『市民の古代』第13集 へ
『常陸国風土記』に現われた楽器


『市民の古代』第13集 1991年 市民の古代研究会編
 ◆一特集・風土記の新局面ー

『常陸国風土記』

行方郡の二つの説話をめぐって

富永 長三

一 はじめに

 市民の古代研究会・関東例会に参加し、『常陸国風土記』を読んでいる。テキストは『茨城県史料』古代編所収、飯田瑞穂校訂・解題「常陸国風土記」(以下飯田本)を使用し、併せて日本古典文学大系2『風土記』・岩波書店(以下大系本)と『常陸風土記』菅政友(彰考館)本(以下菅本)をみている。
 それではまず『常陸国風土記』諸本の伝来を飯田本解題によってざっとみてみよう。
 現在知られている『常陸国風土記』の写本は、
 (イ)彰考館本から写し広められたことが明らかなもの
 (ロ)故武田祐吉架蔵本
 (ハ)松下見林本を祖本とするもの
の三種に分けられ、この三者の伝写関係は、彰考館本→武田本→松下本となり、現伝本は悉く彰考館本から出ていることになるようだ。
 彰考館本とは、延宝五(一六七七)年加賀前田家所蔵本を水戸藩彰考館史臣が写したもので、この本は昭和二〇年の戦災で焼失してしまった。しかし焼失以前の写本が複数存在し、菅本はそのなかでも忠実な写本であり、彰考館本復元に最も信頼できる写本であるとされる。
 そこで以下の文は、菅本を基にし、他の二本の校訂本(飯田本・大系本)と比較をし、行方郡の二つの説話、夜刀神説話、建借間命説話を解釈しようとする試みである。

 

 二 夜刀神説話について

 行方郡の記事に箭括氏麻多智と壬生連麿にかかわる夜刀神の話がある。(以下大系本訓み下し文による)
「此より北に、曽尼の村あり、古、佐伯ありき、・・・中略・・・古老のいへらく、石村の玉穂の宮に大八洲馭しめしし天皇のみ世、人あり。箭括の氏の麻多智、郡より西の谷の葦原を截ひ、墾闢(ひら)きて新に田に治りき。此の時、夜刀の神、相群れ引率て、悉盡(ことごと)に到来(き)たり、左右に防障(さ)へて、耕佃(たつく)らしむることなし。(俗いはく、蛇を謂ひて夜刀の神と為す。其の形は、蛇の身にして頭に角あり。率引て難を免るる時、見る人あらば、家門を破滅し、子孫継がず。凡て、此の郡の側の郊原に甚多に住めり。)是に、麻多智、大きに怒の情を起こし、甲鎧を着被けて、自身仗を執り、打殺し駈逐(おひや)らひき。乃ち、山口に至り、標の悦*(つえ)を堺の堀に置て、夜刀の神に告げていひしく、『此より上は神の地と為すことを聴さむ。此より下は人の田と作すべし。今より後、吾、神の[示兄]と為りて、永代に敬ひ祭らむ。冀はくは、な崇りそ、な恨みそ』といひて、社*を設けて、初めて祭りき、といへり。即ち、還、耕田一十町餘を發(おこ)して、麻多智の子孫、相承けて祭を致し、今に至るまで絶えず。其の後、難波の長柄の豊前の大宮に臨軒しめしし天皇のみ世に至り、壬生連麿、初めて其の谷を占めて、池の堤を築かしめき。時に、夜刀の神、池の辺の椎株に昇り集まり、時を経れども去らず。是に、麿、声を挙げて大言びけらく、『此の池を修めしむるは、要は民を活かすにあり。何の神、誰の祇ぞ、風化に従はざる』といひて、即ち、[イ殳]の民に令せていひけらく、『目に見る雑の物、魚虫の類は、憚り懼るるところなく、随盡に打殺せ』と言ひ了はる応時、神しき蛇避け隠りき。・・・以下略」

悦*(つえ)は、立心編の代わりに木編。JIS第3水準ユニコード68B2
社*の印刷字。JIS第3水準・ユニコードFA4C
[示兄] は、JIS第3水準・ユニコードFA51

 それでは従来この説話はどのように解釈されてきたのであろうか、二、三みてみよう。
 武田祐吉氏(1)は、日本民族が蛇類を駆逐しつつ国土を開発していった縮図のあらわれであり、打殺し駆逐しながらも神として祭るところに古人の信仰が窺われるという。
 守屋俊彦氏(2)は、蛇神を農業神とみ、古き世には蛇神の地上への降臨を仰いだが、麻多智の時代、壬生連麿の時代をへて、古き神に対する人間の勝利をみる。
 西郷信綱氏(3)は、蛇を水神とみ、その怪力とたたかわねば農業の発展はなく、のしかかる自然の恐怖を空想の世界で支配しようとする人間の執拗な欲求のあらわれであるとする。
 次に志田諄一氏(4)は、夜刀神を追い払い打ち殺す麻多智や、壬生連麿の姿は、在地個有の伝承ではありえず、この説話は風土記編纂者の思想のあらわれであると述べる。
 一方、吉野裕氏(5)は、夜刀神は産鉄神であり、麻多智は武器製作者集団の伝説的始祖であり、甲鎧を着ける姿は祭儀としての性質を示すという。
 阿部真司氏(6)は、吉野氏の説を受け、産鉄集団が奉ずる蛇神と地主神的蛇とを重ねた神を夜刀神と推定し、壬生連麿の時代には産鉄神として蛇神を祭ることは終り、産鉄神は中央の神に集約されるという。
 その他、著名な説話であるだけに多くの方が論じておられ、各説多様であり、それぞれに聞くべきところのある見解であろう。しかし、わたしにはどうしても疑問に思える点がある。先にあげた訓み下し文、「郡より西の谷の葦原を戴ひ、墾闢きて新に田に治りき」の原文は以下の通りだ。
 献自郡西谷之葦原墾闢新治田(菅本)
 點郡西谷之葦原、墾闢新治田(飯田本)
 截郡西谷之葦原、墾闢新治田(大系本)

 以上のように「献」「點」「截」とそれぞれに異なっている。大系本脚注によれば、松下本、彰考館本など「献」群書類従本、西野本「點」とするが、字体の近似により「截」の誤りとすべきであろう、としているが、どこが近似しているのであろうか、理解に苦しむ。また飯田本註記には、菅本「献」武田本、松下本「獻」類従本、西野本に従って改めたとある。しかし飯田氏はその解題のなかで、現伝本はことごとく彰考館本から出ているとしているのであるから、「献」を採用すべきではなかろうか、不審である。「献」では読解不能、したがって誤写、と判断されたのであろうか。思うに「献」と同音の字に「黔」があり「黔」「點」は似ている。よって「献」は「點」の誤写とする判断が「献」から「點」への改定の過程にあったのではないだろうか。
 この説話を論じて「献」を採用しておられる方はいないようだ。「献」「點」「截」の違いは、この説話の理解にとって瑣末なことなのであろうか。「献」の反対語は「賜」だ、献上であり、下賜だ。きわめて政治性の強い文字だ。ここのくだりは、「献郡西谷之葦原墾闢新治上田」とするか、「献郡西谷之葦原、墾闢新治田」となるのではなかろうか。つまり麻多智は葦原を田と成して誰かに献上したのであろう。それでは、なぜ麻多智は多くの抵抗を廃して神域を献上したのであろうか。それを解く前にまず、箭括氏麻多智像について考えてみよう。
 『常陸国風土記』には国栖、佐伯とよばれる人々が登場する。常に攻略される人達である。一部をあげてみよう。
(行方郡)
提賀里  古有佐伯手鹿
曽尼村  古有佐伯名曰硫*祢砒[田比]古
男高里  古有佐伯小高
板来村  有國栖名曰夜尺斯夜筑斯二人
當麻之郷 有佐伯名曰烏日子
藝都里  古有國栖名曰寸津[田比]古寸津[田比]賣二人上

硫*は、石編の代わりに足・JIS第4水準ユニコード47FD
[田比]は、JIS第3水準ユニコード6BD7

 一方、これらの人々に対して他から侵入してくる人々がいる。
 (新治郡)
 為平討東夷之荒賊、遺新治國造祖、名曰比奈良珠命

 (筑波郡)
 遺妥女臣友属筑簟命於紀國之國遺

 (行方郡)
 為東垂之荒賊、遺建借間命

等々、『常陸国風土記』の登場人物は、おおよそこの二つのグループに分けられそうだ。そして後者の最高の人物が倭武天皇であろう。別の表現を借りれば、『常陸国風土記』とは、「常陸国征服譚」ともいい得るかも知れない。
 それでは麻多智はどうであろうか。「曽尼村・・・古老日・・・有人筋括氏麻多智」とある「有人」の人を、国栖、佐伯と置き智えれば麻多智もまた土地の人であったことが知られる。(7) また、夜刀神との戦の後、麻多智は「吾為神祝、永代敬祭」といっている。神を祭り得る人とはどのような人物なのだろうか。
 『古事記』崇神天皇の段に、疫病が流行し人民がことごとく死滅しそうになり、崇神が神意を窺うべく神床に籠もっていた夜、夢に大物主大神があらわれ、意富多多泥古の名をあげ、自分を祭ることを求めた話がある。崇神の力をもってしても大物主大神は祭り得ず、意富多多泥古によって初めて大神を祭り得て、ようやく疫病がやんだのであった。神を祭るには神を祭る作法があるのだ。麻多智は夜刀神を打ち払っても夜刀神を祭り得るのだ。この点はこの説話の理解にとって見逃し得ないところであろう。
 麻多智はこの土地の人、夜刀神祭祀圏の人、夜刀神を祭り得る人なのである。
 一方、麻多智のこの日の装いは、甲鎧を着け杖を持つ。甲鎧は今日、古墳の副葬品として出土する。(8) 甲鎧を着けていたということは、麻多智が死後古墳に葬られる地位の人であったことを証明してくれる。
 また、「発耕田一十町餘」とある。これだけの開田にどれほどの労働力が必要であったか知らないが、これだけの大規模な開田には労働力とともにその技術も相当なものであったろう。そしてその労働力は夜刀神集団との戦いに軍事力となったわけであろう。
 麻多智は土地の人であり、死後古墳に葬られる地位の人、夜刀神を祭ることの出来る人、葦原を開発し田に成し得る技術と経済力を持ち、軍事力を有するその姿は、麻多智がこの地のリーダー(王者)であったことを示しているのではなかろうか。
 このことは、箭括氏麻多智という名前からもいえる。ヤハズは矢筈、矢の弦にかける部分、切れ込みのあるところ。マタチは、ヤマタのヲロチのヲロチと同じくマタのある蛇であろう。つまり矢筈のように又のある蛇である。(9) 夜刀神 ーー 角のある蛇、と対応する名前、夜刀神と同じ名乗りをしている。夜刀神の系譜を引くといっているのである。
 それでは麻多智の行為を妨害する夜刀神とは何者なのか。甲鎧を着け、杖を執る姿は蛇退治にはふさわしくない。また、神を打ち払ってその神を祭るというのも合点がゆかない。それは麻多智が神域を開発して献ずることに反対する同じ夜刀神を奉る人間の集団ではないのか。人と人との争いならば、打ち払った後に奉る神を祝となって祭ることは何の不思議もない。(10) それでは、なぜ同じ夜刀神祭祀圏の人どうしが争うのか。そこに「献」の持つ重大な意味があろう。麻多智が己の利益のためになら多くの抵抗を排してまで神域を開発するであろうか。これだけの力を持つ麻多智に他に適地がなかったとは考えにくい。逆に神域であるからこそ献ずる意味があったのではないのか。神域を献ずる事に意味が生ずる条件とは何か。それは夜刀神祭祀圏に外からの圧力がくわわり、夜刀神祭祀圏に危機が生じた時ではなかろうか。(11) そししてそれへの対処の方法をめぐって内部抗争が生まれたのだ。
 麻多智は神域を献じ、神祭りの方法を社を設けて祭る形に改め、みずからは祝となって夜刀神祭祀を守りぬいた。それゆえにこそ人々は長く麻多智の名を語り伝えたのだ。(しかし祭祀以外はどうなったのであろうか、祝となり祭祀だけは守る。まるで出雲の国譲り神話を連想させるような話ではないか。)
 次に壬生連麿の話。すでに時代はうつり、新たな支配者壬生連麿が谷奥に開発の手をのばし、池を造成する。それは当然、夜刀神の社 ーー夜刀神祭祀への脅威であり、加えて季節はずれの夫役への不満も重なってか、人々が夜刀神伝承を逆手にとって蛇を池に放ち抵抗を示したのであろう。しかし、祝となった麻多智の子孫に力はない。「目見雑物、魚虫之類、無憚懼、随盡打殺、言了應時、神蛇避隠」に壬生連麿の勝利の声と、抵抗なし得ぬ民衆の無念の思いを感ずる。
 以上、飯田氏が祖本に最も近いと証する菅政友写本、その「献」を採用することによって諸家と異なる解釈を得た。夜刀神と麻多智の争いは、神と人との争いではなく、同じ神を奉ずる人間集団どうしの祭祀圏存続の方法をめぐる争いであり、麻多智は神域を開発献上することにより、また、みずから祝となることによって夜刀神祭祀を守ったのであった。そして壬生連麿の時代の危機も乗りきり、今なお麻多智の子孫を盛りたて、夜刀神祭祀を守り継いでいると語るこの説話に、わたしはこの地に生きた人々の誇りと悲しみの声を聞く思いがする。

注(1) 武田祐吉「夜刀の神(常陸国風土記)」『国文学解釈と鑑賞』六 ー 四
 (2) 守屋俊彦「夜刀神」『国語国文』一四 ー 一〇
 (3) 西郷信綱『日本文学の古典』岩波新書
 (4) 志田諄一「夜刀の神」『古代日本精神文化のルーツ』
 (5) 吉野裕「夜刀神」『日本文学』一九 ー 二
 (6) 阿部真司「夜刀神伝承への一考察」『日本文学研究』二五
 (7) 関和彦『風土記と古代社会』第一章の古老曰以下の文章が、その前の地名を説明する形成になる、によった。
 (8) 一例として、三昧塚古墳出土品のなかに「短甲、挂甲、衝角付胃」がある。大森信英先生還暦記念論文集刊行会編『常陸国風土記と考古学』
 (9) マタチの解釈について会員の原広通氏の示唆を得た。筋括氏の氏については、神社を氏神といい、祭る人々を氏子という。これに関連する氏と考えている。麻多智が祝となって後につけられたものであろう。
 (10) この部分、菅本「夜刀神、相郡引率」、他本「相群引率」。群ならば動物のむれだが郡とは行政地域をあらわす文字であろう。なお詳解に至っていないが、このあたりが鍵であろう。
 (11) 『日本書紀』安閑紀は武蔵国造をめぐる争いを伝える。武蔵の争いを東国内部だけでは決し得ぬ時代の趨勢を伝えている。夜刀神説話は継体天皇の時代とされる。常陸への外圧も充分考えられてよかろう。

 

三、建借間命説話について

 行方郡板来村の記事に、崇神天皇の時代に東夷の荒賊を平定するために建借間命を派遣した話がある。(以下大系本訓み下し文による)
「此より南十里に板来の村あり。・・・中略・・・古老のいへらく、斯貴の瑞垣の宮に大八洲所馭しめしし天皇のみ世、東の垂(さかひ)の荒ぶる賊を平けむとして、建借間命を遣しき。(即ち、此は那賀の國造が初祖なり。)軍士を引率て、行く凶猾(にしもの)を略け、安婆の島に頓宿りて、海の東の浦を遙望す時に、烟見えければ、交、人やあると疑ひき。・・・中略・・・是に、國栖、名は夜尺斯・夜筑斯といふもの二人あり。自ら首帥となりて、穴を堀り堡を造りて、常に居住めり。官軍を覘伺ひて、伏し衛り拒抗ぐ。建借間命、兵を縦ちて駈追らふに、賊盡に逋げ還り、堡を閇ぢて固く禁へき。俄にして、建借間命、大きに權議を起こし、敢死つる士を校閲(かとりえ)りて、山阿に伏せ隠し、賊を滅さむ器を造り備へて、厳しく海渚に餝ひ、舟を連ね、[木伐]を編み、蓋を飛雲(くもとひるが)へし、旌を張虹(にじとは)り、天の鳥琴・天の鳥笛は、波に随ひ、潮を逐ひて杵嶋の唱曲を七日七夜遊び楽み歌ひ舞ひき。時に、賊の黨、盛なる音楽を聞きて、房擧(いへこぞ)りて、男と女も随盡に出で来、濱傾(はまかぶ)して歡咲(えら)ぎけり。建借間命、騎士をして堡を閑ぢしめ、後より襲ひ撃ちて、盡に種屬を因へ一時に焚き滅しき。・・・以下略」
 この訓み下し文には疑問なところがある。傍線の部分(インターネットでは、赤色表示)だ。原文をみてみよう。
  天之鳥琴天之鳥琴天之鳥笛(随*)波逐湖嶋杵唱曲(カッコ内わたしの読み) (菅 本)
  天之鳥琴、「天之鳥琴」、天之鳥笛、随波逐潮、鳴杵唱曲(「 」内おそらく衍字)(飯田本)
  天之鳥琴、天之鳥笛、随波逐潮 杵嶋唱曲(大系本)
随*の阜(こざと)編の代わりに三水編。

 大系本は脚注で(群書類従本「鳥杵」。松下見林本・彰考館本「島杵」。西野宣明本により訂す)とある。
 飯田本は註記で(「鳴」、菅政友本には「嶋」とあり、武田本・松下本には「島」とある。狩谷本頭書・郡郷考・中山信名説『新編常陸国誌』に従って改めた。伴本、類従本には「鳥」とある。小宮本傍書・西野本には「嶋杵」を「杵嶋」に改めてあり、伴本頭書には「唱杵島曲ナルベシ」とある、と説明している。
 この文字の異同については、橋本雅之氏の研究がある。(1) 氏は、諸本を確認してみると菅政友本の「嶋杵」が武田本・松下本では「島杵」、藤原本では「鳥杵」となっているほかは異同がない。また「随波逐湖」は諸注の改訂に従い「随波逐潮」の誤りとする。また、「嶋杵唱曲」については、伴信友本頭書「唱杵島曲ナルベシ」説、西野宣明板本の「杵島唱曲」説以後、この校訂と解釈が古典大系本・古典全書本・講談社学術文庫に受け継がれ、現在では、ほぼ定説化している。一方、狩谷本頭書『新編常陸国誌』の「嶋恐鳴」説を受けて「鳴杵唱曲」と改めた飯田本の説をあげ両説の可否を論じている。「嶋杵唱曲」前後の一連の文章が対句を基調としながら三字句、四字句を繰り返し、さらに漢語による潤色を施した文飾豊かな文章構成になっており、「随波」「随 ーー 逐」等も漢籍に多用されており、多彩な漢語表現を含む文脈の文章構成を無視した「杵嶋」説は否としている。一方「鳴杵」説は、文脈の漢文表現を充分把握した上での校訂であり、菅本の「嶋」が狩谷本にいうごとく古写本において「鳴」とよく誤写される字であり、飯田本の校訂が妥当であると結論している。
 しかし、わたしには橋本氏の結論は支持出来ない。わたしの考えを述べてみよう。
 まず「逐湖」について。逐には、したがう、おう、のほかに、きそう、あらそうの意がある(諸橋大漢和辞典)。きそう、をとれば、湖ときそう、と読むことが出来る。湖を潮の誤写としなくてよかろう。

常陸風土記 管本写真版 随 行方郡の二つの説話 富永長三 市民の古代十三集

 次に図(菅本写真版コピー)を見ていただきたい。(A)は問題の「随波逐湖嶋杵唱曲」の部分だ。「随」をよくみると編の形が変っている。(B)は他の六か所にある「随」である。この六個の「随」はほぼ同じ形だ。それにくらべて(A)の「随」の編は違う、同じ字であろうか。むしろこの字の編は、波や湖の編、サンズイに近い形ではないだろうか。(C)は、「三水編」の付く字を任意取り出してみた。「三水偏」のつく字は、海五五回、波四三回、河二四回等々多出する。それらのほとんどが、このような形に書かれている。「三水偏」の三点が連続しない楷書の形は二〜三回しか用いられていない。この(C)の図のような「三水偏」は菅本の筆法 ーー書きぐせなのではなかろうか。それゆえ「随」ではなく「随*」なのではないのか。諸橋大漢和辞典によれば次のようだ。

諸橋大漢和辞典 随* なめらか 常陸風土記 行方郡の二つの説話をめぐって 富永長三 市民の古代第13集

随*の阜(こざと)編の代わりに三水編。以上はインターネットでは表示が難しいので図示。諸橋大漢和辞典を見て確認して下さい。

 したがって「随波逐潮」ではなく、「随*波逐湖」であり「滑らかな波は湖ときそう」と読める。天の鳥琴、天の鳥笛によって海面が穏やかになり湖とみまがうばかりになったというのであろう。では「嶋杵唱曲」はどうか。前句で波自身が湖と競っているのであるから、ここも、誰かが杵を鳴らすのではなく、杵自身が曲(うた)を唱うのではなかろうか。「嶋の杵は歌を唱う」となるのではないか。両句つなげれば「滑らかな波は湖と競い、嶋の杵は歌を唱う」となろう。そしてこの両句は、海と陸(波と嶋)、競うと和(唱う)するの対になっている。湖と潮、嶋と鳴、は誤写しやすい文字だ。「随波」「随 ーー 逐」の用例は漢籍に多いと文字を改変する必要はないようだ。
 さて、それではこの説話は何を語っているのだろうか。建借間命の謀とは、いかなるものなのだろうか。これについても橋本氏は「鳴杵唱曲」の曲の説明でふれている。氏は、「干時、賊党、聞盛音楽、挙房男女、悉尽出来、傾浜歓咲」の記述と筑波山や久茲郡の歌垣の記事との類似によって、建借間命の軍勢と、国栖の男女がこぞって「傾浜歓咲」するさまは、歌垣類似の場であるという。
 しかし、これは氏の誤読のようだ。建借間軍と国栖の男女がともに「傾浜歓咲」とはどこにも書かれていない。しかも建借間命は「敢死之士」を「伏隠山阿」している。味方の兵が国栖と同じ行方側にいるのなら「敢死之士」とはいうまい。「七日七夜、遊楽歌舞、干時、賊党聞盛音楽」この時には、するとの意ではなかろうか。遊楽歌舞が七日七夜も対岸で行われたのを聞き、その音楽の意味を理解して国栖は岸辺に出て来たのではなかろうか。歌垣類似の音楽に誘われて「悉盡出来」とはなるまい。それではあまりにこの地の人々はお人好しすぎるではないか。建借間軍と国栖とは戦闘をしているのだから。
 それでは国栖とよばれた人々が理解した歌舞、音楽は何をあらわしているのだろうか、順を追ってみてみよう。
 まず「飛雲蓋、張虹旌」とある。これに似た語句が「常陸国風土記」逸文、信太郡の黒坂命の葬送の文に「葬具儀、赤籏青幡、交雑飄[風易]、雲飛虹張、瑩野耀路」とあり、「飛雲蓋、張虹旌」と「雲飛虹張」とは似ているようだ。

[風易]は、JIS第3水準ユニコード98BA

 次に「天之鳥琴、天之鳥笛」について、笛は、「日本書紀』継体紀に毛野臣の葬送の時の妻の歌がある。

枚方ゆ 笛吹き上る 近江のや 毛野の若子い 笛吹き上る

 琴は、孝徳紀に「蘇我造媛の死に際して、乃ち御琴を授けて唱はしめたまふ」とある。また、琴を持つ人物埴輪の存在は、古墳祭祀 ーー喪葬との関わりを充分想定させてくれる。
 次に「随*波逐湖 嶋杵唱曲」はすでにふれたが、湖とみまがうほどに海面が穏やかになる場面は、やはり悲しみの表現ではなかろうか。また、杵については古墳の副葬品のなかに石製模造品とよばれる物があり、そのなかに杵とされるものがある。

 次に、「七日七夜遊楽歌舞」は、これによく似た詔句が『古事記』天若日子段にある。
  故、天若日子 妻、下照比賣之哭声・・・中略・・・如此行定而、日八日夜八夜遊也。

 さらに喪葬にあたって歌舞が行われたことは『三国志』倭人伝で有名だ。
  始死停十餘日、当時不肉 喪主哭泣 他人[享犬]歌舞飲酒。

 さらに、喪葬と歌舞についての研究を少し見てみよう。斉藤忠氏(2)は、『常陸国風土記』逸文信太郡の黒坂命の葬送の文を、『日本書紀』の伊奘再尊が紀州熊野の有馬村に葬られた伝承、あるいは『万葉集』巻二、一四八番歌等とともに葬儀に旗が用いられた例としている。竹居明男氏(3)は、喪葬と歌舞との関わりを示す中国側史料として『三国志』倭人伝のほかに、『後漢書」倭伝の例

  其死停喪十余日、家人哭泣、不酒食。面等類就歌舞為楽。

 『隋書』倭国伝の例
  死者斂以棺槨、親賓就屍歌舞。

をあげている。『日本書紀』からは先にあげた例をふくめて二三例をあげているが、琴、笛の使用例は先にあげた例以外はみられない。また、ハタの使用例として『古事記』允恭天皇段の軽太子と衣通王の悲恋の歌、

 こもりくの 泊瀬の山の 大峰には 幡帳立て さ小峰には 幡張り立て・・・以下略

 が喪葬に関わると解釈されるのが普通であり、確実な記事は、『常陸国風土記』逸文の記事があるにすぎない、としている。
 以上、この説話と類似の文章をいくつかみてきたが、特に、天若日子の喪葬の記述「日八日夜八夜遊也」。さらに倭人伝の記述や「随*波逐湖」の情景描写は「飛雲蓋、張虹旌・・・七日七夜、遊楽歌舞」の文章が、喪葬の場の演出であったと判断させてくれる。「七日七夜、遊楽歌舞干時」の七日七夜は、実際は天の若日子の場合と同じように八日八夜行われた(行われる予定)のではなかろうか。そう推定すると「干時」の意味が生きてくるように思える。国栖たちは対岸での音楽が喪葬の音楽であることは、うすうす気がついていたが、それが七日七夜に及んだ時にまちがいないと確信して浜に出てきた、と推定すると、「時に」の持つ意味がよく理解出来る。そしてその葬儀が建借間のそれであったと仮定してみると(4)、「傾濱歡咲」するさまがいっそうよくわかる。そして人々は因われ「一時焚滅」されてしまったのだ。怒りと涙なしには読むことの出来ない説話だ。「随*波逐湖、嶋杵唱曲」の文字の異同間題にはじまって、ようやく建借間命の謀を読み解くことが出来たようだ。
 古伝承を読むにあたって、知識で読むのではなく、この地に生きた人々の運命に涙する心で対座した時、古老ははじめて唇を開いてくれたようである。

注(1) 橋本雅之「常陸国風土記(建借間命)説話をめぐって」『万葉』一二一
 (2) 斎藤忠「古代伝承から見た日本固有の葬制」『東アジア葬・墓制の研究』
 (3) 竹居明男「日本古代の喪葬と歌舞再考楽器の使用をめぐって」『日本書紀研究』一三
 (4) 常陸国風土記研究月例会で、建借間命の謀が喪葬の演出であろうとのわたしの発言を受けて、増田修氏が、それは建借間命の葬儀であろうと一歩進めてくださった。

 

 四 おわりに

 建借間命説話のあとに「倭武天皇、巡行過干此郷、有佐伯名曰鳥日子、緑*其逆一レ命、随便略殺」という文章がある。ここでも「殺」は菅本では、「敬」だ。「略敬」では意味不明というのであろうか。しかし敬には、うやまう、のほかに、いましめる、の意もあり、略も、討つ、の意がある。(諸橋大漢和辞典)「略敬」は、いましめて討つの意であろう。ここは倭武天皇の行動を語っているところだ。殺などという、さつばつな文字はふさわしくないのだろう。「略敬」が理解出来た時、わたしは『常陸国風土記』の文章の一端にふれた思いがした。

緑*は、緑の異体字。JIS第3水準・ユニコード7DA0


 古典の読解にあたっては、誤写、誤伝問題はさけられない。文字を改変し、おのれの意のごとく読むことの愚は、すでに古田武彦氏がその著述のなかで縷々述べておられる。
 不明な点、疑問な点はまだまだ山積しているが、とりあえず現在までの歩程を報告し、わたしの読解が付会の説なのか否か、諸兄姉の教えを乞いたい。
 おわりに、増田修・横山妙子両氏収集の資料に大変お世話になり、また椎名修氏提供の菅政友本がなければ、この拙文も成らなかった。厚く御礼申し上げある。


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