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市民の古代 第10集 1988年 市民の古代研究会編
10周年を期して

「会」創立当時の思い出

市民の古代研究会名誉会長 中谷義夫

 市民の古代研究会(旧称「古田武彦を囲む会」)が創立して満十年になるそうだ。わたしにとってはもっと昔のように思われるし、又、反面、もう一昔が過ぎ去ったのかという感慨である。
 思い返すと、会の創立はまたたく間に出来上り非常にスムーズな運びだった。これは当時、古代史ブームでいながら従来の旧史観に飽きたらなく思う矢先、古田さんの『「邪馬台国」はなかった』とか『失われた九州王朝』が重なり、古代史ファンの眼の鱗が落ちたからであろう。
 又、「会」の結束が強化されたのは朝日新聞の古代史記者高橋徹さんの御尽力を感謝しなければならない。大体、私は朝日新聞を高く評価していた。
 昭和五年のロンドンの軍縮会議で海軍力を英米に圧縮され、統帥権干渉問題が起こり、軍竝に野党が政府を攻撃した時、朝日新聞は毅然として社説でその誤りを正した。つまり「兵力量の決定は国勢であり、軍部は政府の決定に従うべきだから統帥権干渉なぞとはもっての外だといい、また国民の代表機関でもない枢密院がのさばり、国家の責任政府以上の権力をほしいままにしているのは、これは立憲政治を根底から覆えすことだ」と、何のためらいもなく民主主義を貫いた。だが残念ながら満州事変以来、編集方針が変り、軍にべったりとなったが、そのことを現在、反省している新聞社は私の知る限りでは朝日新聞一社であった。
 その朝日新聞が私たちの「会」を取材するというのだから私の胸は躍った。幹事が連れだって新聞社で高橋さんに会うと、第一の質問は「もし古田さんの学説が誤っていることがわかったら、あなた方はどうしますか。」というのである。私はその時、よどみなく「わたしはたとえ地獄へ落ちてもいい、あの古田さんと一緒なら」と親鶯の故事で答えた。高橋さんはにんまりと笑みを浮かべられたことを今も思い出す。高橋さんは著書『明石原人』でも知られるように、自分が信じたら世の学者から黙視されようとも、研究者を暖かく見守ろうとする記者精神を持つ方である。
 もう一つの思い出は、「会」が組織されて間もなく、藤田事務局長は私に相談のうえで宮内庁へ「天皇陵」発掘公開要求の行動を実行したことだ。「全く偉い立派な勇敢さである。」創刊第一号に詳しく載っているので、私の頭に残る印象を述べると、結局、若い藤田さんを軽くいなしやがったと腹が立つ。発掘要求に対して宮内庁は「未だに大学やらどこからも、そういう要求はありません」と、まことしやかに嘘をついたことである。
 聞く処によると、既にそれまでに、学界からも、あの保守改憲派の元総理、中曽根さんが平(ヒラ)の時、国会で天皇陵発掘に就いて質問したそうだが、宮内庁は断固反対したということである。
 まあ、それはとに角として、「会」としては「天皇陵発掘」の宣言をやろうということで幹事は立ち上った。旗をこしらえて、メガホンを持って、大阪駅付近で署名を集めようと決議した。丁度その時、当時の東京の「会」の会員が六、七人来阪するというので、会合の場でそれを述べると、東京方は黙って一言も述べなかった。大反対なのである。実の処、びっくりしたようであった。私は不見識ながら「帝都の市民は従順だなあ」と皮肉が浮んだ。反対に大阪は庶民の都市だと優越心が、実際の処感じたが、何といっても東京は一年先輩の会である。ここで齟齬を起こしては、古田さんに申訳ないので結論を出さなかった。
 今でも、反体制思想の旺盛な私は実行して「古田史学」をもっと日本中に何故広めなかったかと、残念におもっている。


 これは参加者と遺族の同意を得た会報の公開です。史料批判は、『市民の古代』各号と引用文献を確認してお願いいたします。
新古代学の扉 インターネット事務局 E-mailsinkodai@furutasigaku.jp

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