古賀達也の洛中洛外日記
第699話 2014/04/24

特許出願と学術論文投稿

 昨日は大阪の特許事務所に行き、新規開発品の特許出願の打ち合わせを行いました。若い頃は特許明細を自分で書いたものですが、近年は特許戦略や出願技術が高度で複雑になってきましたので、特許事務所の弁理士さんに書いてもらうことが多くなりました。仕事柄、特許出願や開発に関わることも多いのですが、企業研究(「お金」のための研究)では新発見や新発明を商品開発にまで進め、事業化により社会に貢献し、利益(お金)をいただき、事業継続を可能とします。わたしはこうしたビジネスに誇りをもっていますし、開発品が店頭に並び、みなさんに喜んで買っていただけることは、とても嬉しいものです。
 他方、特許出願とは異なって、学会などで企業研究の成果の一部を発表(無償で「公知」にする)することもあります。もちろん企業機密を守りながら、企業や商品の宣伝効果やお客様や学界への知的便宜をはかり、貢献し信頼を得ることが主たる目的です。7月にも繊維機械学会で講演を行いますが、そこでの資料やパワーポイントの画像に取り違えやミスがあるかもしれませんし、著作権や版権に問題なければコピペもします。間違いに気づけば謝り訂正しますし、それ以上聴講者から非難されたりバッシングされることもありません。企業の知見を無償で「公知」とするのですから、感謝されこそすれ、叩かれることはありません。だから安心して発表できます。
 ところが、基本的に同じこと(自らの発見と仮説を論文発表することにより無償で「公知」にした)をした小保方さんはマスコミや評論家、御用学者から集団でバッシングされました。狂気の沙汰としか思えません。学術論文というものは、それまで誰も知らなかったことや定説とは異なる発見や仮説を発表するもので、その結論が「真理」かどうかはその時点では誰もわからないケースがあるのは当然ですし、だからこそ厳しい査読を経て、学術誌に掲載に値する仮説や発見と認められて掲載されるのです。
 従って、小保方さんの場合、STAP細胞やSTAP現象が真理かどうか、再現できるかどうかは、論文発表においては本来は問題とされません。何故なら、査読する方はそんなことまで実験して調べることはできませんから、仮説として論理的に成立しているかどうか、推論や論理展開に矛盾がないか、「公知」にするほどの内容かどうかが問題とされるのです。ですから、小保方さんがあれほど醜いバッシングを受ける理由がわたしには全く理解できません。写真の取り違えや、悪意のない画像修正(むしろ見やすくするための修正)は、訂正すればすむ問題であり、あれほどバッシングを受けるようなことではありません。
 理研の対応も理解に苦しみます。小保方さんに論文を取り下げろというのなら、その小保方さんの発見や成果に基づいて出した理研の特許も取り下げますというべきです。わたしはどちらも取り下げる必要はないと考えていますが。ちなみに、理研の特許を検索したところ、アメリカで国際特許を昨年4月24日に出願していました(PCT/US2013/037996)。同特許にはバカンティーさんや小保方さんらの名前も見え、そして恐らく開発に協力した日米の病院名も記されています。小保方さんのネイチャー誌への投稿が昨年3月10日ですから、ほぼ同時期に理研は論文と特許を出したことになります。
 通常、特許は出願してから1〜2年ほどして公示されるのですが、同特許は専門的になりますが「先願権主張」のため、あえて早く公示される特許戦術を理研はとったものと推察されます。従って、理研はSTAP細胞やSTAP現象が正しいと確信していたはずです。でなければ膨大な経費(税金)を使って国際特許出願などしないでしょう。
 理研もマスコミもこの特許出願のことは全く知らぬふりをして、小保方さんの論文だけを「親の敵(かたき)」のようにバッシングしているのは、まったく理解できません。なぜ理研が出願した国際特許は叩かないのでしょうか。理研もなぜ特許の取り下げはいわないで、論文取り下げだけを問題とするのでしょうか。特許による「お金」儲けは大切だが、発見した研究者の将来や名誉はどうでもよいと考えているのでしょうか。そうだとすれば、理研は血も涙もない非情で非常識な組織です。日本もいやな社会になったものです。若者の理科離れがこれ以上進まなければよいのですが。
 今回のSTAP論文騒動を見て、わたしは「和田家文書」偽作キャンペーンを思い出しました。マスコミや雑誌、御用学者を動員して研究者や文書所有者を執拗にバッシングするという構図がそっくりです。あの偽作キャンペーンが一つの契機となって「古田史学の会」は誕生したようなものですから、今回のSTAP論文騒動を契機として、日本の学問やマスコミ、学者や研究者のあり方が問い直されることを期待したいと思います。何よりも、国民が学問や研究のあり方、「お金」のための研究と真理追究のための研究を区別して判断する機会になればと思います。そうすれば、マスコミも日本社会ももう少し良くなるのではないでしょうか。
(本稿は4月の古田史学の会・関西例会で発表した内容を要約したものです。)


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