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古田武彦とともに 創刊号 1979年 7月14日 古田武彦を囲む会編集

古田武彦氏を囲む会のあゆみ

事務局長 藤田友治

 「論理の導くところへ行こうではないか。 ーーたとえ、いずこに至ろうとも」と、親鷺研究から出発した古田武彦氏は、「邪馬国」から日本の古代史の「定説」を撃ち、一連の問題提起をもって古代史学界へ鋭い問いをなげかけられている。
 「定説」を安易に信じていた私達の古代史観は、根底から揺さぶられています。真実を求めていくことが、私達の道とすれば、古田氏の主張、学説を全面的に支持する者も、そうでなく疑問をもち、批判する者も、是非身近に古田氏を招いてお聞きしようということで呼びかけます。
 以上が、今から二年前、一九七七年の十一月二十日に第一回「古田武彦氏を囲む会」発足時の呼びかけ文です。既に東京では、自然発生的に、「疑問の点を古田氏から直接話を聞こう」と古田氏に申し入れられ、一九七六年九月第一回、一九七七年四月第二回と行なわれていた。(講演テーマは、第一回「まぼろしの倭国大乱」。第二回「開かれた縄文の扉ーー倭人の周代貢献」それぞれ一〇〇名位)。
 大阪では、古田氏が近くに在住されておられながら、又要望として古田氏自身にかなり問い合せがありながら出来ていなかった。一九七七年三月、私もお手紙で要望し、五月には今井氏と古田氏宅へおしかけた。洛西の竹薮の片ほとりの静かなお住まいに、書斎といっても古田氏が著作活動を続けられる机と、かろうじて二人がやっと座れる位で、全て本に埋もれた部屋に案内された。情熱家であり学究者であると表現すればこの場の雰囲気、古田氏の特徴が御理解いただけるであろうか。これまでにも幾度か学者(大学教授)のお宅に、私もかなり寄せていただいたことがあるが、書物は勿論多いが、会話は世間話が多かったことを記憶している。
 しかし、古田氏は、かなり様子が違っていて、書物の中に埋もれ、かつ現在研究中のことを、手近にある書物を引っぱり出されながら、情熱的に次から次へと展開されるのだ。多忙の中で古田氏は、このように一読者の声を聞かれるのである。私達は、その学説と人柄にすっかり魅せられてしまった。その後、高校教師の各研究会で呼びかけを始めた。幸いなことに、大阪で「古田さんを囲む会」を計画されておられるグループのリーダー中谷氏(現大阪の会長)と出会うことができ、「願ったりかなったり」(中谷氏の言葉)で早速お会い出来、九月に「囲む会準備会」が正式に発足したわけです。
 代表世話人中谷氏、事務局藤田という体制で、二名を中心としたグループのドッキングによって始められた。その年の暮れ、十二月十八日、第一回古代史講演会「邪馬壹国その他」というテーマで西区民センターで八二名(会場定員七十名で制限せざるを得なかった)その後、第二回「囲む会」を大阪グリーンホテルで二十五名の参加で行なわれた。会場選定に苦労が続いた頃であった。
 一九七八年になって、四月九日第二回講演会「倭国大乱と高地性集落」で九十名、「囲む会」四十名となにわ会館(公立学校共済組合)で、以後大阪の中心地で会場が決められていく。六月四日の第三回「囲む会」で、会員の今井氏の研究発表があり、古田氏を囲んで、会員が提起するという形式を持つことができた。更に、第二回講演会終了時に、熱心な会員(篠原さん)の方から、古田氏に関する新聞切り抜きのコピーをいただき、それを基に、古田氏の業績の報道を散逸させないために資料づくりを始めた。素人の手作りで不充分なものですが、『古田武彦氏の業績〜新聞記事を中心として〜』として古田氏の略歴、著訳書、論文目録をつけて発行した。これは会員の要望で、不充分で見にくかったにもかかわらず、またたく間に二百部が消化された。講演会は、「倭国大乱と高地性集落」というやや高度な内容であったにもかかわらず、盛況で講演会終了後も、古田氏の情熱にうたれたのか、熱心に質問されておられ、先生をとり囲んでおられた姿が印象的でした。
 第三回講演会は、「倭の五王と近畿天皇」のテーマで、なにわ会館百十二名、質疑の囲む会に七十六名も残られました。このような発展をむかえて、もはやささやかなサークル的な集りから、本格的な事務局体制を考えない限り、それぞれの本業をもちながらでは限りがあることになり、役割分担を決めました。
 又、会員が各パートに分かれて、それぞれの資料を整理、分析、研究し、囲む会で交流するという研究班づくりを決めました。1). は古田氏の業績、人柄のプロフィール班、2). は親鶯研究班、3). は古代史研究班、4). は古田説の裏付けとして考古学、資料班と分けた。この中で、4). 班の今井氏は、その後、稲荷山鉄剣銘文で古田解釈に力強い援軍をなすまでになった。古代史学界の「正統派」は斯鬼宮を遠く離れた奈良県磯城郡にあった雄略天皇の皇居にまでもってきていたわけであるが、地元の関東を無視していたのに対し、古田氏は厳密な文献解釈、埋葬状態による分析、更に稲荷山古墳の東北二十キロの地点に磯城宮の地名を発見し論破した。朝日新聞によれば、「栃木県に磯城宮があることは、古田氏の著書の愛読者で神戸市に住む今井久順さんが、最近、たまたま読んだ下野地方(栃木県)の地方史で知った。その連絡を受けた古田氏はさっそく現地を訪れて調べ、この磯城宮が現在は大前神社と呼ばれていることを確かめた。」(一九七八年十一月二十一日)
 さて、この分野を除けば、まだこの班づくりは組織的には機能をしていないが、この件で古田説を学界や市民へ定着させるのに、私達市民の疑問や評価をだしあい、相互に高め普及をはかろうとパンフづくりの計画をもつようになった。
 一九七九年三月三日に、第七回囲む会では、これまでの役割分担を一層進め、会長(中谷氏)副会長(北本氏)、事務局長(藤田)、講演会ーー1. 受付係(今井氏、三木さん、石津さん)、2. 案内状、各社連絡係(三木さん、藤田)、3. 記録、書記、会場資料係(篠原氏、清水氏)、4. レジュメ(釜洞氏)図書紹介、パンフ係(岸野氏、丸山氏)と分けられた。ここで積極的に女性が加わったことと、各人の持ち味を生かせるように分担できたことであった。(例、医者や教師がレジュメを担当するとか)。
 さて、古田氏と「近畿天皇陵」の古墳めぐりをしたいと前から希望があったので、「囲む会」のメンバーで、四月一日四台の自動車に分乗して「伝仁徳陵」(大仙古墳)ーー履中ーー黄金塚ーー黒姫塚ーー仲哀天皇陵ーー応神天皇陵のコースを回った。楽しくかつ有意義な日であったが、朝日旅行会の本番への下見という制限もあって、メンバーを限らねばならなかったことと、途中で迷い車が出たことは残念であった。しかし、夕暮、再会でき古田氏を囲んで本当によかったと喜びを分かち合った。
 四月十三日に、東京読者の会の方七名と大阪の囲む会八名との交流会をもっことができた。大阪にとって、東京は先輩にあたるわけだが、東京は読者一人一人の参加形態で、大阪の様に組織づくりということはなく、性格の違いがあるが相互の交流を楽しく深めた。いずれ、各地域、とりわけ九州王朝論、かつ邪馬壹国九州の地で会ができ、全国の連絡がとれればと願う。
 第四回講演会は「卑弥呼の宮殿の所在と稲荷山鉄剣問題」で、百十五名が参加した。この会場でアンケートをとったところ、
古田氏の本で一番読まれているのは、やはり、『「邪馬台国」はなかった』で70%、次いて、『失われた九州王朝』60%、『盗まれた神話』58%、親鸞関係は古代史の講演会という場であった制約もあるが、『親鸞ー人と思想』13%、『わたしひとりの親鸞』18%と古代史と較べ差がある。又、4名の方が、古田氏の論文、著作のすべてを読んでおられるということも解った。又、読者がどこに一番興味をもつに至ったかという問いに「既成の概念(常識)がくずれたこと。うたがいをもつことの必要性」「万世一系の思想をうちやぶったことと九州王朝論の考え方に共鳴」「邪馬台国論問題についてザン新な視点を提起」「記紀の秘密を確実に解明された事」「資料の取り扱いについて、最も論理的、実証的であり主観的推理による意見がはんらんする中で、その科学的論証、かつ衝撃的な印象をうけた」「前人未踏の発想に敬服」「既存の説では古代のイメージがはっきりつかめなかったが古田氏によって可能となってきた」と多くの方の意見が寄せられた。中には、一冊もまだ読んだことがないが、人柄が親しみやすい人だとあり、まだまだ普及することの必要を感じられた。
 又、同時に行った囲む会への要望、古田説を普及させる意見では、「素人が自由に意見を交換し、先生に御教授いただくと共に、ヒント、アイデアを提供できるような場(機関誌等)が欲しいですね」「この会の強化をはかる。例えば年会費の徴収、会報の出版、古田先生を囲む現地指導等他もっとやって欲しい」「囲む会で古田説にもとづく中・高校生向きの本を作つてはどうか」「古田説と反対に位置する学者との討論会を開いたら如何」と積極的な意見を寄せられた。これらについて、実現可能なものからどんどんやることが求められている。
 五月十九日の第十一回「囲む会」では、今度『ここに王朝ありき ーー邪馬一国の考古学』(朝日新聞社)の出版で、古田氏の著訳書は記念すべき十冊目を迎えることで、今だに一回もの出版記念会もなかったことから、十冊目記念と今までの労作を含めて記念することが決められました。又、読者と著者をつなぐ、ユニークな機関誌『古田氏とともに』(創刊号)の発行、更に古田説を市民の間で、もっと広め学界へ提言しようとする集いで組織、規約をきめました。またこのパンフの各人の原稿を読んでいただいたら解るように、あらゆる職種の違い、年代の差を越えて市民に広がっている読者(囲む会会員)が相互に交流するという点のユニークさを自負し、かつ相互の交流の楽しさのみか、経験の差、読み方の差から学び合うという面をもっています。「囲む会」は、「わたしはたとえ地獄に落ちてもいい。あの法然聖人と一緒なら」という熱烈な支持者がおられるわけですが、批判者を含みかつ「わたしが本当にそうだと思えることだけを、そうだと思い、わたし自身にそうだと思えないことは、誰が何と言おうとも、そうだとは思わない」(古田氏の言葉ーー『わたしひとりの親鸞』より) わけです。いわゆる古田氏を教祖とあがめ、後光にみちた「親鸞聖人」の像を刻んだ集団ではありません。
 もし私達がそのようなあり方をとれば、古田氏自身が一番当惑され、問違いなくキッパリとこう言われるでしょう。「わたしには弟子などひとりもいない。なぜなら皆、対等な人問同志だから。」
 さあ、古田氏とともに真実を学界から市民の手にとり戻そうではありませんか。
(古田武彦を囲む会・入会案内は略)


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