古賀達也の洛中洛外日記
第694話 2014/04/15

JR中央線から富士山を見る

 今朝、特急シナノ号で京都から塩尻・岡谷に行き、今は特急アズサ号に乗りJR中央線で東京・新宿に向かっています。南アルプスのごつごつとした異様な山容の隙間から、秀麗な富士山がときおり顔を見せ、なんだかほっとした気持ちになります。いつもは東海道新幹線で静岡県側からの富士山を見慣れていることもあってか、長野・山梨側から見る富士山はちょっと雰囲気が異なるような気がします。もちろん、どちらの富士山も素晴らしく、日本に生まれて良かった、日本に富士山があって良かったと、つくづく思います。
 その富士山について、小論を書いたことがあります。富士山の「ふじ」の意味と語原についての考察でした。このテーマは何年も考え続けているのですが、最近は「ふ」は「生む・生まれる」の意味ではないかと思うようになりました。というのも、北陸出張で福井県の武生(たけふ)を列車で通過するたびに、なぜ「ふ」に「生」の字が当てられているのだろうかと不思議に思っていたのです。もしかすると古代日本語で「生む」「生まれる」「生きる」という意味で「ふ」という言葉があり、その音に漢字を当てる際に「生」の字が選ばれたのではないかと考えました。
 日本古典文学や言語学の研究者にとっては周知のことかもしれませんが、古代日本語の「ふ」という音の意味に「生む」「生きる」という意味があったとすれば、富士山の「ふじ」とは「生む(ふ)」「古い時代の神様。じ(ぢ)」の合成語で「創造神」あるいは「生きている神(現人神)」ではないかという作業仮説(思いつき)に至ったのです。
 この「思いつき」の欠点は、富士山の富士は「ふじ」であり、「ふぢ」ではないということです。ただ『日本書紀』などにも「じ」と「ぢ」が混用されている少数例もあるので、可能性のある「思いつき」ではないでしょうか。傍証としては、静岡県西部に敷知(ふち)郡という地名があり、この「ふち」と富士山の「ふじ」の語原が共通しているのではないかとも考えています。
 また、「ふ」の神様を示唆する地名に「福井(ふくい)」などがあります。「ふ」の「くい(神)」という合成語です。扶桑も「ふ」の「そ(神)」ではないでしょうか。この点、「洛中洛外日記」40〜45話で論究しました「古層の神名」をご参照下さい。
 この「思いつき」が当たっていれば、日本各地に「創造神」あるいは「現人神」を意味する地名や山名が遺存していることになり、多元的「天地創造神話」の可能性もうかがわれ、興味深いと思われるのですが、この「思いつき」はいかがでしょうか。


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