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中村幸雄論集 新「大化改新」論争の提唱


新「大化改新」論争の提唱

─『日本書紀』の年代造作について

はじめに─問題の提起

 戦前の皇国史観全盛時、『記紀』は批判禁止の「神典」であり、その記事は全て事実と認定され、年代表記も我国独自の「皇紀(西暦より六六〇年長い)」が使用されていた。
 戦後、『記紀』の自由研究は解禁され、多くの学者の研究により、造作の多い史書であることが判明し、問題のある「皇紀」は、ごく一部の国粋主義者以外には使用されなくなり、日本史を諸外国の歴史と関連して研究するため、「西暦」が使用されるようになった。
 しかし、歴史学界の通説は、『記紀』の造作を認めながら、その造作は、「人代紀」初期に止まっており、中期以後の記事には造作はないとの立場に立ち、それぞれの学説を展開している。

注 例えば、岩波書店刊、歴史学研究会編『日本史年表』は、継体から天皇の「年紀」を設定し、「西暦」により編年されている。

 私は、前稿「古代天皇長寿の謎『記紀』人代紀の構造を解く」(『市民の古代』第十三集)で、日本古代史の難問である、

A 古代天皇の長寿
B 「皇紀」の異常な長さ
C 『記紀』で異なる天皇の寿命

を綜合的に解釈するには、平安時代人、三善清行が『革命勘文』で示している、「斉明七年(皇紀一三二一年)=天智素服称制年」を、「易」に基づき一三二〇年遡って、神武即位年を設定したとする「一三二〇年辛酉革命説」以外にはないことを説明した。すなわち、私見は、『日本書紀』の全期間は勿論である、と共に『記紀』が成立した元明元正紀までの『続日本紀』も、『記紀』造作の企画を 継承して造作されていた可能性があるのであり、果して、通説と私見、どちらが正しいのであろうか。


『日本書紀』推古紀の年代造作記事


 私の知る限り、『日本書紀』中期以後の記事に年代の造作があることを指摘されたのは、『市民の 古代』第三集、古田武彦「『遣隋使』はなかった」であった。

A、『隋書』窟国伝には、大業三年(六〇七)イ妥*国王阿毎多利思北孤(男王)が、 有名な “ 日出処天子、云々” の国書を以て朝貢し、煬帝は、翌年(六〇八年)、返使として、斐世清を遣わした記事がある。

インターネット事務局注記2004.02.05
イ妥*国のイ妥*(タイ)は人編に妥です。


B、 『日本書紀』には、推古十六年(六〇八年)、小野妹子が、 大唐から、唐使斐世清を伴って帰国し、大唐の国書をもたらした記事がある。
 従来の通説は、A・Bの年代と斐世清が一致しているので、
 イ 『隋書』の阿毎多利思北孤を推古紀の皇太子、聖徳太子と同一人物と看倣し、
 ロ 『日本書紀』の大唐・唐の国書を、隋便・隋の国書に読み換え、

 A・Bは、一つの出来事の表裏した記事であると認定して、小野妹子を「遣隋使」としていた。
 この通説的な「阿毎多利思北孤=聖徳太子」「小野妹子遣隋使説」に、異議を唱えたのが、『市民の古代』第三集、古田武彦「『遣隋使』はなかった」であった。

古田氏は、
 イ 『日本書紀』では明らかに唐使・唐の国書であり、安易に修正すべきではない。
 ロ 国書の中に「欽承宝命」があるが、それは「受天命」と同意味であり、「天命を受ける」は、王朝の始祖である高祖のみに限定された用語であり、この国書は唐の高祖と判断すべきである。
 ハ 『隋書』と『日本書紀』の記事の内容が一致しない。
 ニ 隋の滅亡、唐王朝の成立は、六一八年である。
 ホ 故に、A・Bの矛盾を解消する唯一の解釈は、阿毎多利思北孤のイ妥*国を、大和朝廷ではなく、当時、九州に継続して存在していた別の王朝(九州王朝)であったと認め、『日本書紀』の唐の国書記事は、本来、六一八年、唐が成立した後の、初代高祖の国書であったのを、『記紀』 編集の方針である先在した九州王朝の存在を抹消し、『記紀』成立時の大和朝廷を、太古から継続して中国と交流していた王朝とみせかけるため、唐の国書の年代を繰り上げ、あたかも、 A・Bを表裏する出来事の様に編集したのであり、少なく共、十二年以上の年代の造作がある。
と主張した。
 しかし、この革命的な古田説に対し、通説的な「阿毎多利思北孤=聖徳太子」説の否定の部分については、一部の歴史学者に同調した論文があるが、真骨頂である「唐の国書、年代繰上げ」については、全員黙殺されている。

 私は、この問題に関し、古田説には、一部に説明が不足する箇所があるが、全体として正論であると思っており、古田説を側面から補強するため、『日本書紀』には、この間題以外にも、年代を造作したと推定される箇所が存在することを、以下に示すことにする。

注 私が不満に思っているのは、古田氏が、九州王朝が「天国王朝」であることを認めていない点である (古田氏は、九州王朝を「山国」と主張している)。すなわち、古田氏は、『旧唐書』の倭国日本伝を、別々の二国を述べたものであるとし、倭国を古来より中国と交流していた九州王朝、日本国を 九州王朝が白村江の敗戦により勢力を失った後台頭した大和朝廷であると説明されている。
その倭国伝に、〈其王姓阿毎(天)氏〉があり、『隋書』の阿毎(天)多利思北
に対応していることを説明していない。


「大化改新」郡評論争について


 一般に認められている、日本史に最も重要な影響を及ぼした出来事は、次の四つであろう。

A 大化改新
 古代の氏族政治から天皇家の権力を確立し、その後の律令制中央集権国家への転機となった。

B 鎌倉幕府の成立
 武士階級の勢力の増大により、政権は朝廷から幕府に移り、封建制度時代になった。

C 明治維新
 外国からの刺激に対し、従来の幕藩体制では対応出来なくなり、大政奉還・藩籍奉還により、日本を一体化し、天皇親政の中央集権国家になった。

D 主権在民国家の成立
 太平洋戦争の敗戦を機として、主権在君の明治憲法は廃棄され、新たに主権在民を国是とし、天皇を象徴とする新憲法が制定され、日本は民主主義国家に変身した。

 識者はB・C・Dが転機的事件であることに異論はないであろう。しかし、Aの大化改新については、戦後まもなく「郡評論争」があったことをご存知であろう。
 略述すると、当時、新鋭の東大教授であった井上光貞氏は、 孝徳大化二年(六四六年)の 「改新の詔」に「郡司」がある点を指摘し、当時、未だ「郡」は存在していず、「評」であった筈であり、 『日本書紀』には、造作があるのではないかとの疑問を呈示されたのである。
 この井上説に対し、戦前からの日本史の権威であり、井上氏の恩師でもあった坂本太郎氏は、戦前からの「日本書紀不謬論」に拠り反論された。この「郡評論争」は、新旧史観の激突であり、決着は、タイミングよく藤原京跡から出土した木簡により、文武四年(七〇〇年)までは「評」、大宝元年(七〇一年)から「郡」であることが判明し、井上説に軍配が上がり、古代史研究の基本史料である『日本書紀』に対する評価は、戦前の「不謬説」から一歩前進して、「造作あり」になったのであるが、なお、その認識は、その成立時(七二〇年)の用語による「修正」程度の軽度の造作であろうと推定するに止まっていた。
 その後、「改新の詔」の「郡」以外の問題点についても、多くの学者の研究により、疑問が呈示されたのであるが、古代史の転換点としての「大化改新」に対する評価は、従前とは変化はないのである。
愚考するに、大化二年「改新の詔」に含まれている「郡」「公地公民」「班田収授」等に対する疑問は、「改新の詔」全体、ひいては、「大化の改新」そのものを根本的に考慮すべきことを示唆しているのではないだろうか。


年号「大化」の疑問-九州年号説の紹介

 通説的に、我国の年号は「大化(元年、六四五年)」が最初とされているが、その根拠は『日本書紀』の記事であり、戦前の『日本書紀』の「無謬性」に基づいたものであるが、戦後判明した「造作性」を考慮すると、再検討の必要があり、また、年号文献は他にも存在し、それらを整理すると、「年号学説」は、次の通りである。

(1)  最も古い文献である 『日本書紀』の年号は、
   孝徳 大化 元年六四五年 五年間
      白雉 元年六五〇年 五年間
   天武 朱鳥 元年六八六年 一年間
と断続的であり、平安時代成立の『口遊』の外、追随する文献は多く、戦前の『日本書紀』無謬説が、戦後もなお影響してか通説視されている。
(2)  平安時代成立の『掌中歴』の外、我国の年号は、
   文武 大宝 元年七〇一年 三年間
が最初であり、以後継続して使用されているとする文献が存在する。

(3)  我国の年号の最初を「大宝」とする点は、前記した(2) と同様であるが、「大宝」以前の約百五十年間にも、複数の年号が継続して使用されていたとする文献、鎌倉時代成立の『二中歴』その他が存在し、『続日本紀』に載せる聖武の詔に、このタイプの年号である「白鳳、朱雀」が出現していると共に、各地の寺社縁起にもこのタイプの年号が使用されている例が多い。

この(3) のタイプの年号に注目したのが、古田武彦「九州年号説」であり、同氏は、(3) の年号は、大和朝廷より先行して存在し、「倭国」として中国・朝鮮半島諸国と交流していた九州王朝が使用していた年号であると主張し、(1) の『日本書紀』の「大化」「白雉」「朱鳥」の年号は、九州王朝の滅亡後、大和朝廷の過去を美化する為、九州王朝を抹殺して編集された『日本書紀』が、九州王朝の年号であった(3) の一部を盗用したものであるが、

イ 大化は、(3) と年代が完全に異なっている、
ロ 白雉は、(3) と二年間のズレがある、
ハ 朱鳥は、(3) と元年は一致しているが、『日本書紀』では元年だけであるが、(3) では以後も継続している、
等、(1) が造作である理由を説明している。

 この古田説「九州年号説」の発表以後「市民の古代研究会」会員の丸山晋司氏他により、各地の寺社縁起の(3) のタイプの年号の発掘・年号文献の研究が進展し、ほぼ、その年号の年代が確定しているが、(3) の末期に位置する「大化」については、未だ明らかではない。
愚考するに、その原因は、研究者の研究方法が、年号文献を渉猟して、

A 文献によると、大化は、○○○年である、
B 文献によると、大化は、×××年である、

に終始し、一般的な文献の(年号+記事)、例えば、『日本書紀』の(大化○年、云々記事)の記事を検討し、「大化○年」の年代を推定する方法を欠いていたからであると推測しており、先ず、年号「大化」を問題にする前に、歴史的事件である「大化改新」の性格を見直す必要があるのではなかろうか。


「大化改新」の問題点


前述してきた、

イ 既に多くの学者により指摘されている孝徳大化二年「改新の詔」に対する種々の疑問は、
ロ 古田武彦「九州年号説」により呈示された年号「大化」に対する疑問

と相俟って通説的に政治の大転換点と看倣されていた「大化改新」を根本的に見直す必要がある ことを示しているのである。
 識者は、いわゆる、「大化改新」が、明治維新後の皇国史観的歴史教育の産物であり、江戸時代 までは全く評価されていなかったことをご存知であろう。
 文献的にも、奈良・平安・鎌倉時代を通じ、天智を高く評価した文献は数多いが、「大化改新」を評価した文献は皆無なのである。
 あるいは云われるであろう、「大化改新」の立役者が天智であるから、天智を評価することは、「大化改新」を評価するものであると。
 私はこの安易な視点が、日本古代史の解釈を歪めたと推定しており、以下に私見を述べる。
 いわゆる、『日本書紀』の「大化改新」は、次の二要素により構成されている。

A 皇極四年(六四五年)七月
 中大兄皇子(後の天智)・中臣鎌足ら、蘇我入鹿を宮中で暗殺、蝦夷は自殺。皇極退位。
B 孝徳即位、大化元年となる

  以後、大化年間(元年〜五年)、「改新の詔」を始め、中央集権・律令政治の開始を命ずる画期的な複数の詔勅を発布。
 明治以後の歴史学者は、『日本書紀』の記事を信頼して、Aにより、天皇家の権力が増大したので、Bになったのであるから、両方を綜合して「大化改新」であると説明しているが、Aは問題ないと して、Bには、前述の疑問が存在するのである。


孝徳紀、大化年間の問題点

 孝徳「大化」年間の諸詔には、次の疑問点が存在する。

(1)  「御字天皇」について
 孝徳の称号が、神武以来の「治天下(アマノシタシロシメス)天皇」から、読み方は同一であるが、 「御宇(駆 宇内 )」に変更されている。「御宇天皇」の初出は、舒明紀での、後に天智になる葛城皇子を述べた「近江大津宮御宇天皇」であり、大かたの歴史学者も、「御宇」の使用は天智以後とされており、私も「天命開別(天命を受け、別国を開いた)」と諡名されている天智からであると推定しており、私見を述べると『日本書紀』の史官は、大和朝廷の過去を装飾する目的で、「アマノシタシロシメス天皇」を、遡って神武以来としたが、「作為」と「真実」を区別する為、神武以来を「治天下」にしたと推定しており、孝徳の「御宇」は造作と判定せざるを得ない。
注 神武以来の「治天下」については、「天下」は、「天国から下った地」と解釈する古田武彦説があるが、私は、当時の大和は「天下」でなかったと推定している。

 歴史学者が、神武以来、「治天下」であったとする論証の一つは、金石文である法隆寺の本尊の一つの薬師如来像の銘文に「治天下」が使用されていることであるが、平成二年に発表された「昭和の資財帳」作成の為の科学的調査によると、法隆寺の本尊の中、銘文によると、先に製作された筈の薬師如来像の方が、後で製作された筈の釈迦三尊像より、鋳造技術が格段に進歩していることが判明しており、薬師如来像は釈迦三尊像より後の時代、恐らくは、法隆寺が再建された奈良時代初期以後、『記紀』の記事に一致する様に、銘文が偽造された可能性が高く、「天命」を受けた天智(天命開別)以前、「治天下」が使用されていたとは確言出来ないのである。

(2)  「倭根子天皇」について
『日本書紀』末期から『続日本紀』初期の天皇の称号である「ヤマト根子天皇」は、孝徳が初出であり、一般的に天皇の美称であると解釈されている。
 しかし、孝徳の場合、「日本倭根子」と、「日本(ヤマト)」と「倭(ヤマト)」が重複した奇妙な 表記であり、次の斉明は、 どの史料を調べても 「倭根子」 ではなく、 改めて次の天智が 「大倭根子 (元明天皇即位の詔)」であり、以後の天武以下が連続して「倭(日本)根子」であるが、元正で完了しており、この「倭根子」の称号は、何らかの歴史事実を反映していると考えざるを得ないのである。私は、『市民の古代』第八集「万葉集ヤマト考」で、造作された『記紀』によらず、作者の製作意志が尊重されたがために、多様な表記になったと推測される『万葉集』の「ヤマト」の表記の出現時期を整理し、天智の時代を界にして変化があり、本来の「ヤマト」は「山跡」であり、天智は近江で「倭」を称し、壬申の乱後、都を「ヤマト」に戻した天武から「倭=ヤマト」であることを論証した。故に、孝徳時代、未だ大和朝廷は「倭」ではなく、孝徳が「日本倭根子」であった筈はないのである。
 また、同七集「誤読されていた日本書紀」、同十二集「九州王朝の滅亡と日本書紀の成立」で、「根子」は、対立する二者(例えば、元祖と本家)を意味する「源根・枝葉」の一方であり、「倭根子」の存在した期間中は二つの倭国である、

イ 古来から中国・朝鮮半島諸国と交通していた九州王朝と、
ロ 新しく天智から開始した大和朝廷、

が併立していた筈であると説明しておいた。

  そして、前述した通り、孝徳が奇妙な「日本倭根子」であり、天智が「大倭根子」であることは、天智が本当の「倭根子」の最初であることを示し、孝徳の「日本倭根子」は、史官の大和朝廷の成立を遡らせる為の作為的な造作であると判定せざるを得ないのである。

(3)  「改新の詔」について
 古代における氏族制度から律令制度への転換点と目されている「改新の詔」については、先ず、 「郡評論争」があり造作が存在することが明らかにされたが、『日本書紀』の史官による官制の遡った適用と解釈され、全体としての「改新の詔」の存在に対する疑問にまでは発展しなかった。その後 多くの学者により、「公地公民制」・「班田収授制」についても、その実施の開始が天武時代であり、時代的ズレがあることが指摘されながらも、「改新の詔」の存在を否定する学説は発表されていない。

 愚考するに、自然科学の発達は、「定説」に対する「例外」の発見に始まり、その「例外」を含めて解釈し得る「新定説」の設定、再に、「新定説」に対する「例外」を含めて解釈し得る「新新定説」の発見によりもたらされたのであり、社会科学である歴史学も、一つの「定説」に安住すべきではないのである。
 問題の多い 「改新の詔」 に対する私見を述べると、 同詔に 「養老律令 (七一八年)」 の「戸令」の「取坊条」「定郡条」に類似した箇所がある点である。
 周知の通り、文武大宝元年(七〇一年)、「大宝律令」が制定され、元正養老二年(七一八年)改正され「養老律令」になった。
私は、その改正理由は、『市民の古代』第十二集、私稿「九州王朝の滅亡と日本書紀の成立」で述べた、九州王朝の状態が原因している『古事記』と『日本書紀』の記事の変化と同一であると推定しているが、二つの律令の変化は部分的であり、「戸令」の「取坊条」「定郡条」は同一であると推定されるのである。
 とすると、孝徳大化二年(六四六年)の「改新の詔」に、文武大宝元年(七〇一年)の「大宝律令」と類似した箇所が存在することは、「評→郡」、「公地公民制」「班田収授制」の開始時期と相まって、同詔に次の解釈の可能性があることを示しているのである。

A 同詔は、『日本書紀』史官の虚構であった。
B 同詔は存在した。但し、その成立は、孝徳大化二年(六四六年)ではなく、後代の天皇の詔が、造作により、遡って孝徳時代に編入された。

  Aは最も安易な解釈法であろう。しかし、そのように切り捨ててしまうと、前述した「御字」「倭根子」、後述する大化年間の他の詔、また、九州年号説「大化」等の諸問題との関連を無視することとなるのであり、困難ではあるが、Bを究明しなければならないのである。


「薄葬令」について


大化二年(六四六年)の「薄葬令」については、その前文が魏の文帝(曹丕)の詔の引用であることは判明しているが、後世への影響については、被葬者が確認し得る「薄葬墓」が少ないため、例えば、墓碑により確認された太安麻呂等の墓が、その内容に合っているかどうか程度の研究しかされていないようである。
 私見を述べると、前文が引用されている魂の文帝の場合、病気で死期を悟った文帝が盗掘を避けるため、価値のある副葬品がないことを示した法令であることを前提にすると、我国の「薄葬令」は、次の点を問題にすべきであろう。

 (1)  同令は、発令者が元気な時期には制定されず、晩年に制定されたのではないか。
 (2)  同令の発令者は、範を垂れて自らも「薄葬」した筈であり、孝徳は「薄葬」だったか。

(1) については、孝徳の死亡は、八年後の白雉五年(六五四年)であり、元気だった孝徳が「薄葬令」を制定したとは思えず、また、(2) については、孝徳が「薄葬」であったか不明であり、孝徳以後の 天皇で「薄葬」であることが明白であるのは、天皇では初めて「火葬」され、別に自らの墓を造らず、夫であった天武陵に「合葬」された持統が最初である。


私見、「大化」諸詔の制定年代の仮説

 今まで、「大化」の諸詔の疑問点を例挙したので、ここで一応、前述した通り、「大化」の諸詔はその儘の型で実在したが、但し、『日本書紀』の史官の造作により、実際に制定された年代から繰上げて孝徳紀に編入されているので、疑問点が生じたの立場に立ち、どの年代に還元すると、それらの疑問点が解消するのかについて、一応の私見を述べる。その私見の年代によると、今まで触れていなかった他の詔の疑問点も解消することを示すことにする。それには、推定する実年代は、次の条件を必要とするのである。

I  天智以後であること
 天皇の称号に、「御宇」「倭根子」が出現するのは天智以前であり、私は「天皇」も天智から 使用されたと推定している。

II 文武大宝元年(七〇一年)以前であること
 「改新の詔」は、 「大宝律令(七〇一年)」の条文と推定される「郡」 「戸令」を含んでいるので、 「大宝律令」が公布・実施されることを予告した詔であったとも考えられ、文武大宝元年(七〇一年)に接近した年代であるべきである。
III  「薄葬」された天皇問題
 「薄葬令」の制定者は、自らも「薄葬」した筈であり、天皇の「薄葬」が確認し得る最初が、持統(六四五〜七〇二年)であることは、持統が「薄葬令」の制定者であり、しかも、その晩年であったとも推定される。
I 〜 IIIを考慮すると、 浮上するのは、 孝徳「大化」を、 『日本書紀』 の造作と主張する古田武彦 「九州年号説」であり、以後、同説は丸山晋司氏他の「市民の古代研究会」会員により、全国に分布する古社寺の縁起に出現する九州年号の発掘、江戸時代までの諸文献の研究、等進展しているが、 未だ、「大化」の実年代を確定し得ないことは、前述した通りである。
愚考するに、I 〜 IIIを、九州年号諸文献の示している各年代に当てはめて、「大化」の諸詔が矛盾なく適合する年代を推定するのも、一つの方法ではあるまいか。
注 九州年号諸文献については、『市民の古代』五集以下に、丸山晋司氏他が紹介されているので参考にされたい。

 私見を述べると、I 〜 IIIの条件を満足させる「大化」の年代を述べている九州年号文献は、九州 年号の一部に触れているだけなので、研究者に注目されていなかった、伊勢神宮に伝承されている 『皇代記附年代記』(十二世紀成立?)である。

  『皇代記附年代記』
  持統天皇(注記、宇治橋造)
  大化 三年 元年戊戌(六九八年)
  文武天皇
  大宝 三年 元年辛丑(七〇一年)
  大記四年三月廿一日改元
   注 この大記は、大化の誤記と推定される─筆者。

 この『日本書紀』『続日本紀』が述べている、
イ 持統の治世、六九八年七月まで、ロ 文武の治世、同年八月に始まる、

と矛盾する、
イ 持統の治世、七〇〇年まで、ロ文武の治世、七〇一年に始まる、を主張する『皇代記附年代記』の信憑性については、『市民の古代』第十集、拙稿「宇治橋に関する考察」で述べておいたので、本稿では省略するが、私は同書の「大化」の年代が正しく、『日本書紀』は、持統大化年間(六九八〜七〇〇年)の諸詔を作為的に繰り上げて、原文のまま、孝徳の時代に編入すると共に、諸詔の実年代を含む「六九八〜七〇〇年」を、持統から文武に繰り上げたと推測され、次代の史書である『続日本紀』も、『日本書紀』の造作を継承し、「史書の連続性」を維持したと推定される。以下に、『皇代記附年代記』の「大化」を適用すると、疑問の多い「大化」の諸詔が、どのように解釈されるかを述べる。


「大化=六九八〜七〇〇年」の仮説による、大化の諸詔の解釈

「大化」を前記の様に仮定すると、問題視されている諸詔の疑問点が、どの様に解消されるかを 述べる。

(1)  「大化」の諸詔に突然理由を示さず出現している天皇の称号、「御字天皇」「倭根子天皇」の謎は、それが持統天皇の称号であったならば、不自然ではない。

(2) 二年(六九九年)、「改新の詔」の複数の謎は、次の通り解消する。

 イ 七〇一年まではなかった「郡」が使用されている点については、「郡」に変更する「大宝 律令(七〇一年)」の実施は、既に決定されており、「予告令」である「改新の詔」も、「大宝律令」の用語を先立って使用したと推定される。

 ロ 既に、天武時代から実施されていた「公地公民」「班田収授」を、改めて「大宝律令」の「予告令」である「改新の詔」で取り上げているのは、天武時代の実施は、小範囲における試験的な実施であり、その結果が良好であったので、七〇一年「大宝律令」により、その実施範囲を一挙に拡大することに決定したので、その過渡期として「改新の詔」で予告したと推定し得る。

 ハ 「戸令」の「取坊条」「定郡条」が「養老律令」と類似している点については、持統大化二年(六九九年)の時点において、「大宝律令」は完成し、二年間の過渡期間を経て、七〇一年から実施された。 しかし、当時は『市民の古代』十二集、「九州王朝の滅亡と日本書紀の成立」で説明した通り、旧来からの九州王朝と、新興の大和朝廷との併立時代であったが、その後次第に九州王朝は衰微し、七一八年になると滅亡寸前であり、大和朝廷の西日本支配は確定的になっていった。その政治状勢の変化に応じ、「大宝律令」の適当でない部分は手直しされて「養老律令」になったが、その修正は部分的であり、「大宝律令」の侭の部分も多かったと推定され、六九九年の「改新の詔」と、七一八年の「養老律令」に類似した部分が存在しても不思議はないと推定されるのである。

(3)  「薄葬令」について
 その発令が、 持統大化二年(六九九年)であったと推定すると、 イその発令は、 持統の晩年であり、ロ持統は、先ず自らを「薄葬」し、範を垂れたと解釈され、前述の疑問は解消する。

(1) 〜(3) 以外にも、今まで取り上げなかった次の詔の謎も解消するのである。

(4)  「皇祖大兄」問題
 注 この間題については、『市民の古代』七集「誤読されていた日本書紀」で触れたが、枚数の制限のため、説明が不足していたので、再度、説明することにする。

 大化二年三月の皇太子の上奏文に引用されている、天皇の諮問文、
「(新しく、「公地公民制」「班田収授制」を実施することになったが)、昔、イ天皇達、ロ皇子達、 ハ皇祖大兄(注、彦人大兄を謂う也)の子代入部・御名入部・屯倉で、現在、群臣・連、及び、伴造・国造が所有するものを、その儘にしておいてよいのであろうか。」
 注 子代入部・御名入部は、領地・領民を指す。

の中の「皇太子」「皇祖大兄」については、「大化改新」が疑われていなかったので、「皇太子」は中大兄皇子、「皇祖大兄」は「天皇の祖父である大兄」、すなわち、孝徳の祖父である押坂彦人大兄と解釈され、注記されていたのである。

しかし、この解釈には、次の疑問点が存在するのである。

(a)  「皇祖」を「天皇の祖父」と二段に解してよいのか、
もし、そのように解するならば、斉明の諡名である「皇祖母尊」を、どの様に解釈すればよいのか。

(b)  かつては天皇家のものであったが、その後、豪族のものになった領地・領民が、イ天皇達、ロ皇子達、 ハ皇祖大兄に三分されており、「皇祖大兄」一人が、天皇達・皇子達に匹敵する領地を持っていたことである。

注記されている押坂彦人大兄は、敏達の子、孝徳の祖父であるが、皇位に就く前に死亡したと推定され、到底、天皇達・皇子達に匹敵する程大きな領地をもっていたとは考えられず、むしろ、押坂彦人大兄は、皇子達の中の一員でしかないのであり、「皇祖大兄」は外に求めるべきではなかろうか。
 そこで、前述した仮説、本来の「大化」は持統時代、「六九八〜七〇〇年」を導入すると、右の 疑問は次の通り、解消するのである。

イ 先ず、天皇は持統、皇太子は文武となる。
ロ 「皇祖」は「皇の祖父」と分離すべきではなく、一つの熟語として、特定の天皇を指すと考えるのが妥当であり、この場合、参考になるのが、「斉明=皇祖母尊」であろう。「命」では、「尊」が上位、 「命」が下位であり、 その命名の基準は、斉明と舒明の子である天智 ・天武のどちらかが 「皇祖」であったので、斉明が「皇祖の母の尊」、即ち、「皇祖母尊」と諡名され、次に、舒明と 斉明の母が一段下位の「皇祖母命」と諡名されたと推定されるのである。

 そして、舒明と斉明の子である天智と天武のどちらかを「皇祖大兄」と判断するかについては、 当然、中大兄であり、 「天命」を受けたと表現されている天智(天命開別)しかあり得ないのである。
ハ 「中大兄=天智」を「皇祖大兄」と判断すると、前掲した諮問文で、かつては天皇家のものであったが、その後、諸豪族のものとなった領地・領民が、天皇達・皇子達・「皇祖大兄=天智」に三分して示された理由が判明する。何故ならば、六四五年、当時の第一勢力者であった蘇我入鹿・蝦夷を倒し、その後、孝徳・斉明時代を通じ皇太子として朝廷の第一人者であり、更に、白村江の敗戦により九州王朝が勢力を失ったに乗じ、勢力を伸ばし「天命」を受けたと称し、王朝を開始した天智であるならば、他の天皇達・皇子達に匹敵する領地・領民を所有していたとしても、成程と納得し得るのである。


結語─大化の諸詔の年代が造作された理由

 以上の通り、明治以来、古代政治の転換点と特筆されてきた「大化改新」は、

A 六四五年、中大兄皇子らによる蘇我本家の滅亡、

B 『日本書紀』の史官により造作された、持統「大化」の諸詔の孝徳紀への繰り上げ、

が合成されて構造されたものであることが判明した。

 江戸時代までは、 何らかの伝承により、『日本書紀』の史官の造作が知られていたので、 「大化改新」は特に評価されることはなかったのが、明治維新後、国学的皇国史観が文部省の主流になり、天皇 神格思想と相俟って、「大化改新」の重要性が強調される様になったのである。

 しからば、何故、『日本書紀』 の史官は、持統「大化」(六九八〜七〇〇年)の諸詔を、孝徳紀に繰上げて編集したのであろうか。
 私見を述べると、次の通りであろう。

(1)  『市民の古代』第十二集、「九州王朝の滅亡と日本書紀の成立」で述べた通り、七二〇年、隼人の反乱と表現されている九州王朝の滅亡に伴い、西日本を確実に支配した大和朝廷は、その 過去を装飾する目的で、九州王朝の史書を盗用し、自らこそ、上古から中国・朝鮮半島諸国と交流していた「倭国」であるとみせかける『日本書紀』を編集することを企てた。

(2) その編集方法は、本当の大和朝廷の成立である「皇祖=天智」を晦冥(かいめい)し、「天皇」号の使用を神武に遡らせるにあった。
 しかし、「皇祖=天智(天命開別)」は、 当時の常識であったので、王朝成立の必須条件で ある「天命」の降下を、遡らせるのは不可能であったので、天智紀に表現せざるを得なかった。

(3) 大和朝廷の成立時期である天智時代は、九州王朝は、なお、相当の勢力を持っていたが、その後、次第に大和朝廷の勢力が増大し、持統末期には、その差は決定的になっていた。

(4) 「公地公民制」「班田収授制」は、唐朝で始まり、我国での採用は、先に中国文化を吸収した 九州王朝が先であったと推定され、次に大和朝廷では、天武時代に一部で試験的に実施され、それが成功したので、持統末期になり、七〇一年から広く実施される様になったと推定される。

(5) 『日本書紀』編集に当たり、「公地公民制」「班田収授制」を、実際の天武時代とすると、間接的に大和朝廷の成立は新しく、天智時代であることを暗示することになるので、持統「大化」の「改新の詔」を始めとする一連の諸詔を、六四五年の天皇家勢力増大の一契機であった蘇我本家に対するクーデターと結び付けて、孝徳紀に挿入したと推定される。

(6) 史官の造作手法は、古田武彦氏が『盗まれた神話』で、景行天皇の東・南九州平定説話が、 九州王朝の史書からのその儘の盗用であることを論証されたのと同様に、持統の詔のその儘の遡っての挿入であった為、 前に指摘した通り、 孝徳時代にはなかった「郡司」「御字」「倭根子」等の矛盾が発覚したと推定されるのである。

 本稿で示した通り、『日本書紀』の造作は、一般に歴史学者が想定している様に、その前期までに限定されていたのではなく、その全体は云うに及ばず、『続日本紀』も『日本書紀』編集の造作を 継承しており、今後の日本古代史研究は、このことを前提とすべきではなかろうか。
 (筆者の中村幸雄氏は平成八年三月に亡くなりました。本稿は遺稿となりました。)


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