古賀達也の洛中洛外日記
第642話 2014/01/05

戦国時代の「都督」

 江戸時代の筑前黒田藩の藩主が「都督」の称号を名乗っていたことご紹介しましたが、戦国時代においても筑前の国主が「都督」を名乗っていたとする史料があります。
 『太宰管内誌』「豊後之五(海部郡)」の「壽林寺」の項に、戦国大名の大友宗麟のことを「九州都督源義鎮(大友氏)」と記しています。この文の出典を『豊鐘善明録・四巻』(1742年成立)と『太宰管内誌』は記していますが、源義鎮とは戦国武将の大友宗麟(大友義鎮・おおともよししげ。1530〜1587年)のことです。大友宗麟は戦国時代の一時期(1559〜1580年頃)に筑前をも支配領域にしたことがあり、その時に「九州都督」の称号を名乗ったのではないでしょうか。
 この場合、大友氏が勝手に「都督」を名乗ったのか、あるいは当時の「上位者」からの承認を得たのでしょうか。戦国時代末期の頃ですから、朝廷や室町幕府にまだそのような権威があったのか、近世史の研究者ならご存じかもしれません。
 可能性の一つとしては、当時の勘合貿易の相手国である中国の明からの「承認」という点も考慮すべきかもしれません。わたしは未確認ですが、大友宗麟の実弟の大内義長のことを「山口都督源義長」とする記述が『明世宗実録』(嘉靖36年、1557年)にあるそうです。事実であれば「山口都督」という不思議な称号についても研究が必要です。
 いずれにしても、太宰府を管轄する筑前の国主が「都督」を名乗ることは、江戸時代や戦国時代において、それほど不自然ではなかったように思われます。(つづく)


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