講演録 第24回 愛知サマーセミナー2012 七月十五日(日)三〜四時限 愛知東邦大学 2F B103 真実の学問とは -- 邪馬壱国と九州王朝論 古田武彦氏 (昭和薬科大学元教授 古代史学者) (古田武彦氏の紹介)  古田史学の会・東海の代表の竹内強と申します。本日は、これだけ多くのかたにお集まりいただき、ありがとう御座います。一言ご挨拶を古田先生の講演の前に申し上げます。本講演の開催に当たり、愛知サマーセミナーを企画されたかたがたのご尽力により、開催することができました。さらに第24回愛知サマーセミナー実行委員会のかたがたにも、お世話になりました。また古田先生とご一緒に、関西から古田史学の会の大下さんをはじめ、多くのかたが来ていただきました。また古田史学の会・東海の皆さんが、今回のこの会を成功させるにあたって裏方でいろいろご支援いただきました。たいへん有り難うございました。  では先生の講演を始める前に、簡単な略歴を紹介したいと思います。先生は一九二六年(昭和元年)に福島県でお生まれになって、その後すぐお父さんの仕事の関係で広島県に移りました。広島で少年・青年時代を過ごされます。そして旧制広島高校に入学され、岡田甫先生と出会われます。岡田先生の生涯をかけた学問についての話が、今の古田先生からよく話される言葉があります。“論理の導くところへ行こうではないか。たとえそれがいずこに到ろうとも”、この岡田先生の言葉は、ソクラテスの言葉として先生はいつも話されます。そして、そのあと東北大学に行かれ、たった半年ではありましたが村岡常嗣先生に逢われます。こういう経緯をたどり、昭和二〇年終戦の年ですが、原爆投下の行われた広島へ電車を乗り継いで、実家がある広島に到着し、焼け野原になった広島の姿を直接目撃されています。このことは先生の思想経験の中で非常に大きな出来事であったと思っています。そのあと先生は東北大学を卒業されたあと、長野県松本深志高校に赴任し教鞭を執られました。さらに神戸・京都の高校で教鞭を執られています。その間、特に親鸞の研究をされました。これは文庫本の『わたしひとりの親鸞』に結実し、わたし自身『わたしひとりの親鸞』を読んで先生を知りました。この本は、非常に斬新的な親鸞像を明らかにしています。ぜひ一度読んでいただきたいと思います。そして『「邪馬台国」はなかった』を発刊され、古代史学者としての古田武彦の名を高めました。そして昭和薬科大学に勤められた後、今古田先生は京都で著作に励んでおられます。そして一昨年から「古田武彦・古代史コレクション」としてミネルヴァ書房から、今まで出された本を著作集として、次々と発刊されています。今年の八月になると思いますが、第一三巻目として『壬申大乱』が出てきます。そして昨年は日本評伝選『俾弥呼 ひみか』という本を出されています。これも古田先生の古代史の集大成と言われています。図書館にもありますし、ちょっとした大きな本屋さんにもおいてあると思いますので、ぜひ読んでいただきたいと思います。  今回の講演に当たり、レジメと特に先生に対する質問の用紙が入っております。ぜひ三時限目が終わって休憩に入りますときに、書いて出していただければ、質問に答えていただけると聞いております。特に高校生のかたがたであれば、住所や電話番号を書いてあれば後から手紙や電話でかならず返事を行うと言っております。  それではお待たせいたしました。これから古田先生の講演を始めさせていただきます。よろしくお願いいたします。 (講演前半)   一、「邪馬台国」から「邪馬壹国」へ  古田でございます。よくお出でいただきました。わたしの話をお聞きいただき光栄に存じます。本日は高校生・大学生が対象である、とお聞きしました。講演は基本的にお断りしていますが、高校生・大学生が対象であるなら、ぜひともやらせていただきたいと思って名古屋に来ました。ですから本日の講演の基本は、高校生のかたが対象である講演であることを、あらかじめご承知置き下さい。ですが他方、新しいわたしの知見、学界の最高レベルの発見もお話しできると考えています。  先ほどのセミナーの案内の中で、質問を休憩時間の二〇分に書いてもらったら、後半の四時限でお答えすると言われていましたが、これはわたしから見ると間違いです。というのは質問を書いてもらっても、見回しますと中学・高校生でないかたもおられます。それらのかたは古代史の質問はかなりハイレベルというか、いろいろの感覚をもった込み入った質問になります。それでは、本日の高校生に対する講演という趣旨から外れてきます。結論としてお答えはしますが、今日ではなくて、電話番号や住所を書いていただいて、後日直接お手紙なり電話でお答えする。その点、訂正させていただきます。  さて本日は暑苦しいネクタイを結んできました。二十代に長野県松本深志高校(旧制中学)というところで高校教師になりました。その時のような暑苦しいネクタイをしてきたことをお許し下さい。それで思い出すのですが、松本深志高校の生徒で塩原君という生徒がいました。彼は不思議な生徒で数学しかやらない。他の学科には関心は毛頭ない。朝から晩まで数学ばかり勉強している変わった生徒です。彼の変わったところはそれだけではない。学校に来るときに、古くさい目覚し時計を紐で腰にぶら下げて来る。その時計を置いて出る。それで「時計の塩者えんじゃ」というあだ名を付けられておりました。それで彼のまねをして、一個百円の目覚し時計を持ってきて、講演をさせていただきます。  余計な話はそれぐらいにして本題に入らせていただきます。  本日の演題「真実の学問とは -- 邪馬壱国と九州王朝論」については、三時間お話しすれば、その答えが出ると思いますので、今は別に申しません。同じく「憶(おぼ)える人間から考える人間へ」という本日のテーマについても、これも三時間お話しすれば、その答えが出ると思いますので、あえて解説はいたしません。  それでは本当の本題に入らせていただきます。  まずわたしは、「邪馬台国」というのは間違いである。教科書に書いてあっても、偉い学者さんが、口をそろえてそう言われても、それは間違いである。「邪馬壹国」が正しいのだ。これがわたしの根本の考えでございます。そうは言っても、「邪馬台国」と教科書に書いてあるし、テレビでもそう言っているのに、間違いだと言われても困るよ。そう皆さん言われると思う。 『三国志魏志倭人伝』(宮内庁書陵部、紹煕(しょうき)本)の写真版の掲載(「壹」のところ)  しかしわたしがゴタゴタ言うよりも、ちゃんとした証拠がありまして、お手元の資料に『三国志 魏志倭人伝』(宮内庁書陵部、紹煕(しょうき)本)の写真版がありまして、三番目の五行目から六行目にかけて「邪馬壹國」と書いてあり、続いて「女王之所都」と書いてある。見ましたら、「臺(台)」ではないですね。そこには「豆」の入った「壹」、「邪馬壹国」と書いてあるのが『三国志 魏志倭人伝』の原文です。  それでは、なぜ「邪馬台国」と言うのかと言いますと、理由ははっきりしていまして、 「我が国の歴史は天皇家が中心である。天皇家は奈良県大和に居られる。だから「ヤマト」と読めなければならない。読めなければ直して読めるようにすればよろしい。」  これは無茶な論法と思いませんか。しかしそういう論法で、「邪馬壹國」と書いてあるのは間違いだ。「邪馬臺(台)國」の間違いだ。「吉」に「ワ冠」を付けて「至」を付けてある。これが「臺」という古い字だ。その略字が「台」です。これなら「ヤマト」と読めるから「邪馬臺(台)國」に直してしまえ。それが現在の「邪馬台国」です。本・教科書・学界からテレビまで全部、今言った理屈に立っている。  まず天皇家が(三世紀に)奈良県大和に居たのは決まっている。「ヤマト」に読めなければ直して、読めるようにすればよろしい。わたしの理解では、これは学問とは言えない。自分の結論・イデオロギーがまず決まっていて、それに合わせて手直しする。そういうやり方です。わたしの見方では、これはよろしくない。  わたしのやり方は、どう見たって原文には、「邪馬壹國」と書いてある。だから邪馬壹国として、女王国がどこにあるかを見ていくべきだ、というのがわたしの哲学です。どちらが正しいか。どちらが筋が通っているか。これも少し考えれば直ぐ分かることです。「邪馬台国」と覚えているという話から始まらずに、今言ったことを考えれば、それは古田の言っているほうが、話は通っているよ。そう言って下さったら、「考える人間」の道に足を踏み込んでおられる。  今言った書き換えを一番初めに行ったのは、江戸時代の京都に住んでいた学者で、お医者さんであった松下見林です。お医者さんでなかなか勉強家のかたですが、『異称日本伝』という本を書いて、今言った理屈を述べた。 「昔舎人(とねり)親王、日本書紀を撰す。・・・当(まさ)に我が国記を主として之(これ 異邦之書)を徴し、論弁取舎(捨)すれば、則(すなわ)ち可とすべきなり」  その次に皆さんご存じの新井白石。彼が出てきて、九州の「山門 ヤマト」にした。九州にも「山門 ヤマト」がある。福岡県と佐賀県の境に近いところ、筑後山門、ここだろう。この論理は、さきほどの松下見林の論理より、もっと悪い。もっと悪いと言うのは、松下見林は、「天皇家は大和に居られる」に合わせて直した。その直した「邪馬台 ヤマト」の発音だけ採用し移動させて、九州にも「山門 ヤマト」と読めるところがある。これは話が混線しているのではないか。失礼だが、新井白石は秀才と言われているが頭が悪い。  これらが元になって明治維新の後受け継がれた。松下見林と同じく、京大の有名な内藤湖南の近畿説。それと九州の熊本県肥後などにある「ヤマト」、そこではないか。これが東大の白鳥庫吉の九州説として受け継がれていった。その二つの説、京大の近畿説、東大の九州説が、明治・大正・昭和・平成と、受け継がれていった。  ところが最近というか、昨年現役の東大教授大津透氏が出した本、『神話から歴史へ』では東大教授なのに、近畿説に従って邪馬台国は近畿だと書いてある。 『神話から歴史へ』(天皇の歴史01大津透 講談社) p43 第一章 卑弥呼と倭の五王 邪馬台国に関する二つの説 ・・・ 南、邪馬台国に至る。女王の都する所なり。水行十日。陸行一月。官に伊支馬有り、次に邪馬升といひ、次を邪馬獲といひ、次を奴佳[革是]といふ。七万余戸。      [革是]は、革編に是。JIS第三水準ユニコード97AE  昨年からめでたく東大、京大合い揃えて、めでたく邪馬台国は近畿となった。それが一年前から現在の状況です。  しかしわたしは両方とも間違い。昨年三・一一に起こった原子力問題のように、東大教授が言っているから、正しいと誰も思わなくなりましたが、この問題はもっと奥が深く酷い。東大、京大が一緒になって、近畿大和が邪馬台国と言ってもアウト。それは違うというのが、わたしの立場でございます。 以上によって、わたしが最初に申し上げたいテーマは、終わったわけです。(笑い) 二、「邪馬壹国」はどこか -- 博多湾岸にある  でも古田は終わったというが、「邪馬壹国」がどこにあるかは、まず聞いていない。その通り。ですが、わたしにとっては簡単なことです。 『魏志倭人伝』行程 從郡至倭循海岸歴韓國乍南乍東到其北岸狗邪韓國七千餘里始度一海千餘里至對海國・・・絶島方可四百餘里・・・南渡一海千餘里名曰瀚海至一大國・・・又渡一海千餘里至末盧國・・・東南陸行五百里到伊都國・・・(東南至奴國百里)・・・東行至不彌國百里(南至投馬國水行二十日)・・・南至邪馬壹國女王之所都水行十日陸行一月・・・ (行程以外の解説は省略)  七〇〇〇余里  帯方郡治〜狗邪韓国  一〇〇〇里   狗邪韓国〜対海国  一〇〇〇里    対海国〜一大国  一〇〇〇里    一大国〜末廬国   五〇〇里    末廬国〜伊都国   一〇〇里    伊都国〜不弥国 ___________________ 一〇六〇〇余里     合計  なぜならば『魏志倭人伝』を見ますと、ソウル近辺にあるといわれている帯方郡から、女王国に至る道筋が何里何里と里程で書いてある。その里程の最後が不彌(弥)(ふみ)國で終わっている。その不弥(ふみ)国の距離が、方角・里程付きで書いてある。この不弥国までで、里程は終わっている。この不弥国がどこにあるかは、博多湾岸にあることはほぼ多くの学者の意見は一致している。一方そこで里程は終わっている。ですから「南至邪馬壹國女王之所都」のとおり、不弥国の南が女王の居るところであり、博多湾岸とその近辺が邪馬壹国と考えるほかはない。これが一つ。  もう一つ理由があって、わたしは、こちらのほうに力を入れていた。なぜかと言いますと、『魏志倭人伝』を調べ初めたとき、わたしは「邪馬壹国」のありかは、分からなかった。  そのとき朝日新聞社の米田保さん、わたしにとって恩人と言って良い人です、「邪馬壹国」のありかがどこか、本を書いてくださいと言われた。朝日新聞社から本を出したいと言われた。わたしはすぐお断りした。なぜなら「邪馬壹国」とあるのだから、「邪馬臺(台)国」と直すのではなくて、「邪馬壹国」と観なければならないことは間違いない。しかしその「邪馬壹国」がどこにあるかは、わたしには分かりません。第一『魏志倭人伝』の一番難しいところは、里程がつぎつぎ書かれてあるのに、つぎつぎ里程を足しても、全体の里程一万二千里にはならない。部分を足しても全体になっていない。余りも勘定の仕方によりますが、一千四百里ぐらい足らない。部分を足しても全体にならない本はインチキな本。  たとえば鉄道で、東京から名古屋までの距離と、名古屋から大阪まで距離を足したら、東京から大阪の距離になる。当たり前でしょう。足らなかったらレールが外れている。それが当たり前なのに、そうなっていない三国志の『魏志倭人伝』はかなりインチキだ。そんなインチキな本に、一度しかない人生を掛けたくない。発表はしなかったが、内心ではそう思っていたので、本を出すことはお断りしよう。ところが米田さんは、おもしろいというか、ありがたいというか、一週間おき、いや三・四日ごとに、どうでしょうか本をお書きになりませんかと、連絡がある。自宅に手紙をいただいたり、電話されてきたり、わたしの勤務していた高等学校に訪ねてきた。たえず催促された。こちらも嫌になるのを通り過ぎていたたまれず、なんとも落ち着きが悪くなり、なんとか研究しなけばならないという気にさせられた。  ところが暑い夏の日。それが見つかった。何かというと、『魏志倭人伝』の中に、対海国(対馬)と一大国(壱岐)というものがある。その対海国のほうは「方四百里」、一大国のほうは、「方三百里」と書かれてある。この「方」というのは正方形の「方」です。それで「方法」というものがあります。皆さんは「方法」というものは、“method”の翻訳だと思っておられるが、そうではない。「方法」というものは、中国では日本の縄文時代にあたる時代から使われていた概念です。ですから弥生時代にもある概念です。この「方法」とは何か。地形というのは、ぐちゃぐちゃ不定形です。その不定形を包み込む正方形を書いて、その一辺を表すことによって、大体の面積を示す。もちろん不定形ですから、足らないところはある。正確ではない。しかし「方」で表すと、だいたいの土地の比率が出てくる。つまり「方法」とは、現在のグラフと同じ考えかたです。それが古代中国で発見した、数学の「方法」です。“method”というのは、後世ヨーロッパで生まれたものすぎない。その「方法」で書いてある。  その対海国の対馬のほうは「方四百余里」、一大国の壱岐のほうは「方三百里」の正方形に収まる、と書かれている。その「方四百余里」と「方三百里」は、従来の足し算に入っていなかった。そのことに暑い夏の日に気がついて、これを入れたらどうなるか。「方」の四辺全部を足せば元に返り、一辺だけでは足らないので、二辺を加える。『魏志倭人伝』の作者陳寿は、そういう「方法」で里程を考えた。そう考えると足らない「千四百里」が出てきた。わたしが、寝ても覚めても足らないと考え続けていた、「千四百里」が出てきた。これで分かった。これで『三国志』という本を扱うことができる。米田さんの催促にも答えることができる。そう考えた瞬間である。  対海国の半周 +(プラス)一大国の半周 (四百里+四百里) + (三百里+三百里) = 千四百里  七〇〇〇余里  帯方郡治〜狗邪韓国  一〇〇〇里   狗邪韓国〜対海国  八〇〇余里・・・対海国の二辺  一〇〇〇里    対海国〜一大国  六〇〇余里・・・一大国の二辺  一〇〇〇里    一大国〜末廬国   五〇〇里    末廬国〜伊都国   一〇〇里    伊都国〜不弥国 __________________ 一二〇〇〇余里・・・・・合計  この考えかたは別に変わった考えではないですが、後で思ったのは『キューリー夫人』という映画が大好きだった。アメリカ映画で『キューリー夫人』という映画を、何回となく見に行ったものです。今のようにDVDがなく映画館で見るしかない。あちこちに行きましたよ。静岡にも行きました。長野県松本が下宿していましたから、広島の自宅に帰るときに名古屋で見るとか、松本から広島に帰って見るとか何十回となく見た。それは女優のグリア・ガーソンの美しい顔を見て、ほれぼれしていたにすぎないと思うのですが、その時に見ている名場面がある。それはキュリー夫人が、ラジウムから放射能を発見しようとして、すごい労力で抽出するのですが、部分を足してみても、どうしても全体にならない。何万回も濾過試験を行うのですが、どうしても数が合わない。全体を足して放射能が八という数値になるのに、知られた放射能を持った物質を何回測定してみても四にしかならない。どうしても四足らない。それで非常に悩む。旦那さんがお師匠さん兼同僚ですが一緒に悩む。家で居るとき、夜寝ているときに気が付く。あの中に有るはずがない。そう思ってゴミ箱に捨てていたゴミ屑の中に、あの中に放射能があるかも知れない。そんなことがあるはずがない。あそこに有れば物質の概念が変わってしまう。しかし行ってみよう。それで大学の実験室、倉庫のような雨漏りのひどい汚いところですが、そこへ旦那さんと夜中に行き、測定してみると、カチカチカチと反応が有った。足らない四が有った。ゴミ屑の中に。夫婦が抱き合って喜ぶわけです。その瞬間に放射能が分かった。記念すべき瞬間であり、もしかしたら原子爆弾が出来る瞬間であったかも知れませんが。この映画のハイライト感動を生んだ名シーンだ。そういうシーンを覚えていたらしく「部分の里程を足して全体の里程にならなければならない」と、そういう目で『魏志倭人伝』を見ていたかもしれない。  そうすると不弥国までで「一万二千里」という全体の数値になったのだから、もう女王国の邪馬壹国はまちがいなく博多湾岸である。これがわたしの古代史の最初の本、『「邪馬台国」はなかった』という本の趣旨です。ですから里程の最後が不弥国である。また里程の部分を加えた合計が不弥国まである。このどちらから観ましても、邪馬壹国は同じ博多湾岸とその周辺にある。  この点は、その後わたしにとって証明されました。なぜかと言いますと、この女王国というのは「三種の神器(玉と剣(つるぎ)と鏡)」の国であることは疑いない。なぜなら倭人伝に中国の天子の書いた上表文に、「鏡百枚」を俾弥呼(ひみか)にやると書いてある。中国にとって鏡は何も珍しくもない。女の人のお化粧道具にすぎない。それをわざわざ上表文に「百枚」と書いてあるのは、俾弥呼(ひみか)が要求したから書いてある。頼まれもしないのに、お化粧道具の鏡をいきなり百枚も寄こすはずがない。といいうことは邪馬壹国側が、鏡をたいへん大事にしたということを意味している。先ほどの玉は、縄文時代から日本列島にあり、各地に出てきています。それに剣を持たない権力者はあり得ない。それに鏡を加えると「三種の神器」となる。それで「三種の神器」の出る遺跡はどこかと言うと、博多湾岸とその周辺に限られる。六ヶ所ある。吉武高木・宇木汲田(くんでん)・三雲・須玖(すく)岡本・井原(いわら)・平原(ひらばる)の六ヶ所しか、弥生時代の遺跡はない。  もう一つあって、中国の天子が『魏志倭人伝』で言っていることは、俾弥呼に対して「絹と錦」を与えた。今では錦は大した物ではないかもしれないが当時はたいへんなものです。しかも当時は、中国にとって絹は禁制品だった。有名な話で、王昭君(後漢)の故事の物語るところでは、絹の元というか小さな蚕(かいこ)を髪の中に隠して、匈奴にお嫁に行った。ところが『三国志』の魏の国は、中国側からたくさんの錦を倭国に与えている。しかも錦の色・デザインを、絳地交龍錦・紺地句文錦などと詳しくと書いてあり、錦を与えたことが強調されている。ということは三世紀に日本列島側に大量の絹が出なければおかしい。ところが今、三世紀の弥生時代に絹と錦が出るところははっきりしている。布目順郎さんが研究をされまして、ハッキリ分かっている。 「北部九州、絹の分布図」掲載 付録(布目順郎氏『絹の東伝』より一覧表) 弥生前期  福岡市早良区有田遺跡(前期末) 弥生中期  福岡市西区吉武(よしたけ)高木遺跡(中期初頭)  福岡市博多区比恵(ひえ)遺跡(中期前半)  福岡県甘木(あまぎ)市栗山遺跡(中期前半および後半)  福岡県神崎郡神崎町朝日北遺跡(中期中葉)  福岡県飯塚市立岩遺跡(中期後半)  福岡市春日市門田(もんでん)遺跡(中期後半)  福岡市春日市須玖(すく)岡本遺跡(中期後半)  福岡市太宰府市吉ヶ浦遺跡(中期後半)  長崎県島原市三会村(みえむら)遺跡(中期後半)  福岡市西区樋渡(ひわたし)遺跡(中期後半) 弥生後期  福岡県甘木(あまぎ)市栗山遺跡(後期初頭)  福岡市西区宮の前遺跡(後期終末)  福岡市東区唐の原(とうのはる)遺跡(後期終末〜古墳前期) 古墳前期  富山市杉谷A遺跡(前期初頭)  福岡市博多区那珂八幡(なかはちまん)古墳(前期初頭)  京都府中郡峰山町カジヤ古墳(前期後半)  奈良県天理市柳本町大和天神山(やまとてんじんやま)古墳(前期後半)  石川県七尾市国分町国分尼塚(こくぶあまづか)一号墳(前期後葉)  福岡県糸島郡二丈町一貴山銚子塚(いっきさんちょうしづか)古墳(前期末)  京都府福知山(ふくちやま)市広峯一五号墳(前期末)  島根県安来(やすぎ)市矢田町椿谷古墳(前期)  島根県安来市小谷土礦墓(前期)  島根県安来市荒島町造山(つくりやま)三号墳(前期)  島根県飯石(いいし)郡三刀屋(みとや)町松本一号墳(前期)  奈良県桜井市外山(とび)桜井茶臼山(ちゃうすやま)古墳(前期)  福岡県太宰府市菖蒲ヶ浦古墳(前期)  京都府園部(そのべ)町園部垣内(かいち)古墳(前期)  熊本県宇土(うと)市松山町向野田(むこうのだ)古墳(前期末〜中期前半)  そこに「北部九州、絹の分布図」とある。しかし三世紀で絹が出土しているのは、日本列島全体の中で北部九州しか出ていない。そういう意味での「北部九州、絹の分布図」です。特に錦にいたっては、博多の隣の春日市の須玖(すく)岡本遺跡しか中国の錦は出ていない。絹も博多湾岸とその周辺しか出ていない。弥生時代には奈良県大和から、絹はまったく出ていない。それに九州でも筑後山門には、絹も錦もまったく出ていない。朝倉でも図のように、端のほうに絹は一つ出ているが、錦はまったく出ていない。この図を見ればお分かりのように、中心は博多湾岸とその周辺であり、絹と錦は集中している。ですから「絹と錦の分布図」は、わたしが文献解読から導いた博多湾岸とその周辺という結論と、まったく同じなのです。  先ほど述べた文献から導いた答えと、この考古遺物の分布と答えは一致した。ですからわたしはもう答えは出た。「邪馬台国」論争は終わった。まだ分からない。まだ分からないというのは、そういう顔をしているだけです。自分が奈良県にしたいというために、まだ分からないという顔をしているだけです。本当はもう終わった。それでは奈良県大和や筑後山門や朝倉という学者に、「三種の神器」や「絹と錦」が集中しているところはありますか。そう聞いて欲しい。そうするとない、やがて出るでしょう。そういう答えしかない。いくら考古学者でも、やがて出るでしょうでは、まったくダメです。つまらない話をしますと「邪馬台国鹿児島説」で書かれた本がある。そこには「三種の神器」や「絹と錦」が出ているかというと、まったく出ていない。その人はどう言うかと言いますと、桜島が噴火して全部地下に埋まったはずだ。だからない。桜島の火山灰を全部取り除けば、必ず出てくるとわたしは思う、と書かれてある。こういう言いかたを許すならば、鹿児島県のみならず日本中各地、都道府県全部と言っていいほど邪馬台国が存在する時期はありました。「三種の神器」や「絹と錦」はいずれ出るでしょうという言いかたをしている。しかしそれはわたしの学問の方法ではない。歴史小説としてはよいが学問ではない。そう思っているわけです。 三、「日出ずる処天子」とは誰のことか  次に移らせていただきます。これも大事なテーマです。皆さんご存じの「日出処天子」の問題です。 隋書イ妥国伝(部分) 大業三年其王多利思北孤遣使朝貢使者曰聞海西菩薩天子重興佛法故遣朝拜兼沙門數十人來學佛法其國書曰日出處天子致書日没處天子無恙云云 ・・・ 王妻號鷄*彌後宮有女六七百人      イ妥*:人偏に妥。「倭」とは別字。      鷄*:「鷄」の正字で「鳥」のかわりに「隹」。         [奚隹] JIS第3水準、ユニコード96DE  「日出ずる処の天子、書を日没ずる処の天子に致す。恙なきや。」という有名な言葉がある。あれは推古天皇または聖徳太子の言葉である。第二次世界大戦後も教科書では、たえずそう主張している。しかしこれはわたしの目から見ると、とんでもない大嘘です。タダの嘘でなくて大嘘を書いている。テレビも大ウソを喋っている。新聞も大ウソを書いている。皆さんは、そんな偉そうなことをことを言って、大丈夫かなと思われるかもしれない。  しかしこの話は非常に、ハッキリしている。『古事記』・『日本書紀』には、「日出処天子」の話はまったく出ていない。どこにあるかというと、七世紀の初め、唐の初めにできた『隋書』のイ妥(タイ)国伝に出ている。隋の次にできた唐という国が、『隋書』というかたちで、隋という国のことを書いた本です。そこに「日出ずる処の天子、書を日没ずる処の天子に致す。恙なきや。」という言葉が書かれてある。書いた人の名前も書いてある。「多利思北孤」と名前が書かれている。しかも彼は男である。「鷄*彌」という奥さんがある。女が奥さんを持つはずがないから、多利思北孤はとうぜん男性なわけです。  ところがその時代の天皇は、『日本書紀』では推古天皇。ですが推古天皇は女性である。『日本書紀』では推古天皇が、女性としてたくさん描かれて書いてある。その推古天皇は女性ですが、明治以後の教科書では国書を送ったことになっている。それでは男性と女性は同一の人物となる。  男性=(イコール)女性という立場で、教科書や学界は描いている。このような男性=女性という立場をもった本や史料は、世界中どこを探しても観たことがない。ところが日本の教科書やテレビや新聞も全部そうなっている。談合ではないけれど、いくら口を揃えて言ってみても、それはNO!だ。それはありえない。わたしはそう考える。皆さんも覚える立場で言えば、「日出ずる処の天子」は推古天皇だと覚えた。しかし考えてみれば、そんなことはあり得ない。男性=女性ということは成立しない。本当のことを知らずに、覚えた頭ではともかくとしても、考えてみればそれはありえない。  又、「日出ずる処の天子」の多利思北孤は、聖徳太子だと覚えた。聖徳太子だと考えてみれば、彼は天子になったことはない。摂政に終わった。聖徳太子はウソをついて、天子でもないのに中国側を騙した。そういうことを書いた、皆さん誰でも知っている文化勲章をもらった有名な学者がいます。そんな嘘つきの推古天皇や聖徳太子を歴史の基本に据えるというのは、その人を日本の中でいくら高く評価されても世界で通用する論理ではない。  それではこれは何か。わたしの論理では「日出ずる処の天子」は、聖徳太子や推古天皇という近畿天皇家と関係がない。しかもすぐそばに、「有阿蘇山」と書いてある。だから九州にいる王者が「日出ずる処の天子」を名乗った。こう考えざるを得ない。先入観なしに、文章そのものを正確に解読すれば、そのようになる。そのことを、今のわたしから観るとハッキリとした証拠もある。  それは神護石山城(「神護石の分布図(A)」森禎二郎『北部九州の古代文化』明文社、一九七六年等によって作図)です。  これは何かと言いますと、山の中腹に、石垣をずっと囲って山城を造っている。何の目的かと云えば、災害の時に民衆が逃げ込める。また敵が攻めてきたときに逃げ込めるようにしている。また人が住むのに水が必要ですから、水が飲めるように流れる場所を造り、水のはけ口というか水門がある。  これも一時は第二次世界大戦後に性格をめぐって、単なる霊域だという神域説と山城説が対立していた。それをバブル期に佐賀県の教育委員会が、全国の神護石を調査したことのある考古学者に金を出して来てもらって、おつぼ山や各地を調査した。それで完全に山の中腹を取り巻いている石は、柵の下石であることが分かった。それで今では山城であることがハッキリした。  その神護石山城の分布図を見てください。南の端が筑後山門の女山(ぞやま)、西の端が今云った佐賀県のおつぼ山、東の端が福岡県では臨む唐原(とうばる)が海に臨んでいる。一番東の端が、山口県の上関(かみのせき)の岩城山。これらの神護石山城に囲まれている地帯が都の地帯。都の地帯を山城から囲んで敵から護ろうとした。敵というのは早くは高句麗、後には隋や唐です。そういう襲撃に備えた施設です。もちろん白村江の戦い以前です。『日本書紀』では白村江の戦いの後のように書いてあるが、白村江の戦い以前の間違いです。白村江の戦いで負けて唐の占領軍が入ってきてから、神護石山城が造れるわけがない。その分布図を見ると完全に福岡県を取り巻いている。これが「日出づる処天の子」の中心領域。奈良県を取り巻いてはいない。  その点、ある学者が無理をして、神護石山城以外の岩城を含めた山城をまとめて図にしたのが下の図(「神護石の分布図(B)」内倉武久『太宰府は日本の首都だった』ミネルヴァ書房、2000年)です。  これで奈良県に向かっているように見せかけた。この図では無理です。敵が入ってきたら、上陸される。瀬戸内海から入ってきても、ぜんぜん奈良県大和を取り巻いてはいない。いわんや出雲の北を通る対馬海流に乗って舞鶴までくれば、あっという間に攻められる。何も障害にならない。このような図Bを造ってみても無理なのです。ですから「神護石の分布図(A)」のほうが正しい図です。  ですから「神護石の分布図(A)」で観れば、七世紀前半、「日出ずる処の天子」の中心は、阿蘇山のある九州の一角にある福岡県が中心。だから「日出ずる処の天子」とは、九州の王者が言った言葉です。このような神護石山城を九州から、近畿に移し替えることは出来ませんから。石を剥がして、九州から近畿へ持って行くことは出来ない。本の『日本書紀』のほうは、九州王朝中心の歴史書をヤマト中心の歴史書に書き換えている。紙の上で書き換えることは、ある意味では簡単です。しかし九州中心の遺跡を、近畿中心の遺跡に持ってくるということは出来るはずがない。矛盾していればどちらが本当かと言えば、神護石山城のほうが本当で、『日本書紀』という紙の上で、九州王朝中心から近畿天皇家中心に書き換えたほうがウソです。これも覚えるアタマでなく、考えるアタマで観れば、他の選択はありえない。  まとめてもう一度言いますと、隋書イ妥たい国伝に出てくる、阿蘇山が書いてある「日出ずる処の天子」は、九州が正しい。明治以後の教科書は、嘘を平気で書いている。教科書だけでなく、テレビ・新聞もみんなウソを書き続けている。それでは、なぜそんなことがありうるのかとお考えになる。理屈は古田が言っているとおりだが、なぜそのようなウソを平気でつくのか。これについて、みごとな答えというか指針を示した人がいる。  わたしの尊敬する人で、江戸時代寛政年間の学者秋田孝季という人です。十八世紀から十九世紀の初めにいた人です。場所は秋田県秋田から福島県の三春や青森県の津軽にかけて、活躍した武士です。聞いたことがあるかも知れませんが、『東日流(つがる)外三郡誌』という膨大な本を書いた。  その彼の言ったことがすばらしい。法律の「法」の解説を彼はおこなっている。法とは、「戦いに勝てるもの、己が利益をするものを押しつくる。これを法という也。」それだけ! 一行か二行で終わる。つまり「法」というのは戦争に勝ったほうが、負けたほうや一般に押しつけるために、自分の利益を「法」と称した。そう書いてある。  たとえば明治維新。伏見鳥羽の戦いや戊辰戦争で徳川幕府側が負けた。薩長側が勝った。長州・薩摩は自分たちが偉いという代わりに、天皇家が偉いということを対抗として持ち出した。だから江戸時代の学問は将軍様が偉い。「親に孝、君に忠」という学問で、将軍様が偉いという学問を三百年近く続けてきた。江戸時代の学問とはそういうものだ。それは負けた方はチャラ、駄目になった。それに代わって勝った薩長側は、天皇家は太古の昔から永遠に偉いという歴史を、学界に従わせ教科書に書いて流布させた。これを「法」と称した。その「法」に従って、皆さんは暗記させられてきている。だから百三十年間記憶ロボットが大量に造られ続け、それが今日まで経ている。  これは明治維新だけではありませんよ。第二次世界大戦後というか敗戦後もそうです。今度はアメリカが勝った。今度は民主主義とか多数決が正義だという考えを持ち込んで、それが正義だという形が今まで続いている。それではお聞きしますが、多数決で広島に原爆を落としたのをどうやって合理化しますか。わたしなどは、それを聞きたい。いかにアメリカの多数が賛成したから合法だと称してみても、広島・長崎に原爆を落としたことをわたしはアメリカが合理化できないと考える。できないから勝った方の利益を「法」と称して押しつける。同じくもう一言、国際連合もそうです。勝ったほうが常任理事国と称して、自分たちだけが原水爆を持つ権利がある。それ以外はアウト。これも話はおかしい。しかしこれも秋田孝季の理論だと説明できる。戦争に勝ったほうが、自分の利益を「法」と称して負けたほうに押しつける。江戸時代の人である秋田孝季は、国際連合も現代もまったく知らない。その人の理論で、現代の説明ができる。これは凄いことです。簡単な紹介だけでやめておきますが。  秋田孝季の人となりについては、古田武彦・古代史コレクション10『真実の東北王朝』(ミネルヴァ書房)をご覧ください。 四、女王国はどこか -- 矛の論証  前半の八十分に少し時間があるようなので、最近の大きな発見があった。それについてお話ししたいと思います。 『魏志倭人伝』部分 兵用矛楯木弓木弓短下長上竹箭或鐡鏃或骨鏃所有 ・・・ ・・・宮室樓觀城柵嚴設常有人持兵守衞 女王國東渡海千餘里復有國皆倭種・・・去女王四千餘里 [資料] 倭人伝読み下し文 兵に矛・盾(たて)・木弓を用う。木弓は下を短く上を長くし、竹箭(ちくせん)は或いは鉄(てつぞく)、或いは骨鏃なり。 ・・・ ・・・宮室・樓觀・城柵、嚴(おごそ)かに設け、常に人有り。兵を持して守衞す。 女王國の東、海を渡ること千余里。復國有り。皆倭種なり。・・・女王を去る四千餘里。  従来は、「・・・兵を持して守衞す。女王國の東、・・・」と読みます。岩波文庫版を初め、わたしの知っている範囲のかたが、すべての解釈はそう読んでいます。わたし自身も岩波文庫に従ってそう読んできていた。今度高校生・中学生のかたに分かりやすくと思って、上に写真版を付けて、下に大事なところのみ、わたしの読み下し文を書いていた。その時に、この箇所は従来の読みは、違っているのではないか、このように考えてきた。このときは、従来の読みから代えて「女王を守衞す」と読み、「女王」という言葉が「守衞す」の目的語になると考えた。(発端は六月二十九日夜発見)  ところがこれが更に進展した。 (新しい解釈) 宮室・樓觀・城柵、嚴かに設け、常に人有り。兵を持して、女王國を守衞す。 東、海を渡ること千余里。復國有り。皆倭種なり。・・・女王を去る四千餘里。  つまり「女王」だけを護るのでなく、「女王國を守衞す」と読む。「守衞す」は自動詞でなくて他動詞。他動詞は目的語を持たなければならないので、それが「女王國」は目的語である。そして次が「東、海を渡ること千余里。復國有り」と続く。このように考えた。  これは現在では確定していると考えています。(新解釈は、七月四日〜五日夜発見)  なぜならば四書五経の一つである『詩経』の中に、「以て中国を守衛す」という言葉が出てくる。これは大越邦生さんに教えてもらった。 『詩経(十三經索引)』中国科学出版社     遣戍役成。文王之時。西有昆夷之患。北有嚴*充*之難。天子之命。 0413 命将軍。以守衛中國。・・・ 嚴*は、獣偏に嚴。 JIS第四水準ユニコード7381 充*は、獣偏に充。 JIS第四水準ユニコード72C1 の中で、 以守衛中国。 以て中国を守衛す。  つまり「守衞す」という言葉は自動詞でなくて他動詞。だから他動詞は目的語を持たなければならない。「中國」という目的語を持ちます。「中國」、これは現在の中国ではなくて、当時の黄河あたりの中心部分のみの小さな中国を指します。これは『詩経』ですから、『三国志』より前の話です。つまり『三国志』を書いた陳寿は、『詩経』をとうぜん読んでいる。『三国志』を読む読者も、とうぜん『詩経』は読んでいる。「以守衛中国」という言葉を知っている。だから『詩経』のルールに従って読むと、「女王國を守衞す」と読み、「女王國」という目的語として読まなければならない。  現在では、この小さな考えに確信をもっております。確かに小さな話です。ところがこの小さな考えが、大発見となってきた。  先ほど述べたように女王国の中心には、女王がいる。その女王がいる「宮室」は「兵」に守られていると書いてある。別の箇所に「兵に矛・盾(たて)・木弓を用う。」と書いてある。木製の「楯」は腐ってわからないけれど、「矛」は現在でも残っている。つまり女王の居るところは「矛」に囲まれていると書いてある。そうすると考古学で「矛」に囲まれているところはどこかと言いますと、一目瞭然(いちもくりょうぜん)。博多湾岸とその周辺しか矛は出ていない。奈良県は弥生時代・古墳時代、どこをとっても奈良県はゼロなのです。だから奈良県はアウト。筑後山門も矛は出ない。朝倉も矛は出ない。太宰府も弥生時代はアウトに近い。セーフなのは福岡県春日市。一つの甕棺(みかかん)から、五本まとめて矛が出てきたこともある。  いわんや今度、矛の鋳型は百パーセント博多湾岸とその周辺。分布図を見てください。 北部九州・銅器の鋳型分布図。(参考、樋口隆康編「大陸文化と青銅器」『古代史発掘』5講談社)  そうしますと女王国として「矛」がでる「宮室」のあるところは、百パーセント博多湾岸と福岡県春日市。そこしか矛の鋳型は出ていない。他は全部アウト。だから女王国の「宮室」のあるところは、特に福岡県春日市以外にはあり得ない。わたしの『魏志倭人伝』の解釈から言っていた結論がさらにダメ押しされてきた。  もう一つ大事なことがある。次にこの読み方では「東、海を渡ること四千餘里。」となる。つまり女王国の宮室は海に面している。「矛」で守衛していると言って、その直後に「東、海を渡る」とある。奈良県大和からは東、海を渡れない。筑後山門からも東、海に渡れない。朝倉からも東、海に渡れない。太宰府からも東、海を渡れない。やはり博多湾岸の春日市、この地帯の「宮室」からしか海に渡れない。この時期には、博多湾岸はだいぶ入り込んでいたから太宰府は海に近い言えば言えるかもしれないが、現在の春日市は女王国の中枢のある場所の表現としてふさわしい。  この発見は小さいと最初は考えていた。しかし良く考えてみると、「女王國を守衞す。東、海を渡ること千余里。」の表現は、女王国の中枢を特定するにふさわしい効果を持っていた。  それで今日皆さんのおかげで、おもいがけない発見をお話しすることができました。この話をもって、前半の話を終わらせていただきます。 (講演後半) 五、「卑弥呼 ヒミカ」について  先ほどから回覧しているカラーの絵は、お手元の資料一枚目にある「太陽の娘ヒミカ」の絵です。本来カラー版ですの見ていただくためお回ししています。  (『なかったーー真実の歴史学』第五号 ミネルヴァ書房)  後半は一般に言われている邪馬台国の女王卑弥呼(ひみこ)から入らせていただきます。今すべての新聞・テレビ・教科書などでは「邪馬台国の卑弥呼(ひみこ)」と言われています。しかし先ほど述べましたように『魏志倭人伝』では、どこにも「邪馬台国」と書かれていない。「邪馬壹国」と書かれていることは前半で述べましたとおりです。  次に「卑弥呼」の読みですが、わたしは、「ヒミコ」と読むのではなく、「ヒミカ」と読むのが適切だと考えています。その理由は、いろいろありますが、『魏志倭人伝』の中に対馬である対海国の長官に「卑狗 ひこ」が使われています。これはわたしの名前の「彦ひこ」と同じです。ですから「狗」は「コ」と読まれていることは疑いない。ところが「卑弥呼」の「呼」は、「カ」と「コ」と両方の読みがある。呼吸の呼(コ)だから、われわれは「卑弥呼 ひみこ」をと読みやすいのです。しかし『魏志倭人伝』で「コ」と書くなら、「卑弥狗 ヒミコ」と書くべきだ。しかし「卑弥呼」と書いてあるということは、「呼」の古い音が「カ」です。しかも「呼 カ」という音の意味は、神様に供え物をするときに中国で使われる。神様に動物、牛とか豚とかを捧げますが、この場合はただ捧げるのではなく、神様も食べにくいということで傷を付けて捧げる習慣がある。その切り傷のことを「呼 カ」と書き、宗教的な儀礼に使われる言葉なのです。『魏志倭人伝』で「狗」を使わず「呼」を使っているところから、「呼」の音は「コ」でなく「カ」のほうだと考えています。  「卑弥呼 ヒミカ」の「ヒ」は太陽の日の意味です。それで瓶(カメ)というのは水を飲んだり煮炊きする容器のことですが、それに対して神様に対してお供えのお酒を入れる容器を甕(ミカ)という。「ミ」という尊敬の敬語を付けている。日用品の「瓶 カメ」の方は、「カ」だけでは言いにくいので、「メ」という接尾語を付けた。実体は「カ」という土器を指すみたいです。「瓦」の「カ」でしょう。「甕 ミカ」というのは煮炊きをするわけではない。遺体を葬るのに、神様に捧げる神聖な水や酒を入れる「甕ミカ」という容器に、そこに遺体を入れる。そして亡くなった人が永遠に再び生まれ変わることを願う。そういうマジックだと思う。よく甕棺(かめかん)と言われますが、明治以後に考古学者が勝手に付けた名前で、本当は甕(ミカ)棺と呼ぶのが正しい。「卑弥呼 ヒミカ」という名前の本源は太陽の甕(ミカ)という意味であろう。そのように考えてわたしは「卑弥呼 ヒミカ」と呼んでいるわけです。  今日の新しい展開は、実は「卑弥呼 ヒミカ」という呼び名と邪馬壹国の「壹」が、実は同じ意味を担っている。  言葉の意味としては、「邪馬」はもちろん山・ mountainの意味です。「壹 イチ」の「イ」は「神聖な」という意味の接頭語です。たとえば伊勢神宮の「伊勢 イセ」も「イ」は同じく神聖なという意味、「セ」は「瀬」で、字は当て字が書いてあります。ということで、日本語の地名に残っている接頭語の「イ」は「神聖な」という意味を表しています。現在ではアイヌ語でそれが残っています。それに対して、「壹 イチ」の「チ」は、神様の古い言葉です。あしなづち、てなづち、やまたのおろち、おうなむちと出雲神話で出てきますが、そこに出てくる「チ」は、皆いずれも神より古い名称の神様です。これも学界で承認されている考えかたです。ですから「壹」の「イチ」は神聖な古き神という言葉の意味です。その問題は日本評伝選『俾弥呼(ひみか)』(ミネルヴァ書房)で詳しく書いてあります。  問題は「邪馬壹国」の「壹」にあります。わたしは今まで、卑弥呼(ひみか)の次に壹与(いちよ)と人が出てきます。あの時に「邪馬壹国」という言葉を使ったのではなかろうか。卑弥呼の時には使われなかったのではないかと内心思っていた。ところが今回そうではなかったということが判明した。  時間の関係で結論だけ言いますと、「壹」という字は、中に「豆」という字が入っている。「豆」は「トウ」と読み、「食飲用邊*豆手食」と『魏志倭人伝』では一回出てくる。倭人は食飲をするときに、「邊*豆」を用いて手食すと書かれている。「豆トウ」という字は、食べ物を入れる器の格好をそのまま字にしたものです。食べ物を食べるときに載せる容器を「豆トウ」と言っています。ところが『魏志倭人伝』に書いてあるのは三世紀。それより、より古くは神様に捧げる供え物を入れる容器を「豆トウ」と呼んでいる。この証明は出来ますが、時間の関係で結論として、人間が食べる容器の前には、神様に捧げる供え物の容器が「豆トウ」である。その「豆トウ」が「壹イチ」に使われている。「壹」という字の「士」の意味ですが、人偏を付けると「仕える」という語句です。だから「士」は決まって仕事をしている人を指す。後にはわれわれは「士 サムライ」と言っているが、武士に限らない。武士も決まって仕事をしている人の一つです。次のワ冠の「ワ」は、ものを置く台のことです。だから容器の上に台を置いて、神様に供え物を載せるのが、「壹イチ」という字の本来の仕組みです。これが分かった。生意気言うようですが『諸橋大漢和辞典』とか中国の『康煕字典』は全部ダメになった。もっぱら横棒の「一 イチ」と同じ字義だとしか説明は書かれていない。横棒の「一 イチ」は、英語のone・two・threeのoneに当たることはわかり切っています。しかし問題は横棒の「一 イチ」を、なぜこのような面倒くさい字であえて使うのかの説明はない。『諸橋大漢和辞典』を見ても、元になった中国の『康煕字典』にも説明はない。      邊*は、「邊」に竹冠。JIS第四水準ユニコード7C69  どこにあるかというと『魏志倭人伝』にある。卑弥呼(ひみか)の使用方法にある。「邪馬壹国」の「壹」は、神様に供え物を載せて仕えている習慣をもつ国のことです。それを卑弥呼(ひみか)は、送った上表文にその「壹」を使って「邪馬壹国」と書いたから、陳寿はそれを採用して書いた。そのような結論になる。これはわたしにとって本当の大発見になる。まさか、それまではと考えていた。今まで「邪馬壹国」と陳寿が書いたという線で、それまで処理してきた。たしかに中国では、「壹」という字は「下心がない」という意味でもっぱら使われてきた。呉や蜀に忠節を尽くすのではなくて、魏という王朝にだけ忠節を尽くすという意味で、中国側が受け取っていることは間違いがない。しかし日本側は、三国対立の三世紀にやっと出てくる「下心がない」という薄っぺらな意義ではなくて、もっと古い神様に供え物をする伝統を持った国という意味を込め、そういう自分の国のことを、誇りを持って、卑弥呼(ひみか)は表記していた。  これがなぜそうなるかの、くわしい説明はあらためて書きますし、講演なら毎年十一月東京八王子で行われる大学セミナーで、問題になると思います。以上が「壹」の問題です。 六、未来を切開くあなたに  今度は以前から考えていた思想の問題が、大きな問題に発展しつつある。それで思想の問題について、すこし触れさせていただきます。  何かと言いますと、先ほど「邪馬壹国の卑弥呼(ひみか)」で述べましたように、公(おおやけ)の日本の歴史はかなりインチキだ。そういうことを言いましたが、残念ながら日本だけの問題ではないのではないかと考えています。日本評伝選『俾弥呼(ひみか)』(ミネルヴァ書房)をお読みになったかたは、最後に出ていることはご存じだ。  何かと言いますと『聖書・Bible』は、「神が宇宙を造った」という言葉から始まっている。あれはウソです。こう言うとクリスチャンのかたは「何を言うか」と思われるでしょうが、わたしから見ると、最初からウソです。『旧約聖書』のヘブライ語の原典では、先頭は「神」という言葉が複数形で書いてある。単数形ではない「神々」と書いてある。つまりGodではなく、Godsと書いてある。Godsに当たる言葉がヘブライ語で書いてある。つまり「神々が宇宙を造った」という言葉から始まっている。これはわたしから見ると非常に筋が通っている。なぜ非常に筋が通っているかと言うと、旧約聖書の世界は、紀元前三千年前やたかだか紀元前五千年前の話です。ところが人間は一万年前、四万年前から存在している。キリスト教もユダヤ教もまだない段階。その時代は皆多神教の時代です。その段階でもその宇宙・世界を誰が造ったという問いかけは、人間の中には必ずあったはずです。その時代は皆多神教の時代ですから「神々が宇宙を造った」という話にならなければおかしい。まさにその通り書いてある。その中から「神」、「エホバの神」というキリスト教、またユダヤ教にとっても唯一の神が誕生されたという話になっている。言ってみれば『旧約聖書』は、「エホバの神誕生譚」のような書物です。その誕生譚の始まりは、複数の「神々」が、宇宙を一日や二日でお造りになった。わたしのようなクリスチャンではない東洋の日本人として『旧約聖書』をまともに読んでいけば、そうとしか考えられない。なにより『旧約聖書』のヘブライ語の原典では「神々」と複数形で書いてある。  ところが今世界中で最大の発行部数を持っている『聖書・Bible』は、英語・フランス語・ドイツ語など全世界で翻訳され発刊されている。その『聖書・Bible』は、全て複数形のGodsではなく、単数形のGodと書き直して発刊されている。なぜ書き直しているか。その理由はハッキリしている。唯一の神、エホバの神がこの宇宙をお造りになったという形にしたかった。これも結論が先に決まっている。複数の神々では具合が悪い。だから複数の神々を単数に書き直して、英語・フランス語・ドイツ語など全世界で発刊されている。すべて単数に改竄(かいざん)してある。ですから今全世界で発行されている『聖書・Bible』は調べてもどれ一つ例外なしに改竄(かいざん)形、偽の『聖書・Bible』である。本当の『聖書・Bible』は、先頭は複数形の神々でなくてはならない。  この問題はいろいろの問題に発展しますが、問題意識を持たれるかたがあれば、わたしの本を見てください。  先ほどの日本の歴史の場合、天皇家が日本の歴史をお造りなった。そういう大前提にあわない「邪馬壹国」を「邪馬台国」に直して「ヤマト」と読んだ。なんと酷いことをするのだと、皆さんは思われたでしょうが、それと同じことをしているのが、ヨーロッパ・アメリカの『聖書・Bible』。わたしから見るとそれはアウト。駄目です。自分たちの都合がよいイデオロギーで原文を改竄(かいざん)する。その改竄した原文をもとに、いくらものを言ってみても合うのが当たり前です。自分の望んでいる形に、合わないものを合うように代えている。同じ間違った方法を取っているのが『聖書・Bible』です。このことを日本評伝選『俾弥呼(ひみか)』(ミネルヴァ書房)の「2 日本古典とバイブル批判」で論じている。  この問題はキリスト教の『聖書・Bible』だけでない。同じ間違いをしているのが仏教である。時間の関係で入り口だけを言いますと、お釈迦さんについての解釈も、わたしは怪しいと思う。そういうと仏教徒の人も怒り狂う人もいそうですが。なぜなら原始仏教の中の八正道、八つの正しい行いがあるでしょう。良いことがずっと並んでいる。あれはどうも、わたしの目にはきれい事が並んでいて見え透いていると思う。もちろんこれについて論じた本がある。今の仏典の漢訳はまちがっている。なぜならサンスクリット語から見ると、漢訳はまちがっていることを論じた本もある。それはそれで良い研究だと思う。しかしわたしから見るとサンスクリット語の仏典があやしい。サンスクリット語の仏典そのものが改竄(かいざん)の結果だと考えています。  なぜかと言いますと皆さんご承知のとおり、お釈迦さんは小さな国の国王の息子、王子として生まれた。ところが釈迦は出家した。この出家という意味は、われわれが今使っている意味とだいぶ違います。それでお釈迦さんは国王になるはずだったが、国王であることを止めてしまった。国家は、釈迦が次の国王になる予定で進行していた。それを彼は裏切った。さらに奥さんを裏切っている。奥さんは結婚するとき、出家して外へ飛び出して行くなどは思いもしなかった。国王にやがてなる人だど思って結婚した。その奥さんを放っておいて出て行った。子供もいた。子供も親が出家するということを望んで生まれてわけではない。国王の息子として生まれ、王子として育てられた。それがいきなり親父が飛び出して、裏切った。  これは国家に対する裏切り、父親に対する裏切り、母親に対する裏切り、そしてまた妻に対する裏切り、子供に対する裏切り。何重もの裏切り、五重の裏切りを行ったのがお釈迦さんという人物である。わたしはそう思う。そうしますと彼の一生において、そのことを片時の一瞬も忘れたことはない。これはわたしの想像ですが、わたしはそのように想像する。わたしの想像は間違っていますか。彼は昔話として、そのことは忘れて一生楽しみましたよ。そんな記憶喪失の人物とは、わたしは思えない。彼は一生死ぬまで、その裏切りのことを悩みつづけたのが彼だ。片時も忘れたことはないと、わたしの想像ですがそう思える。  それから見ると、八正道だか、十正道知りませんが、きれい事過ぎる。みんな良いことばかり書いてある。みんな良いことばかり。裏切って一生悩み続けた男の勇気のある顔は伝わってこない。つまり偽物だ。お釈迦さんの良い面ばかりを強調した偽のコマーシャルが、サンスクリット語の聖典である。それを読み間違えた漢訳ももちろんそうです。サンスクリット語の聖典、そのものが偽物です。それがわたしの率直な感想です。  わたしは「仏像論」(古田史学会報九十三号、二〇〇九年八月十二日)として書いたことがありますが、仏像はきれいすぎる。柔和なみんな良い顔ばかりしている。あれはやはり美化された男の顔である。五つの裏切りで生涯悩みつづけた男の顔に、わたしには見えない。だから釈迦の本心は隠して、表面の良いとこ取りの男の顔を仏像にでっち上げたにすぎない。わたしはそう思う。  だから絵を描いたり彫刻が得意な人がいたら、本当に死に至るまで裏切りに悩みつづけた男の顔を描いて欲しい。仏像にして欲しい。そういう絵は、すばらしい男の顔になる。すばらしい彫刻になる。わたしのとっての釈迦は、死に至るまで裏切りに悩みつづけた素晴らしい一人の釈迦という男の姿。その人生を書いた伝記を、わたしは見たことがない。どの仏教の高僧の本でも、どんな高名な作家の書いたものでも、今わたしが言ったような釈迦像を描いたものは見たことがない。そのことを描くべきだ。書くべきだ。  そういうと古田さん、あなたがそのような伝記を書けば良いではないかと言われた。その通りですが、わたしに書くべきだと言われても、もう八十五歳になる。京都に帰る前にバッタリ死んでいても不思議でもない。しかし誰が書いても良いから、そういう釈迦像を書くべきだ。出来れば日本で書くべきだ。わたしはそのように思う。  このことはイエスも同じです。資料的にはありがたい状況にある。キリスト教の決めた『聖書・Bible』ではなくて、他から出てきた本来のイエスの伝記がある。エジプトから出てきたトマス福音書や、インドで伝えられている聖典。それらは『聖書・Bible』で描かれたイエスとはだいぶ違う。本当のイエスを正確にとらえて、誰かがイエスを正確に描いてほしい。ヨーロッパ・アメリカのようなクリスチャン王国でのイエス像ではダメです。キリスト教の決めた『聖書・Bible』で汚染されているから、それ以外のイエスを描けば袋だたきの目にあう。できれば日本人はやはり、それを書くべきだ。  子供の時から売笑婦の息子だと悪口を言われ続けて育ったイエス。又売笑婦と一晩泊まったときに、心がいちばん和む本当の人間の付き合いを語ったイエス。そういうイエスを描いてほしい。  要するにわたしはすべて同じことで、良い体裁のものではなくて、本当の人間の本音を表現したものに包まれるべきだ。そういう立場だ。  この点も一言申せば、今までの宗教はすべてダメだ。こう言えば怒り出すひともいるでしょうが。  なぜダメかというと、今までの宗教を造った人は原発を知らない。原発によって限りなく地球が汚染するわけです。何十万年も汚染し続ける。そういう事実を、イエスもマホメットも孔子も原発を知らなかった。知らなかったのは、彼らが悪いのではない。時代が早かったからにすぎない。だから原発の放射能が存在するということを知った上で、限りなく地球が汚染することを知った上で、人間はいかに生きるべきか、問いかける時代にやっと入った。正確には、理論的にはヒロシマ・ナガサキから入ったのですが、時代的にはフクシマから敢然に問いかける時代に入った。  それらを敢然に受け止めて、新しい宗教、本来の宗(むね)とする教えを確立すべき時期に入っている。宗教という言葉は、ヨーロッパのregionの訳ではない。江戸時代以前からある言葉だ。  ついでに言わせてもらえば今の宗教はだらしない。原発を絶対認めない。原発を推進する者は、自分の宗派では死んでも葬式をおこなわない。そういうことを言っても良いのに、誰も言わない。自分の宗派も、原発反対の旗印を掲げましたよと言う無罪証明のレベルに留まっている。後は経済優先。政治優先で適当に行きましょう。この態度はインチキ。宗教という本来の宗(むね)とする教えではない。そういう感じをわたしは持っています。  そういう意味では、今の日本は本当におもしろい。ホントのことを本気で言うことが出来る、この地球上で一つの島になっている。だから若い人が、若くなくても良いが、ほんとうに出てくることを期待してる。自殺などをしている暇はないのではないか。これがわたしの今の理解でございます。 参照 講演記録 二〇〇四年六月六日 大阪市中央公会堂 「原初的宗教の資料批判 ーートマス福音書と大乗仏教」古田武彦(『古代に真実を求めて』第八集、明石書店) 七、稲荷山鉄剣の銘文新読解 -- 「臣」か「豆」か  もう一つひじょうにおもしろい話をさせていただきたい。これは『関東に大王ありーー稲荷山鉄剣の密室』(創世記、後新泉社)という昔の本で取り上げた「稲荷山鉄剣銘文の読み」についての最新の理解について話させていただきます。   当初の解読 辛亥の年七月中記す。オノワケノオミ、上祖名(かみつおやのな)オオビコ、其の児の名カリノスクネ、其の児の名テイカリのワケ、其の児の名タカシシのワケ、其の児の名タサキワケ、其の児の名ハテイ、其の児の名カサヒヨ、其の児の名オノワケノオミ。世々、杖刀人(じょうとうじん)の首(かしら)と為して奉事(つか)え、今に至る。ワカタケル大王の寺(役所のこと)、斯鬼宮(しきのみや)に在りし時、吾、天下を左治(さじ)し、此の百練の利刀作らしめ吾、記し奉事するは□□なり。 ーー埼玉県教育委員会発表ーー(狩野久、田中稔、岸俊男氏ら)  この本も通説とわたしの理解とは、ぜんぜん違う。そのことについて述べた本です。要点を言いますと、埼玉県稲荷山古墳から出てきた鉄剣。そこに金石文が彫り込んであることを女性が赤外線で発見されて、大きな話題を呼んだ。  通説としてどういう風に読まれたかと言いますと、そこにワカタケルという人が「大王」として書かれてあった。この「大王」というのは雄略天皇のことだ。その解読を当時の代表的な学者、岸俊男さんと大野晋さんなどが新聞社に箱詰めにされて行い、新聞やテレビでいっせいに紹介された。  このときは、わたしのところにテレビや新聞が殺到した。なぜ殺到したかというと、わたしの九州王朝説というのが、従来の大学の学者には邪魔だった。しかし九州王朝説に反論できなかった。ところがこの稲荷山鉄剣銘文によって反論できる。つまりこの分かっている大王は雄略天皇だ。それで西は九州、東は関東まで大和朝廷が支配していた。そう理解できるから、古田の九州王朝説はアウトだ。セーフの時は何も言ってこなかたったのに、アウトだと判断したとたん、いっせいに各新聞がわたしのところに取材に来た。  たいへん省いて言いますと、わたしは結論としてその解読は間違いだ。何かと言いますと「斯鬼(しき)宮」というところに大王が居ると書いてある。対して雄略天皇は、長谷の朝倉宮に居ると『古事記』・『日本書紀』に一致して書いてある。それを通説の解読では、長谷の朝倉宮は広く解釈すれば奈良県大和の磯城郡の一角だから、鉄剣の銘文に読んだのだろと想像して解釈した。別に明確に書かれたものはない。ところが、何を隠そう、埼玉県稲荷山の利根川の対岸の栃木県藤岡町に大前神社があった。明治の初めにできた石碑に、ちゃんと石碑銘に「大前神社其先号磯城(しき)宮」と書いてある。だから「斯鬼(しき)宮」と書いてある字は違いますが、稲荷山の利根川対岸のすぐ前の「磯城宮」であるというのが、わたしの考えです。すぐ対岸の「斯鬼(しき)宮」のことを忘れて、奈良県大和の雄略天皇にあてるということはおかしい。  しかも、その中には考古学上の重大な問題がある。これは森浩一さんが指摘したことです。この稲荷山古墳には墓が二つある。前方後円墳の後円部の端のほうを発掘したら、この剣が出てきた。ところが実は、後円部の中央部にも墓がもう一つあった。あったというのは中央部に空洞部分があって、金銀銅など金目のものは無かったが、鉄製品などの残欠が出てきた経過がある。後になって、そのことが分かった。そのことを箱詰めにされた岸俊男さんや大野晋さんは知らずに解読した。別の理解を言いますと、中心のお墓は、かって盗掘された古墳の中心部にあるお墓です。今度見つかったのは副室のほうです。ですから副室ということは、古墳の中央部にある主室のそばに、死んでもご主人の側で眠りたいという希望で副室が造られた。そういう死んでもご主人の側に居たいという人が、このご主人のことはノータッチで、銘文は奈良県大和の雄略天皇のことばかり書いていると理解する。そんなことがありうるのか。しかもこの「大王」は共通一次の試験で、雄略天皇のことだと試験に出ている。共通一次の試験に出されるから、間違いがないと考える人も居ますが、いくら共通一次の試験にも出題されるからと言って、まったくの間違い。おかしいことには代わりはない。このことは、『関東に大王あり -- 稲荷山鉄剣の密室』(創世記、後新泉社)で指摘している。この指摘に知らないふりをして、まったく答えようとしていないままに、二十年以上経っている。そういうことがあった。  この稲荷山鉄剣銘文の読みを、今なぜ問題にするかと言いますと、今年五月に東京の北多摩病院というところに、検査で三週間ばかり入院した。加藤一郎院長が、わたしの大フアンです。それでおもしろいことには、昼間は体を検査したり手術もしたが、夕食の時間から加藤院長がわたしの部屋に来て、わたしとの古代史の対談の時間になる。  それで加藤院長が、『関東に大王あり』という本を持ってきてわたしに言うのです。こういう字がある。二回ばかり出てくるが、一行目と四行目に出ている。いずれも従来「臣」と理解している言葉がある。この言葉を「臣」と理解していることは、岸俊男さんや大野晋さんをはじめ他の人は、すべてそのように理解していた。わたし自身もそう理解していた。ただわたしは奈良県大和の雄略天皇でなく、この古墳の中央部に祀られているご主人に対する「臣」だと理解していた。関東に大王あり、「磯城宮」の王者であり、その配下としての臣である。そのように理解していた。  ところが加藤さんが、この字は、どうも自分は「臣」とは読めない。そら豆などの「豆」と読めると言われた。  その時わたしは、とにかく帰って書体の辞書などを調べて見ましょう、とお答えした。ところが二・三日考えて見ると、やはり加藤さんの言うとおりだと、わたしは考えた。なぜかと言うと、中国の史書の中に日本では有名な『宋書』の上表文がある。その上表文で倭王武は自分のことを「臣」という言葉を二回使っている。このときは南京にある南朝劉宋の天子に対して、「臣」という言葉を二回使っている。ところが「臣」という言葉は、天子に対する言葉だ。ところがこの銘文の文章では、天子はまったく出てこない。「大王」しか出てこない。大王は天子のひとつ下の位です。用法として、大王に対する「臣」ではおかしい。そのことに気がついて、やはり加藤さんの言われたとおりの「豆」と読むべきだと考えた。  それでは「豆 マメ」とはなにか。真実の「真」に「豆」と書いて「真豆 マメ」と読む。ですからこの鉄剣の「豆」は、ほんらい「真米 マメ」と書くべき本人の名前でと考えました。『魏志倭人伝』でも南升米(ナン・シメ)と読むべきだと、日本評伝選『俾弥呼』で論じていますが。「南」が姓で、「升米 シメ」が名前であると論じました。この「真豆 マメ」と「升米 シメ」が日本語として同類の人名である。それではなぜ「真米 マメ」と書けば問題ないものを、なぜ植物の食べる「豆」と書いたのか。  そこで先ほどの「邪馬壹国」の「壹」を論じたときに、人間が食べ物を食べるときに載せる容器を「豆 トウ」と言いました。同じく三世紀の『魏志倭人伝』では人間が食べる入れ物を「邊*豆」と言っていますが、それ以前は神様に捧げる供え物を入れる容器を「豆 トウ」と呼んでいると言いました。  そうすると、ここの稲荷山鉄剣銘文は、すべて神様にお供えする話ばかりではないか。祖先を祀る話から始まって、最後は祖先を自分が祀る本源・いわれを書いている。間に祖先の名前をつぎつぎ書いている。すべて自分の祖先を祀る話ばかり。そういうと、この「豆トウ」という解読は、神様を祀る話にピッタリ。それを知って、この「豆マメ」という字を、神様に捧げる供え物を入れる容器である「豆トウ」という字で表したのでないか。    邊*は、「邊」に竹冠。JIS第四水準ユニコード7C69  そのことは八月出版される『壬申大乱』という本の「日本の生きた歴史(十三) 第三 「臣」か「豆」か ーー稲荷山鉄剣の銘文新読解」に書きました。  もう一つおもしろい問題に出会った。金石文というのは第二資料である。  皆さん聞いて、えっ、何を言っているのと思われるでしょう。金石文というのは、第一資料である。そういう話はお聞きになったことがあるでしょう。紙に書いたものは、つぎつぎ写すから書き換えられたり違ったりするから、第二資料である。それに対して金石文というのは、変わらないから第一資料である。このことは嘘ではない。ではもっと本当のことか。言い方は変ですが、金石文というのは第二資料である、そのことに昨夜から今日にかけて気がついた。何かというと金石文を彫り込むときに、その彫り込む技術者が文章を頭の中で考えて、いきなり金石文に彫り込んで書くでしょうか。ゼロとは言い切れないないが、ほとんど例があるとは思えない。ほぼゼロに近いと思う。それでは何かと言いますと、紙や木簡、そういうものにまず筆で書く。それを金工などの技術者が見て彫り込んで写す。そういう意味で紙や木簡などに書いたほうが第一史料で、金石文のほうは第二史料。言ってみれば当たり前。その視点からすれば、金石文というのは第二資料である、というテーマが出てくる。その場合には金石文を書く技術者は、文字にくわしい人とはかぎらない。目の前の紙や木簡に書かれた第一史料を写すわけです。そのとき写し間違いが起こる。  この例として『和田家文書』を取り上げます。明治時代ですが和田末吉さんが文書を写している。彼は農民で漢文を写す、また漢文を読み下すというのは立派なのです。ですがしょせん彼のレベルの漢文で写すものだから、写し間違いをしている。漢文にならない末吉もどきの、下手な漢文になっている。また写すとき誤字があちこちから出でてくる。だから安本美典さんは、それを捉えて偽書だという。しかしわたしから見ると話は逆であって、末吉が誤字がこれだけ多い、これだけ変な漢文もどきに写すというのは、江戸時代寛政原本という元文があったからです。それから末吉にとっては、墨で達筆な文字が書いてあれば読みにくい。それで読み間違える。またへたな末吉もどきの漢文に読み下すから、変な漢文になる。これはむしろ彼が偽物を創作して写すのであれば、こんな変なことはしない。間違った字は使わない。末吉の知った範囲で書く。むしろ間違った解釈で書くということは、達筆の元文があった証拠です。はたして「寛政原本」があり、発見された。  引き返して言いますと、今のような問題が末吉の『和田家文書』の明治写本の問題だけではなくて、実は稲荷山鉄剣の銘文にもある。そのことに、昨夜から今日にかけて気がついた。何を言っているかというと、こういうことです。 古田武彦・古代史コレクション『壬申大乱』(ミネルヴァ書房)「日本の生きた歴史(十三) 第三 「臣」か「豆」か ーー稲荷山鉄剣の銘文新読解」P355の(稲荷山鉄剣の銘文)  つまり「臣」という字は、囗(くにがまえ)という四角に囲む一方がないだけで、三方は直線がきちんとある。これを墨で書いてみると、第一画を書いて第二画に移るときは、第一画の羽は、少しの羽しか出ない。また羽は第一画内に収まる。第二画とは離して書く。直線でせっかく書いてあるものを斜めにはしない。金工の技術者が、筆で木簡や紙に書いたものを、こんな字に見間違えることはゼロでないが、たいへん有りにくい。  それに対して「豆」という字を筆で書くとき、達筆であれば、第一画を書いて第二画に移るときに、羽を付けて続け字として書く。第二画目を筆で書いたとき、第一画目とつながって書く。金細工職人は第一画目の「はね」を文字の実態と勘違いして誤読した。続け字の「はね」を書くべき「文字」と勘違いして、そのまま彫り込んだ。これはあり得るでしょう。第一資料が達筆だっだら。これなら理解できる。ですが逆に「臣」という字の、縦棒を第何画目に書くか分かりませんが縦棒と間違えることはあり得ることではない。わたしの理解はどうでしょう。  そうすると加藤さんの見立て通り、達筆で書いた「豆」だった。それを『和田家文書』の末吉さんと同じように、字をよく知らなくて稲荷山鉄剣の金工技術者が誤読してしまった。誤読したまま金石文にしたから、このような変な字になった。この経緯なら、わたしには分かる。  だから金石文は第二史料である。稲荷山鉄剣の金細職人は、第一史料の紙に書かれた文字を誤読して、そのまま彫り込んだ。これが結論です。 質問に答えて  それで時間が少しありますので、難しくないようでしたら、先ほどの質問の回答をできる限りしたい。できないものは電話なり書面なりで返答したい。 質問一  愛知県多治見市の加藤さんから、「一大国」は、天国の判じ物ではないでしょうか。」「一大」という字を合わせたら「天」という字になる。 (回答)  これは今まで何回かご意見を聞いたことがある。わたしにとって初めての質問ではありませんが、ご意見の可能性は十分にあります。一大国は、「天」という字を分解して「一大」にしたものである。これは天国(あまくに)を、「一大国」にした理由なのです。これはおもしろい。面白いですが、わたしはそうだと言い切れないのは、「対海国」である対馬も天国です。壱岐だけが天国で、対馬が天国でなければ良いのですが、両方とも天国だからちょっとどうかなというのが、わたしの今の感じです。これも成り立ちうる解釈の一つでもあると前々から思っていたテーマでございます。 質問二  瀬戸市の藤田さんからで、古田武彦さんの『親鸞』に導かれて古田武彦さんの考えに興味を持った。今回聞いた『魏志倭人伝』の読み下し文も情けないことですが、読み下し文に頼っていたので、漢文をよく読めないでいました。先生の説では短里=七十五メートルとのことですが、よく分かりません。先生の説を勉強してみたいです。古田先生の元気な姿を見てうれしくなりました。これから皆さんのますますのご活躍を期待しております。 (回答)  わたしの親鸞関係の図書は、明石書店から三冊ともでかい本ですが、『わたしひとりの親鸞』『親鸞思想』『親鸞 ーー人と思想』として出ております。その中の『わたしひとりの親鸞』の件ですが、明石書店から、明石選書にして出したいからと承諾して欲しいと申し出があり、昨日喜んで承諾の返事を最近したばかりです。ちょうどわたしは親鸞についてもまだ書きたい問題がたくさんある。それで、また書きたいと考えています。  それで『魏志倭人伝』では、短里で一里=七十五メートルで書かれている。このことは日本評伝選の『俾弥呼』(ミネルヴァ書房)でも改めて書きましたが、わたしは現在間違いないと考えております。  なぜ間違いないと考えているか。それは『魏志倭人伝』の中に「女王自郡至女王國萬二千餘里・・・計其道里當在會稽東治之東」とあり、一万二千里の後に、「その道理を計るのに会稽東治の東に在り」と書いてあります。一万二千里が短里だと、倭国は会稽東治の東にありますと書かれている。もし一万二千里が長里なら、赤道のほうに行きぜんぜん合わないが、陳寿は倭国が「会稽東治の東」にある証拠だと観て書いている。会稽は中国本土にある。そこが洛陽からどれくらい離れているか。陳寿たちはよく知っている。『三国志』の読者もよく知っている。本土のほうも短里でなければ、倭国は会稽東治の東に当たっていると言えるはずがない。中国本土は長里だという主張の人が未だに居ますが六倍もの長さは、会稽東冶(かいけいとうや)ぐらいでは収まらず台湾を超え太平洋の海中になる。まったく距離も方角も違っている。中国本土と倭人伝の距離が共通の単位でなければ、あの文章は成り立ち得ない。さらに陳寿が書いた『三国志』は、同時に魏の朝廷の正史ですから、官僚が皆見て知っている内容です。読者も魏の時代の人は短里と知って読んでいる。だから今のような長里というとんでない解釈では、正史となるはずがない。このことから見ましても、中国本土内も短里で書かれていると理解しなければならない。それを後の長里で解釈したものもありますが、今のような結論とまったく矛盾していて、統一できないとわたしは考えています。短里や里程の話は、内容は今日は特にしませんでしたが、質問通り短里である。中国内も倭国内もともに短里である。それがわたしの理解でございます。 質問三 略  (回答)よく質問が分かりませんので、電話なり書類で直接ご返答させていただきます。 質問四  今日、わたしをお連れいただいた大下さんからです。Japan is No.1といわれた日本の経済が最近下降気味です。古代史とは直接関係ありませんが、最近の日本の経済情勢などをどのように考えられていますか。これにお答えしてご返事を終わりたいと思います。 (回答)  最近考えていることを、ご質問されてたいへんありがたいですね。実はわたしは経済オンチですから、経済に詳しい人は何を言うかと思われるのも当然だと思われますが、そのつもりでお聞き下さい。  わたしは現在の日本の不景気は、日本人の給与が高すぎるせいだと思っております。  なぜかと言いますと、年配のかたはご存じのように池田勇人内閣の時代、所得倍増計画が行われ成功した。日本の給与が二倍に増えた。ウソみたいな話ですが、それに成功した。それまでの岸を倒せというような反対のデモに包まれていた声が、ピタリと止んだ。そういう事件があった。  これは何かと言いますと、わたしの理解ではアジアで日本だけが独立国であった。アジアの他の国は、ヨーロッパ・アメリカの植民地にさせられていた。植民地というところは、みんな愚民政策というか、庶民を教育で知的水準を高めるという努力をしなかった。そんな努力をすれば、逆に彼らが独立機運を持てばうるさいということで愚民政策をとった。ところが日本だけは、敗戦まぎわまで独立国だった。教育にたいへん力を入れた。陸士、海兵、高等師範学校などは、学費が要らないだけでなくかなり高い額の給与が出た。わたしの父親は広島の高等師範学校に入りましたが、兄弟がたくさんいたが、学生のとき自分の給与を実家に仕送りしていた。しかもその時の日本国は、アメリカやイギリスなど外国から借金をしていた。それにもかかわらず、教育にたいへん力を注ぎ、独立国のレベルを上げようとした。ですから第二次世界大戦後の敗戦後の状況も、知的水準のたいへん高い国だった。他の植民地だった国はたいへん知的水準のたいへん低い国だった。その落差があったから、池田勇人内閣の所得倍増計画が行われ日本の給与が二倍に増えても、ちゃんとバランスが取れていった。そのような次元だった。ところがその後、アジアで独立国が増え、各国それぞれ庶民を教育で知的水準を高めてきた。だから日本との落差がなくなって来ている。無くなってきているのに、給与だけは倍増の延長線上に、現在ある。だから日本の給与が高いから製品も高い。売れにくい。わたしのような単純な人間からはそう観てる。  別な印象的な例を言いますと、外国にも行きましたが中国に行ったのがいちばん多い。そのころ日本人の食事付きのホテルの一日の金額が、中国庶民の一ヶ月の三分の二の月給と同じだった。ひどい話ですね。だから日本人は居心地がよかった。ところがある日のこと、ホテルで夕食を食べて散歩に出た一人の人が、帰ってきてわたしに言った。古田さん、中国はたいへんな国になりますよ。なぜなら夜街灯の下の灯りで、若い人がみんな一生懸命本を読んで勉強している。つまり家の中では、灯りがない。外へ出たら街灯がある。その下で、みんな勉強している。今から二十年・三十年したら中国はたいへんな国になりますよ。こうわたしに言われたのを覚えている。その時に街灯で本を読んでいた人は、いま五十代・六十代の中国人になっている。これもやはり大切なことだと思う。今の日本人に街灯で本を読むファイトはない。  ですから先ほど言いましたように、覚える暗記ロボットのような独立国ではダメだ。考える独立国。先ほどのバイブル一つとっても、今のバイブルは偽物(にせもの)だ。そう言えるのは日本人だけである。また釈迦や孔子にしても、ほんとうにリアルに捕らえることができ、突っ込んでいけるのは今の日本。わたしも第二次世界大戦後前だったら、こんなことを言ったら確実に暗殺されています。警察に捕まっています。それが今のわたしは京都に帰る前に警察に捕まることはない。そういう点では非常にめぐまれた位置にいる。それを利用してというか、本当の知的水準をあげるべきだ。自然科学はもちろん、あの火山一つとってもあのエネルギーを利用できないのは惜しい。若い人に、若くなくてもよいが、先頭で研究に打ち込んでいただけたら、未来に前途は揚々たるものがある。そう勝手に思っているわけでございます。覚える独立国から考える独立国へ代わることしか、乗り越える道はない。そう考えているわけでございます。言いたいことは、まだたくさんありますが、経済オンチのわたしがたくさんしゃべっても仕方がないので、若い人には、研究するのにはたいへん自由な、まれな自由が日本にはある。自殺などしているヒマはないですよ。そう考えてえております。どうもありがとうございました。 質問五  梅村さんという方から、浜名湖の三遠式銅鐸について、込み入り立ち入った質問をいただいております。ぜひ電話か手紙でご返事させていただきます。 (回答)略