますと、わたしが島根県の美保の松原へ行きまして、親鸞研究でわたしをリードされた大谷大学名誉教授で、定年退職で辞められて郷里へ帰られていた藤島達郎氏を表敬訪問した。
 その方から、このような話をお聞きした。
「古田さん、近ごろあなたは古代史をやっておられるようですが、『古事記』・『日本書紀』、あんなものはダメです。『出雲風土記』もありますが、まったくダメです。まったく信用できません。」
「それはなぜですか。」
「なぜなら、ここでは、わたしどもの神話があります。わたしどもの神様は夜々、いつも女性の所に船を漕いで行きます。明け方帰ってくる。朝、鶏(にわとり)の声を聞くと帰ってきます。(この神様は超能力ではない。空は飛べないらしい。)ところが、ある時、にわとりが何を狂ったか一刻(二時間)早く鳴いてしまった。それで神様は夜が明けたというので、まっくらの中をあわてて舟に乗った。そのために美保関のほうに帰ってときに、暗いなかで間違えて、下半身をズブズブと海の中に沈めてしまった。そこへ鰐鮫(ワニザメ)が来て、片足を食いちぎられてしまった。それいらい、その神様は片足のない神様になられた。この神様が蛭子大神です。夷(えびす)さまとも言います。ですから今でも、わたしたちの村では鶏が悪いということで、だれも鶏(にわとり)を食べません。卵も食べません。村の人に聞かれても、だれもそのように答えます。こんなことをぜんぜん『日本書紀』も『古事記』も書いていないではないか。」
(加えて長崎県五島列島では住民の家の姓が、蛭子(えびす)という姓のたくさんあります。蛭子(ヒルコ)と書いて「エビス」と呼びます。漫画家で活躍されている方がおられます。)

 実に嫌味(けれんみ)のない先生で一気に言われたので、わたしはびっくりして返答に窮した。しかし、このお話は後になって実に重大な意味を持っていた。

 ですから出雲の本来の主神は、輝ける蛭子大神。参勤交代みたいに一年に一度、神様は出雲に集まってくる。あの集める神は誰か、ほんらいは蛭子大神。天照大神は、蛭子大神の家来だった。大国主は一人ですから、代々ということはない。代々は蛭子大神。それを結局、天照大神(あまてるおおかみ)は反乱を起こしたから、相手の蛭子大神を悪者に仕立て上げた。不具だと、あしざまに悪口を言った。
 確かに、この蛭子大神は不具(フグ)である。それに片足がない。わたしは片足のない神様は、かっこいい神様と思いますが。漁師は、一生の間にいろいろな事件にあう。片足がなくなったり、手をもぎとられたり、いろいろな目にあう。しかし、それはベテランの勲章ではないでしょうか。神様は人間に似せて、いろいろな姿に描く。そういう漁師たちが片足のない神様を描くというのは、本当にすばらしい。出雲あたりに、片足のない神様の銅像を建てませんか。ニューヨークの自由の女神に負けないくらいの銅像を建てませんか。
 ですから漁民の神様としては、蛭子大神はすばらしい神様である。それを馬鹿にして、『古事記』は不具(フグ)にして流した。もう蛭子の時代ではない。このように言っている。宣伝した。逆に言いますと『古事記』の前に、輝ける蛭子大神の時代がありました。このように告白しているのが『古事記』である。

 このように神話実験というのは大事だ。実験というものは行ってみるものだ。このように感じたわけでございます。

古田武彦講演会 二〇〇二年 七月二八日(日) 午後一時から五時
 場所:大阪市 天満研修センター


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