謀反人 磐井でなくて 近畿の継体

むほんにん いわいでなくて きんきのけいたい

謀反人 磐井でなくて 近畿の継体

 継体紀では筑紫国造・磐井が継体天皇に対して、謀反したので、継体は大連物部アラカヒに命じて討伐させ、磐井を殺したときされている。
久留米に近い岩戸山古墳は、通説では磐井が生存中に自分のために準備した墓とされる。

 磐井の子葛子の時代に講和が成立するが、征伐したにしては条件が屯倉の献上だけと異常に緩い。
 宣化紀などと読みあわせると、近畿地区は九州王朝の圧政下で、朝鮮出兵のため、人員、食料などの供給基地となっており、継体の方が磐井に対し反乱をおこしたと考えられる。

『古代は輝いていたIII』(朝日文庫)

インターネット事務局注記2004.12.18
 古田氏は現在「磐井の乱」も「継体の反乱」もなかった。(大王継体の存在は認めています。)そのような考えに達しています。
(2005年発刊予定『古代に真実を求めて』第八集講演記録を参照して下さい。)

 


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制作 古田史学の会