古賀達也の洛中洛外日記
第341話 2011/10/02

「大歳庚寅」銘鉄刀の目的

 福岡市西区の元岡古墳群から出土した鉄刀の銘文について検討考察をすすめてきましたが、いよいよ最終段階に入りたいと思います。それは、この鉄刀が作られた目的(史料性格)についてです。
 実は、この鉄刀の銘文はちょっとへんなのです。「大歳庚寅正月六日庚寅日時作刀凡十二果(練)」とあるだけで、その前後には銘文はないようですが、これでは鉄刀を作った年月日が記されているだけで、そのことにどんな意味があるのか銘文からは不明なのです。
 銘文を持つ古代の鉄刀(剣)はいくつか出土していますが、欠損のため一部しか銘文が残っていないものはともかく、その他は基本的に何のためにその鉄刀(剣)が作られたかという制作目的や史料性格を銘文からうかがい知ることが可能です。ところが、この「大歳庚寅」銘鉄刀には、それら制作意図や鉄刀を与える目的などがわからないのです。
 一応、わたしは大歳干支表記や九州年号改元年との一致などから、新倭王即位と改元を記念して作られたものとする理解をえましたが、銘文そのものには製作年月日ぐらいしか記されていないのです。わたしにはこのことが不思議に思えたのですが、マスコミの発表などを読む限りは、このような点に触れた記事はないよ うです。
 そこでわたしは、そうした鉄刀制作者の意図とその授与の目的を銘文から読みとれないかと考え続けてきました。そして、そのキーワードを見つけたのです。それは、銘文の後半部分「作刀凡十二果(練)」の部分です。新聞などの説明では、この部分を「全てよく練り鍛えた刀」という意味に読んでいますが、この解釈には納得できません。
 通常、鉄刀(剣)などの銘文での常套句は「百練」です。例えば、国内では最も古い後漢の年号を持つ「中平」銘鉄刀は「百練」と記されていますし、有名な七支刀も「百練」、稲荷山古墳出土鉄剣銘も「百練利刀」、江田船山古墳出土鉄刀でも百練よりは少ないのですが「八十練」です。
 これらの銘文が示すように優れた鉄剣・鉄刀を表す常套句(実際そのくらい練ったのかもしれませんが)は「百練」「八十練」であり、「大歳庚寅」銘鉄刀のよ うに「十二果練」では、鉄刀の出来を誉めているのか、けなしているのかわからないような回数ではないでしょうか。そこで、新聞発表などでは「凡十二果 (練)」を「全てよく練り鍛えた刀」などと、苦し紛れの解釈になったのではないかとにらんでいます。
 そこでわたしは、「十二」を練った回数ではなく、鉄刀の数と理解しました。次のような読解です。「大歳庚寅正月六日庚寅の日の時に、十二本の刀すべてを作り練り果たした。」
 このように「十二」を鉄刀の本数と見れば、数的に無理のない妥当なものとなります。すなわち、新倭王は即位改元にあたり、十二本の鉄刀を作り、その記念すべき日に作った刀であることを象嵌し、恐らく九州王朝内の有力12氏族の長に与えたのでしょう。そしてその内の1氏族の子孫の墓が元岡古墳群だったので す。
 そうすると次に問題となるのが、何故12本なのかということです。もちろん、九州王朝直属の有力氏族の数が12氏族だったという場合もあるかもしれませんが、それだとちょっと少ないように思われます。従って、逆に積極的に12本(12氏族)が選ばれたと考えた場合、それはどのような場合でしょうか。
 わたしには一つのアイデア(作業仮説)があります。それは、藤原宮のように12の門が当時の九州王朝の王宮にあったとすれば、藤原宮と同様にそれら各門を1氏族で守ることになり、合計12氏族で王宮防衛にあたることになります。このように理解すれば、防衛任務の責任者に武力の象徴でもある「鉄刀」を下賜することは、充分にあり得ることですし、宮門防衛氏族の象徴(証明)としてこの「大歳庚寅」銘鉄刀が自他共にその役割を認めることになるのです。
 従って、王宮防衛氏族としてその任務と名誉は子孫に受け継がれたはずですから、7世紀中頃の古墳から出土したことも肯けます。おそらく、7世紀中頃には王宮防衛の任務を解かれたため、その時点で古墳に埋納されたものと思われます。あるいは、新たな王宮防衛の「証明」物が与えられたのかもしれませんが、それよりもその氏族が任務を解かれたため、子孫に引き継ぐことなく埋納した可能性が高いのではないでしょうか。
 更に、この7世紀中頃に王宮防衛の任務を解かれたという仮説に基づくならば、一体何が九州王朝で起こったのでしょうか。これも想像の域を出ませんが、九州王朝の副都前期難波宮の完成(652年・九州年号の白雉元年)と関係があるのではないかとにらんでいます。難波の副都完成にあたり、王宮防衛の任務の一部が関西の氏族と交替になったため、元岡古墳群被葬者の氏族が任務から外れたのではないでしょうか。
 これらは想像の域を出ませんが、「大歳庚寅」銘鉄刀が大和朝廷から下賜されたとする、大和朝廷一元史観の説よりは説得力があると自負しています。

(続く)


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