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『古代に真実を求めて』第十八集

聖徳太子の伝記の中の九州年号 岡下英男(『古代に真実を求めて』 第十七集)../sinjit18/syoukyus.html


九州王朝が勅撰した「三経義疏」

古賀達也

一、中国にあった聖徳太子書写『維摩経疏』

 名古屋市の服部和夫さん(古田史学の会・会員)から大変興味深い情報がもたらされました。聖徳太子が書写したとされる『維摩経疏』断簡が中国にあるというのです。服部さんからご紹介いただいたホームページ「聖徳太子研究の最前線」(石井公成・駒沢大学仏教学部教員)によると、『東と西の文化交流(関西大学東西学術研究所創立五〇周年記念国際シンポジウム'〇一報告書)』に韓昇さんの中国語論文「聖徳太子写経真偽考」が収録されており、そこには『北京大学図書館蔵敦煌文献』第二冊に鳩摩羅什訳『維摩詰経』巻下残巻があることが報告されています。
 その『維摩詰経』巻下残巻(十七字×一二七行)の末尾に次のような記載があり、九州年号の「定居元年(六一一)」が見えるのです。
 「経蔵法興寺
  定居元年歳辛未上宮厩戸写」
 韓昇さんの見解では、本文は唐代のものの可能性があるが、末尾の文章は中国人による偽作(後代追記)とされているようです。同論文や『北京大学図書館蔵敦煌文献』をわたしはまだ見ていませんので、この『維摩経疏』が聖徳太子の書写によるものかどうか、ただちに判断はできませんが、九州年号の「定居元年」や「経蔵法興寺」などの記事は興味深いものです。

 

二、二説ある聖徳太子生没年

 服部和夫さんから教えていただいた聖徳太子書写とされる『維摩経疏』ですが、末尾の記事はいろいろと面白い問題を含んでいます。同記事の真偽は別として、その問題について検討してみました。
 『維摩経疏』断簡末尾には次のような記事があり、「上宮厩戸」が『維摩経疏』を定居元年辛未(六一一)に書写したとされています。
 「経蔵法興寺
  定居元年歳辛未上宮厩戸写」
 ところが聖徳太子の伝記である『補闕記』では『維摩経疏』の作成開始を壬申(六一二)の年とし、完成を癸酉(六一三)の年としており、『維摩経疏』断簡末尾の記事とは二年の差があるのです。この差は何が原因で発生したのでしょうか。そして、どちらが真実なのでしょうか。ちなみに『日本書紀』には聖徳太子による『維摩経疏』作成記事はありません。
 通常、聖徳太子の生没年は歴史事典などでは五七四~六二二年とされることが多いようです。しかし学問的に見ますと、聖徳太子の生没年にはそれぞれ二つの説があります。特に没年は、『日本書紀』には六二一年二月五日(推古二九年)のことと記されているにもかかわらず、法隆寺釈迦三尊像光背銘に見える六二二年二月二二日没が「定説」となっています。
 六二二年に没したとされる同光背銘にある「上宮法皇」は聖徳太子とは別人で、九州王朝の天子・阿毎多利思北弧であることを古田先生が論証されています。すなわち、我が国では、聖徳太子とは別人の没年(『日本書紀』とは没年の年と日が異なっており、あっているのは「二月」だけ。母親や妻の名前も全く異なっている)を「定説」としているのです。理系が本職(化学)のわたしには、とても信じられないほどのずざんな「同定」です。日本の古代史学界ではこのレベルが「定説」として「通用」するのですね。
 没年と同様に誕生年にも、管見では二説あります。一つは『上宮法王帝説』『補闕記』などを根拠とした五七四年、もう一つは『聖徳太子伝記』(鎌倉時代成立。『聖徳太子全集』第二巻所収)などを根拠とした五七二年です。この二つの説が文献に見えるのですが、両説は二年の差をもっています。冒頭で紹介した『維摩経疏』の成立年が『維摩経疏』断簡末尾の「定居元年辛未」(六一一)と『維摩経疏』の癸酉(六一三)とでは二年の差があるのですが、この差が聖徳太子誕生年の二説の差と同じです。すなわち、『維摩経疏』の成立年の二説発生は、誕生年の二説の差が原因なのです。
 このように『補闕記』と『聖徳太子伝記』での『維摩経疏』完成年は二年のずれがありますが、共に聖徳太子四〇歳のときであると記されています。誕生年が二年ずれていますから、そのまま『維摩経疏』完成年も二年ずれたわけですが、それではどちらが真実なのでしょうか。今後の検討課題です。

 

三、「三経義疏」の比較

 韓昇さんの「聖徳太子写経真偽考」で紹介された『北京大学図書館蔵敦煌文献』第二冊の鳩摩羅什訳『維摩詰経』巻下残巻の末尾に次の記事があります。
 「経蔵法興寺
  定居元年歳辛未上宮厩戸写」
 九州年号の「定居元年」が見え、この部分は後代の追記(偽作)とされているようですが、それほど単純な問題ではないとわたしは思っています。というのも、聖徳太子書写と偽って史料価値を高めるための偽作であれば、もっと違った追記となるのではないでしょうか。
 たとえば「経蔵法興寺」の部分ですが、聖徳太子のお寺といえば、やはり「法隆寺」でしょう。『法華義疏』(皇室御物)や『勝鬘経義疏』(鎌倉時代版本)が法隆寺に伝来していたのですから、後代追記(偽作)するのであれば「経蔵法隆寺」とするでしょう。従って「経蔵法興寺」とあるのは偽作の証拠ではなく、逆に偽作ではないという心証を得るのです。
 次に「定居元年歳辛未上宮厩戸写」の部分ですが、これも偽作するのであれば、聖徳太子によるとされた「三経義疏」のうち、他の『勝鬘経義疏』(法隆寺蔵鎌倉時代版本)や『法華義疏』(皇室御物。法隆寺旧蔵)と同じような下記の追記がなされるのではないでしょうか。
 「此是 大委国上宮王私集非海彼本」『法華義疏』
 「此是大倭国上宮王私集非海彼本」『勝鬘経義疏』
 これらは両義疏冒頭に記されているのですが、いずれも上宮王が私に集めたもので、「海彼」(外国からもたらされた)の本ではないことを意味しています。すなわち、上宮王が書写したり著述したものとはされていません。
 ところが、今回紹介された『維摩経義疏』は「上宮厩戸写」と記されており、他の二疏とは明らかに異なっています。これなども、偽作の手口としてはおかしなもので、逆に偽作ではなく、真作あるいは何らかの根拠があってこうした記事を追記したのではないかと考えられるのです。

 

四、法興寺と法隆寺

 中国にあると報告されている聖徳太子書写『維摩経疏』末尾に記された次の記事の「経蔵法興寺」という部分について、もう少し深く考察してみます。
 『日本書紀』などによれば、法興寺は「蘇我氏のお寺」とされており、「聖徳太子のお寺」は四天王寺や法隆寺が著名です。しかしこの『維摩経疏』には、聖徳太子による書写を意味する「上宮厩戸写」としながら、「経蔵法興寺」とされており、何ともちぐはぐです。しかし、わたしにはピンと来るものがありました。
 古田先生の調査研究(「『法華義疏』の史料批判、『古代は沈黙せず』所収。駸々堂出版。一九八八年)によると、聖徳太子のものとされてきた『法華義疏』(宮内庁所蔵。皇室御物)の電子顕微鏡撮影などによる実物調査の結果、第一巻冒頭下部に鋭利な刃物で表面の紙が切り取られた長方形の痕跡があり(巻頭資料集参照)、その部分には本来所蔵されていた「寺院」の名前が書かれていた可能性が高いことを発見されました。他の巻の当該部分には「法隆寺」と書かれてあることから、第一巻の切り取られた部分にも、本来の所蔵者名が書かれていたのではないかとされたのです。
 この史料状況から、『法華義疏』はどこか別の寺院から法隆寺に持ち込まれ、その後に第一巻の本来の寺院名が切り取られ、第二巻以降には新所有者としての「法隆寺」の名前が書き込まれたのです。しかし、第一巻の切り取られた部分には、わずかに墨の痕跡が認められるものの、何と書かれていたかは不明でした。
 こうした古田先生の研究があったので、今回の『維摩経疏』に記された「経蔵法興寺」という、聖徳太子とはあまり関係がなさそうな寺院名に、わたしは強い関心を抱いたのです。もしかすると『法華義疏』を初めとする聖徳太子の「三経義疏」の本来の所有寺院は「法興寺」ではなかったかと考えたのです。

 

五、韓昇「聖徳太子写経真偽考」を拝読

 岡崎公園にある京都府立図書館に行き、『東と西の文化交流(関西大学東西学術研究所創立五〇周年記念国際シンポジウム'〇一報告書)』に収録されている韓昇さんの中国語論文「聖徳太子写経真偽考」の閲覧しました。同論文によれば、『維摩詰経』巻下残巻末尾の二行を次のように紹介されています。
 「始興中慧師聡信奉震旦善本観勤深就篤敬三宝」
    「経蔵法興寺 定居元年歳在辛未上宮厩戸写」
 同論文は簡体字による現代中国文で書かれていますので、文字や文意が不正確かもしれませんが紹介します。論文では最末尾の一行が「定居元年歳在辛未上宮厩戸写」となっており、石井公成さんのホームページ「聖徳太子研究の最前線」には無かった「在」の字があります。また、「経蔵法興寺」と「定居元年歳在辛未上宮厩戸写」が同一行とされています。
 韓昇さんによれば、この二行は本文とは筆跡が異なっており、「経蔵法興寺」は拙劣な字体で、「始興中慧師聡信奉震旦善本観勤深就篤敬三宝」と「定居元年歳在辛未上宮厩戸写」は本文と字体は似せているが異なる筆跡とされています。これらの当否は実物を見ないことには判断できませんが、もし正しいとすれば、「経蔵法興寺」は所蔵寺院による署名とも考えられることから、筆跡が異なることはあり得ます。
 やはり問題は、「始興中慧師聡信奉震旦善本観勤深就篤敬三宝」「定居元年歳在辛未上宮厩戸写」をどのように考えるのかという史料性格の分析です。この部分の前半は『維摩経疏』選述の経緯を記したものと思われ、後半はこの『維摩経疏』を上宮厩戸が定居元年(六一一)に書写したということが記されています。従って厳密には、この二行部分を上宮厩戸自身が記したものか、他者が上宮厩戸による書写であることを主張するために記したものかは今のところ不明です。やはり『維摩経疏』が掲載されている『北京大学図書館蔵敦煌文献』第二冊を実見したいものです。

 

六、「三経義疏」国内撰述説

 聖徳太子が撰述したとされる「三経義疏」(法華義疏・勝鬘経義疏・維摩経義疏)は本当に聖徳太子が書いたものかどうかの論争が長く続いています。戦前は聖徳太子信仰などの影響で太子真筆説(花山信勝さんら)が信じられていたようですが、戦後はこのような高度な経典注釈は七世紀当時の日本ではできないとする、国外(中国・朝鮮半島)成立説(藤枝晃さんら)が有力となりました。
 近年では、百済人や渡来人撰述説など様々な説が出されていますが、わたしが最も注目しているのが、石井公成さんの日本人(倭国人)撰述説です。石井さんのホームページ「聖徳太子研究の最前線」に掲載されている「三経義疏」に関する説に魅力と説得力を感じています。
 石井さんは「国産説」の主要な根拠として、「三経義疏」には中国や朝鮮半島には見られない独特の「変格語法」(倭習)が用いられていると指摘されています。しかもそれらは「三経義疏」に共通した独特の表現であることから、同一人物により「三経義疏」が撰述された可能性にも言及されているのです。
 わたしには石井さんの説の当否をただちに判断できませんが、少なくとも石井さんの説には説得力を感じるのです。もちろん、石井さんは近畿天皇家一元史観に立っておられますから、わたしたちはこの石井説の「研究成果」を多元史観・九州王朝説に基づいて再検証・再展開しなければなりません。

 

七、「三経義疏」九州王朝撰述説

 石井公成さんの論稿で、わたしが最も注目したのが「三経義疏」が「国産」であり、同一人物による撰述の可能性を指摘されたことです。もしこのことが正しければ、古田説では『法華義疏』は九州王朝の天子、上宮法皇(多利思北弧)が集めた国産の本ですから、他の『勝鬘経義疏』『維摩経義疏』も九州王朝内で集められた同一人物撰述による「国産」の本ということになります。
 そうすると、今回中国で見いだされた『維摩経義疏』残巻末尾の九州年号「定居元年」を含む二行も、定居元年(六一一)での加筆であれば九州年号を使用している人物によるものであり、後代追記であれば、やはり九州年号を知っている人物によるものとなり、いずれにしても九州王朝内あるいは九州年号の影響下(九州年号の歴史的実在を疑っていない)で成立したことになります。
 こうした理解から、九州年号「定居元年」を含む二行を、九州王朝の存在が忘れられた近代の中国人による追記とする韓昇さんの説は成立困難と思われるのです。しかしながら、やはり現物を見てからしか「結論」は出せません。先走りすることなく、時間をかけて研究したいと思います。

 

八、皇室御物『法華義疏』の史料性格,「始興」は「始哭」の誤写か

 九州年号「定居元年」が記された『維摩経義疏』断簡の存在を服部和夫さんから教えていただいたことを契機に「三経義疏」の勉強を始めたのですが、ますますわからないことが増えています。わたしの勉強の「成果」でもある、その増えた問題についてご紹介します。
 それは古田先生が実地調査された皇室御物『法華義疏』の史料性格についてです。聖徳太子や「三経義疏」関連の著作を購入し読んでいるのですが、『法華義疏』の史料状況や史料性格について更に深く検討する必要を感じるようになりました。
 たとえば、中公クラシックス『聖徳太子 勝鬘経義疏・維摩経義疏(抄)』の解説(田村晃祐「『三経義疏』の世界」)によれば、『法華義疏』には訂正や誤字が多く、その頻度は「二・五行に一カ所ぐらいの割合で訂正が行われている」とのことです。具体的には、「釈迦」と書くべきところが「迦釈」と文字がひっくり返っている例もあります。この他にも仏教のことを知っていれば間違うはずのない基礎的な誤字・誤写が少なくなく、このような史料状況から、『法華義疏』は達筆だが仏教のことに詳しくない人物により慌てて書写されたということがうかがえるのです。
 これほどの誤写や訂正が多い『法華義疏』が九州王朝の天子・多利思北弧への献上物(収集物)にふさわしいと言えるでしょうか。天子に献上する前に、書写者や王朝内部で浄書すればよいのにと思うのですがいかがでしょうか。大和朝廷と同様に九州王朝にも「写経所」や写経専門家がいたはずです。なぜそうした「専門機関」を多利思北弧は利用しなかったのでしょうか。わたしはこの難問を解くべく考え続けています。

 

九、「始興」は「始哭」の誤写か

 韓昇さんの中国語論文「聖徳太子写経真偽考」に紹介された、九州年号「定居元年」が末尾に記されている『維摩詰経』巻下残巻ですが、韓昇さんが説明できていない問題があります。
 「始興中慧師聰信奉震旦善本観勤深就篤敬三宝」
 「経蔵法興寺 定居元年歳在辛未上宮厩戸写」
 この末尾二行部分の「定居」については、「日本の私年号」と説明されているのですが、「始興」については、「定居」とともに「始興」も年号とする他者の論稿の引用のみで、韓昇さん自身の説明はありません。それも仕方がないことで、「始興」という年号は中国にも近畿天皇家にもなく、九州年号にもないからです。そのため、韓昇さんは「始興」の説明ができなかったものと思われます。
 わたしも「始興中」とはある期間を特定した記事であることから、「始興」は年号のように思うのですが、確かに未見の「年号」です。そこでひらめいたのですが、「始興」ではなく、「法興」か「始哭」の誤写・誤伝ではないかと考えたのです。字形からすると「始哭」の方が近そうです。他方、「法興」とすると、「定居元年」(六一一)が法興年間(五九一~六二二)に含まれてしまいますので、二つ並んだ年号表記記事としては不自然です。
 そこで、「始興」を「始哭」の誤写・誤伝とすればどうなるでしょうか。正木裕さん(古田史学の会々員・川西市)の研究(古田史学の会HP連載「洛中洛外日記」三一一話「正木さんからのメール『始哭』仮説」・他、参照)によれば、「始哭」は五八九年か五九〇年頃とされており、定居元年(六一一)よりも少し前の時期に相当しますので、記事内容に矛盾が生じません。すなわち、「始哭」(五八九~五九〇)中に慧師聰がもたらした震旦(中国の異称)の善本を、定居元年(六一一)に上宮厩戸が書写し、法興寺に蔵されている、という理解が可能となるのです。
 しかしそれでも解決できない問題が残っています。年号としての「始哭」の誤写・誤伝であれば、「定居元年」と同様に「始哭元年」とか「始哭二年」とあってほしいところです。この疑問を解決できるのが、やはり正木さんの「始哭は年号ではなく、葬送儀礼の『哭礼』の始まりを意味する」という仮説です。
 正木説によれば、端政元年(五八九)に玉垂命たまたれのみことが没したとき、後を継いだ多利思北弧が葬儀を執り行い、その儀礼として「哭礼」を開始したという記事に、「始哭」という表記があり、それを後に九州年号と勘違いされ伝わったということです。「哭礼」は通常は一年程度続き、長くても三年程度というのが正木さんの見解ですので、もし正木説が正しければ、玉垂命の葬儀に慧師聰が参列し、そのおりもたらされた震旦の善本『維摩詰経』を定居元年に上宮厩戸が書写したということになります。
 ちなみに慧師聰は『日本書紀』推古三年条(五九五)に百済より来訪した「慧聰」として見え、翌年、高麗僧「慧慈」と共に法興寺に住まわされています。この『日本書紀』の記事が正しければ、慧聰は「始哭中」に相当する端政元年(五八九)に九州王朝に来倭し、玉垂命の葬儀に参列した後、推古三年(五九五、九州年号の告貴二年・法興五年)に近畿へ来たことになります。
 このように、「始興」を「始哭」の誤写・誤伝と見た場合、九州王朝説の立場から『維摩詰経』末尾二行の文意がうまく説明できるのです。そしてこのアイデアが当たっていれば、この末尾二行を書いた人は「始哭」などが記された九州王朝系史料を見ていたこととなります。中国にある『維摩詰経』残巻を実見しないことには結論は出せませんが、現時点での「作業仮説」として検証・研究をすすめたいと考えています。
 なお、念のため付け加えれば、「始興」のままでよりうまく説明できる仮説があれば、わたしの提案した「始哭」説よりも有力な仮説となることは当然です。「原文を尊重する」「必要にして十分な論証を経ずに安易な原文改訂をしてはならない」というのは、古田史学にとって重要な「学問の方法」なのですから。

 

十、中国にあった「始興」年号

 前節で、「始興」という年号は中国にも日本にも無いと書いたのですが、「東方年表」に基づいた判断でしたのでちょっと気にかかり、インターネットで調べてみました。そうしたらなんと七世紀初頭に「始興」という年号があったのです。
 たとえばウィキペディアによると、隋末唐初に「燕」という短命の政権が高開道により樹立され、「始興」(六一八~六二四)という年号が建元されています。同じく隋末に操師乞(元興王)により樹立された地方政権が「始興」(六一六)が一年間だけ建元されています。
 ウィキペディアではこの二つの「始興」年号を「私年号」と説明していますが、短命ではありますが、樹立された地方政権が建元しているのですから、「公的」なものであり「私年号」とするのは学問的な定義としては問題があります。九州年号を「私年号」とする日本古代史学界も同様の誤りを犯しているのです。年号が「私」か「公」かをわける基準を政権の「勝ち」「負け」で決めるのは不当です。より厳密にいえば、「年号」とはどれほど狭い地域や短い期間に使用されていても、それが「支配者」により公布され使用されていれば「私」ではなく、「公」的なものであることから、そもそも「私年号」という名称が概念として矛盾した名称と言わざるを得ないのです。
 そういうことで、「始興」年号の出典を確認しました。『隋書』巻四の「煬帝下」に次の記事があり、操師乞による「始興」建元は確認できました。
 (大業十二年十二月、六一六年)「賊操天成挙兵反、自号元興王、建元始興。」

 『隋書』によれば、この頃各地で地方政権が樹立され年号が建元されています。たとえば、「白烏」「昌達」「太平」「丁丑」「秦興」などが見えます。
 次に高開道による「始興」建元ですが、『旧唐書』によれば「列伝第五」にある高開道伝には、「(武徳三年・六二〇年)復称燕王、建元」とあり、年号名は記されていません。「建元」とありますから六二〇年が元年のはずですが、ウィキペディアに記された期間(六一八~六二四)とは異なります。
 以上のことから、高開道の「始興」は確認できませんでしたが、操師乞による「始興」建元は信用してもよいようです。しかし、『維摩詰経』巻下残巻末尾に見える「始興」は定居元年(六一一)よりも前のこととなりますから、操師乞の「始興(六一六)」年号では年代があいません。また、百済僧の来倭記事に隋末の短命地方政権の年号を使用するというのも不自然です。従って、「始興」は「始哭」の誤写・誤伝ではないかとするわたしの作業仮説は有効と思います。
 最後に、歴史研究において簡単な「辞典」や「年表」に頼りきるのは危険であることを再認識させられました。ましてやウィキペディアの記載をそのまま信用するのは更に危険です。素早く調べるための「道具」として利用するのには便利ですが、その上で原典にしっかりとあたる、というのが大切です。その意味でも良い勉強となりました。
 ※本稿は古田史学の会ホームページ「新古代学の扉」に連載している「洛中洛外日記」を加筆訂正したものです。(古賀達也)


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『古代に真実を求めて』第十八集

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