『市民の古代』第15集』 へ

ホームページへ


市民の古代第15集 ●1993年 市民の古代研究会編
  ●ひろば

憶良と亡命の民

嘉摩郡三部作を読む

富永長三

はじめに

  瓜食めば 子供思ほゆ 栗食めば ましてしぬばゆ 何處より 來りしものぞ
  まなかひに もとな掛りて 安いしなさぬ

   反歌
  銀も黄金も玉も何せむに勝れる宝子にしかめやも

 この歌はご存知のように、『万葉集』巻五に「思子等歌一首并序」と題された山上憶良の歌だ。まっとうに子供への愛をうたって、多くの人々に愛されてきた歌だ。瓜食めば・・・栗食めば・・・、とたたみかけるようなリズムで、幼な子のしぐさ一つ一つを眼前に浮かびあがらせる。読む人をして自分が経験した、あるいは経験しつつある子育ての一こま一こまを思い起させずにはおかない。まさに愛の讃歌だ。そして反歌は、やや説教調ではあるが、子に勝る宝は何物もありはしない、とうたいきる。だがこの歌は、愛の讃歌それだけではない。その珠玉の宝である子供たちの運命が、累卵の危うきに瀕していることを暗示した歌だ、といったらお笑いになるだろうか。
 さてこの歌は、この後につづく「哀世間難住歌一首并序」の反歌左注に、「神亀五年(七二八)七月廿一日。於嘉摩郡撰定筑前国守山上憶良」とあることにより、この歌の前の歌「令惑情歌一首并序」と合わせて三部作だとされている(『万葉集私注』ほか)。そうであるならば、左注にある撰定とは、多くのなかから撰び定めることであるから、憶良がある目的をもって、この三部作を嘉摩郡に於いて撰定したわけである。その憶良の目的を考えてみたい。

 

 「令反惑情歌并序」について

 惑は人あり、父母を敬ふを知り、侍養を忘れ、妻子を顧みざる、脱履よりも軽くし、自ら異俗先生と稱す。意気青雲の上に揚ると雖も、身体は猶塵俗の中に在り、未だ修行得道を験さず。蓋これ山沢に亡命の民なり。ゆえに三綱を指示し、更に五教を開き、之に遺るにもちてし、其の惑を反さしむ。歌に曰ふ

 八〇〇
  父母を 見れば 尊し 妻子見れば めぐしうつくし 世の中は かくぞことわり もち鳥の かからはしもよ 行くへ知らねば うけ履を 脱ぎつる如く 踏み脱ぎて 行くちふ人は 岩木より 成り出し人か 汝が名のらさね 天へいかば 汝がまにまに 地ならば 大君います 此の照らす 日月の下は 天雲の 向伏すきはみ 谷ぐくの さ渡るきはみ 聞こす食す 国のまほらぞ かにかくに 欲しきままに 然にはあらじか

  反歌
 八の一
  ひさかたの天路は遠しなほなほに家に帰りて業をしまさに

 憶良はこの序文で、父母、妻子を顧みず修行得道にはしる人々を、山沢に亡命する民だという。その亡命の民にむかって、歌をもって三綱五教を示し、惑情を反さんというのである。亡命の民とはどのような人々なのか。はたまた惑情とは何か。それを解くことなしに、この歌を理解することは難しかろう。
 さて、この「山沢に亡命の民」とは今日までどのように理解されてきたのであろうか。諸注釈は、漢籍、あるいは『続日本紀』の用例から、それを戸籍を脱した人 ーー浮浪の民、あるいは仏徒の輩と解釈してきた。そこで、『続日本紀』をみると、慶雲四年(七〇七)七月、元明天皇即位の宣明、大赦条に「亡命山沢藏軍器、百日不首、後罪如初」とある(和銅元年正月、養老元年十一月の詔にも同様な文がある)。また天平元年(七二九)四月の勅に「有下学習異端、蓄種幻術。壓歴咒咀、害傷百物。首斬從流。如有住山林。詳道仏法。自作教化。伝習授業。封印書荷。合薬造毒。万方作恠。違犯勅禁。罪亦如此。」とある。
 なるほど天平元年の勅は「山林に停住し詳りて仏法を道ひ」とあり、仏法修行者とする理解がえられるやにみえる。しかし、この勅が時間差はわずかではあるが神亀五年の後であること、またこの勅に「亡命」の文字がみえないこと、によって、この勅による理解よりも、慶雲四年の詔による解釈をとりたい。なお「亡命」とは、戸籍を脱けることと理解されているが、中国古典からえられる理解はすこし異なるのではなかろうか。周代末、春秋、戦国時代には複数の国が存在し、そこで王位継承、あるいは政争に敗れた人々が国内、国外に逃亡した。これを亡命というのではあるまいか。むしろ現代に使用されている亡命の意のほうが、原義に近いのではなかろうか。
 それでは、慶雲四年の詔はどう理解するか。ここにみえる「亡命山沢」をそれぞれ別の事柄とみることも可能ではあるが、さきの「亡命」の理解からするならば、一連のこととして理解すべきではなかろうか。またここでいう「軍器」とは、たんに武器をさすのではなく、後の養老・軍防令にみえるごとく、鉦・鼓・旙*等をも含む概念であろう。その軍器を所持し、山沢に亡命する民なのであるから、そこからうかがえる姿は、もはや浮浪の民、仏徒のそれではあるまい。私盗、群盗の類をも超えた姿ではなかろうか。一国の軍隊を想像させるに十分であろう。

旙*は、方の代わりに立心編。

 さらに『続日本紀』には、文武四年(七〇〇)六月条に「薩末比売、久売、波豆。衣評督衣君県、助督衣君弖自美、又、肝衝難波。肥人等に從ひ、兵を持して覓*国使刑部真木等を剽劫す。是に於て竺志惣領に勅して犯を決罰せしむ、」(古田武彦氏読み下しによる)とある。薩末比売以下の人々が、肥人等にしたがって覓*国使を剽劫 ーーおびやかした、という。また、文武二年(六九八)四月条には、「務広弐文忌寸博士等八人を南島に遣し国を覓*めしむ。因て戎器を給ふ。」とあるから、覓*国使が武器を所持した集団であったことは明らかであり、薩末比売以下が武力をもっていたこともまた当然であった。まさに「挟藏軍器」なのであった(古田氏は、この事件以前に肥人等自体が覓*国使を派遣した勢力との武力衝突をしており、それを『続日本紀』はカットしているという。うなずける想定だ)。

覓*は、覓の異体字。JIS第3水準ユニコード8994

 さて日本列島の歴史は、卑弥呼以来筑紫に都を置く倭国が、白村江の敗戦を契機に衰え、近畿に都する日本国によってその地位を奪われたのであった。しかし文武四年の段階では、日本国はいまだ九州全土を制圧してはいなかった。そればかりか、元明天皇の時代に至ってもなお倭国残存勢力が存在した。それが文武四年の証明であり、元明即位の宣明にみる「亡命山沢、挟藏軍器」の意味するところであろう。
 以上のように、「亡命山沢」が理解されるならば、憶良の歌に使用されている亡命の民も、同じ理解のもとに解釈されてよいのではなかろうか。
 さて憶良は、そのような亡命の民の惑を、歌をもって反さんというのである。ならばその惑とは、青雲の志であり、修行得道などと仏教的な衣を着けてはいてもそのロ心は、倭国復興、ということになりはしないだろうか。ともあれその歌をみることにしよう。
 父母は尊く、妻や子はいとしく愛らしい。それは世の道理ではないか。その愛を脱ぎ捨てて行く人は石や木から生まれたのか、人の心をもっていないのか、と憶良は歌う。第一のテーマ、愛、の提示だ。ます愛をもって翻意を促している。
 天へ行くのなら気のむくまま、しかしこの国土は大君が支配している。欲するままにしようとしてもそれは不可能なのだと歌う。第二のテーマ、不条理、の提示だ。この地に生きてゆく以上、大君の支配に服する以外に生きる道はないのだ、と呼びかける。
 そして反歌はいう。あなた方の目指す天路は遠くなってしまった。もうたどりつくことは不可能なのだと。家に帰って生業に励み、家族への愛をまっとうすることがあなた方の生きる道であり、それが道理なのではないか、と歌う。
 さてこの歌には、天、あるいは天路、ということばが使用されている。地上にたいする天上の意と理解されているのだが疑問が残る。ひさかたの天路、と反歌はうたう。「ひさかた」とは、天・雨・月など天上のものにかかる枕詞であるという。しかし語義、かかり方未詳とする。「ひさかた」とは、「ひさしい」と近縁のことばなのではなかろうか。「ひさし」という時問の経過をしめすことば、そのひさしの彼方、ひさしの極限が、「ひさかた」なのではないだろうか。そうであるから、天・雨・月等にかかる枕詞になったのではないのであろうか(あまりにも素人妄想がすぎたのではあるが)。もしそうであるならば、「ひさかたの天路は遠し」とは、日本国がこの国土を支配するようになって、時間的、空間的にも倭国(天国)への路は遠くなり、たどりつくことは不可能なのだと、憶良はいうのではなかろうか。
 憶良は序文で、「修行得道」という仏教的な衣を着せて、亡命の民の姿を表現した。また、その歌では、天、天路という一見仮想のようなことばによって、惑情、亡命の民の目指すところをあらわした。しかし、亡命の民を『続日本紀』の「亡命山沢、挟藏軍器」によって理解するならば、亡命の民の惑情とは、倭国復興ということになろう、とはさきに述べた。憶良はそれにたいして、愛と不条理をもって翻意を促しているのではなかろうか。つぎの歌をみることにしよう。

 「思子等歌首并序」について

  釈迦如來、金口正に説けり、等しく衆生を思ふこと、羅喉*羅の如し。又説けり、愛は子に過ぐるなしと。至極の大聖なほ子を愛する心有り、況んや世間の蒼生をや。誰か子を愛せざらむ。

 八〇二
  瓜食めば 子供思ほゆ 栗食めば ましてしぬばゆ 何處より 來りしものぞ まなかひに もとな掛りて 安いしなさぬ

  反歌
 八〇三
  白金も黄金も玉も何せむに勝れる宝子にしかめやも

喉*は、口偏の代わりに目。JIS第3水準ユニコード777A

 この歌の序文には、前歌序文にあった、「其の惑を反さしむ」のようなうたう目的が文字になっていない。また、「歌に曰ふ」という語もない。そのかわりに、誰か子を愛せざらむ、と憶良の思いが溢れるように述べられているようである。
 釈迦如來が衆生を思うことは、釈迦がその子を思うことと同じである。愛は子への愛に勝るものはない。釈迦ですら斯のごとくである。ましてわれら凡人は、と解くその調子は、激情的な感じすらする。子への愛こそがすべての愛の根源なのだという。それは、愛、の展開そのものなのではないか。その説くところは、歌にまっとうに歌われている。歌については、「はじめに」で述べた。が、この歌で注意すべきに終わりの句、「安いしなさぬ」であろう。かわいい子供の姿がまなかいにかかって安眠させないという。安眠できないのは、子供がいっしょに寝ていないからではないか。子供がかたわらにいないから、もとなかかって安眠できないのだ。親と子は別の場所にいる。離れているのだ。そう理解するならば、この歌が「令感情歌」とつながっていることがわかるのではないか。また、序文に歌う目的を何も記されなかった理由も。「令感情歌」では憶良の意がつくしえぬために、さらにこの歌をうたったのだ。平凡な家族への愛ではたりなかったのだ。愛のなかの愛、子供への愛を歌ってこそ、亡命の民に憶良の意が通じると考えたのではないか。
 銀にも、黄金、玉にも勝る宝、その珠玉の宝を残して、あなた方は山沢に亡命しているのですよ、子供たちはどうなるのですか、と。悲しい問いかけの歌だ。

『筑後国風土記』は記す。
「(前略)古老の伝へて云ふ。雄大迩天皇の世に当り、筑紫の君磐井、豪張暴虐、皇風に偃ず。生平の時預め此の墓を造る。俄にして官軍動発し、襲はんと浴する間、勢の勝たざるを知り、独り自ら豊前の国、上膳の県に遁れて南山峻嶺の曲に終る。是に於いて、官軍追尋して蹤を失ひ、士怒り未だ泄まず、石人の手を折り石馬の頭を打ち堕しき。古老伝えて云ふ、上妻の県、多く篤疾有りき、と。蓋し茲に由か。」

 勝者たる官軍は、石人石馬さえ打ち壊したのである。この風土記の知識は、当然憶良も亡命の民もともに知悉していたであろう。残された子供たちの運命は想像するにあまりあろう。そこを憶良は歌にして訴えたのではなかろうか。当然その動機は嘉摩郡に存在した。わたしにはそのように思われる。不気味な余韻を響かせる歌だ。


  「哀世間難住歌一首并序」について

 集り易く俳ひ難きは、八大辛苦、遂げ難く盡し易きは、百年の賞楽。古人の歎く所、今亦之と及にす。ゆえに因りて一章の歌を作り、以て二毛の歎きを撥ふ。其の歌に曰ふ

 八〇四
  世の中の 術なきものは 年月は 流るる如し 取り続き 追ひ來るものは 百くさに 責め寄り來る
   少女等が 少女さびすと 唐玉を 袂に巻かし(或はこの句 白桍の袖ふりかはし 紅の赤裳裾引き といへるあり)よち子らと 手たづさはりて 遊びけむ 時の盛を 留みかね 過し遣りつれ 蜷のわた か黒き髪に 何時の間か 霜の降りけむ 紅の(一に云ふ 丹の頬なす)面の上に 何處ゆか
   皺かき垂りし(一に云ふ 常なりし 笑まひ眉引 咲く花の 移ろいにけり 世の中は かくのみならし)ますらをの 男さびすと 剣太刀 腰に取りはき さつ弓を 手握り持ちて 赤駒に しづ鞍うち置き はひ乗りて 遊び歩きし 世の中や 常にありける 少女等が さなす板戸を押し開き いたどりよりて ま玉手の 玉手さしかへ 寝し夜の いくだもあらば 手つか杖 腰に束ねて かく行けば
   人に厭はえ かく行けば 人に憎まえ およしをば 此くのみならし たまきはる 命惜しけど せむ術も無し

  反歌
 八〇五
 常磐なすかしくもがもと思へども世のことなれば止みかねつも

   神亀五年七月廿一日。於嘉摩郡撰定。
   筑前国守山上憶良

 苦しみは集りやすく避けがたい。楽しみは遂げがたくつづかない。それはむかしも今も同じである。そうであるから、老いの嘆きを歌によって晴らそうという。しかし老いを歌によって晴らすことができるのか。ともあれ歌をみよう。
 その歌は、「術(すべ)なきものは、年月は」とまず逆らうことのできない時の流れを歌う。そして「百くさに責め寄り来る」とさまざまな辛苦が老いとともにやってくることを歌ふ。人生の花の盛りである時、少女も、若者も、それは長くはなかった。必ず老いはやってくる。どこへいっても厭(いと)われ憎まれる。それが人生なのだという。「命惜しけどせむ術も無し」とまたさからうことのできない嘆きを述べみずから慰める。
 その序文では、「二毛の難を撥ふ」と歌ったのであるが、結局それはできなかった。さきに述べたテーマ、不条理の展開であろう。人生とは逆らえぬ時の流れという大河にさからうことなのだと。人生そのものが不条理なのだと歌うのではなかろうか。人は生れ年月にそって老いていく。青雲の志を抱き、山沢に亡命するのも一時、人生の一こまにしかすぎない。そうであるからこそ、父母、妻子への愛を慈しみ生きていこうではないか、と憶良は訴えているのではあるまいか。さらに反歌はうたう。常磐なす巌のように、いついつまでもと思ってみても、世の中のこと、時の流れは止めておくことはできないのだ、と歌い納める。

 おわりに

 憶良は、万葉歌人のなかでも漢籍素養の豊かさを喧伝されている。したがって歴史への造詣もまた豊かであったことは疑いえない。中国の歴史は王朝交替の歴史でもあった。その王朝転覆の歴史のなかで、そのときどきの遺臣たちは、みずからの運命の撰択を迫られてきた。節に殉ずる者。新王朝に出仕する者。いづれの撰択をした者も、血の滲む決断であったことはその歴史の断片からうかがうことができる。
 そのような異朝の歴史を知る憶良は、みずからもまたそのような激動の時代を生き抜いた一人ではなかったか。憶良の生年は白村江の敗戦をさかのぼることわずかの年月であるという(中西進『山上憶良』による)。白村江から大宝へ。この間の日本列島の歴史もそのような時代ではなかったか。『日本書紀』持統五年正月条にみえる、直廣肆筑紫史益のような人物は、倭国から日本国へと二朝に仕えた史臣ではなかったかと推定されている。一方、さきに述べた『続日本紀』文武四年六月条にみてきた人々のように、倭国の命運にかけた者もいた。憶良もまた、そのような時代に生を受け、さまざまな人生を見聞するなかで筑前国守にまで至ったのである。そして、嘉摩郡において述べてきたような、三部作を撰定せしめる事件に遭遇したのではなかったろうか。
『続日本紀』における「亡命山沢、挟藏軍器」から憶良の歌の「山沢に亡命の民」を解釈し、嘉摩郡三部作を読んでみた。そこにみたものは、愛と不条理。という二つのテーマをもって、三楽章からなるシンフォニーを奏でる憶良の姿であった。三部作はそれぞれ、漢文序、長歌、反歌一首と同じ型式をもつ、憶良はこの地でさからうことのできない時の流れと、なおそのなかでさからうて生きる人々の姿と、断ち裂かれゆく愛、をみたのではなかろうか。そこにおのれの人生経験を投げ込んで、燃え上る魂の叫びがこの三部作となったのではなかろうか。このようなドラマを、それを歌うには新しい器が必要であった。それが漢文序、長歌、反歌一首を三群、という新しい形を生み出したのではあるまいか。
(歌は『万葉集私注』による。なお漢文序の送り仮名は片仮名を平仮名に変えた、)


『市民の古代』第15集』 へ

ホームページへ


新古代学の扉 インターネット事務局 E-mailは、ここから

Created & Maintaince by“ Yukio Yokota“