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市民の古代・古田武彦とともに 第二集  1984年 6月12日
古田武彦を囲む会事務局・編集委員会
特集六

教科書における天皇陵古墳と象徴天皇の問題

梅川邦夫

(一) 日本史教科書の天皇陵古墳

 高校の検定教科書として出版されている日本史教科書は、現在15種類ある。その全部の教科書が大和朝廷(大和政権)のところで、天皇陵古墳についてあつかっている。
 天皇古陵古墳が写真として出ている教科書は11種類である。そのうち10種類が仁徳陵古墳であり、あとの1種類が応神陵古墳である。写真に出ている仁徳陵古墳は、すべての教科書が古墳の高さ、幅、直径、長さ、面積について写真説明文か本文あるいは脚註で記述している。数値はどの教科書も見事に一致が見られる。Fではピラミッドと仁徳陵古墳の面積を図示して比較さえしている。教科書の本文に出てくる天皇陵古墳の説明は、たとえば仁徳陵古墳については「一日一〇〇〇人を動員しても築造に四年はかかる計算になる」(C)「のべ一四〇万人もの動員を要したであろうといわれる」(F)というように、仁徳天皇の権力の大きさを間接的にあつかっている。また、当時の天皇の力を直接的に次のように述べている教科書もある。「応神天皇や仁徳天皇の陵墓は世界にも類のない巨大な規模であり、そのころの大和朝廷の権威がいかに強大であったかがわかる」(F)「応神・仁徳両天皇の壮大な前方後円墳は国土統一をなしとげた当時の天皇の強大な権力」を何ら疑問をはさむことなく、応神陵古墳、仁徳陵古墳と断定して記述しているのが特徴的である。
 ところが、日本の古墳時代(3世紀後半〜6世紀)には、まだ天皇という言葉が使用されていなかった。天皇という言葉が使用されたのは7世紀ごろからである。古墳時代の出土品である船山古墳出土太刀銘、隅田八幡宮人物画像鏡、稲荷山古墳出土鉄剣銘には、当時の首長を大王という言葉を使って表現している。大王は4〜5世紀に使われはじめ、7世紀に天皇の称号が用いられるまで続いた。大王と天皇をはっきり使い分けている教科書もある。たとえば「応神陵古墳、仁徳陵古墳に代表される巨大な前方後円墳は大和政権の最高の首長である大王の権力が強化したことを物語っている」(B)と史実をそのまま正確に記しているものもある。また、考古学の立場からの実証的裏づけのない天皇陵を「伝仁徳陵・伝応神陵」(K)「応神陵・仁徳陵と伝えられている」(K・L)と記述している良心的(といっても当然のことであるが)な教科書も数少ないが見られる。

(二) 天皇陵古墳の問題

 天皇陵古墳の研究には、文献資料による方法と考古学による方法がある。
 文献資料としては「古事記」(七一二年)、「風土記」「七一三年)、「日本書紀」(七二〇年)、「万葉集」(七八○年ころ)、「続日本紀」(七九七年)「延喜式」(一〇世紀初期)、「阿不幾乃山陵記」(一三世紀)がある。また天皇陵研究の最初の著作として、松下見林の「前王廟陵記」(一六九六年)がある。他には、細井広沢の「諸陵周垣成就記」(元録時代)、蒲生君平の「山陵志」(一八○八年)が広く知られている。
 現在の天皇陵は「記紀」を最大の根拠にしている。1代の神武天皇から8代の孝元天皇については「記紀」の中に各天皇の事蹟が記されていないことから、実在は疑わしい。日本史教科書の巻末の年表には、倭の五王のあとで26代の継体天皇から記されているものが多い。神武天皇から孝元天皇までの天皇の実在については、津田左右吉氏、水野祐氏の研究によって、今では実在しなかったことが通説になっている。1代の神武天皇から16代の仁徳天皇までの天皇の生きた年令を見ると、一〇〇才以上生きた天皇が12名おり、最高は11代垂仁天皇の一四一才である。医学の発達した現在の人間の平均寿命から見て明らかに記述がまちがっているとしか言いようがない。実在したと思われる最初の天皇は「ハツクニシラススメラミコト」といわれる10代の崇神天皇であるが、これも「記紀」からの推定にすぎない。
 さて、天皇陵古墳は「記紀」「延喜式」に基づいて推定されているものの、考古学的に裏づける資料は全くない。ところが、神武陵が存在している。神武陵だけでなく、歴代の天皇陵が、もれなくあるのである。天皇陵の識別作用は黛弘道氏によれば、六九一年(持統五年)の詔で、先皇の陵戸は5戸以上、それ以外の王等の有功者には、3戸を置くことを命じているのは、そのひとつのきっかけであるという。
 明らかなことは一六九九年(元録一三年)に徳川幕府によって、天皇陵85ヶ所が決定されたことである。その後幕末にいたり、急激に高まってきた尊王攘夷の風潮への懐柔策のひとつとして、幕府による文久の陵墓修築が行なわれた。宇都宮藩が山陵修補の大業を請負った。一八六二年(文久二年)からはじめられた山陵修補は一八六三年(文久三年)に神武陵を手始めに、一八六五年(慶応元年)まで、約一〇〇余陵の工事を終えたのである。
 神武陵については、伝説の域を出ないが、古事記では「御陵在畝火山之北方白梼尾上也、日本書紀には「畝傍山東北陵」、延喜式でも「畝傍山東北陵」となっている。蒲生君平の「山陵志」(一八○八年、文化五年)によると、神武陵については、記紀に従って、「神武陵は畝傍山東北の山にあり」としている。君平が写生した墨絵の神武陵の説明には「和州高市郡四条村畑ノ中ニアリ南東西方ハ平地荒芝生茂アリ」とある。君平の墨絵を見ると、神武陵は粗末な円墳である。ところが黛弘道氏の研究によると幕末文久の陵の修築で高市郡山本村字「ジブタ」を神武田と考え、そこに一万五千両余りの金を投じて、八角円墳を築造したという。従って、現在の神武陵は幕末に全く新しく造られたものである。しかも、鈴木良氏の研究によると現在の神武陵は一八六三年(文久三年)にミサンザイと呼ばれる中世の寺の土台の上につくられたものだという。ミサンザイと呼ばれる地は洞部落という被差別部落のなかにあった。明治時代にはいり、神武陵が拡大されるに伴い、洞部落は立退きを命じられて歴史から消されていった。天皇制と部落差別が表裏の関係であることのなんと明らかな証明であることだろう。
 こうして、幕末には未定の天皇陵は10数ヶ所を残すのみとなった。その後、天皇陵はさらに決定築造され、一九四四年(昭和一九年)98代長慶天皇の陵が、決定され、ここに歴代のすべての天皇陵が出来上つたのである。こういう天皇陵決定の根拠にされている「記紀」の記述には問題が多い。「古事記」には22代、清寧、24代、仁賢、28代、宣化、29代、欽明天皇の陵墓については所在が記されていない。「古事記」の成立から、はるかにさかのぼった時代の天皇陵がすべて明確に記録されているのに、この4名の天皇の陵墓についての記述がないのはなぜだろうか。「日本書紀」には、「古事記」に記されていない先の4名の天皇陵墓について記述しており、「延喜式」の記述も「日本書紀」の記述と同一である。ただ「日本書紀」には、なぜか応神陵についての記述がない。
 「記紀」を最大の根拠にして、決定されている天皇陵が、もっと学問的に検討されなければならない理由がここにある。「延喜式」のころに、天皇陵の治定に混乱があったともいわれている。全国の主要な前方後円墳を墳丘規模でみると、1位の仁徳陵から10位のウワナベ古墳までのうち、半数の5つが天皇陵古墳ではない。天皇陵ではなくて、天皇陵より大きい古墳の存在は何を物語るのであろうか。森浩一氏は自然の山ではなく、人間が築いた古墳で古墳研究の対象になるものは9代の開化天皇陵以降であり、開化天皇陵以降の陵墓で、ほとんど疑問がないのは応神陵・天智陵と天武陵であるといっている。しかも森氏は墳丘規模6位の見瀬山古墳は欽明陵ではないかと推測している。古代の天皇陵古墳の代表である仁徳陵も考古学的なきめてを欠いているのである。

(三) 伝仁徳陵古墳の問題

 現在使用されている高校の日本史の教科書15種類のうち10種類の教科書が仁徳陵を写真で掲げて、その規模を数字で示している。仁徳陵は堺市大仙町にあり、現在はよく手入されている。墳丘の大きさは全長四八六m、後円部の径二四五m、高さ三五m、前方部の正面の幅三〇五m、高さ三三mで、人造山であり、日本最大の前方後円墳である。仁徳陵は「古事記」には、「御陵在毛受之耳原也」、「日本書紀」には「百舌鳥野陵」、「延喜式」には「百舌鳥耳原中陵」と記されている。仁徳天皇は16代の天皇で、父は応神天皇であり、母は皇后仲姫命の子として生まれている。生まれた年は不明、死亡した年は仁徳八七年で、一一〇才で没したとされている。在位は87年である。仁徳陵の築造の様子は「古事記」に語られている。
 「古事記」によると、仁徳天皇は高い山に登って四方を見わたし、国の中に姻がたたず貧しいので、3年間は人民の課と役をやめた。天皇は自分の住居の修理もしなかったので雨漏りがひどかった。3年後、再び国を見わたすと、家々からは姻が立ちのぼり、民は栄えていた。そこでまた、人民に課役を命じたという。「日本書紀」には次のように書かれている。仁徳天皇は河内の石津原に行幸して、自分で自分の陵をつくる土地を選定した。陵を造るのに多くの役民が集められた。ある日、野中から一匹の鹿が飛び出して働く役民たちの中にまぎれこんで倒れて死んでしまった。人々はそれをあやしんで鹿の死体をあらためると百舌鳥が耳から現われ飛び去っていった。そこで、この地を百舌鳥耳原というようになった。と記されている。「古事記」の記述から、陵の造営にかり出された人々は食事もままならない程、疲弊していたことがわかる。3年間の課役免除ののち、再び造営にとりかかったという記述には、天皇の慈悲がうまく表現されている。ところで何のために、こんな巨大な古墳を造ったのであろうか。当時の首長は司祭者的役割と政治的役割を兼ねそなえていたが、はたして、権力の誇示だけのために、こんなに大きな古墳を築造したのであろうか。古墳はほぼ日本全域に造られている。古墳は決して一部の支配者のものだけではなかった。なぜなら10数万といわれる古墳が現在も残っており、島や山村にまで残されていることからも推測できる。
 仁徳陵は前方後円墳である。この呼称は蒲生君平の山陵志に由来している。君平は古墳が宮車に似ているところから前方後円墳と名づけた。しかし、前方部が方形で後円部が円形であるという根拠は今だ示されていない。ただ仁徳陵も前方後円墳であることから、後円部の頂上に天皇を葬ってあることを推定し、そこは現在、玉垣がめぐらされている。仁徳陵は5世紀のはじめに築造されたといわれている。これは古墳時代中期が5世紀ごろに相当する古墳の年代の大前提に依っている。日本の古墳時代の編年は京都大学の浜田耕作氏の研究が出発点になっている。浜田氏は、当時、一般には公開されなかった天皇陵の図を手に入れそれにもとづいて、最古期・古期・最盛期・後期に分類した。そこで古期(前期)古墳を分類する基準に使われたのが崇神陵と景行陵である。
 最盛期(中期)古墳の基準にされたのが、仁徳陵と履中陵であり、後期古墳の基準には欽明陵と敏達陵が使われた。この古墳時代の編年には、崇神陵には崇神天皇を景行陵には景行天皇が、仁徳陵には仁徳天皇が葬られているということが前提されている。しかし、崇神陵・景行陵・仁徳陵は考古学的に実証されているわけではない。天皇陵古墳については、それぞれの天皇陵を発掘して、考古学の立場から実証されたものは一つもない。現在の天皇陵古墳の決定は「記紀」にもとづき4世紀ごろ大和朝廷があったということを大前提として、すべて決定されている。ここに問題があるわけである。「記紀」は8世紀のはじめに、天皇の力を権威づけるためにつくられたことは、津田左右吉氏をはじめ、多くの研究者によって、明らかにされている。
 この「記紀」に問題が多いことは先に見たとおりである。一八七二年(明治五年)に仁徳陵で土崩れが起り、石室と石棺が現われた。この時の発掘の記録が堺市の筒井研三氏と岡村平兵衛氏の家に伝えられていた。岡村氏はその記録を一九七〇年に大阪市立博物館に寄贈された。森浩一氏によれば、「堺県公文録」「堺研究6号」にもとづき仁徳陵古墳の前方部での石室の出現は、台風や洪水による不意の事件ではなく、堺県令が計画的に行った発掘の可能性が強いという。(「古墳文化小考」)この時、出土したと思われる銅鏡や環頭太刀の柄頭がボストン美術館にある。このボストン美術館の遺物は、どういう経路をたどってアメリカに渡ったのかも興味深いが、日本の考古学者が、さしあたって検討しなければならない遺物であることはまちがいない。

(四) 政治経済教科書の象徴天皇の問題

 現在高等学校で使用されている「政治経済」の教科書で天皇についての記述があるのは2箇所である。明治憲法の説明の箇所と日本国憲法における国民主権の箇所である。日本国憲法の三本の柱である国民主権のところで、すべての教科書が日本国憲法の第1条の条文をあげ、天皇の象徴について述べている。記述の内容は、「日本国憲法が国民主権を原則としたことは、明治憲法の天皇主権主義の否定を意味する。しかし憲法は、天皇が『日本国の象徴』であり『日本国民統合の象徴』であると定めて(1条)天皇の特殊な地位を認めた。象徴としての天皇は、国政に関する権能はもたず、憲法に定めた国事行為のみを行うこととなった。(4条)すなわち、内閣総理大臣と最高裁判所長官の任命、国会の召集、衆議院の解散を行うが、すべて内閣の助言と承認である(3・6・7条)。したがって天皇の国事行為は、すべて儀礼的、形式的なものにとどまるが、これはいうまでもなく、国民主権の原則の現れにほかならない。」(角川書店)というものがほとんどである。象徴について、本文とは別に脚注で説明しているのは、講談杜と帝国書院の教科書である。帝国書院の脚注よりより詳しく書かれている講談社の教科書の説明は次のとうりである。

 「象徴・英語のSymbolの日本訳。鳩が平和の、また、十字架がキリスト教の象徴であるとされるように、形をもたない抽象的な事物・思想などを形をもつ具体的・感性的なものにあらわしたもの。日本国憲法の『象徴としての天皇』は、ウェストミンスター条例前文の『王冠(crown)はイギリス連邦所属国の自由な結合の象徴(Symbol of free association)』を参考にしたといわれる。」

 日本国憲法が生まれていく過程の説明は、ポッダム宣言を日本が受け入れてから連合国総司令部指導のもとにつくられたという形が、どの教科書にも共通して見られる。しかし、なぜ天皇が象徴という形になったのかという記述はどの教科書にも一切見られない。従って、この記述と呼応する天皇の戦争責任、東京裁判についての記述も全くない。明治憲法下における天皇が現人神として主権をもち絶大な権力をもっていた。「権力とは決定への参与である」(ラスウェル「権力と人間」)といわれる。戦を宣し、和を講ずる決定権をもっていた天皇は権力の保持者であり、第2次大戦の日本における最高責任者であった。第2次大戦で流された日本人、外国人の血は今だに天皇および日本政府によって、あがなわれていない。
 しかも、現在の憲法における天皇の象徴が決して安心できる平和の象徴である鳩とはいえない。滝川事件で京都大学を辞職した恒藤恭氏は、一九四六年の「世界」10・11・12月号で天皇の象徴的地位について、象徴と代表を比較して説明している。すなわち、象徴と象徴するものとの関係は、異質的なもの相互の間に成り立つ上下の関係であり、代表と代表するものとの関係は、同質的なもの相互の間の水平の関係であると説明している。この象徴と代表のとらえ方は今でもそのまま通用する。
 一九四六年一月、天皇は連合軍総司令部の示唆にもとづき、人間宣言をした。明治憲法下の現人神をはじめて否定した。天皇は人間であって、同時に日本国および日本国民統合の象徴となったのである。現在の天皇の地位がどのようなものかは、皇室典範の存在と内容を見るとはっきりする。
 皇室典範には、皇位は皇統に属する男子が継承する(1条)。天皇が崩じたときは皇嗣が直ちに即位する(4条)。天皇および皇族は養子をとることができない(9条)。天皇・皇太子及び皇太孫の成年は18才とする(22条)。その他、天皇には、苗字がなく選挙権もない。こういう天皇を見ると象徴である天皇と象徴するものである日本国民とは明らかに異質であることがわかる。
 皇室典範は国会が制定し、自由に改廃できる。しかし、日本国憲法と並存しながら、明治憲法の流れをついでいる皇室典範が存在していること自体、人間宣言をしながら象徴として存在している天皇の立場をよく示している。
 一九六六年、中央教育審議会は文部大臣の諮問に答えて「期待される人間像」を答申した。そのなかで「日本の歴史をふりかえるならば、天皇は日本国および日本国民統合の象徴として、ゆるがぬものをもっていたことが知られる。(中略)象徴としての天皇の実体をなすものは、日本国および日本国民の統合ということである。しかも象徴するものは、象徴されるものを表現する。もし、そうであるならば、日本国民を愛するものが、日本国の象徴を愛するということは、論理上当然である。天皇への敬愛の念をつきつめていけば、それは日本国への敬愛の念に通じる。けだし、日本国の象徴たる天皇を敬愛することは、その実体たる日本国を敬愛することに通ずるからである。このような天皇を日本の象徴として、自国の上にいただいてきたところに、日本国の独自の姿がある」という一節がある。
 ここでは、歴史上、天皇が象徴としてゆるがぬ地位をもち、万世一系の皇室の存在を強調している。しかし、歴史をふりかえるならば、承久の変で、鎌倉幕府から島流しにされた後鳥羽・土御門・順徳の三上皇のいた事実や、室町・江戸時代の天皇の置かれていた状況を見ないわけにはい。皇室の力が強大だったのは大和時代であり、以後藤原氏、武士に実権が移っていった。ところが中教審答申はあたかも全歴史を通じて、天皇が象徴としてゆるがぬものをもっていたかのように記述している。さらに答申では象徴としての天皇の実体が日本国であり、日本国民の統合であるという。
 ここでは、天皇が日本国であり、日本国民の統合に飛躍させられている。そして、日本を愛するものは論理上、天皇を愛すると結論づけている。しかし、日本を愛するということは観念的に論理上愛することではない。日本人が愛するのは愛するに価する血と肉と個性的な顔の一人一人の日本人であり、汚されていない山と川と海であり、安心して過せる日日の具体的生活である。決して、抽象的な言葉としての象徴や、日本、日本国を愛しているのではない。天皇への敬愛の念が、日本国への敬愛の念に通じるという記述は論理的にも内容的にも飛躍し、しかも危険な飛躍である。
 これをわかりやすく図式化すれば天皇=日本国=日本国民の統合ということである。明治憲法の内容と何と似ていることか。一人の人間である天皇が日本国と日本国民と等置され、同じ重さで記されている。象徴である天皇が、主権者である国民と等置されている。ここから、天皇を敬愛しないものは日本国を敬愛しないという論理的飛躍がなされている。天皇を敬愛しないものは日本国を敬愛しない非国民であるという戦前の考えと同一線上に来ていることがわかる。昨年、福岡県若松高校の小弥教諭が卒業式に君が代をジャズ風にビアノ演奏して、やめさせられた事件があった。君が代と象徴天皇の背後の聖域に侵入し、象徴天皇を国民と同列に置こうとする試みと人間天皇への接近への試みをかたくなに拒否しようとする象徴的事件であるといえよう。
 天皇を日本国と日本国民の統合に等置している媒辞が象徴そのものである。天皇の象徴は人間天皇という具体的側面と象徴として新たに暗示させ比喩させる側面を持っている。象徴においては人間天皇と象徴が生み出す暗示と比喩を分けることができない。ジルベール・デュランの「象徴の想像力」によれば「象徴の系列は最高の価値として規定される無限の超越的なものへと常に向う」という。象徴は有限の中の無限の如きものである。象徴は決して一回限りで説明されるものではなく、常に新たに解明されていかなけれぱならない。
 その時代の権力の保持者が、象徴を新しく解釈し、肉づけを行なっていく可能性を大きく残している。象徴は暗示的に、そして比喩的に自己増殖を行ない一人で歩き出す。象徴という言葉の実体としての天皇が存在する限り象徴は自己増殖を行ない血肉化し、権力者として変貌していく可能性をはらんでいる。権力の象徴としての天皇陵は、天皇と同じ人間である国民に公開されていないし、立人禁止である。天皇陵は現在も国民を寄せつけない聖域である。象徴が神の顕現と通じるように、聖域は神域に通じている。東京にある皇居も聖域である。一方、我々の心中にも聖域が隠されている。権力への志向がある。痛いけれども自分の中の聖域も同時にえぐり出さなければならない。

(五) 終りに

 現在残っている古墳時代の天皇陵といわれるもののうち、確実に、これこそ、何々天皇の陵墓であるといえるものはひとつとしてないといわれている。なぜなら、発堀して、これこそ何々天皇の陵墓であるという考古学的実証の裏づけがないからである。
 天皇陵古墳は「記紀」にもとづき決定されており、考古学的調査が行なわれているわけではない。天皇陵古墳はすべて推測の域を出ていない。歴史学は物語の記述ではない。歴史学は生きてきた人間の過去の事実を扱う科学である。ところが歴史の教科書は、仁徳天皇陵・応神天皇陵という言葉を使用し、写真入りで説明している。伝仁徳陵と書くか、仁徳天皇陵と伝えられていると事実を書いている教科書は、J・K・Lの三種類のみである。あとの教科書はすべて、仁徳陵というように疑問の余地を残すことなく断定的に書かれている。教科書を読む生徒は知らず知らずに、巨大な古墳は仁徳天皇や応神天皇の墓であり、これらの大きな古墳を見るにつけ古代の天皇権力の大きさを植えつけられていっている。天皇陵古墳を管理している宮内庁は天皇陵古墳の発掘に対しては、消極的である。古田武彦氏が、宮内庁になぜ天皇陵古墳を発堀しないのかという質問状を出したところ、次のような回答があったという。「陵墓は天皇・皇族を葬る所であり、その静安を保ち、追慕尊崇の対象として、永く祭祀を行うものであり、一般のいわば、生きている墓に相当するものである。従って、発掘調査の対象とすべきものではないと考えている。」(「ここに古代王朝ありき」)天皇陵古墳への立入調査を求める運動が考古学会において、たかまってきている。
 こういう天皇陵古墳発堀への運動が、一九七九年一〇月二六日、大阪府羽曳野市にある清寧陵が制限された人数ではあったが公開されることへと結びついていった。その調査の一員であった森浩一氏は、濠内10ケ所の発堀穴を見学したにとどまったが、予想以上の収穫があったと報告している。
 宮内庁は一九七〇年前後から明治期につぐ大規模な天皇陵整備事業に着手した。天皇陵正面に拝所の施設を整え、周囲の堀の浚渫や護岸工事、墳丘地の樹木の伐採や植樹、草刈りなどが実施されているという。この辺の事情は石部正志氏の報告に詳しい。(「日本史研究二〇六号」)石部氏は天皇陵への「立入りを認めないのは、一般人の土足が『陵墓』の尊厳性にかかわる問題であると考えているかららしい。この点に関してはすべて墳墓は尊厳なものである。学術調査するに際して敬けんな態度を忘れないのは、研究者としての常識的なモラルであると考えておきたい。皇室の先祖の墓だから、尊厳であり、学術調査も許せぬ、といわれると、抵抗を感じないわけにはいかない。」と述べている。人間宣言をした天皇にとって天皇陵は一人の人間の墓と見ることができるはずである。天皇陵古墳を調査することは、何ら人間としての天皇の尊厳を傷つけるものではない。古田武彦氏が天皇に出した問いに天皇はみづからの決断で答えなければならない。その問いとは「天皇陵の科学的調査を欠いたまま、日本古代史研究の科学的基礎を築くことが可能とお考えですか?」(「ここに古代王朝ありき」)天皇が象徴であると同時に一人の人間である限り、さらに生物学者として事実を究明する人間として、答えは出せるはずである。もし回答できないなら、その理由を国民に明らかにしてほしいものである。
     (一九七九・一二)


 これは参加者と遺族の同意を得た会報の公開です。史料批判は、『市民の古代』各号と引用文献を確認してお願いいたします。
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