古賀達也の洛中洛外日記
第321話 2011/06/05

九州の語源

 九州新幹線により一つに結ばれた九州ですが、九州新幹線のシンボルカラーは九州7県を象徴した7色のレインボーカラーでした。厳密に言うと、九州新幹線は長崎県・大分県・宮崎県は走っていないので、7色で表現するのはビミョーかもしれません。
 ご存じのように、その昔、九州は筑前・筑後・肥前・肥後・豊前・豊後・日向・薩摩・大隅の9国からなっており、そのため「九州」と呼ばれるようになったとするのが通説でした。しかし、中国では天子の直轄支配地を9に分けて統治する伝統があり、その影響により「九州」と言えば単なる地名ではなく、天子の直轄支配領域を指す「政治地名用語」となりました。例えば、『旧唐書』にも「九州」という表記が頻出します。その上で、古田先生の九州王朝説によれば、古代九州島は天子が直轄支配する政治的地域であり、倭国(九州王朝)が中国に倣って命名したものとされました。
 その証拠に、意図的に9国に分けられた痕跡として、筑紫・肥・豊の3国のみが前・後に分割され、ちょうど9国となっています。薩摩を薩前・薩後、日向を日前・日後などとは分割しなかったのです。恐らく倭国の天子にとって、直轄中の直轄領域であった筑紫・肥・豊を前後に分割したのではないでしょうか。
 なお、9国への分国の時期が日出ずる処の天子・多利思北孤の時代(6世紀末)であったことを、わたしは『九州王朝の論理』(古田先生・福永晋三さんとの共著、明石書店刊。2000年)で論証しましたので、ご参照いただければ幸いです。
 こうした認識に立つと、九州王朝にとっての直轄支配領域は九州島であり、それ以外の本州や四国は支配領域ではあっても、「直轄地」ではなかったことになります。恐らくそれらは地方豪族により統治されており、その豪族達の上に九州王朝の天子が列島の代表者として間接統治したのではないでしょうか。そし て7世紀中頃になると、全国に評制を実施し、律令による中央集権的統治を進めたものと思われます。
 701年以後になると、大和朝廷が列島の新たな代表者となりますから、大和朝廷にとって自らの直轄支配領域を「九州」と呼ぶ「大義名分」が発生します。その史料的痕跡は『日本書紀』にはありま せんが、『続日本紀』には1回だけ見えます。天平3年(731)12月21日の聖武天皇の詔中に「朕、九州に君臨す。」とあり、この時になってようやく大和朝廷は「九州」という政治的地名を使用したようです。九州王朝を滅ぼして間もない『日本書紀』成立時(720)では、九州王朝による九州島の九州という 地名が「現存」しており、『日本書紀』での使用はためらったのではないでしょうか。
 聖武天皇による「九州」という表現ですが、ここには微妙な検討課題があります。それは、聖武天皇にとっての「九州」に、九州島は含まれていたのかという問題です。すなわち、九州王朝の故地である九州島を聖武天皇は自らの直轄支配領域と認識していたのかというテーマです。
 わたしの現時点での考えとしては、天平3年の時点では九州島は大和朝廷の直轄支配領域とはされておらず、聖武天皇の詔勅中の「九州」には九州島は含まれていなかったのではないかと考えています。その根拠の一つは、養老律令によれば九州島は大宰府が統括しており、大和朝廷の直轄支配というよりも、大宰府による間接統治だったからです。このテーマは九州王朝の滅亡過程とも密接に関 係しており、今後の研究テーマでもあります。引き続き、検討したいと思います。


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