講演録  古田史学の会・新年賀詞交換会 二〇一二年一月十四日 於:大阪市大阪駅前第二ビル 最近の話題から   一 杉本文楽『曽根崎心中』について  新年おめでとうございます。実は昨年の十一月八王子の大学セミナーで全てお話しましたので、中十二月をはさんで二ヶ月間しかありません。それで今さらお話しすることがあるのか心配していましたが、まったく逆でして、そのあとぞくぞくお話しすることが出来ましてうれしい悲鳴をあげています。  始めに杉本文楽『曽根崎心中』のDVDを少しですが、ご覧いただく予定で準備をお願いしましたが、先程来動かないということなので、やむなく本日はカットいたします。  それではなぜ古代史の時間に、なぜ近松なのか。そういう疑問を持たれると思います。それは現在ニューヨークに住んでおられるプロの写真家で杉本博司さんという国際的に知られたかたがおられる。もちろん日本の出身で神奈川県に住んでおられた。文楽の『曽根崎心中』、現在東京や大阪で公演されている文楽の『曽根崎心中』は、ダメというかアウトだ。なぜならば近松が意図したものとは違うものになっている。たとえば先頭に「観音廻めぐ り」という大阪のお寺をぐるっと巡っていく話がかなりの時間あったのですが、それらは大阪・京都はもちろん東京の公演でも全部カットしてやらない。それは娯楽として見ると全部公演すると見るほうもしんどいだろう。そういう勝手な推量ですが、あちらこちらから切り取って短い時間で鑑賞できるように、現在は直してあるようだ。しかし杉本博司さんは、それではダメだ。近松の意図したとおりを再現する。そういう方針に立って、二〇一一年八月十四日〜十六日に神奈川の神奈川芸術劇場ホールで行われた。NHKで、8月16日にその放送がありましたのを見て、わたしはたいへん感動した。確かに先頭の大阪のお寺を廻る話は、かなり時間を取っておこなう。これは近松にとってたいへん大事なものである。なぜかと言いますと最後に有名な曾根崎の「道行き」、二人が愛の道行きをする時がある。これは最初に示した観音廻りのコースを、心中のために死の道を急いで行く。表面では封建社会に受け入れられなかった彼ら二人は人生における失敗者である。こう見えている。しかし実は逆なのだ。永遠なる仏の目から見ると、彼は「恋の手本」である。こういう言葉が使われて、仏は永遠の救済を図ってくださる。そういうテーマになっている。逆に言いますと、彼ら二人の純粋の愛を認めなかった江戸時代の封建体制のほうが、滅ぶべき一時の仮の姿にすぎない。過ぎ去っていくのは封建体制のほうであって、彼ら二人の恋は永遠に生き残る。そのテーマが近松の言いたかったテーマである。そのテーマを掴むためには、先ほど言ったように大阪の観音巡りをカットしたのでは、なんのこちゃ、訳がわからないものになっている。その他舞台装置をはじめ全て近松がおこなったやり方を、そのまま再現するというやり方で杉本氏が再演した。  わたしはそれを見て、たいへん感動した。わたしにとって陳寿を信じて陳寿の意図したとおりの『倭人伝』を復元する。これが今回の『俾弥呼 ひみか』の根本方針だった。『「邪馬台国」はなかった』以来の意志を貫いて、より徹底した『俾弥呼 ひみか』とする。その目から見ると、近松の意志をそのまま再現する。変に娯楽や他の意図によるカットを行わない。まさに杉本文楽は、わたしの意図する学問の精神と一致している。そう思って感動した。  それで杉本さんの事務所が東京にあります。そこに電話したわけです。出られたのは息子さんと思いますが、全部を見たいと申し入れた。NHKは部分的なポイントの抄録でしたから。そう言いますと、直ぐ送っていただいた。たいへんありがたかった。これも普通はありえないことです。見も知らないわたしの申し入れを受け入れて、全てを復元したDVDを直ぐ送ってくださった。  それを今日も、時間の関係で全部をお見せできないが、ごく一部をお見せしたいと考えて持参しましたが、それが機械の都合で、出来なかった。  それで、このような優れた意図をもった試みが行われた。しかもNHKを見ていたフランスの女性が直ちに東京の事務所に来て、パリでそのまま公演したいと言ってきた。近松と仏教精神を結びつけた公演の内容に感動したと、直ぐ申し込んできた。やはり国際的に優れたものは優れたものとして、理解される証拠ではないか。そう思いました。   二 万葉批判  『人麿の運命』『古代史の十字路-- 万葉批判』『壬申大乱』は、万葉論に関するわたしの三部作です。それを古田武彦・古代史コレクションとして改めて万葉論の先頭に出す『人麿の運命』の「はしがき」を、昨日書き上げたばかりなので読み上げてみたいと思います。そして自分がたどってきた意味を、改めて認識することができるという大事な時期に来たことを知りました。  『人麿の運命』の「はしがきーー復刊にあたって」を読み上げ はしがき ーー復刊にあたって              一  歌は第一史料です。その歌を作った当人の、生(なま)の声、いわば直接史料なのです。  しかし従来は、そのように評価されてはいなかった。史料としては一番“あやふやな”もの。そのようにあつかわれてきました。誤解されていたのです。  その理由の一端は「歌集の仕組み」にありました。その代表は万葉集です。それぞれの歌のはじめに「題詞」があり、その歌の成立した“いわれ”が書かれています。だから、普通、読む方の人間は、その「題詞」を前提として、つづく当の歌の意味を考えます。ところが、“合わない”のです。無理に“合わせ”て読むと、歌自身がとんでもない、トンチンカンな内容となってしまいます。  たとえば、有名な次の歌。万葉集の巻三にある柿本人麿の歌です。   大君は神にし座ませば天雲の 雷の上に盧いほらせるかも         〈『万葉集』 雑歌、二三五〉  この歌の「題詞」は、 「天皇、雷岳いかづちのをかに御遊いでましし時、柿本人麿の作る歌」とされている。この「天皇」とは「天武か持統(あるいは文武)」と見なし、「雷岳」とは「奈良県高市郡明日香村雷にある丘」とするのが、通説のようです(岩波書店、日本古典文学大系、萬葉集一、一四四ページ注等)。  だが、わたしはこの明日香の雷丘に行ってみて驚きました。わずか十数メートルの高さの、低い丘なのだ。坂道を上に登るのに、数分、いやゆっくり登っても十数分はかからない程度の丘なのです。  「この丘にお登りになられたことこそ、あなた(天皇)が“生き神さま”である証拠です。」  本当に、こういう意味だったとしたら、柿本人麿というのは、とんでもない「食わせ者」です。権力者に対して“おべっか”を言うだけの、“けたはずれた”曲者くせものにすぎません。そしてそんな歌を麗々しく巻三の先頭にかかげた万葉集という歌集自体、世界の人々の面前に「権力に弱い、日本人の恥さらし」その証拠ともいうべき歌集ではないでしょうか。  第一、わずか十数メートルの、この低い丘に「天雲の垂れる」ことなど、ありえません。その上、この低い丘に、その天皇が休息したからといって、それを「いほり(住居)を作られた」などと表現できるものでしょうか。考えられません。  わたしは戦時中、広島の旧制高校時代、毎日、広島の文理大学の図書館へ行き、斎藤茂吉の大作『柿本人麿』に“酔い癖しれ”ました。一字、一句、茂吉の絶讃を書き写しました。わたしの青春の「輝く一ぺージ」として、この歌は存在していたのです。もちろん、実際の、明日香の雷丘を知らず、それを「空想」でおぎなっていただけでしたが。だからこそ、実際の「雷丘」の前に立ち、上に登ったとき、ハッキリと自分の描いていた「夢」が打ち破られたのを感じたのです。             二  その後の、わたしの万葉研究は、全く異なった新世界へとわたしの視野を導きました。ところは、九州。筑前(福岡県)の糸島平野の南の雷山。筑紫の君、あの九州王朝の歴代の王者の墓地です。一〇〇〇メートル近い山嶽で、北には玄界灘、南には有明海、連日、そのほとんどが天雲でおおわれるのが通例だ。ここでは、歴代の王者は、まさに「死んで神として祭られている」のである。  しかも、この歌の“指さし”たところ、それは“見通しなき戦い”に民衆を巻きこんだ筑紫の王者、一国家のリーダーに対する批判、そしてさらに“理不尽な”難くせをつけて、倭国に開戦させ、戦勝者として筑紫に乗りこんできた唐軍の不法。彼等に対する苛烈な批判をひそめた歌でした。わたしは「邪馬壹いち国論」から「九州王朝論」へと辿ってきた、自分の研究の切り開いてきたものの真相、その運命をここで知ったのです。   平成二十四年一月二十三日                             古田武彦    三 君が代について  本日のテーマに入ります。最近大阪でかなり問題になっています。橋下市長が、「君が代」を歌わないものに法的な措置を取る。起立しないものは処罰する。そういうことが新聞で報道され、いろいろ論じられています。これもわたしの立場から、はっきり言わせていただくと「君が代」問題の一点に関しては反対です。なぜなら現在のリーダーのリードする精神は、自分の国を愛する人々を造る。命をかえても自分の国を守る。そういう人間を造ることに意味がある。そう考えています。ところが「処分する」という脅して無理やりさせるというやり方。これは橋下氏の批判するはずの北朝鮮とまったく同じやり方。場所は違うが同じ精神。要するに脅かして国民を駆り立てる。このやり方では国民は人間ですから、脅かして命をかけて国民を守り国を愛する人間ができるはずがない。この立場からみて、橋下さんのやり方はアウト、反対である。肝心の「君が代」の内容を橋下氏はご存じない。どのような意味を持っているか橋下氏は知らない。そのことを端的に言わせていただきたい。 国歌 君が代は 千代に八千代に さざれ石の 巌(いわお)となりて 苔のむすまで 古今和歌集第七 賀歌 三四三 題知らず      讀人知らず 我が君は 千代にやちよに さざれ石の 巌(いわお)となりて 苔のむすまで  それで一番古く「君が代」が出てくるのは『古今集』と言われている。しかし正確に言うと『古今集』には出ない。「我が君」となっていて「君が代」となっていない。『和漢朗詠集』の流布本などには「君が代」とありますが。ですが現地というか九州博多湾志賀島の志賀海神社で春・秋の二回行われる山誉種蒔漁猟祭(やまほめたねまきかりすなどりのまつり)のお祭りで「君が代」と出てくる。われわれが知っているとおりに漁師さんたちが、「我が君」ではなく「君が代」と歌われるというかつぶやく形で、ドラマの一節に出てくる。 君が代は 千代に八千代に さざれ石の 巌(いわお)となりて 苔のむすまで ・・・ あれはや あれこそは我君のめしのみふねかや ・・・ 志賀の浜長きを見れば幾世経(へ)ぬらん 香椎路に向いたるあの吹上の浜千代に八千代に?・・・ 今宵夜半につき給う御船こそ、たが御船になりにける あれはやあれこそや安曇の君のめしたまふ御船になりけるよ  これが本来の姿である。  まだ『九州王朝の讃歌』(古田武彦・灰塚照明・古賀達也 新泉社)を書いたときは、文献のほうが第一だと考えていたので、『古今集』では「我が君」と記載されている。そして『和漢朗詠集』の流布本で初めて「君が代」となっていると紹介した。そして現地の九州志賀海神社でも「君が代」となっていると、プラスアルファという姿で紹介した。しかし今のわたしの立場に立てば、話はまったく逆である。現地のお祭りの中で、ドラマの一節としてOne of themの姿で語られる。これが本来の姿である。それを『古今集』は、平安時代という新しい時代に、その第一句を取り替えた新しい姿である。この結論は現在のわたしは疑うことができない。 『隋書』イ妥*国伝(部分)  開皇二十年イ妥*王姓阿毎字多利思北孤號阿輩鷄*彌遣使詣闕 イ妥*:人偏に妥。「倭」とは別字。?鷄*:「鷄」の正字で「鳥」のかわりに「隹」。[奚隹] JIS第3水準、ユニコード96DE  さてそこで「君が代」の「君」とはなにものか。皆さんご存じの『隋書』イ妥*国伝では、多利思北孤に鷄*彌(キミ)という奥さんがいる。つまりイザナミ・イザナギという神さまが居ますが、「キ」というのが男の神様で、「ミ」のほうが女の神様を現す。だから「神 カミ」という言葉は、ほんらい女性の神様を示す。そういうところから観ますと、「君が代」の「君」は女性である。女性中心の世、縄文時代を示している。もちろん志賀海神社の祭礼でも、文脈上は博多湾対岸の千代からお出でになる「我君のめしのみふねかや」とあるとおり、「我が君」という言い方をしている。多利思北孤という男性のほうを指している。  しかし歌そのものは男性でない。男性でなく、女性の歌として歌いつづけられている。  もう一つ言いますと、この歌の最後は「苔のむすまで」となっていますが、登場するのは苔牟須売比売(こけむす)神。福岡県糸島郡(唐津湾)にある桜谷若宮神社に祭られている。そこに至る道行きの終着点の神なのです。おばけの「ケ」。津保化族の「ケ」。神様を意味する第二段階の神様の「ケ」。第一段階は、阿蘇の「ソ」。その縄文時代の神様の表現。しかも女性の表現なのです。  ところで苔牟須売神(こけむすめのかみ)をこのように考えることが出来る。「こけ」そのものは地名である。   苔牟須売神 こけむすめのかみ こ ー接頭語 「越(こし)の国」などの「こ」。 け ー芥屋(けや)、もののけ(物の怪)と同じ“け”である。精霊を意味する言葉である。 こけー地名。植物の苔(こけ)は当て字である。芥屋の大門(けや の おおと)という非常に雄大な玄界灘に向かっている海の洞窟がある。「けや」に対する、それと対を成す「こけ」と呼ばれる地帯、地名だと思う。 む ー牟 主たる、主人公という意味 す ー須 鳥の巣、本来人間の住むところも「す」です。鳥栖という地名がある。「住む。」と動詞もある。?むすー 人が住む主たる場所、大集落や中心地を指すと考えます。?め ー売 当然女神、女神中心は縄文の神である。  ですから単語から見ても文脈上から見ても、「君が代」の「君」は女性。最近よく言われるように、男系の天皇が本当で女性ではダメなのだ。いかにも本当のように言っている評論家や政治家が居ますが、これは大嘘です。だって天照大神(あまてるおおかみ、アマテラスとも一般に言われる。)が女性であることはわかり切っている。それなら女性はダメだから伊勢神宮は廃止する。天照大神はいらない。そういう主張をその人はするのかと言いたい。ですから伊勢神宮に祭られている天照大神も女性の支配者。「君が代」の「君」も女性の主権者。だから女性の王者こそが日本の伝統なのである。それが男性も、ある意味で一時期というと変な表現ですが、男性になっていた時期がある。それが一番明瞭なのは明治時代です。明治時代の直前は江戸時代です。江戸時代は、将軍が中心だった。将軍は男子でないと困る。その真似をしたから、明治以後天皇も男子ということになった。とにかく「君が代」の「君」は女性である。女性の主権者が縄文時代の日本の伝統である。そういうことをはっきり言わせていただきます。 (参照『日本の秘密 「君が代」を深く考える』(古田武彦 五月書房)その他)   四 本居宣長批判  次の問題は、女島の問題です。『古事記』の中に「女島 めじま」が出てくる。これが従来「女島 ひめじま」と読まれていた。岩波古典体系本の中でも、このように読まれていた。その原因は何かといいますと本居宣長が元をなしている。  ○女島は日女島(ヒメジマ)なるを、日ノ字の脱(オチ)ちたるなり。(『古事記伝』本居宣長)  『古事記』の真福寺本では、「女島」としか書いていない。ところが本居宣長は、これは太陽の「日 ヒ」という字が脱落してしまったものだ。だから「日」の文字を補って、宣長は「日女島 ヒメジマ」と読む。いきなり、そこから始まっている。これは無茶もいいところだ。原文をこのような姿勢で直されたならたまらない。ところが宣長の方法は終始このやり方です。  もう一つだけ例をあげれば、 ◎南至ニ ルマデ 邪馬臺國女王ノ之所レニ。(『馭戎慨言』本居宣長)  『馭戎慨言ぎょじゅうがいげん』で倭人伝を引用してある箇所です。それが見ればお分かりのように、いきなり原文が「邪馬臺国」となっている。書き間違いとか書き直したとか、言い訳もなく「邪馬壹国」はとるに足りぬと宣長は考え書き直した。だから宣長は『古事記伝』を書くとき、自分の美学・イデオロギーに合わない原文は、遠慮なく削ったり書き換えたり加えたりして、それに注釈を付けていた。そのようなことに、いまさらながら驚いている。そういうやり方で宣長は、「女島」を「日女島 ひめじま」とした。しかしこの辺りの神社では、すべて姫(ひめ)のことは「比賣」と書かれている。「日女 ひめ」とは書かれていない。宣長は勝手に作って、勝手に書き足している。  宣長はわたしの先生の村岡常嗣がたいへん尊敬していた学者です。わたしは宣長から見れば孫弟子と言ってもいいのですが、しかしその宣長のやり方はまったくアウト。  しかもその宣長のやり方を、明治以後の国語学者・言語学者・歴史学者が全員といっていいほど引き継ぎ、宣長そのままのやり方で今日まで来ている。イデオロギー一辺倒で原文を直したものを、そのまま使い、われわれはそれを覚えさせられてきた。そして子供たちに教えてきた。  ここから大きな問題が出てきている。たとえば「高天原」の問題。『古事記』の冒頭に出現する「国生み」の段の「高天原」が出てきていることはご存じのとおりだ。本居宣長は、天上の何万メートル以上の「スカイ」、すなわち「上空」として解釈した。そこから「天の沼矛」を突き下ろしたと解釈した。何万メートルの長さの槍のようなものを突き下ろした。こういう解釈をした。  しかしその解釈でおかしいのは、あの有名な先頭の事柄が「コオロコオロ」と擬音で表現されている。矛をいくら海中に突き刺しても「コオロコオロ」という音はしません。これはまったく間違いで、宣長が直した改竄(かいざん)原文のせい。本来は「矛」でなく「弟(おと おとうと)」で、「天の沼弟(鐸音 ぬおと)」と書かれ、「弟 おと」は音・Soundのことで、「沼 ぬ」は、小型の銅鐸のことです。それを「天の浮橋」にくくり付けて鳴る音。「天の浮橋」、これは本来島根県などの漁師さんが使われているように、幅四十センチメートル・長さ二メートルぐらいの木の板。「天の浮橋」を陸地から船に渡した時に使われるものです。この「天の浮橋」と同じく、陸地から船に紐に小さい銅鐸を垂らし鳴らしたたときに出る音を、「コオロコオロ」と擬音語で表現している。 『古代に真実を求めて』(第十四集)「『古事記』と『魏志倭人伝』の史料批判、一『古事記』の「天の沼矛」は、「天の沼弟 ぬおと」である。」参照  それを宣長は、何万メートルの上空から何万メートルの長さを持った矛を突き下ろしたというとんでもない超能力の解釈にしてしまった。宣長がそのような超能力の解釈を行ってしまったのは、江戸時代に医者をやりながら一所懸命古典を勉強して再解釈した人だから責めるのは酷です。問題は明治以後の国語学者・言語学者・日本史の学者が、全員といっていいほど宣長の解釈に異議を唱えないままにしてきた。これはアウト。そのままでは許されないことと考えています。  これに対して『東日流つがる外三郡誌』では、有名な中国会稽山の麓にある「高天原寧波(ニンポー)」という地名が出ている。何万メートルの上空ではもちろんない。この「高天原たかあまばる」というのは「高」は、敬語で神聖なところを指す。「天」はもちろん「海士あま」で、神聖な水が出るところ。「原ばる」は九州では集落、西都原(さいとばる)とか平原(ひらばる)などがある。だから「高天原たかあまばる」というのは、「神聖な水の出る集落」を表す。その一つである寧波(ニンポー)を示す表現にすぎない。対馬海流のなかには「高天原たかあまばる」が各地にある。たとえば壱岐の北端部にも天原(あまのはら海水浴場)がある。ここにも「高天原たかあまばる」がある。そのような「高天原たかあまばる」を舞台にして、小銅鐸を並べて垂らし鳴らしている話にすぎない。  それに関連して「女島」とは何か。「日女島 ひめじま」でなければ、とうぜん「女島 めじま」です。山口県下関関門海峡の近く、そこに男島・女島がある。現在は石油の備蓄基地になっているところの平坦な島で上陸が容易なのは「女島 めじま」のほうです。そこに行って写真を取ってきましたのでお回しします。男島のほうは断崖絶壁でたいへん上がりにくいのですが、そこに神社があり女島のほうの玉依姫を祭っている。この男島と女島は海流の分岐点として、旧石器・縄文時代から、たいへん重要です。  それを『古事記』の真福寺本は、女島(めじま)と書いている。その女島(めじま)を日女島(ひめじま)と手直しして、本居宣長は別のところ、唐津湾にある姫島に当てている。  この点は「高天原たかあまばる」だけでなく、『古事記』の黄泉の国も宣長は同じように超能力的な死者の国にしてしまう。宣長は、泉国(大阪府泉州)を、黄泉国(よみのくに)と読んだ。これも原文では「泉国」としか読めないのに、「黄泉国」とむりやり読む。それで人間が死んだら行く何万メートルの地下の国を「黄泉国」という解釈で『古事記伝』は書かれている。しかし実際は「泉国 センコク」というのは関西空港のある大阪府泉州。「黄国 キノクニ」というのは和歌山県。ですから「黄泉」と書いてあるのは、和歌山と大阪という意味です。それを宣長は、死者の国全部を指すという壮大な嘘の解釈をしてしまった。 『古代に真実を求めて』第六集「<講演記録>神話実験と倭人伝の全貌四泉国(いずみのくに)と黄泉国(よもつくに)」(二〇〇二年七月二八日 大阪市 天満研修センター)  もう一つ重大な問題が現れましたのは「天の一根(あまのひとつね)」と宣長が読んでいることです。これも問題だ。これもおかしいのは「ひとつ」と言うなら「比都津」と表せばよい。そういう字が、いくつも神社で使われている。それを宣長が「天の一根(あまのひとつね)」と勝手に読む。宣長は「一」をなぜ「ひとつ」と読むか、前後の表記を問題にしない。宣長は和語が元で漢字はただ借り物にすぎないと考えた。適当に直せばよい。これが彼の美学です。  それではいったい何か。「天の一根 あまのいちね」である。「一」が、日本語の「イチ」と読むことを宣長が知らないはずはない。「チ」は、神様の意味する「チ」である。あしなづち、てなづち、やまたのおろちの「チ」である。「イ」は、神聖さを意味する接頭語。その「一根 いちね」です。「邪馬壹国」の「壹 イチ」も同じ意味の「イチ」です。ですから『倭人伝』のキーポイントは「邪馬壹国」にあった。その肝心の言葉を消して「邪馬台国」に取り替えた。その直した「邪馬台国」を、明治以後現在まで、古代史は教えてきた。一番大事な言葉を、一番最初に取り外した。その理由は、倭王といえば天皇である、その天皇は、光仁天皇まで、代々大和(ヤマト)におられた、だからこの倭人伝の文章はヤマトと読めなければいけない。これは大上段の理由にした。「壹 イチ」を「臺 タイ」に代えたのを最初に行ったのは松下見林です。『魏志倭人伝』の一番古い版本である紹煕本には「邪馬壹国」と書いてある。ですから「邪馬壹国」を「邪馬臺(台)国」とイデオロギーで直したことは疑いない。   五 三角縁神獣鏡について  さて新たな問題に入らせていただきます。昨年講談社から出された大津透氏の『神話から歴史へ』(天皇の歴史01大津透 講談社)という本がございます。これを書かれた大津透氏は東大の現役教授です。ところが内容は完璧に近畿説です。しかも『魏志倭人伝』の「邪馬壹国」を「邪馬台国」と勝手に書き直している。これはとんでもない話ではないか、とわたしは思う。 『神話から歴史へ』(天皇の歴史01大津透 講談社) p43 第一章 卑弥呼と倭の五王 邪馬台国に関する二つの説 ・・・ 南、邪馬台国に至る。女王の都する所なり。水行十日。陸行一月。官に伊支馬有り、次に邪馬升といひ、次を邪馬獲といひ、次を奴佳[革是]といふ。七万余戸。    [革是]は、革編に是。JIS第三水準97AE  今までは白鳥庫吉に代表される東大系が九州説、内藤湖南に代表される京大系が近畿説として論じられていた。ところが昨年の十月から、両者ともに近畿説になった。それの根拠に使われているのが、京大の小林行雄氏の三角縁神獣鏡の同氾鏡の分有関係研究です。(小林行雄『古墳時代の研究』青木書店 一九六一年)この本はわたしにとってなつかしい本です。小林行雄氏に有名な三角縁神獣鏡の同氾鏡の図を使わせて欲しいと家に行って申し入れたら、使わないでくれ、と言われた奇妙ななつかしい経過がある。とにかく小林行雄氏のこの三角縁神獣鏡の同氾鏡の分布図というのはたいへん有名で、一般の古代史好きのかたなら誰でもご存じの図なのです。このように京都府の椿井大塚山から二十九面の鏡が出土した。それと同氾の鏡が岡山と福岡東南部に伝わっている。これが邪馬台国が近畿にあったという証拠だ。だから邪馬台国は近畿ではないという人間はわたしは許さない。そのような激しい言葉で結んで書いてあった。  ところがこの図を見てみますとおもしろいことがある。なぜかと言いますと、第11図 三角縁神獣鏡の分布、この図のすぐ下に、第12図 碧玉製腕飾類出土古墳の分布図というものが出ている。だから三角縁神獣鏡の分布図のことは知っているという読者のかたは、考古学のプロのかたは別として、なぜ碧玉製腕飾類の分布図が三角縁神獣鏡の分布図と並んで載っているのかは、おそらく意味不明というか知らなかったかたが多いと思う。しかし考えてみますと、小林行雄氏の『古墳時代の研究』(青木書店刊 一九六一年)が昭和三六年、その元をなす京大の考古学雑誌に「同氾鏡による古墳の年代の研究」(『考古学雑誌』三十八巻三号 一九五二年)として出たのが昭和三二年、まだ小林行雄氏が考古学のホンのかけだしのころ、考古学に首を突っ込みはじめたころの論文なのです。彼は近畿中心の三角縁神獣鏡の同氾鏡の分布図が、最強の邪馬台国近畿説の武器になると考えた。しかし彼は自分がそう言っただけでは、小林の単なる独断であると言われるのを恐れた。それで同氾鏡の分布図によく似た図として、考古学界みんながよく知っている図として碧玉製腕飾類出土古墳の分布図も同じような姿を示している。これが裏付けになるのです。つまり自分の説だけの分布図では自信がないから、裏付けとして碧玉製腕飾類出土古墳の分布図を出した。  ところが今のわたしから見ますと、この銅製の碧玉製腕飾類出土古墳の分布図を見ますとたいへん意味があった。何が意味があったのか言いますと、実は銅製の碧玉製腕輪・腕飾類の元は、貝釧(かいくしろ)そのもののなのです。『北九州の古代文化』(森禎治郎氏 明文社刊)  つまり九州が中心の碧玉製腕飾類出土古墳の分布図とその元を成す貝釧そのものの分布図。しかも貝釧の分布図は、九州の前漢鏡・後漢鏡の分布と一致している。つまり第一次製品は前漢鏡・後漢鏡のほうで、それと対応するのが実物である貝釧の分布図。この貝は、ゴボウラ貝であって沖縄からニュージーランドに至る地球上に広大な弧の分布を描いていることは判明している。その貝釧の分布と前漢鏡・後漢鏡の分布が、北部九州では一致している。それに対して貝釧の第二次製品・模造物である銅製の碧玉製腕輪・腕飾類の分布図。その第二製品と類似した分布を示しているのが三角縁神獣鏡の分布図です。ですから三角縁神獣鏡は本来のものではなくて、北部九州に集中している前漢鏡・後漢鏡の模倣品だ。第二次製品をであることを証明している見事な分布図である。ですからかって小林行雄さんのところに行って掲載をお願いしたが、断られたと言いましたが、その時は、まだそこまで頭が廻らなかった。今のわたしの目から見ますと、三角縁神獣鏡は北部九州に集中している前漢鏡・後漢鏡の模倣品・第二次製品をであることを証明する見事な図になっていた。  さてそこで、本日のメインエメントと入らせていただきます。これの意味するところは、日本評伝選『俾弥呼 ひみか』を読まれたかたはお分かりいただけると想う。崇神が自分の故郷である大和に逆流し浸入してきて、反魏倭国、言い方を変えれば親呉倭国を支配したという問題です。加えて宙ぶらりん、様子見の倭国をも制圧した。それが銅鐸と同じ銅製品である三角縁神獣鏡を各地に配布したという状況が一致する。  さて今日初めて考えたアイデアを明かしますが、この三角縁神獣鏡というものは実は大和盆地の地形を背景にしたのではないか。狭い意味の大和盆地ではなくて、大和・河内・摂津・山城にまたがったところ。近畿の四県、その中でも中心は大和盆地、それをデザインしたのがあの三角縁の周りの「縁 まわり」ではないか。このようなイメージは、何回も持っていて、読者のかたからそのイメージについて言われたこともある。ですがわたし自身が、皆さんの前で今まで語ることはなかった。ですが最終的にそのイメージを持ったのは、先日NHKで蘇州・呉の都の紹介があり、地形や人工物を背景にして庭園がいろいろ造られている。しかもそれはBC五世紀、漢代から造られている。となりますと、呉の工人が銅鐸を造るために大和に来た。それは蘇州の庭園のように地形をバックにし借景というやり方を知った連中が大和に来ていた。それで彼らは新たに造った三角縁神獣鏡という山に囲まれた大和を中心にする領域をデザインした借景ではないか。  もちろん、これは一つのアイデア・仮説として検討していくと、おもしろいことがある。また「縁」を大和盆地を借景したという目で見ない。もし大和盆地の借景なら中国から出るはずがない。中国から出ないのに中国製だと言って、言いくるめていることが、たいへんおかしかった。  もう一つだけ言いますと、三角縁神獣鏡の中に女の人の服装が「左衽 左前 さじん」ということが出ている。  孔子の論語の中に、管仲を誉める箇所がある。 『論語』 憲問第十四の十八 管仲 桓公を相けて諸侯に覇たり、天下を一匡す 「子貢曰、管仲非仁者與、桓公殺公子糾、不能死、叉相之、子曰、管仲相桓公覇諸侯、一匡天下、民到于今受其賜、微管仲、吾其被髪左衽矣、豈若匹夫匹婦之爲諒也、自経於溝涜而莫之知也。」 子貢(しこう)が曰わく、管仲(かんちゅう)は仁者に非(あら)ざるか。桓公(かんこう)、公子糾(こうしきゅう)を殺して、死すること能わず。又たこれを相(たす)く。子曰わく、管仲、桓公を相(たす)けて諸侯(しょこう)に覇(は)たり、天下を一匡(いっきょう)す。民、今に到(いた)るまで其の賜(し)を受く。管仲微(な)かりせば、吾(われ)其れ髪(はつ)を被り衽(じん)を左にせん。豈(あに)に匹夫匹婦(ひっぷひっぷ)の諒(まこと)を為し、自ら溝涜(こうとく)に経(くび)れて知らるること莫(な)きが若(ごと)くならんや。  論語の中に、孔子が管仲を誉めるところがあるが、論語の中に「左衽 左前 さじん」という異民族の風習が出てくる。同じく三角縁人獣鏡の中に、異民族の風習がてんてんと出てくる。ですから三角縁神獣鏡という言葉が間違っている。三角縁人獣鏡です。あそこに現れているのは神でなくて人間です。そういうことが左前の女性にも表現されている。  これは一つの例ですが、そういう目でもう一度、三角縁神獣鏡を緻密に見直してみる。このことはほとんど行われていない。今の日本の研究者に三角縁神獣鏡の中にある「左衽の女性」の服装の研究があってもよいのですが、ないのが不思議です。考古学者は三角縁神獣鏡は中国製だという大前提に立っているから、考古学者が本気でだれもやらない。  それでもしかしたら、今後の古代史研究の新たな出発点になるのではないか。そう思って言いますので、ご参照ください。   六 「難波疑問」論とその解説 『古代史の十字路 -- 万葉批判』(2012年6月刊行 古田武彦・古代史コレクション12 ミネルヴァ書房) 日本の生きた歴史(十二)を収録、解説は下にあります。 第一 「難波疑問」論  二〇一一年九月刊行の『俾弥呼』(日本評伝選)に対する、手厚い反応がとどきました。オランダに住む天文学者、難波收さんからです。年来、わたしの本を題材にして、現地で次々と読書会を開いて下さっている方です。  わたしにとって「畢生の書」である、今回の本を厚く“賞美”して下さったあと、二つの「疑問点」があげられていました。  その第一は「敵を祭る」手法に対して、です。  わたしは今回の本でこのテーマを、一つのキイ・ポイントとしました。“自分の側の死者”だけではなく、“相手(敵)側の死者を祭った”点に、俾弥呼の業績の深い意義がある。そのように論じたのです。そしてこの点に、中国側、たとえば、孔子(の論語)などとは、異なった、もつとハッキリ言えば「反対」の立場に、卑弥呼は立っていた、そう論じたのです。そしてそれ故にこそ、「卑弥呼は永遠である」として、この一節をわたしは結びました。  これは古くは、祝詞の立場を継承し、「天つ罪」と共に「国つ罪」を“許す”立場です。新しくは、比叡山の最澄の「祈願文」に“受け継がれ”ていました。それは(今回は、あえてふれませんでしたが)、わたしの研究上、全情熱を傾注しつづけてきた、「親鸞思想」の真の核心に位置されたものです(古田『親鸞思想』明石書店刊、参照)  さらに、下っては中世の楠木正成や近代の乃木希典に至るまで、また現代の大阪の陸軍墓地にまでも、ハッキリとその姿をとどめています(大下隆司氏の「敵を祀る -- 旧真田山陸軍墓地」(『古田史学会報』七六号所収)、『俾弥呼』第十章「『敵祭』という日本の伝統」参照)。            二  以上のような、今回のわたしの叙述に対して、難波さんは、あえて「疑問」を呈して下さったのです。  「吉野ヶ里の、埋葬された甕棺などの首のない遺体は、倭国側(すなわち、俾弥呼側)の、味方の遺体なのではないか。」と指摘されたのです。もし、そうだとしたら、わたしの立論は当然ながら“根本から”成り立ちません。重大な「疑問」でした。  けれども、幸いにも、この点は今、明確な反証があります。それは吉野ヶ里の遺跡がしめす“証拠”です。  その第一は、「鏡の欠如」です。吉野ヶ里からは、銅鏡が出ていません。近年、やっと二、三面の出土がありましたが、それも全体から見れば、とるに足らぬ“一部”にしかすぎません。なにより、中心をなす、「墳丘墓(外濠内)」の巨大甕棺にも、全くありません。十字剣など、見事な内蔵物はありますが、鏡が全くないのです。  一方、倭国側、すなわち俾弥呼側が「三種の神器」をシンボルとする立場にあったこと、明瞭です。そうでなければ、「銅鏡百枚」など(おそらく倭国側の要望に応じて)中国(魏朝)側が贈ってくるはずはありません。  そして糸島・博多湾岸側の「六王墓」(吉武高木・三雲・井原・平原・宇木汲田・須玖岡本)からは、見事な「三種の神器」(鏡と玉と剣)が出土しているのです。吉野ヶ里とは、明らかに「異質」です。その上、吉野ヶ里の「一列甕棺」の各列とも、いずれも「鏡ナシ」なのです。これらを「倭国側(俾弥呼側)の甕棺」と見なすことはできません。その第二は、「日吉神社の存在」です。考古学者は「専門外」として“ふれ”ずにきていますが、吉野ヶ里遺跡の「中心」は、明らかに、この神社です。この神社には大山喰命が祭神として祭られています。「天照大神」や「高木神」ではありません。「三種の神器」以前からの「在地神」です。また、吉野ヶ里の東側の丘陵には「弥生前期の鋳銅跡」が見出されています。これも「三種の神器」以前です。以上、いずれの点から見ても、吉野ヶ里遺跡は、「倭国側(すなわち俾弥呼側)のシンボル」によって“成り立って”いる性格の遺跡ではないのです。そのような「倭国の“侵入”以前」の葬法、遺物を“そのまま”に尊重しつつ、それを新たに「甕棺」に入れて、丁重に“祭り直した”そういう姿を、真実リアルに、今に伝えているのです。俾弥呼を知る上で、不可欠の重大なテーマを、難波さんのおかげで、ここに再説させていただきました。           三  難波さんの疑問の、その第二は「銅鐸と楽器」の関係でした。  「銅鐸は『一定の音』しか出さないから、楽器とはなりえない。」  そのように、書かれていました。わたしは驚きました。わたしにとっては、「銅鐸が楽器である」ことは、自明のことと“思いこんで”いたからです。その理由は次の二つです。  一番目は、三国志の魏志韓伝の記事です。そこでは「鐸舞」が行われている、と書かれています。それは中国の「鐸舞」と同じだ、というのです。これは「小銅鐸の音のリズム」に“合わせ”て舞う、そういう意味だと理解したからです。  もう一つは「舌ぜつ」の存在です。日本の銅鐸で使われた「舌」が、若干ですが報告されています。報告の「数」が少ないのは、「舌」として「認識」し、「報告」されることが少ないためでしょう。ともあれ、「舌」の存在があった、ということは「銅鐸が楽器であった証拠」、そう考えてきたのです。            四  しかし、わたし自身、楽器については、あまり知識がありませんでしたから、今回の難波さんの「疑問」を機として、昨年(二〇一一)の十一〜十二月から今年の一月にかけて、各方面に問い合わせました。  そして博多の上城誠さんから、次のような御返事をいただきました。楽器に精しい方に、問い合わせて下さったのです(次ぺージ参照)。  もちろん、「舌」の位置や“とりつけ”かたには、種々あるでしょうが、この図示によって、「銅鐸に、音階がある」ことは、明らかとなったのではないでしょうか。  なお、広辞苑では「風鈴」の解説として「風鐸ともいう」旨、付記されています。あの、夏の日本の各地にひびく風鈴もまた、「鐸」の一種なのですね。 図挿入 p365           五  さらに、この難波さんの「銅鐸に関する質疑」は、改めて興味深い問題へと、わたしの「目」を向けてくれました。それは「金鐸」問題です。  「銅鐸」というのは、現代の考古学者の「造語」です。その材質が「銅」であることを表現したものですが、古典の文献には出てきません。そこ(中国の古典)では「金鐸」と呼ばれています。  例の「木鐸」が、民衆に平常の道徳やルールを教えるためのものであるのに対して、「金鐸」の方は、火事や異常の事態のさい、これを鳴らすものです。いわば、後世の「半鐘はんしょう」にも似た「非常時用の使用目的」をもつもの、とされています。  とすれば、三世紀という「弥生時代は、近畿では「銅鐸時代のまっさかり」です。「小銅鐸」か「中期銅鐸」か「巨大銅鐸」か、いずれにしても、この「金鐸時代のさなか」に当っていること、疑う余地がありません。  従って、もし中国(魏朝)の使者がやってきたら、何よりこの「金鐸」を打ち鳴らして“出迎え”たのではないでしょうか。「歓迎」か「敵対」か、いずれにせよ、この「金鐸」の出番となったこと、わたしには疑いない事実と思われます。そうではないでしょうか。しかし、三国志の魏志倭人伝には、全くこの「金鐸」の記事がありません。「金鐸」の母国は当然「中国側」ですから、魏の使者がこれに注意をはらわなかった、とは到底考えられない。わたしにはそう思われます。京大教授も、東大教授も「もはや邪馬台国は近畿説で決まり」といった論調の目立つ昨今ですが、この単純明快な「問い」が大きく“抜け落ち”ているのではないでしょうか。お知り合いの考古学者に、是非「質問」して下されば幸いです。そしてわたしにその「回答」をお知らせ下さい。お待ちしています。  次に難波收さんという天文や気象の物理学者のかたが、オランダに居られましてわたしの本の読み合わせ会を何年も行われている。今回もいち早く日本評伝選『俾弥呼 ひみか』の書評というか感想を送っていただいた。たいへん評価して下さったが、二点だけ異論があった。  第一点は吉野ヶ里遺跡や筑紫野市にかけての遺跡にある出土した「首のない遺体」あるいは「首だけの遺体」は、敵を祀ったものである。わたしはこれを「敵を祀る」という根源的な問題、俾弥呼の支配の一番の方法だと論じました。これに対して難波さんから、古田さんはそう書かれたが、「首のない遺体」あるいは「首だけの遺体」は味方を祀っているのではないか。そういう意見を書いてこられた。  これはすぐ解答が出た。なぜならもし「首のない遺体」が味方を祀っているならば、倭国の三種の神器(剣・鏡・勾玉)がワンセットで出てこなければおかしい。『吉野ヶ里の秘密』(カッパブックス 光文社)でも力説しましたように三種の神器こそが俾弥呼(ひみか)たちの勢力のシンボルである。ところがあの吉野ヶ里では、いちばんでかい甕棺(みかかん)があるのですが、鏡がまったく出ない。ほかにも二列に並んでいる甕棺もたくさんありますが、ほとんど鏡は出ない。最近になってホンの小さい鏡が一つ二つ出たようですが、例外と考えてもよく、とても「三種の神器」とは言えない。  (加えて「日吉神社の存在」です。考古学者は「専門外」として“ふれ”ずにきていますが、吉野ヶ里遺跡の「中心」は明らかに、この神社です。この神社には大山喰命が祭神として祀られています。「天照大神」や「高木神」ではありません。)  これに対して一番大きい甕棺(みかかん)には、十次の形をした十字剣があった。これは博多湾岸にはないものである。山口県の日本海側に一つ出てきているだけである。つまりこれは三種の神器を奉る勢力以前の権力のシンボルである。この例を観ましても、吉野ヶ里で祀られているのは「三種の神器」側の人物ではなくて、「三種の神器」側から見れば、それ以前の敵対していたそれ以前の勢力の人物の墓である。だからこの点はすぐ解決した。やはり「敵を祀る」という俾弥呼(ひみか)の重大なテーマである。これは後の楠木正成や乃木将軍にも受け継がれ、後には大下さんが紹介された大阪玉造の陸軍墓地にも延々と続けられているものである。将来の人類の指標となるのは、敵を辱めるような方法ではなく、敵を誉めたたえるこの方法こそ、永遠なる日本の伝統であると感じました。  ですから韓国で韓国・朝鮮人慰安婦の碑や墓を造ったと聞きました。わたしは大賛成だ。中国・韓国が慰安婦の碑や墓を一つ造ったら、日本の靖国神社にも二つ・三つ以上の中国人・韓国人慰安婦の碑や墓を造って祀るべきだ。中国・韓国が二つ造れば日本の靖国神社も六つなどもっと多く造って祀るべきだ。とにかく日本の靖国神社に「敵を祀る」という伝統が失われていることは間違いだ。そのように考える。  とにかく俾弥呼(ひみか)の祀り方の一つは「敵を祀る」という点にあった。そのことが今回の難波收さんのご指摘により、一段と明瞭になりました。  わたしがショックを受けたのはもう一つの問題。難波さんが書かれたなかに、銅鐸というものは一定の音しか出ない。だから楽器にはなりません、このように率直に言い切られた。その点古田さんが銅鐸を楽器であると言っているのは間違いです。これにショックを受けた。わたしは銅鐸は楽器と思い込んでいた。 『魏志韓伝』一部 常以五月下種訖、祭鬼神、群聚歌舞、飲酒晝夜無休。其舞、數十人倶起相隨、踏地低昂、手足相應、節奏有似鐸舞。十月農功畢、亦復如之。信鬼神、国邑各立一人主祭天神、名之天君。又諸国各有別邑。名之為蘇塗。立大木、縣鈴鼓、事鬼神。 五月を以て下種し訖(おわ)る。鬼神を祭る。群聚して歌舞・飲食し、昼夜休(や)む無し。其の舞、數十人倶に起ち相隨い、地を踏み低昂(ていこう)し、手足相応ず。節奏、鐸舞に似たる有り。十月農功畢る、亦復(またまた)之(これ)の如くす。・・・  その理由の一つは『三国志魏志韓伝』の中に「鐸舞」とある。「鐸」にあわせて踊りをおどる。中国の「鐸部」というものがあり、小銅鐸だから中国の「鐸部」と同じだ。そう思い込んでいた。「鐸」に楽器としての音が出ないと、楽器に合わせて踊りをおどることはできない。  それと日本では銅鐸に一緒に、数は少ないが舌(ぜつ)が出てきている。数が少ないのは注意して調査していないから数が少ないだけで、銅鐸はほんらい舌(ぜつ)があった。これは日本の考古学界ではよく知られたことです。  もともと中国では、金鐸と木鐸として用いている。   徇ふる(となふる あまねく示すこと  ーー 古田注)に、木鐸を以てす。(『周礼』地官、鼓人)   (注)木鐸は木舌なり。文事には、木鐸を奮ひ、武事には、金鐸を奮ふ。   金鐸は、以て軍中に令する所、木鐸は、以て国中に令する所。此れ、先王仁義の用なり。一器の微にして剛柔焉(これ)を別つ。其れ、民を治するの道を識る可き也(か)歟。(『日知録』経義、木鐸)  つまり“木の舌(ぜつ)を入れて鳴らすのが木鐸、金の舌を入れて鳴らすのが金鐸”というわけである。前者は政治・風教、農業などの文事を教えるさい(木鐸は“新聞は社会の木鐸”というあれだ)、後者は軍事・危急のさいだ、というのである。  さらに中国における「鐸」は、やはり祭式楽器として周代の古典、礼記に登場している。    升二正枢一、諸侯、執レ[糸孛]五百人、四[糸孛]、皆御レ枚、司馬執レ鐸。左八人・右八人。     升二正枢一者、謂下将レ葬朝二干祖一正中棺於廟上也。 〔疏〕司馬執レ鐸左八人・右八入者、司馬夏官、主レ武。故執二金鐸一率レ衆。左右各八人。夾レ柩以号二令於衆一也。〈礼記、雑記下ーー注疏第四十三ーー〉     [糸孛]は、糸偏に孛。ユニコード7D8D。  右によれば、「鐸」は諸侯が祖廟を祀るさいの祭式楽器であったことが判明する。しかもそれが祭弍に用いられる理由は、意外にも軍事にあったというのである。確かに、金鐸は軍事火急のさいに用いられたとされている。  そこまでは良かったのですが楽器としてどのように使われたかについては、よく考えたことはなかった。だから昨年の十一月から十二月にかけて、それで一生懸命聞き回って考えた。博多の上条誠さん、いつも貴重な意見を寄せられるかたですが、楽器に強いかたが居られて、そのかたからファックスを送っていただいた。  これを見ますと、明らかに舌(ぜつ)の大きさ・長さによって、音階が出来ます。楽器として使用されたことはじゅうぶん考えられます。この送ってもらった図を見て、わたしは従来のわたしの考え方でも間違いなかったと安心した。ですが、わたしにとっては初めての図だったので皆さんに紹介しました。これで難波さんのもう一つの疑問も解決しました。 (『古代史の十字路 -- 万葉批判』〔二〇一二年六月刊行 古田武彦・古代史コレクション12 ミネルヴァ書房〕 「日本の生きた歴史(十二)」三六五頁の図を収録、解説は下にあります。  そこで改めて感じたことは、簡単に言えば、弥生中・後期は銅鐸の時代です。五百個以上の銅鐸が出土し、実際はそれの何倍もの数の銅鐸が存在した。大型銅鐸は静岡県西部から滋賀県にかけて。その銅鐸の時代に、もし魏の使いが大和や近畿に来たならば銅鐸のまっただ中を通っている。しかも銅鐸は楽器ですから鳴らして使う。  銅鐸という言葉は考古学者が勝手に造った言葉です。考古学界作成の言葉です。東アジアの用例では金鐸なのです。とすると中国の使いが来たら、それはたいへんです。敵対するか関係するかは別にして、一斉に金鐸を鳴らして対応したと考えられます。その中を魏の使いが、金鐸一つ気がつかないままで大和に来たはずがない。あるいは金鐸の存在に気がつかないままですり抜けていく。そんなことはあるはずがない。方法があったら教えて下さい。もしその方法がないなら、近畿説は初めからダメなのです。  この点、近畿説の学者はどう考えているのか。いまさらこのようなことを問題にするのも恥ずかしいぐらいです。皆さんの中に近畿説の学者にお知り合いのかたが居たら聞いてみてください。  この「難波疑問」の金鐸問題に関連して、わたしにもまだ一つ分からないことがある。わたしも明日どうなるか分からない年齢になりましたので皆さんにお伝えしたい。わたしが以前から関心を持っている問題に『魏志倭人伝』に「金八両」とある。あの金はどこへ消えたのか。金は錆びないし蒸発もしない。その金がどこかになければおかしい。それを追求している研究はあまり見たことはない。そういう点から以前から関心を持っているのが、唐津湾に臨むところの福岡県糸島郡二丈町の銚子塚古墳です。この古墳は以前からたいへん論議のある古墳です。そこから出土したものの中に全面に後漢式鏡に金が塗られている鏡がある。わたしはこの鏡を黄金鏡として何回もこれを引用しています。小林行雄氏は、この鏡を五世紀の初め、場合によっては四世紀の終わりかもしれない。そういう形で小林行雄氏の論文に繰り返し出てくるテーマです。わたしはこの後漢式鏡に塗られた金は、三世紀の卑弥呼(ひみか)がもらった金ではないか。(従って鏡は三世紀の終わりか、四世紀の初めとわたしは考えている。)これはまったくの当推量の域を出ていないが、そういう思いがある。実物は今京大にある。実物は二丈町に返せばよいのですが、小林行雄氏は略式の報告書として書いているのですが、正式の報告書が出ていないという建前に基づいて、今でもずっと京大が持っている。わたしは京大の博物館に行って、実物を何回も目にこすりつける近さで実見し、写真に撮った。この鏡の金が、卑弥呼(ひみか)がもらった金ではないかと、わたしは考えている。  それで卑弥呼(ひみか)がもらった金かどうかを決める方法はなくもない。変な表現ですが日本では他にない。球磨の流金鏡(りゅうきんきょう)(熊本県球磨郡あさぎり町 才園古墳出土)、これは少し性質が違うが金をデザインに使った。このように別の方法で金をデザインとして使ったものはあるけれども、金を全体に塗ったものは二丈町の銚子塚古墳しかない。  ところが中国の博物館に行きますと、どの部屋も金だらけというか金製品がたくさんある。中国では金の成分分析はお得意ですから中国の考古学雑誌には、前の年に出土したものの分析表がたくさん載っている。ですから中国の考古学雑誌から出土した金の分析表も集められると考える。ここから先は文化系の発想だと思って聞いて下さい。そうしますと金の成分は時代や地域によって違うのではないか。また金の成分だけでなく他の混ざっている成分、たとえば水銀なども混ざりぐあいが時代や産地によって違っているのではないかと理解している。それを丹念に中国の分析表を集めてみて、さきほどの二丈町の後漢式鏡の金の成分と比較してみると、どこかの時代や地域の金の成分と一致するのでないか。かならず分かるものではないが、じゅぶん分析してみる価値はあると考える。もし金の分析をおこないたいと申し出があれば、わたしも歳だから昔のように飛び回れないが協力はできる。たとえば毎年年賀状をいただく樋口隆康さんに協力していただいて、鏡の分析を京大に申し入れる。樋口さんなら京大も断りにくく無視できないだろうと勝手に考えています。要するに無駄に終わるのを百も承知の上で試みる。これらの提案もわたしなどが言わなくとも、すでに専門の研究者が行っていて当たり前。今までおこなわれなかったことが不思議なくらいです。   七,最後に  最近わたしのまわりに、皆さん方の中から、新しい研究が相次いで行われている。  たとえば大越氏の二倍年暦の研究。古賀さんが手をつけられて、途中でストップしていたテーマ。たとえば『論語』の中で、「立つ」「迷う」とかを全部抜き出してみる。また『尚書(しょうしょ)』や『易経』の中の年齢を全部抜き出してみる。そのような仕事をやって下さっている。これもやがて形をなすと思いますが。これらも専門の学界の学者がやるべきこと。  さらには、今日お持ちいたしました『古事記』の真福寺本。「弟」と書いてあるのに、本居宣長が勝手に「矛」と書き直している。だから「矛」では意味をなさないところが各所にある。やはりそれを明らかにするのは、真福寺本全部から「矛」と「弟」を抜き出して、比較して論じる。大下隆二氏が真福寺本を見事に写真を撮っていただいた。今年はこれの分析を本にしたい。文献の学者がだれも行っていない一番専門的な仕事。  そのほかの紹介  『漫画・「邪馬台国」はなかった』の紹介。  『九州年号の研究』  『日高見の源流 ーーその姿を探求する』(菊池栄吾 E・PIX)  『天皇制は日本の伝統ではないーー-- 墓より都 君が代』(草野喜彦 本の泉社)  『生物科学』(vol.62 No.2 2011)という専門誌が送られてきました。同誌には「東北水田稲作の北方ルート伝播」が掲載されていました。  「東北水田稲作の北方ルート伝播」『生物科学』(vol.62 No.2 2011)佐々木さんと吉原賢二さん(東北大学名誉教授)の共同執筆  杉本文楽『曽根崎心中』の近松台本  このように新しい研究が続出している。これらはまだ始まりにすぎない。  ここからでも良い。  今わたしがおもっていますのは、たいへんな時代にある。たいへんな時代とはなにか。未来がいま始まろうとしている。  それで五木寛之さんが最近書いておられるのに、『下山の思想』ということを、あちこちに書いておられる。『坂の上の雲』(司馬遼太郎)ではないが、坂の上を目指して歩いてきたが、もう坂の上まで来た。だから肩の力を抜いて下り道を楽しむ以外にない。そういうことを書いておられる。  わたしはこれに反対でして、とんでもない。わたしの理解ではようするに明治以後、アメリカ・ヨーロッパに追いつけ追い越せとやってきた。まだまだ足らないけど部分的には追いついてきたものもある。とうぜん今度は追い越さなければならない。肩を並べたから、もう下山しましょうでは、ぜんぜんわたしにはナンセンス。しかもわれわれが理想と思っていたアメリカ・ヨーロッパが、その他の中国・中東が、かなりいい加減な存在であることに気がついた。あの原子力・原水爆を造ることによって何十万年害毒におよぼす、何十万年地球に害毒を残し放しの西洋文明であったことに気がついた。だからそのようなアメリカ・ヨーロッパの文明におさらばし、そうでない未来を切り開く。それがわれわれ課せられた未来である。わたしはそう考える。  はっきりしていることがある。何かと言いますと、イエスは放射能を知らない。マホメットも放射能を知らなかった。孔子も知らなかった。だからそういう害毒について、それぞれの聖典に書いてある箇所はまったくない。無いのが当たり前です。せいぜいそれを知らない呑気な時代に彼らはこの世に生を受けていた。イエスもマホメットも孔子も時代がそれぞれ違うと言うかもしれないが、大きく見ると、何十万年、何万年という人類の歴史から見ると一定の段階に登場した。なぜなら激しい人類の理想を掲げて、その理想によって生きるというノウハウが、彼ら大家(たいか)によって出された。それに反するものを、ノー(NO!)と言って退ける。理想主義というか、そういう人類の知恵としての各地に出てきたのが孔子であり、釈迦であり、イエスであり、マホメットなどを初めとする各地の大家である。ところが彼らは放射能汚染という惨劇は思いもしなかった。しかしわれわれは、今二〇一一・三・一一、そのことを知った。われわれは下山を楽しむのではなく、人類の運命を乗り越える先頭に立つ。運命はヒロシマ・ナガサキ・フクシマと日本ばかりです。これだけ日本に集中することは、何か神様が日本にやらせたいと思う。それは孔子であり、釈迦であり、イエスであり、マホメットたちが、夢にも思わなかった未来を造ることを、彼ら神様は期待していることの表現ではないか。少なくとも三・一一の衝撃を乗り越えなければ、日本の未来はない。そういう意味で、やはり日本は超一流の国家にならなければならない。あのアメリカ・ヨーロッパのような何十万年に渡り害毒を及ぼすようなインチキな文明ではなくて、原水爆・原子力をどんなに言われても断固退けて、そして人類にとっての明日の地球、原水爆・原子力に汚染されない地球を造る思想・信仰。それをわれわれが造れるかどうか、神様をわれわれに挑戦してきている。その挑戦に負けなければ、日本は超一流の国家になることが出来るのではないか。  先日、わたしの家にクリスチャンのかた、中年の女性二人が見えられて宣伝パンフレットを置いておかれた。それでわたしは、現在のバイブルは間違っている。先頭は改竄されている。神々が宇宙を造った。それを神が宇宙を造ったと書き換えられている。複数形が、単数形になっている。そのことと一週間はなぜ七日間かの話をし、資料をお渡ししました。そのことに対する答えはないですが。(笑い)  そのとき重要なことを、もう一つ申し上げた。  アメリカは広島・長崎に原爆を落とした。アメリカはキリスト教の国です。キリスト教の愛の国だ。愛がシンボル。愛のために広島・長崎に原爆を落とした。それを証明して見せて下さい。そのかたは困っていました。そのことに対する答えは出ないのではないか。日本人も、そのことをアメリカに対して言っていない。「やすらかに眠ってください。あやまちはにどとくりかえしませんから。」誰が良いのか悪いのか、はっきり言わないで誤魔化している。アメリカは間違っていると。  それで中東のハムラビ法典の言葉として、有名な「目には目を、歯には歯を」という言葉がある。この言葉の解釈は間違っている。あの言葉の意味は、目をつぶされたほうが権力をにぎれば、目をつぶすだけの復讐に留めよ。歯を折られたほうが権力を握ったら、相手の歯を折る復讐に留めよ。歯を折られた人間が勝者になれば相手の腕をぜんぶ切り取るとか、目をつぶされたほうが権力を握れば相手の命を奪うとか、そういう復讐をしてはいけない。「目には目を、歯には歯にとどめるべきだ」、本来の意味はそのような意味である。逆の意味で使われています。  それに対して、さらに進んだ愛を説いたのがイエス。サマリア人の話にあるように、神を信じなくとも、困っていた人を助けた「隣人」として神は助けたもうと。  だからアメリカが真珠湾を持ち出すならば、アメリカは真珠湾と同じことを日本にすればよい。目には目を、歯には歯を。それを真珠湾で遣られたからと言って、広島に原爆を落とした。それはナンセンスである。それはユダヤ教にも及ばない、キリスト教の精神にもおよばない。イエスは迷惑至極だ。そういうことをアメリカに対して明確に言うべきだ。あなたがたは間違ったことをしている。自分たちがやったことが、酷いものだから、 日本人をA級戦犯、B級戦犯、C級戦犯と区分けして処刑した。目には目を、歯には歯をでもなく、愛でもない。  はっきり言えばイエスでもダメ。マホメットでもダメ。孔子でもダメ。だからイエス以上、マホメット以上、孔子以上の思想を築かなければ、生きていることに値しない。その時点にさしかかっている。そのようなすばらしい時点にさしかかっている。それが超一流の国家としての日本の未来という言葉の意義であります。  若いかたがたに向かって、さんざん日本人はこのような嫌らしいことをした。悪宣伝を教育の場で押しつけられて育っている。そうではなくて、このような明るい未来を気づくことができる段階に来ていることを、わたしは最後に申し上げて最後にしたいと思います。どうもありがとうございました。 「Tokyo古田News」(東京古田会)No.137 Mar. 2011  閑中月記 第七十回 真実の神と虚偽の神  質問一  名古屋の服部と申します。先生は九州の小都市の「飛ぶ鳥の“アスカ”」が「飛鳥浄御原大宮」であることを論証されています。しかし『日本書紀』には奈良県にある崇峻記の飛鳥寺を造ったときの大和飛鳥、近くに飛鳥川もありますが。また『古事記』などを見ますと、近つ飛鳥としての河内飛鳥。他方、九州小郡(おごうり)の飛鳥。この三者の関係をどのように考えられているかお聞きしたい。  (回答)  今の問題のお答をします。それは「新庄命題」というものがあります。新庄智恵子さん(京都生れ)というかたが、わたしに言ってこられた問題があります。『日本書紀』持統紀に、持統天皇が吉野に何回も行っている。これはおかしいのではないか。これらは九州王朝側の史料ではないかとお手紙で言ってこられた。今までそのような目で考えたことは無かったので、気がつかなかった。それで調べてみますと、その通りだった。それまでわたしは桜見物に持統天皇が、吉野に行こうが行くまいが、個人の趣味だから歴史学と関係ない。そのように思っていた。ところが言われて調べてみると、一年中同じくらいのペースで、三十一回も吉野へ行っている。毎月二〜三回、春夏秋冬とも、ほぼ平均している。「桜のシーズン」の二〜三回(旧暦)がことに多いわけではない。真冬も行っている。それはおかしい。また今度、「干支」(丁亥)において、持統紀に存在しない干支が出現している。  それで結論として、これはぜんぜん別の話だ。つまり太宰府もしくは小郡から九州王朝の天子が、九州「吉野ヶ里」の吉野に行く。その目的は、有明海に集結した軍船を査閲するために吉野に行ったものだ。これには太宰府から吉野ヶ里への高速道路があり、その残欠が堤土塁跡(佐賀県三養基郡上峰町大字堤字迎原2391-1)としてある。軍船査閲なら年中行っていてもおかしくはない。今の白村江の戦いの直前で、「吉野」行きは終わっている。また「干支」(丁亥)も、持統天皇のところでは合わなかったが、白村江の戦いの前なら合っている。ですから九州王朝の天子の軍船査閲というテーマを、近畿天皇家の物見遊山のような形に直して『日本書紀』に入れている。これをわたしは「新庄命題」と読んでいます。  それで『日本書紀』を研究する従来の学者は、『日本書紀』を信用できないと言いながら、天智紀・天武紀・持統紀の三巻は間違いないと言っていた。これが従来の定説です。家永三郎氏などは、わたしがいちばん厳しい立場です。天智紀・天武紀・持統紀の三巻以前は信用しない。言い換えれば最後の三巻は信用できるという立場だった。ところが、今の『新庄命題」から言いますと、最後の三巻もダメで信用できない。ぜんぜん別の史料を持ってきて入れ込んでいる。だから『日本書紀』のここが正しいという場合は、他の証拠を挙げないと『日本書紀』は史料として使えない。この問題が現在出てきています。  この問題について、新たな目を提出されたのが大越さんです。二倍年暦を展開されているかたです。このかたが「Tokyo古田News」(東京古田会)などで天空に星が流れる。彗星が流れる年代で『日本書紀』に合っているところがある。これを発端にした議論を展開されている。これも一つのおもしろい方法です。  少し付け加えますと『日本書紀』の中に天空の記事に対する議論はいろいろある。しかしこれは『日本書紀』とぜんぜん合わない。これも天文物理学者である難波收さんが、ずいぶん昔に指摘されているところです。『日本書紀』の天空記事は、まったく事実と合っていない。ところが考えてみますと、今の『日本書紀』の記事を信用する限り、星の観測記事はまったくダメです。しかし天空の現象は客観的に成立します。そうしますと九州王朝の歴史書では、実際の天空の現象と一致していたのではないか。そういう目で『日本書紀』の記事を、九州王朝の歴史書として再構築してみるならば、方法として可能性はある。実際にやってみてアウトという可能性も十分ありますが、試みる価値はあると思う。そのような客観的な背景なしに、自分の好きなように使うという方法は、やはり学問としては無理だ。  お返事は以上ですが、講演で言い忘れたことを一言付け加えさせていただきます。  お見せしますものはエクアドルから貰ってきた黒曜石。そしてこれは日本の信州の黒曜石。不思議なことがありまして、エクアドルでは、黒曜石で丸い鏡をさかんにを造っている。エクアドルの博物館の地下の部屋に行くと、石炭箱に鏡がいっぱい収納されている。あちらこちらにあった鏡を集めてある。ところが日本では黒曜石の鏡というものはない。  そこから先は、わたしの頭の中だけで考えたことです。黒曜石の材質は日本の場合には、鏡を造るのにふさわしくないのではないか。ところがエクアドルでは鏡が出来るような材質の特性を持っているから鏡を造ったのではないか。ですが現物を見てみますと、日本とエクアドルの黒曜石にそのような材質の違いがあるとは、目で見ただけでは信じられない。ですが現実には日本では黒曜石の鏡は造られていない。エクアドルにはたくさん黒曜石の鏡が造られている。この違いをどのように考えるか。また三世紀の俾弥呼(ひみか)の時代には、『魏志倭人伝』で魏に鏡を送るように要求したように、鏡がたくさん造られている。これらはどのような関係があるのか。  このように分かっていることだけでなく、わたしが分からなくて困っている問題もプラスして申させていただきます。 質問二  京都の古賀でございます。いつも進行役ですのでなかなか質問する機会がないのですが、今日二つ質問させていただきます。  今回出された『俾弥呼ひみか』(日本評伝選・ミネルヴァ書房)の中で「邪馬壹国」について、「邪馬 ヤマ」と「壹 イチ」に分けられて考えられています。従来は「邪馬 ヤマ」と「壹 イ」と、一字一音の三音であると理解していました。「壹 イ」は、「倭 wi,i」の代わりの音は似ているけれども中国の天子に二心ないという意味で、倭を違う「壹」に書き換えたと従来の説を理解していました。今回「壹イチ」については、「イ」と「チ」の一字二音という理解を示され、それぞれの意味を展開されたと理解しています。  この点従来中国の記録について、特に『倭人伝』について、一字一音と理解されていたことからいかがなものか。それと「壹 イ」を「倭 wi,i」の代わりに置き換えたという従来説との関係について、もう一度あらためてお聞きしたい。これが第一点でございます。  第二点は、「TAGEN」(多元的古代研究会)や「Tokyo古田News」(東京古田会)のニュースを見ていますと、『隋書』イ妥(たい)国伝で「阿蘇山あり、その石、故なくして火起こりて・・・・」という話、これも今まで『失われた九州王朝』で先生が展開された「火山の姿を、中国人らしく、生き生きと簡潔に描写している」という趣旨で従来は理解していた。今回新しく発表された説として、その石とは、火山岩で造られた神護石山城を指すという論理で展開されていると拝見いたしました。これはこれで、一つの考えだと思いますが、単純に見まして神護石山城の石と阿蘇火山岩の石質は考古学的に同じなのかという疑問と、それはそれで中国の使者が神護石山城を見て阿蘇火山岩と理解できたのかどうか。そのような単純な疑問と隋の歴史書の第一読者は中国の天子ですから、現在の私たちは、神護石山城を見て九州王朝・倭国の防衛する城と理解できますが、イ妥(たい)国伝「有阿蘇山、其石無故火起、接天者」という文脈の中で、中国の天子が神護石山城をイメージとして理解できるだろうか。そのような単純な疑問を持ちましたので、その点先生のお考えをお聞きかせ願いたい。 (回答)  どうもありがとう御座いました。いずれも先ほど控え室でご質問いただいたテーマなのですが、皆さんどの方も疑問をお持ちだと思いますので、幸い話させていただきます。  第一の「壹」についてですが、これは「邪馬壹国 ヤマイチコク」と原文にあることは問題ないわけです。それに対して、『「邪馬台国」はなかった』の場合には、カタカナの「ヤマイ」と読むことはできない。最初に来るのは、アイウエオの「イ」ではなくて、ワ行の「ヰ wi」でなくてはいけないという問題に取り組みました。それで「壹イチ」というのは中国側が「中国の天子に二心なく忠節をつくす」という意味の文言に当てたのだ。中国の「壹」という字は「中国の天子に二心なく忠節をつくす」と意味を知った上で、日本側が使った。  さらにもう一歩話を進めますと、俾弥呼(ひみか)のときではなく壹与(いちよ)のときに「邪馬壹国 ヤマイチコク」という表現を使ったのではないか。それで自称として「壹与」という「二心なし」という文字を当てたのではないか。  その考えそのものは、今でもぜんぜん換わっていない。ところが別の立場・見地からは、どのように考えるかが出てきている。つまり全体として『倭人伝』を読むルールである。倭人は漢字を取り入れたとき、漢字を目で見たものだけを取り入れる。なんと読むか分からないが、発音は知らない格好だけを取り入れる。そのようなことはありえない。当然発音を含んで、その漢字を取り入れている。そうすると、あの「壹」という字は、「イチ」という発音だということを知った上で取り入れたと考えざるを得ない。  全体としてわれわれがよく知っている漢字の音、つまり現在まで続いている音、それが実は三世紀以前から漢字表記と一緒に日本に入ってきた読み方である。そうしますと「邪馬壹国 ヤマイチコク」と堂々と読んで良いのだという論理になってくる。そうするとこの意味は何か。「邪馬 ヤマ」はとうぜん「山 mountain」の意味です。倭人伝の先頭に「大海之中依山島爲國邑」と、どうどう書いてある。それで「壹 イチ」は何かと言いますと、「チ」は神様を意味する言葉、あしなづち、てなづち、おおなむち、「神 カミ」より古い神を意味する言葉は「チ」である。「イ」は「神聖」を意味する言葉で、アイヌ語では今も使われている接頭語。ですから「チ」は「神聖な神」を示す言葉。そうしますと「邪馬壹国 ヤマイチコク」は、「邪馬 ヤマ」に神聖な「壹 イチ」を加えた言葉となる。そしてその「邪馬 ヤマ」とは天孫降臨の聖地としての現在の糸島市高祖山連峰のことだと考えています。  ですから『「邪馬台国」はなかった』での理解と今回の説明とは、説明としては別の説明ですが、矛盾し合う説明ではない。つまり倭人には、『倭人伝』に対して二種類の理解がある。つまり『倭人伝』は、三世紀それ以前から使っていた読みと、その時点で中国側が使っている意味と、両方を知った上で使っている。  これの一つの印象的な例が出てきました。それは「郡支国 グンシコク」の問題です。『魏志倭人伝』の版本の中に「都支国 トキコク」となっている版本がある。それに対して「郡支国」のほうが本来である。「都支国」が書き直しである。そのことにミネルヴァ書房の杉田社長さんが見破って下さった。『俾弥呼』(日本評伝選)では「郡支国 グキコク」という読みを付けていた。ところが、どうもその読みは違っているのはないかというように話が進展してきた。なぜなら「郡」という字は濁音の「グン」と清音の「クン」がある。むしろ一般的には清音の「クン」の立場で、諸橋大漢和辞典でも書かれている。「支」のほうは、従来の尾崎さんの指摘で、中国語で「キ」と読むことが出来るという立場で『俾弥呼』では書くことによって進展してきた。しかし一方では「シ」という音もあることも疑いない。西域では「シ」と読める地名もさかんに出てくる。ですから倭人側は古く従来から読んでいた「キ」と読む立場と、中国側がその時点で読んでいた「シ」という読み方の両方を、倭人は知っていた。そうすると倭人側は「郡支国 クシコク」と読んでいたのではないか。この「クシ」は、「チクシ ツクシ」と読んでいた「筑紫」である。そうすると、この「郡支国 クシコク」は「帯方郡の支店」という表記になっている。現在でも「本店」に対して「支店」という意味に使います。張政が軍司令官として軍事使節を率いて倭国に来ているという表記になっている。それが表現されたのが「郡支国 グンシコク」ではないか。この場合も、「キ」という倭国側の古くからの発音と、中国側で一般的に使っている「シ」という発音、この二通りの発音があると言うことを知った上で倭人は使っている。このように理解は進展してきた。  このように繰り返しになりますが、われわれが『倭人伝』の漢字を読む上で、われわれの知っている音で読むのが基本である。それに対してあの時点での意味として「本店」に対して「支店」という意味、中国に対して二心なく忠節を誓う。そういう意味をダブらせて倭人は漢字を使った。  参考 「王朝の本質 -- 九州王朝から東北王朝へ」 古田武彦 六 倭人伝(南宋紹煕本)の写本問題・郡支国(『古代に真実を求めて』古田史学論集 第七集)  それでは古賀さんから質問がありました第二の疑問点について回答させていただきます。  隋書イ妥(たい)国伝「有阿蘇山、其石無故火起、接天者」を見て、近畿を原点にして解釈するのは、まったく無茶である。なぜなら近畿を原点にして阿蘇山を言うのなら、阿蘇山と近畿の間がなければおかしい。当時空を飛べるわけ無いですから、船で行くか陸地を歩いていくしかない。船なら瀬戸内海を渡って大阪湾に入らなければならない。しかしその瀬戸内海の表現はまったくない。また陸地を通ったとすれば、中国地方を通るわけですが、その表現もまったくない。また対馬海流に乗って舞鶴に行くのなら、その表現もまったくない。それに近畿に行ったら七世紀ですから、とうぜん前方後円墳といわれる巨大古墳が控えているわけです。もし大阪のほうから行った場合はかならず応神・仁徳陵を見ざるをえない。そしてまた今の舞鶴から来た場合は、崇神陵・神功皇后陵などを見ざるをえない。そういう記事がまったくない。まったくなくてもかまわない。近畿が原点で、ただ阿蘇山という自然現象を書いただけだよ。この考え方はどうみても成り立つ考え方ではない。それが第一。  そして従来のわたしの理解では変なところがある。「其石無故火起」の「無故」は、従来の解釈も普通は「故無く」と訓み、「理由が無く」という意味だ。ですが火山に対して、理由無く、と言ってみてもしかたがない。それで「理由が無く」という解釈はできない。それで「其石無故火起」に対して、古い石はないぐらい、絶えず新しい爆発がおこっている、このような意味だと解釈していた。しかしわたしは、この解釈に不安があった。  それが昨年夏ちょうど『俾弥呼』の第三校ゲラが出来上がって、後はミネルヴァ書房さんにおまかせという段階になった。その瞬間、その日の真夜中に、かねてからの疑問が頭を擡(もた)げてきた。今まで「其石無故」の「故」を「ふるし」と訓み、に対して「古い石はないぐらい、絶えず新しい爆発がおこっている」と解釈してきたが、それでは阿蘇山に古い石はないのか。絶えず爆発して新しい石ばかりなのか。そんなことがあるのか。もしそうなら「絶えず新しい爆発がおこっている」ことを証明することが必要ではないか。  それで真夜中に調べてみると、阿蘇山の石は古い石だらけ。何万年前に火山として爆発して、それが七世紀に残っていた石ばかりだ。七世紀に爆発ばかりしていて古い石はない。そんなことはとんでもないことだった。だから一応の解釈としては成立しても、新しい疑問が復活してきた。それで考えた末の結論は「古い石はないぐらい、絶えず新しい爆発がおこっている」という考えは無理だと考えた。  それで諸橋大漢和辞典などを調べていると、違う考え方の熟語が出ていた。 「無故擅入 ムコセンニフ」 無用の者猥りに入ることを禁ず。漢代、漢府の門に掲げられた禁制。  これは何かと言うと、「さしたる理由なく(官庁の中に)入ってはいけない」という漢代から唐代まで使われていた言葉だ。この一説に気がついた。そうすると「其石無故」の「無故」という言葉は、「断りなく入ってはいけない」という禁止の意味を使われている四字熟語の前半部分である。そうなると「無故火起」という四字熟語は、「理由なくして火を起こしてはいけない」という意味なのです。 「火」についても、人工の火を「火」と言い、天然の火を「災」ということに気がついた。そうするといよいよもって、「無故火起」という四時を、中国側が熟知している四字熟語という理解の上に立って理解しなければならない。  そこまで夜中に理解を進めた。  次の日に調べなおすと決定的な熟語にぶつかった。中国の『周礼(しゅらい)』に、「木鐸」の話が出てきて、その「木鐸」に「脩火禁」(火を脩(おさ)めるの禁)と厳しく規定されていた。それが漢代になるとその風習が廃れてきた。しかし廃れてきた中でも、なお漢代からかつ生き残っている言葉がある。それが「無故擅入 むこせんにゅう」です。官庁側の許可なく、ここに入ってはいけない。  詳しくは、『古代史の十字路 -- 万葉批判』日本の歴史(十二)第三「古賀疑問」論 を転載しますので、それをご覧ください。  それで「無故火起」という四字熟語は、「理由なくして火を起こしてはいけない」という意味なのです。わたし自身、この意味にたいへん驚いた。原文はそういう意味なのか。しかし元をたどっていくと原文は、『周礼(しゅらい)』の本文に対する「火を起こすな」という意味の漢代の注釈だった。  それで「無故火起」という四字熟語は、現在のわたしは「理由なくして火を起こしてはいけない」と理解しています。神護石山城の下は石ですが、三メートルぐらいの木柵が二重に立っている。石ばかりで作ったのでは、地震に弱いから上のほうに遊びを入れた木柵を建てている。木柵はとうぜん火に弱いから燃えるわけです。ですから「無故火起」という張札があって当たり前です。随の使いが張札を見て書いた。倭人側自身も自然災害に対して、このようなものを造ったという説明をしたとおもう。見てパッと暗黙のうちに理解したというよりも、倭国側の説明を聞き、「無故火起」という立て札があったので、中国側がそれを書いた。  とうぜん中国側としては、自然災害に対しての備えであったとしても戦争おいても有効であるということを、とうぜん彼らは察知した。戦争に対しても有効であるという意味は、隋や唐が倭国に攻めてきたときに、倭国側は今の神護石山城に籠もる。そうすると下から取り巻いている状況になる。中の彼らは、あえて戦いを仕掛けない。そうすると時間が経ってきますと補給が必要です。朝鮮半島や中国から食料や武器を補給しなくてはならない。倭国側はその軍船を小舟で襲撃する。そうすると補給路が断たれるから攻撃する側は、たいへん不利な立場に立たされる。ちょうどモスクワにナポレオンやヒトラーが攻め込んでも失敗したのと同じ道理となる。そういう意味合いを持つことを隋・唐側も理解しただろう。だからこそ攻めてこずに、倭国を百済の支援として朝鮮半島に来させて百済の海上でたたくという作戦を、唐は考えた。  複雑なテーマでかつ史料なので、改めて書かしていただきます。 参考「Tokyo古田会News」(東京古田会)No.139 July 「閑中日記 第七十二回 古代高度防災施設について -- 真実の出発」 『古代史の十字路 -- 万葉批判』日本の歴史(十二) 第三「古賀疑問」論 より転載           一  二〇一二年の一月十四日、古賀達也氏から「二つの質問」をうけました。「古田史学の会」の新年会のはじまる直前でした。次にその回答を記させていただきます。  その第一は「一九七一年刊行の『「邪馬台国」はなかった』と今回の『俾弥呼』との“ちがい”」の件でした。肝心の「邪馬壹国」について、一九七一年の第一書では「『壹』は“二心なく忠節”という意義で、倭国側から使用した文字である。」との立場がのべられていた。  ところが、今回は「『イ』は“神聖なものをしめす接頭語”であり、『チ』は“神以前の、古い神の呼び名”である。」と“解説”している。四十年前とは“ちがっている”のはなぜか。 ーーこの問いです。「核心」をなすテーマに対し、端的な質問の矢を放たれたのです。  わたしの回答は次のようです。  四十年前のものと今回の“解説”との間に「矛盾」はありません。今回、わたしは「冷凍庫あるいは冷蔵庫」問題を指摘しました。三世紀より、もっと早く中国(の燕の領域 ーー 北京から遼東半島に至る)から漢字が日本列島(の九州)へともたらされたとき、ただ「漢字の字形」だけでなく、その「訓み」も一緒にもたらされたはず。そう考えたのです。  その「訓み」が、現在もわたしたちが日常使っている「漢字の訓み」なのです。逆に、中国の本土側では、外国勢力(鮮卑や元や清など)の「侵入」と「征服」によって、そのたびに「漢字の訓み」はもちろん、「漢字の字形」もまた“激変”をこうむったのです。たとえば羅振玉らしんぎょくの「碑別字」「続碑別字」などは、その成果、「記録化」となっています。けれども、日本列島の側では、右のような中国本土の「激変」に対して“知らぬ顔”をして、当初からの「字形」や「訓み」に従ってきた。もちろん“大筋において”の話ですが、そう論じたのです。これがわたしの「冷凍庫ないし冷蔵庫論」です。             二  しかし、右とは「別の視点」があります。たとえば、三世紀の(漢字を読むことのできる)倭人たちは、同時代の、つまり三世紀の中国側の「漢字使用法」に対して、全く無関心だったのでしょうか。  そんなはずはありません。だって、あの倭人伝に堂々と長文掲載されている、魏の明帝の詔書は、それこそ「同時代の中国文の典型」の一つです。それを倭国(の俾弥呼)側は、読み、正しく理解し、それに対する返事、つまり「上表文」を贈っているのです。「同時代の漢文」に対する「認識」なしに、できることではない。わたしはそう思うのですが、ちがうでしょうか。  ですから、中国(魏朝)側が重視する、基本の徳目「壹」に対して、“正確な理解”をもっていたこと、わたしには夢疑うことができません。そして「貳」が“二心”を意味する、中国(魏朝)側の、もっとも憎む悪徳であったこと、もちろん「百も承知」です。その「百も承知」の上で、第二代の倭国の女王は「壹与」という、見事な「造字」による「自署名」を用いたこと、まぎれもない交流の事実と、わたしには思われます。  要するに「訓」と「音」と“双方”をにらみ合わせて使用したこと、すでに「都市命題」で詳述した通りですが、その「音」もまた、いうなれば「古音」と「新音」と、共に“知る”立場にあったのではないでしょうか。この点。中国という地球上最大の文字大国の「隣国」として存在している、日本列島の倭人にとつて“まぬかれがたい”面倒であったと同時に“まぬかれてはならぬ”利点でもあった。そう考えるのは、わたしの考えすぎでしょうか。  適切な、古賀さんの「問いかけ」のおかげで、キイ・ポイントの論点、のべさせていただきました。              三  その第二は「神籠石山城」に対する、中国(隋朝)側の“認識”の問題です。今回の『俾弥呼』において、古田はこの「山城問題」を、いわば“決め手”のように重視している。しかし、中国側がこの山城を見ただけで、果して「これは阿蘇山の熔岩による構築物だ」という判断ができたものかどうか。ーー この疑問です。  もっともな疑問ですから、筋を追って「回答」させていただきます。  第一、中国(隋朝)側の、この文面の「背景」には、周礼の一文(次ぺージ参照)があります。 周禮の図 P382,P383  「新聞は社会の木鐸である。」というときに使われる「木鐸」です。先述のように、平時に「民衆への教訓」や「社会のルール」などをしめすために使われたものです。「非常用」の「金鐸」とは対照的です。  その「木鐸」に「脩火禁」(火を脩めるの禁)が書かれてありました。もちろん、周代の話です。これは「五禁」(宮禁・官禁・国禁・野禁・軍禁)として、例の「木鐸」によってしめされ、「門の前」にかけられていたというのです。「ここでは、許可なく火を使ってはならない。」と。  第二、しかし周代が過ぎると「そのような禁令はすべて“消滅”してしまった。」と、漢代の注に書かれています。ところが、それの「遺存」したものの一つが、今(漢代)の官府の門に掲示されている「無故擅入」の四文字だというのです。その意味は「許可なしに、この官府の門から入ってはいけない。」ということで、それは唐代にも“受け継がれて官府の門に現在も掲げられている通りだ”、というのです(諸橋、大漢和辞典の「無故擅入」に対する解説も、同趣旨)。  第三、以上の「中国側の歴代の掲示」に立って、今問題となっている、隋書イ妥国伝の一節の「無故火起」の四文字が“書かれて”いること、疑いようもありません。  周代以来、漢代、唐代と、代々行われてきた、中国側の「官府の禁制の言葉」と同趣旨の「立て札」が(もちろん、日本語で)ここにも書かれている。これが「無故火起」の四文字を“書いた「中国側の視点」に立って”理解した場合、必然不可避の理解です。  それなのに、従来の日本側の学者たちは(わたしもふくめて)、これを「阿蘇山の火」のことだなどと、「全くの誤断」をしたまま、今日に至っていたのです。  特に、従来説の学者たちは、この「日出ずる処の天子、云々」の「名文句」を、大和(奈良県)の推古天皇や聖徳太子が“発信”した言葉と、“思いこんで”きましたから、この辺の文章を“いっしょくた”にして、阿蘇山に関する“風物詩”の類の一つと解して“悩まなかった”のかもしれません。  それに、今回はじめてわたしは気づいたのです。忘れもしません。二〇一一年の八月下旬、『俾弥呼』のゲラ三校まで、ミネルヴァ書房の編集部に渡し終った、その夜中でした。探究の “the end” が、実は “the start” となったのです。  もちろん、大地震や大津波の多い「イ妥国側の防災施設」として、いいかえれば非常のさいの「民衆の逃げ城」として、イ妥国側は中国(隋朝)の使者に対して“懇切に”説明したはずです。何も“隠す”ようなものではありませんから。日本列島の「縄文」(九州)「弥生」(瀬戸内海周辺)とつづく「高地性集落」という“民衆の逃げ城”の歴史をも語ったことでしょう。  二〇一一年三月十一日の、あの東日本大災害のことには「思いも及ばなかった」か、あるいはやはり「想定内」の事件だったのか、そこまではわたしにも分りません。 けれども、この神籠石山城の“整然たる”下石が、阿蘇山をめぐる「広大な熔岩群の一環」であることは、おそらく“誇りやかに”彼等は語ったこととおもいます。  以上、古賀さんの“急所を突いた”御質問に「回答」させていただきました。 質問三  大阪の藤内(とうない)と申しますが、被差別部落の問題についてたいへん大事だと何回も言われていますが、その点もう少し詳しく伺いたい。 (回答)  このような大事な問題について、よく聞いていただけました。ありがたいことです。  現在被差別部落の問題について論ずる本や論文はたくさん出ています。それの多くは職能起源論というものに依っています。死体を扱ったり、不浄な仕事をする人が非差別部落の起源だ。そのような説明が、圧倒的に多い。  しかし、わたしはこれはまったく無理だと考えます。  古代史では当然『倭人伝』を読むわけです。『倭人伝』の中で「大人たいじん」と「下戸 げこ」の関係は、完全に差別・被差別の関係です。 『魏志倭人伝(ぎしわじんでん)』 與大人相逢道路逡巡入草傳辭説事或蹲或跪兩手據地爲之恭敬對應聲曰噫比如然諾 下戸、大人と道路に相逢へば、逡巡して草に入り、辞を伝え事を説くには、或は蹲り或は跪き、両手は地に拠り之が恭敬を為す。  三世紀の倭国というのは完全に差別国家です。片方の「大人」のほうは威張り返っている。片方の「下戸」のほうは手を着いて恐れ入っている。 それなのに被差別部落を論じる場合は、室町時代、せいぜい古くなっても鎌倉時代に始まったと言っています。それも不浄な仕事をする人が差別されたのだと言っている。  それでは倭人伝の差別社会はどこへ消えたのか。そして鎌倉時代という新しい時代に、もう一度不浄な仕事をする人がもう一度差別されたのかという問題になってくる。  それとわたしがおおきな問題意識を与えられたのは、神戸で高校にいたとき早稲田大学の同和問題研究会が作ったの「被差別部落の分布図」を手にしたときです。これは社会科の教師にとってはたいへん見慣れた図です。何が見慣れたかと言いますと、日本歴史地図の「古墳分布図」と相似形、そっくりさんをなしている。関東や近畿・九州には被差別部落もありますが、同じく古墳もある。ところが東北は、古墳も被差別部落もない。福島県も若干あるが、そこから北に行くと古墳がない。被差別部落も同じく北にはない。沖縄も、古墳も被差別部落もない。  そうすると職能起源説からしますと、鎌倉・室町時代の人々が被差別部落を造った。その場合古墳の分布図を手に入れて被差別部落を造った。そんなことはありっこない。とうぜん両者が一致しているということは、とうぜん江戸から現代の被差別部落は、少なくとも古墳時代まで遡(さか)のぼる証拠である。古墳時代まで関連させて理解しなければならない。そういうことを示している。  今わたしは分かったようなことを言いましたが、改めて言わせていただくと、上田正昭さんなどが活躍しておられた被差別部落の第一回の研究会が開催され、京都の花の家という共済組合の寮で、三人が一室に留まった。そこに山形の方が居た。  わたしは非常に悩んでいる。わたしは被差別部落のことを教えなければならないと、一生懸命生徒に教えるのだけれども、一つも彼らは聞いてくれない。なぜかと言いますと、山形には被差別部落がないから、いくら口で説明しても、生徒は実感がないものだからまじめに聞いてくれないから、それが悩みの種だ。  びっくりしまして、わたしはそれまで被差別部落が日本中にあるという受け取り方をしていた。そんな結構な話はないではないかと言いますと、「いや、そうではありません。もし彼らが中学校を卒業して、みんな山形で就職し一生を終えれば、被差別部落についての教育は必要ないが、そんなことはありません。かれらは高等学校を卒業すれば東京・関東や大阪に就職する。そこで被差別部落のことを知らないと、つまらない失言をしたり、迷惑をかけたり人を傷つけたりすると思う。だからぜひとも被差別部落に対する教育が必要だと思って教育しているが、山形に被差別部落はないものだからまじめに聞いてくれないのが悩みだ。しみじみと苦悩を語られた。  わたしはびっくりして調べてみると、その通りだった。日本歴史地図の「古墳分布図」と被差別部落は相似形をなしている。少なくとも被差別部落は古墳時代に成立した。江戸時代に始まったのではない証拠に、『三国志魏志倭人伝』には「奴婢」や「生口」の存在が記されている。三世紀の倭国には被差別部落が存在する国家であった。  それは『俾弥呼』に書きましたが、わたしとして心外なことがある。さまざまな被差別部落に関する著作者がだれ一人、あなたの考えは間違いです。職能が起源ですと言ってくる人はいない。また被差別部落の人からも、おまえはそんなことをいうが今までの考えと違う。やってきて詳しく説明しろ。そういうことを言ってくる人を待っているのですがだれ一人言ってこない。各地の講演会でも言いましたり、問題になった地域の教育委員会へも連絡しましたが、何の反応もない。やはり「古田説はなかった」という問題があるが、それとはダブりますが、これもやはりおかしい。ですから被差別部落の問題に関心のあるかたは、ぜひともわたしを呼びつけてほしい。お金も何も要りませんから、駆けつけてそれについて議論したい。  被差別部落の起源の問題は、いろいろな問題に波及するが一つだけ言います。「崇神」のときに、被差別部落にされたのは、それ以前の正当な王者、「神武」の子孫たちは被差別部落に組み込まれている可能性がある。そう考えると被差別部落の場所と神武天皇の陵墓のある場所が一致するのは簡単に説明がつく。そのようなことを含めて議論すべきである。  ついでながら「万世一系」はダメである。そういうことを書きました。「万世一系」でいいという人がいたら、わたしを呼びつけてほしい。お金も何も要りませんから、駆けつけて議論したい。 (松山の合田洋一氏より追加説明 被差別部落のことで説明したい。松山の久米評衙と言われたところ。須恵器に「久米評」と書かれたものが出土したところです。その近くに被差別部落がある。そこは平地で古墳はなにもない。ですから墓守だけでもなくて、役所を守るという役目もあったのではないか。)  おっしゃるとおりである。  三世紀の俾弥呼の国歌は被差別国家である。七世紀の倭国(イ妥国)も三世紀俾弥呼の国歌以上と言ってもよい被差別国家である。その末期に松山に紫宸殿を置いたという問題がある。それでは紫宸殿だけでなくて、とうぜん被差別部落も置いたということではないでしょうか。このように被差別部落問題も、解きほぐす重要なキーポイントとなる。紫宸殿と呼ばれている場所とは、とうぜん違う場所ですが。紫宸殿があるということと被差別部落があるということは無関係ではない。その場合も被差別部落の伝承を大事に掘り起こしていくと、思いがけないテーマが出てくる可能性がある。