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古田武彦とともに 創刊号 1979年 7月14日 古田武彦を囲む会編集

古田武彦讃歌

丸山晋司

 「『記・紀』という二種類の本がわたしたちの手に残されていた、という。その“幸運”」を古田氏は『盗まれた神話』の末尾で説いている。しかし、ぼくたちは古田氏の一連の著作を読むにつけ、一九七〇年代に古田氏が存在し、古代史に組み始めたという幸運を思わざるを得ない。古田氏以外の一体誰が、日本古代史学界の混迷を整理づけ、意義づけ出来得たろうか。古田氏的発想、古田氏的実力をもった人々は、この世にそれなりに存在していることであろうが、その情熱が古代史に向けられた可能性は、かなり低いものであったろう思う時、古田氏の存在がなかったら、日本古代史界の混迷無索ぶりは、未来永劫続けられたのであろうという予想も、あながち無茶なものとは言いきれないのではなかろうか?!。
 少なくともぼくが三十代前半において、これほど古代史にのめり込むことが出来るようになったのも、前記の幸運のおかげである。古田氏でなくても、誰かがこの業績をなしとげ得たとはとても思うことは出来ない。それほど日本古代史学界は、今も内部で混迷を続けているのであり、これは古田説を受容することなしには、到底おさまっていくものではなかろう、と素人でありながらこのように断定してしまって、少しも憶するところが自分にはない。
 古田説による理論武装によって、専門家とはいかに他愛のない俗説やら珍説をまきちらしている人々か、ということが見えてしまったからである。専門家はまさに「裸の王様」であった。論証のすんでいない仮説を、権威を盾に定説としてしまい、そこから又新たな仮説を提出し、未証の定説でもって、その仮説を論証してしまう。これでは、最初の定説が何ら論理的基礎もないものであることがわかってしまえば、一大定説群はすべて崩れ去ってしまうということが、素人の目にありありと見えてくるのだ。というよりも、ぼくたちが素人であったからこそ物事の根底から疑ってみるという古田説を受け入れることが出来たに違いない。そして、一大定説群という財産をもってしまっている専門家(社会科の教師もほとんどそうである)が、根底から考え直すということは、恐らく無一文になるということになり、本能的にそのことを拒否しているのだと思う。彼らの学問的良心は、無一文にならない範囲でだけ、活動するとは、やっぱりい言い過ぎなのかも知れないけれど、そう言いたくなるほど、彼ら専門家は、古田説を無視し続けている。時々は「批判」とやらを拝見するけど、はっきり言って枝葉末節のことばかりのような気がする。それも大事かも知れないが、もし古田説が誤った説であるなら、専門家の学問的良心をかけて「」批判しておかなければ古田説は市民に受け入れられて、どんどん浸透していくばかりである。「古田学」とも云うべき一連の体系を正面から批判し去るのでなければ、古田説支持の市民は承知できない。すくなくとも『盗まれた神話』を正面に据えて批判してほしい。専門家は、この本から逃げていると、ぼくは絶対に思う。景行の九州遠征説話が、実は九州王朝のものであったという論証。神武が述べたという「アキツのトナメのごとし」というのが、実は福万山から、由布院盆地を眺めた前つ君の言葉であったという論証。天の両屋島は、沖の島であったという論証。等々。これらをまともに反論出来得ないから、専門家は沈黙しているとぼくは思う。彼ら専門家は、古田氏の著作の中で、あれほどバカにされ、いなされながら反論も出来ずにいて、暗い闇の中から復讐の刃を研いでいるのだ、とは、ぼくの推理小説の読み過ぎによる書き過ぎ ーーー。
 とにかく新しい古代史像は出来てしまった。古田説が教科書に全面的に登場するのも時間の問題と思われるが、権威のない一古代史家の説であるから、それを支持する市民がよほどがんばらなければ、そのことも先へ先へと追いやられてしまうだろう。しかし、定説の全面修正とは、それにしても画期的なことだ。「歴史学の八・一五」がようやく始まるわけだ。そのようなダイナミックな時期に、自分が生きることが出来て、本当に嬉しいことだと思う。ひるまず、あせらず、古田学を拡めるためがんばりだいと思う。
(教員三十五歳)

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著者より
1979年時点の考えと、2006年時点の考えは同一ではありません。考えは変わっています。

以上


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