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市民の古代 第10集 1988年 市民の古代研究会編
●十周年記念講演会

古田史学の意義と日本書紀の研究

山田宗睦

 はじめに

 山田でございます。私に与えられましたテーマは、ひじょうに大きなテーマでございます。「古田史学の意義と日本書紀の研究について」という、とてつもなく大きな題がついております。いか程の話ができるのか心もとない気もしております。
 今から考えますと、古田さんの『「邪馬台国」はなかった』という衝撃的な本が出たのは十七年前のことです。ひじょうに驚きました。驚きという感情は不思議な感情ですが、その中に気になってしょうがないということを含んでいると思います。ですから、次々と古田さんの本が出るたびに拝見をいたしました。私は古代史というものには素人ですから、本が出るたびに驚くわけです。そ
して、そのうちに、ひょっと気がついたのですが、これは古田さんの『「邪馬台国」はなかった』という本が角川文庫に入る時に、私に解説を書け、ということで、短かな舌足らずの文章を付け加えました。その時、そのことをもっと書きたかったのですが、紙数がなかったために書けなかったのです。古田さんの本を読みますと、古代史についてお書きになっているわけですが、同時に人間の理性と申しますか、あるいは人間のものを考える時の方法 ・・・というようなことについて、しばしば言及しておられます。今の中小路駿逸さんのレジュメの最初のところで、古田史学の意義についてふれておられますが、そのいちばん最初に「学問としてあたりまえの方法」という表現をなされております。「あたりまえの方法」というのは、つまり、学問というものに、人間の学問であるかぎり、当然もたなくてはならない、また従わなくてはならない、そういう方法だと思うのです。古田さんは、しよっ中自分の本の中で「人間としての理性をもって考えれば、これ以外に考えようが無い・・・ 」というようなことをおっしゃっています。ここがひじょうにおもしろいところです。

 

 デカルトの理性

 近代の哲学の始祖として、デカルトという人がおります。このデカルトが「方法序説」という本を書いています。これは画期的な本で、この本によってデカルトは近代的哲学の祖だといわれるようになった。この本の中で、有名な言葉ですが、「この世で最も公平に配分されているのはボンサンス(フランス語は略)である」と、こういうふうに説き明かしています。ボンサンスと申しますのは、たいてい良識と訳されます。ボンというのは良いという意味です。そして、サンスというのは英語のセンスと共通するところもありますが、正しい認識力をも意味します。それで、ボンサンスを訳して良識といっていますが、むしろ、常識とか良識とかといったような訳よりは、やっぱり、人間が持っている考える能力のことをボンサンス、こういっていると私は思っています。
 そうすると、この世でもっとも公平に配分されているのは、よく考える能力である、ということをデカルトは言ったわけです。ご存知のように、ヨーロッパの近代と申しますのは、いわゆる自然に目覚めます。つまり、人間を造ったものはいったい誰か、というふうなことについて、中世では神が人間を造った、こういう立場に立っているわけです。その立場が、自然が造ったんだ、人間は自然によって造られたんだ、こういう考え方に変わるわけです。
 神が造った人間というのは、身分的な序列をもっていて、坊さんがいちばん偉い。なぜかというと神様にいちばん近いからです。坊さんの次は誰かというと、封建貴族が偉い。この二つまでが身分で、それから後はもう身分の中に入りません。その身分の中には農民は入らない。また都市に住んでいるので市民とよびますが、その都市のブルジョワが、我々も又ひとつの身分、第三身分なのだという主張を始めるのです。そう主張し始めた時に、人間を造ったのは自然であって、自然が平等に人間を造ったということを根拠にします。神が造ると身分的な秩序ができるけれども、自然が造った人間というのは、みんな基本的に平等の権利がある。ここから近代というのが出発するわけです。この、自然が人間に平等に与えた自然権、自然が与えてくれた権利ですから自然権というのですが、この自然権の中に人間の理性、人間のものを考える能力、これも又平等に配分されているということを、デカルトが言ったということになります。つまり、デカルト哲学というのは、思考、ものを考える能力についての自然権を主張した、そういう哲学なのです。

 

 市民の理性

 私は古田さんの本を読んで「人間としてもっている理性で考えれば、当然こう考えるより他はない」と、そういう言い方に接するたびに、デカルトの思考の自然権の哲学を思い出しました。古田さんの本というのは、どこか『方法序説』に似ている。近代の学問はそういうところから出発しましたから、当然学問というものが市民にむかって開いていないといけない。学問というものが公開性を持っている。こういうことはひじょうに大事なことなのです。象牙の塔で、密室の中の作業で学間がなされるということは決して健全ではない。理性そのものが、古田さんやデカルトがいうように、すべての人間に平等に配分されている。そうすると、学問というものも又学者だけの理性で作られるものではなくて、やはりそれが市民にむかって開いていて、市民の参加ができるということが、学問というものを見きわめる際のひとつのひじょうに大事なポイントだと、こう考えております。そういう点で考えますと、十七年前に古田さんが『「邪馬台国」はなかった』というご本を出されて、初めは孤独な作業だったのですが、本を出されてからは、古田さんの熱烈な読者が存在しているということが、ただちにおわかりになったと思います。初めは孤独だったのが、いつの間にか、今日この会が十周年をむかえた、ということで私も招かれてきたわけですが、市民として古代を研究する、そういう会が、東にも、西にもできてまいりました。この頃の古田さんのお書きになるものを拝見していると、しばしばこの点(たとえば九州年号の地域地域での発見)については○○氏の示唆を、あるいは教示を得ることができたということを書かれています。これは、つまり、ここにいらっしゃる皆さん方のことであり、あるいは東にいる同様の会の中の人なのです。つまり、古田さんのこの頃の史学の中には、市民が参加するということが実現してきています。私はその事をひじょうにすばらしいことの一つだと思っています。

 津田史学

 戦後の史学は、すべて津田史学を前提にして、そこから成り立っているわけですけれども、それにかわる史学が、古田さんによって切り開かれたということは、だれの目にも明らかになってきていると思います。津田さんはひじょうに不幸な時代に自分の学説をうちたてました。大正の初めの頃はまだよかったのですが、だんだんと大正が終り、昭和が入ると、津田さんの説というのは『古事記』や『日本書紀』というのは造りものであるという説でしたから、だんだんと時勢が天皇は現人神である、『古事記』や『日本書紀』は真理だと、こういうことになってくるわけですから、津田さんの立場はだんだんと不幸な立場になってゆきました。じっさい、津田さんの本は発売禁止というふうなところをくぐりぬけてきたわけです。ですから、戦後の歴史学が、戦争中のあり方を反省した時に、津田さんの考え方、こういうものを受け継がなければならないというように考えたことについては、心情的にはひじょうにわかるのです。けれども、古田さんが指摘されたように、熱狂的な皇国史観も、その対極にあるかにみえる津田史学も、大和ないしは近畿という唯一の中心から、同心円状に歴史が波及していったと考える点では同じ性格をもっております。
 この一元史観に対して、古田さんは自分の歴史観を「多元史観」と言っています。そうすると、またテカルトのことを言って恐縮ですが、デカルト哲学は一元論ではありません。哲学者は世界のこと、複雑で具体的な世界というものを明晰に解いていきたい、そういう欲望というか野心を持っています。哲学というのは、世界はこうなっている、こういう原理にもとずいてこうなっていると解きたがるのです。そうするとだんだんと一元論になる。これに対してデカルトが一元論に立っていないのが大事なことです。古田さんの「多元史観」は「人間としてあたりまえに考えるとこうなる」とのデカルト的な思考と結びついています。この思考と、その方法が帰結するところが、一元論にならずに多元論にいたったということは、ひじょうにおもしろいことです。デカルトはまた、人間の理性が当然とるべき方法として〈枚挙〉ということをあげています。ある事柄について考えようと思ったならば、そのものの事例をことごとく枚挙して考えなければならない。古田さんの史学が何よりも衝撃的であり、また人々を魅(み)するのは、あのいちばん最初の本の『「邪馬台国」はなかった』(朝日新聞社)という本の中で、はたしてこの「壹」という文字が「臺」という文字に書き誤まられた例があるのかどうか、ということについて『三国志』全体を渉猟して、壹を臺に書き誤った事例はないとした鮮かさです。「壹」という文字、「臺」という文字をすべて枚挙してしまい、そこからの帰結ですから、ひじょうに衝撃的で、しかも読んだ人達にとってみると、これは真実に値するということがただちにわかることになります。この「枚挙」という方法はその後も古田さんがずっと守っておられる方法でした。
 学問にとって、例外がでるかでないかはひじょうに大事なことです。全部枚挙してきて例外がなければ真実が実証されます。しかしすべての事例をみていくと例外があった。そうすると、なぜこの例外がでるかということについて探究を推(お)し進めて学問が進展していきます。このさい枚挙しなければ例外というものもわからない。そこが大事です。古田さんが最近の本にいたるまで、それぞれの「事例」について枚挙による周到な検証をなさっているのを私はひじょうに良いことではないかと思っています。近代初頭のデカルトの方法と古田さんの方法とに本質的に共通するものがあるということは、もしかすると、古田史学をもって日本にほんとうの近代的な史学が成立したことを証明しているのかも知れません。まことに魅力的な成果でございまして、今後とも古田さんの成果に着目して参りたいと、こう思っております。

 『日本書紀』の研究

 私のテーマには、もう一つ『日本書紀」の研究ということがふくまれております。今、『日本書紀』を読むのにいろいろなテキストがあるわけですが、たいていの人は岩波書店が出版しました「日本古典文学大系」の中の『日本書紀』を、テキストにお使いになると思います。この『日本書紀』の校注には「日本書紀研究会」のメンバーが当りました。これには家永三郎さんも坂本太郎さんも入っていますが、戦後古代史の通説を作っていくうえで中心的な役割を果たした井上光貞さん、それから、さらに若い世代の黛弘道さん、青木和夫さんとか、笹山晴生さんとか、そういう人々が「日本書紀研究会」をつくって、『日本書紀』をどういうふうに読むべきか、克明な研究を続けました。その成果があのテキストです。それが大変良くできているのですが、古田史学の観点からいうと一元論に立った注釈をしています。しかし、一元論に立った注釈としてはよくできています。ただし、このテキストの注釈にしたがって読んでいくと、いつのまにか一元論の方へずり落ちていく、そのような働きをもっています。
 そう考えますと、一元論の注釈書に対して、多元論の注釈書を作ることが大事な仕事になってまいります。『日本書紀』『古事記』について、これを本当に人間の「理性」、人間の「あたま」で読み解いていったならばどうなるか、という、テキストを作る必要があると私は思っています。つまり、井上さんたちの古代史が戦後の通説となるのに、この「日本書紀研究会」がひじょうに大きな役割を果たしたわけです。古田さんの歴史学をもっともっとみんなのものにするために、皆さん方の中で『日本書紀』を読む会、『日本書紀』を研究する会、そういうものをおこしていただきたい。このことを私は呼びかけたいと思うのです。
 私も『日本書紀』を時々のぞきます。『日本書紀』はひじょうにおもしろい本でして、古田さんが言っているように、しばしば盗んできて書いている部分もあります。「九州王朝」の歴史書、これを私は「もとの本」といっていますが、この「もとの本」から盗んできて、ちょこちょこっとと書くのですが、ちゃんとまた、その本が『日本旧紀』という書物からだと、雄略天皇のところに残しておいてくれるのです。よく考えると、ほほえましくなります。「俺だったら、もうちょっと上手に、痕跡を消して、あとから尻尾をつかまれないようにするのだがなあーー 」と思いながら読むところがたくさん出てまいります。そのようなところを発見すると、ひじょうに愉快な気分になってきます。今日、これから時間があるかぎり皆さんに申しあげたいと思いますのは、私が愉快な気分で『日本書紀』を読んだ、その例をひとつだけお話しいたします。

 九州平定の解明

 資料として二つ用意しました。「景行紀」からひとつ、そして「仲哀紀」からひとつと、二つだけ事例としてお話してまいりましょう。古田さんの『盗まれた神話』という書物の中で(これはなかなか愉しい本でしたが)、アッといったのがいくつかありますが、その中のひとつが、「九州王朝」による九州一円を平定したという話です。それは『日本書紀』では景行天皇の熊襲征伐の話に盗まれている。もとを言えば筑紫に上陸をしてきた勢力がまず筑紫を平定し、この筑紫を平定したという話は「神功紀」の中にあると古田さんはおっしゃっていますが、こんどはその筑紫を根拠として九州一円を平定する話を、「景行紀」のところにあてはめていると指摘をなさいました。これもなかなか愉しい話ですが、しかし驚くような話でした。古田さんは、周芳(すはのくに)の娑麼(さば)というところから出発し、瀬戸内海を南下して豊前の国に上陸した、そして九州一円の平定が始まったのだと、こういうふうに書いておられます。それがここに引きました「景行紀」のはじめのところです。

フリガナは、掲載時より略しています(岩波古典文学大系を見て下さい)
《参考資料》「景行紀」より
十二年の秋七月に、熊襲(くまそ)(そむ)きて朝貢(みつきたてまつ)らず。
八月の乙未の朔己酉(十五日)に、筑紫に幸(いでま)す。
九月の甲子の朔戊辰に、周芳の娑麼に到りたまふ。時に天皇、南に望みて、群卿(まへつきみ)たちに詔(みことのり)して曰(のたま)はく、「南の方(かた)に姻氣(けぶり)(おほ)く起つ。必(ふつく)に賊(あた)(あ)らむ」とのたまふ。則ち留りて、先づ多臣(おほのおみ)の祖(おや)武諸木(たけもろき)・國前臣(くにさきのおみ)の祖菟名手(うなて)・物部君(もののべのきみ)の祖夏花(なつはな)を遣(つかは)して、其の状(かたち)を察(みしめ)たまふ。爰(ここ)に女人(をみな)有り。神夏磯媛(かむなつそひめ)と曰(い)ふ。其の徒衆(やから)甚多(にへさ)なり。一國(ひとくに)の魁帥(ひとごとのかみ)なり。天皇の使者(つかひ)の至(まうく)ることを聆(き)きて、則ち磯津山(しつのやま)の賢木(さかき)を抜(こじと)りて、上枝(かみつえ)には八握劔(やつかのつるぎ)を挂(とり)かけ、中枝(なかつえ)には八咫鏡(やたのかがみ)を挂かけ、下枝(しづえ)には八尺瓊(やさかのに)を挂かけ、亦素幡(しらはた)を船(ふな)の舳(へ)に樹(た)てて、参向(まうでき)て啓(まう)して曰(まう)さく、「願(ねが)はくは兵(いくさ)をな下(つかは)しそ。我(やつこ)が属類(ともがら)、必(ふつく)に違(そむき)たて・・・・・(以下省略)

 ご覧のように景行天皇が十二年に、七月に熊襲が反(そむ)いてみつぎをたてまつらなかった。そこで八月に筑紫にでかけて行った。九月の五日に周芳の国の娑麼(さば)に到着をした。こういうように書いてあります。周芳の娑麼とは、今日の山口県に防府市というのがありますが、その防府市の中に佐波という地名が残っています。そこから出発したというのです。私はなんとなくこれにひっかかっていたのです。天国の勢力が筑紫の日向というところに上陸し、それから筑紫一円を平定後、その筑紫を根拠にして九州全体を平定するのだから、当然のことながら、筑紫から出発するのではないかと、こう思ったのです。それが周芳の娑麼という、やや離れたところから出発している。それがどうも気になっていました。しかしこれという説を出せるような状態ではなかったのです。古田さんは周芳の娑麼の辺に、同盟国というか、この九州王朝に協力をするような勢力があって、だから筑紫からそこまでの経過は書いていないが、周芳の娑麼から先は、こんどは敵地へ行くのだから、そこから先が書いてあるのだと、だいたいこういうふうにお考えだろうと私は思っています。そういう問題意識を背景にして「仲哀紀」をみてみましょう。
 九月に穴門の豊浦宮(とゆらのみや)というところに仲哀天皇がやってきています。穴門の豊浦宮というと私の生まれた下関市のことでして、ここに豊浦神社というのがありますが、そこにやってきました。これが七年の九月のことです。八年の春正月の四日に下関を出発して筑紫にでかけて行った。 ーーひととおり読みますが、この文章の中におかしなところがありますので、皆さんはそれがどこかということを、鵜の目鷹の目でご覧になりながら聞いて下さい。

      (以下参考資料朗読)

《参考資料》「仲哀紀」より
九月(ながづき)に、宮室(みや)を穴門(あなと)に興(た)てて居(を)します。是(これ)を穴門豊浦宮(あなとのとゆらのみや)と謂(まう)す。
八年の春正月(むつき)の己卯の朔壬午(四日)に、筑紫に幸(いでま)す。時に、岡縣主(をかのあがたぬし)の祖(おや)熊鰐(わに)、天皇(すめらみこと)の車駕(みゆき)を聞(うけたまは)りて、豫(あらかじ)め五百枝(いほえ)の賢木(さかき)を抜(こ)じ取りて、九尋(ここのひろ)の船の舳(へ)に立てて、上枝には白銅鏡(ますみのかがみ)を掛(とりか)け、中枝には十握劒(とつかのつるぎ)を掛け、下枝には八尺瓊(やさかのに)を掛けて、周芳(すは)の娑麼(さば)の浦(うら)に参迎(まうむか)ふ。魚鹽(なしほ)の地(ところ)を獻(たてまつ)る。因(よ)りて奏(まう)して言(まう)さく、「穴門より向津野大濟(むかつののおはわたり)に至るまでを東門(ひむがしのみと)とし、名籠屋大濟(なごやのおほわたり)を以(も)ては西門(にしのみと)とす。没利嶋(もとりしま)・阿閉嶋(あへのしま)を限(かぎ)りて御筥(みはこ)とし、柴嶋(しばしま)を割(かぎ)りて御[扁瓦](みなへ、此をば彌那陪みなへと云ふ。)とす。逆見海(さかみのうみ)を以て鹽地(しほどころ)とす」とまうす。既(すで)にして海路(うみつち)を導きつかへまつる。山鹿岬(やまかのさき)より廻(めぐ)りて岡浦(をかのうら)に入ります。水門(みなと)に到るに、御船、進(ゆ)くこと得ず。則(すなは)ち熊鰐(わに)に問ひて曰(のたま)はく。「朕(われ)聞く、汝(いまし)熊鰐は、明(きよ)き心有りて参來(まうけ)り。何ぞ船の進(ゆ)かざる」とのたまふ。熊鰐奏(まう)して曰(まう)さく、「御船進(ゆ)くこと得ざる所以(ゆゑ)は、臣(やつかれ)が罪に非(あ)らず。是の浦の口(ほとり)に、男女(ひこかみひめかみ)の二神(ふたはしらのかみ)(い)ます。男神(ひこかみ)をば大倉主(おほくらぬし)と曰(まう)す。女神(ひめかみ)をば菟夫羅媛(つぶらひめ)と曰す。必(ふつく)に是の神の心(みこころ)か」とまうす。天皇、則ち[示壽]祈(のみの)みたまひて、挾杪者(かぢとり)倭國(やまとのくにの)菟田(うだ)の人伊賀彦(いがひこ)を以て祝(はふり)として祭らしめたまふ。則ち船進み(ゆ)くこと得つ。皇后、別船(ことみふね)にめして、洞海(くきのうみ 洞、此をば久岐(くき)と云ふ。)より入しりたまふ。潮(しほ)(ひ)て進(ゆ)くこと得ず。時に熊鰐(わに)、更(また)(かへ)りて、洞(くき)より皇后を迎へ奉る。則ち御船の進(ゆ)かざることを見みて、惶(お)ぢ懼(かしこま)りて、此(たちまち)に魚沼(うをいけ)・鳥池(とりいけ)を作りて、悉(ふつく)に魚鳥(うをとり)を聚(あつ)む。皇后、是の魚鳥の遊(あそび)を看(みそなは)して、忿(いかり)の心。稍(やうやく)に解けぬ。潮の滿(み)つるに及びて、即*(すなは)ち岡津(をかのつ)に泊りたまふ。又また、筑紫(つくし)の伊覩縣主(いとのあがたぬし)の租五十迩手(いとて)、天皇の行(いでま)すを聞(うふけたまは)りて、五百枝の賢木を抜じ取りて、船の舳艫(ともへ)に立てて、上枝には八尺瓊を挂(とりか)け、中枝には白銅鏡を掛け、下枝には十握劒を掛けて、穴門の引嶋(ひこしま)に参迎(まうむか)へて献る。因(よ)りて奏して言(まう)さく、「臣(やつかれ)、敢(あ)へて是(この)物を献つる所以(ゆゑ)は、天皇(すめらみこと)、八尺瓊(やさかに)の勾(まが)れるが如(ごとく)にして、曲妙(たへ)に御宇(めのしたしろしめ)せ、且(また)、白銅鏡(ますみのかがみ)の如くにして、分明(あきらか)に山川海原(やまかはうなはら)を看行(みそなは)せ、乃(すなは)ち是の十握劒(とつかのつるぎ)を提(ひきさ)げて、天下(あめのした)を、平(む)けたまへとなり」とまうす。天皇、即(すなは)ち五十迩手(いとて)を美(ほ)めたまひて、「伊蘇志いそし」と曰(たま)ふ。故(かれ)、時人(ときのひと)、五十迩手が本土(もとのくに)を號(なつ)けて、伊蘇國(いそのくに)と曰(い)ふ。今、伊覩(いと)と謂(い)ふは訛(よこなば)れるなり。己亥(二十一日)に、儺縣(なのあがた)に到(いた)りまして、因(よ)りて橿日宮(かしひのみや)に居(ま)します。(以下省略)

即*(すなは)は、即の異体字。JIS第3水準、ユニコード537D

 人間の目というのはおかしなものでして、活字を追いかけるというとスゥーッと読んでしまいます。耳で聞いてもスゥーッといくのですが、『日本書紀』という書物を読む時には、私はうんと意地の悪い人間になって、ひとつひとつ立ち止まっては本当かな、という疑いの目でみていく必要があると考えます。この「仲哀紀」の変なところはいくつかの地名が出てきていますが、その地名を、東・西の直線の上に記入していきますと、仲哀天皇は穴門の豊浦の宮にいるわけです。この穴門の豊浦宮にいる天皇が豊浦の宮を発って筑紫の方にむかって出発しました。その時に、岡(遠賀川の河口)の熊鰐(わに)という首長が天皇を迎えるために根こそぎにした常緑樹の上の枝、中の枝、下の枝に、玉や剣や鏡を掛けて出迎えた、という話です。天皇は豊浦から来ているのですから、熊鰐は豊浦の方へ迎えに行けばいいわけです。ところが、『日本書紀』には岡の熊鰐は周芳の娑麼に出迎えたと明瞭に書いてあります。つまり、豊浦を通り越して周芳に出迎えに行ったのです。けれども、周芳の娑麼には誰もいません。この熊鰐という人はずい分変な人でして、豊浦から来る天皇を迎えるために、わざわざそこを通りすごして周芳の娑麼にまで行っているのです。つまり、大阪に迎えにくれば良いものを東京まで行ってしまったという感じです。この人、岡の熊鰐だけがおかしいのか。その次に、伊覩(いと)の国の五十迩(いとて)手という人物が、神功皇后のいるに出迎えにきたのですが、この人間もまたを通り越して、穴門の引嶋(下関市内のすぐそばに彦島というのが今日もある)に迎えに行っている。『日本書紀』はそういうように書いています。
 これは誰が考えてもおかしいのです。私は、東西の直線の上にこのほか儺縣・橿日を記入してみながら、変だと気がついて、考えてみました。その結果、古田さんが九州一円の平定がそこから出発したと書いている、まさにその周芳の娑麼という地名がでてきていて、その記憶が頭の片すみにあったので、この話の中の進行方向を、東西引っくり返したら変なところは無くなるということに気がつきました。『日本書紀』では東から西へやってくる話になっていますが、そうではなくて、橿日宮にいた「九州王朝」の始祖が、儺の水門から周芳の娑麼にむけて出発した。その時に、伊都、これは古田さんが書かれているように、後の邪馬一国の中で特別の位置をしめている、特別の位置をしめているということは天国の勢力が上陸をしてきた時に既に同盟国としてあった、そういう存在だと思うのですが、それが出発する九州王朝の始祖の軍勢を送ってきたのです。そしてから、さらには穴門の引嶋(ひこしま)まで送ってきて、その後引き返した。こうみると、五十迩手が引嶋に来ても全く不思議はない。五十迩手は穴門の引嶋から引き返したのですが、熊鰐の方は五十迩手が帰ったのちも、さらに穴門の豊浦から周芳の娑麼に到るまで送ってきた。方向を逆にしてしまうと、変なところは解消してしまいます。これは、つまり「仲哀紀」を終りの方から読んでいく、逆にずっと読むと、周芳の娑麼というところへ到着する。到着するとすぐそこから「景行紀」の十二年九月、周芳の国の娑麼に到りたもうというところにつながるのです。そうすると、古田さんが書かれた、九州一円平定の中で、周芳の娑麼から出発して九州一円をずっと征服した、というところに接続いたします。九州一円を平定する天国勢はやはり筑紫から出発したのです。その橿日宮から周芳の娑麼へ行った道筋はさかさに盗用されて『日本書紀』の中に残された、こういうふうに私は考えました。そうすると論理的な整合性がでてくるように私は思うのです。
 これはほんのひとつの例でしかありません。皆さんの目、これだけの人数がいるのですから、その人数の目で、また『日本書紀』をみつめてみると、なぜこんな変なことが生じているのか、というような問題がつぎつぎと出てくるでしょう。それは古田史学を補強し展開するための、ひじょうに有力な援軍になるのではないか。だから、われわれの『日本書紀』研究会をぜひつくろうではないか、これが私が本日皆さんに申し上げたいことでございます。ひじょうに単純なことを申し上げましたが、お聞きいただきましたことを感謝致します。(拍手)


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