古賀達也の洛中洛外日記
第355話 2011/12/01

百済人祢軍墓誌の「僭帝」

 この2週間ほど、毎日のように百済人祢軍墓誌のことを考えています。幸い同墓誌の拓本コピーを水野さんから送っていただき(古田先生から入手されたもの)、その難解な漢文と悪戦苦闘しているのですが、中でもそこに記された「僭帝」とは百済王のことなのか倭王のことなのかが、今一番の検討課題となっています。
 この「僭帝」という言葉は墓誌の中程(全31行中の14行目)に「僭帝一旦称臣」という記事で一回だけ出現します。その6行前には「顕慶五年(660)官軍平本藩」と官軍(唐)が本藩(百済)を征服した記事があり、同じく4行前には「「日本余(口へんに焦)、據扶桑以逋誅」という記事があります。そして「萬騎亘野」「千艘横波」という陸戦や海戦を思わせる記事(白村江戦か)があり、「僭帝一旦称臣」に続いています。次に年次表記が現れるのは「咸亨三年(672)」の授位記事(17行目)ですから、「僭帝一旦称臣」はその間の出来事となります。更にいえば白村江戦(663)以後でしょう。
 従って、660年に捕虜となった百済王ではないようです。しかも「日本」記事の後ですから、やはり倭王と考えるのがもっとも無理のない解釈と思われます。そうすると、大和朝廷は天智の時代ですが、『日本書紀』には天智が唐の天子に対して臣を称したなどという記事はありませんから、この「僭帝」は大和朝廷の天皇ではなく、九州王朝の天子、おそらく薩野馬である可能性が大きいのではないでしょうか。
 しかも『隋書』によれば、九州王朝の多利思北弧は天子を自称していますから、唐の大義名分から見て倭王は「僭帝」、すなわち「身分を越えて自称した帝」という表現もぴったりです。また、墓誌には何の説明もなく「僭帝」という表記をしていることから、七世紀末の唐の人々にとっても、「僭帝」というだけで誰のことかわかる有名な人物と理解されます。すなわち、『隋書』に特筆大書された「日出ずる処の天子」を自称した倭王以外に、それらしい人物は東アジアにはいないのです。
 以上のような理由から、墓誌の「僭帝」は九州王朝の天子、おそらく薩野馬のことと推定していますが、まだ断定は避けながら、墓誌の検討を続行中です。(続く)

大唐故右威衛将軍上柱国祢公墓誌銘并序水野孝夫 翻字) へ

第353話 2011/11/22 百済人祢軍墓誌の「日本」 へ


洛外洛中日記一覧

資料編に戻る

ホームページに戻る


制作 古田史学の会