古賀達也の洛中洛外日記
第814話 2014/11/01

考古学と文献史学からの太宰府編年(2)

 赤司善彦さん(九州国立博物館展示課長)の論文「筑紫の古代山城と大宰府の成立について −朝倉橘廣庭宮の記憶−」『古代文化』(2010年、VOL.61 4号)に見える考古学的出土事実が、結果として九州王朝説を支持する例を引き続き紹介します。
 大宰府政庁 I 期造営の時代については7世紀初頭(倭京元年・618)として問題ないのですが、 II 期の造営年代については文献史学からは史料根拠が不十分のため、今一つ明確ではありません。考古学的には創建瓦が老司 II 式が主流ということで、老司 I 式の創建瓦を持つ観世音寺創建時期と同時期かやや遅れると考えられますから、観世音寺の創建年(白鳳10年・670)の頃と見なしてよいと考えてきました。
 ところが、赤司さんの論文に政庁 II 期の造営時期を示唆する考古学的痕跡について触れられていたのです。次の記載です。

 (3期に時代区分されている大野城大宰府口城門)「 I 期は、堀立柱であることや出土した土器や瓦から7世紀後半代。 II 期は、大宰府政庁 II 期と同笵の大宰府系鬼瓦や鴻臚館系瓦を使用していることから、大宰府政庁 II 期と同じく、8世紀第1四半期を上限と考えられる。(中略)
 大野城の築城年代について、考古学の側から実年代を語ることのできそうな資料が出土している。大野城の大宰府口城門跡で、創建期の城門遺構に伴う木柱が出土した。(中略)
 木柱の年輪年代測定が実施された。計測年数197層の年輪が確定され、最も外側の年輪が648年という結果が出されている。(中略)大野城の築城の準備は、『日本書紀』の664年(665年か。古賀)よりも遡ることを考慮すべきではないか(ママ)思われる。」(80頁)

 これらの記述が指し示す考古学的事実は大野城創建期の大宰府口城門と大宰府政庁 II 期の造営が同時期であり、出土した木柱の年輪年代測定から648年頃と考えられるということです。「8世紀第1四半期」というのは大和朝廷一元史観に基づいた「解釈」、すなわち大宰府政庁 II 期を大宝律令制下の役所とする仮説であり、考古学的事実から導き出された絶対年代ではありません。絶対年代を科学的に導き出せるのは出土木柱の年輪年代測定であることは言うまでもありません。従って、大宰府政庁 II 期と同笵の鬼瓦などが出土する大野城城門 II 期の造営は648年よりも遅れ、かつ大宰府政庁 II 期と同時期と見ることができます。
 そうしますと、既に指摘しましたように観世音寺創建年の白鳳10年(670)の頃に、大宰府政庁 II 期の宮殿が大野城築城とともに造営されたと考えて問題ないようです。なお疑問点を指摘しますと、老司 I 式瓦の観世音寺と老司 II 式瓦を主とする政庁 II 期の造営時期を、老司式瓦の先後関係から見れば観世音寺が先となります。他方、地割区画から見ると、政庁の中心軸を起点に観世音寺の中心軸が割り出されています(この結果、観世音寺の中心軸は条坊ラインから大きく外れています)。このように政庁と観世音寺が条坊都市よりも遅れて造営され、条坊とは異なった「尺」で地割されていることを考えれば、起点とした政庁が先に設計され造営されるというのが常識的な判断のように思われるのです。この政庁と観世音寺の造営年の先後関係については「ほぼ同時期」という程度に現時点では判断しておくのが良いと思います、この点、今後の検討課題とします。
 以上、赤司さんの論文に見える考古学的事実が、『日本書紀』や大和朝廷一元史観よりも、結果として九州王朝説に有利であることをご理解いただけたのではないでしょうか。


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