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古田武彦とともに 創刊号 1979年 7月14日 古田武彦を囲む会編集
緊急報告

宮内庁への「天皇陵」発掘公開要求交渉!

古田武彦を囲む会事務局長 藤田友治

 邪馬一国から、九州王朝、更に「盗まれた神話」と次々に「定説」(実は仮説)を撃ってきた古田武彦氏は、その鋭い論理的一貫性故に日本の考古学界へ挑戦するのみか、ついに今度「天皇」への根底からの問いかけをなすにいたった。古田武彦を囲む会で、「伝仁徳陵」をおとづれながら、入口でシャッター・アウトされ、外観も森でさえぎられて解らずにいた、これまでのすべての探求者の悔やしさを古田氏は断固払拭すべく、大変な決意のもとで『ここに古代王朝ありき』(〜邪馬一国の考古学〜朝日新聞社、6月10日発行)の中で、異例の「天皇への問い」としてしたためられたものである。この企てを二ヶ月位前に古田氏から直接に知り、又「陵墓に学術のメスを」(文化財保存全国協議会第10回大会決議、6月5日「読売新聞」朝刊)で、機は熟しつつあった。
 宮内庁へ「天皇陵」の公開要求をしようと決意をかため、東京へ出発する前日、囲む会会長中谷氏より、古田氏の書物の出版の知らせと、中昧を電話で読みあげていただいて確認し、東京へ向った。6月12日、3時頃「皇居」へ、修学旅行で記念写真を撮っている生徒達の姿を見ながら、「戦後」は終っていないし、何ら本質的に変っていないと感じながら、宮内庁(「皇居」の中にある)への第一ゲート「坂下門」へむかう。丁度、東京サミット会議への「準備警備」とかやらで、機動隊や警察がところどころにかたまっている中で、ひときわ厳めしい「皇宮警察詰所」があり、車の出人をすべて止め、望遠鏡でナンバーと「皇宮プレート」(出入を許されるのは、このプレートが車の左端においていないとダメな様だ)を確認し、トランシーバーで本部と連絡し、次いでゲートで確認して中へ入るという具合だ。宮内庁書陵部陵墓課長へ会見したい旨、伝えると、警備官達は「何の目的か、この許可願いを書け」という。
 目的は書陵部へ、陵墓実測図のリストとそのコピーが欲しいのだという。身分証明書、運転免許証を見せて、食い下がると、電話をし出した。さて、かなり待たされていると、「藤田さん、電話に出て欲しいと申されている」とやや丁寧な口調になってきた。これは判断に迷っているのではないだろうか、うまくいけば会見できると思い、まず、「読売新聞の陵墓課長の発言記事を読んで、教育研究に是非必要な資料だからコピーをいただきたい」とだけ伝えると、それではと許可されたのである。「皇宮警察プレート22番」を胸につけながら、彼らは「お会いになるそうだ。めずらしいことですよ」ともったいぶられたが、当然のことである。一人が歩くには広すぎる整備されすぎた道路を堀をみながら回り、坂道をあがるところで、第2ゲート(立番皇宮警察)を通過し、そこで書陵部は宮内庁とは別棟となっていることを教わり、やっとたどりつく。
 丁寧に三人も出てこられ(余程、市民がくるのがめずらしいのか又仕事が暇なのか)小会議室に案内される。茶・扇等の接侍を受けながら、まず『書陵部紀要』は、大学か図書館しか送っていないのは問題ではと問うと、各市教育委員会や文化財センターも含めるつもりであるといわれる。紀要30号の陵墓地形図目録を見たいというと、持参してくれた。
 大阪から、はるばると来られたのですか、と妙に関心を示され、一般に市販されておらず、従って市民としては入手困難な状態であることが問題であると迫ると、それではと陵墓地形図コピー(目録)を贈呈するといわれ、秘書官にコピーを指示した。「学者風」の人が陵墓調査官石田氏で、「紳士風」の人が、児嶋弘宮内庁書陵部陵墓課長であり、もう一人は、いかにも宮内庁役人という方であった。さてその目録に従って「伝仁徳陵」の陵墓実測図をほしいと言うと、役人風の人が「伝仁徳陵」なんてないといわれた。「?」しばらくして「仁徳陵」ならばというと、「それなら」となった。
 どのようにして申し込めばよいかと問うと、「今まであなたのように直接こられた申し込み例がないので」様式が決まっていないという。それではと、メモ用紙を渡すと、これでは受けつけられないとことわられる。このようなやりとりの中で、児嶋氏が今、様式をつくればどうかと他の二人に相談をしてくれる。そして、三人が相談し申し込み者の面前で、このようにして様式が決まっていったのである。さて、次にいよいよ、古田武彦氏の本、ならびに主張は御存知かとたずねた。彼らは、古代史家であるとは存じあげていると答えたが、学説の中身はあまり知らない様子。(或は、小生よりよく知っていての黙殺かも知れぬが)そこで、陵幕を学術調査し、市民に公開する必要を感じないのかと問うと、それについては「色々とむつかしい問題がある」といわれ、逆に「考古学協会」へは、既に30年も前に「陵墓地形図目録」を渡してあるのに、保存、管理責任者がハッキリせず、どうなっているのかと言う。あたかも、宮内庁の方が、市民の要求を大切にしますよ、というポーズを感じた。
 元号法制化法案といい「天皇制」はやはり生きつづけているということが、単に戦前の復活であると批判するアナクロニズムを撃つというだけではなくて、今日的な意義としての「天皇制」を痛感し、この根本に迫るべく、市民の側としては、宮内庁、文化庁へ古田武彦とともに「陵墓」発掘公開要求をし、これを契機とした運動を始めよう。今回の一市民としての単独交渉一時間半を終え「仁徳」「継体」「雄略」の実測図のコピーが出来仕第送ることを確約させて、これからのはるかに長くて遠い道を想起しながら新幹線のスピードという現代に身をゆだねて、帰路についた。

(一九七九年六月十六日記)


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