イ妥国伝 聖徳太子の 影もなし

たいこくでん しょうとくたいしの かげもなし

イ妥国伝 聖徳太子の 影もなし

 隋書イ妥*国伝でのイ妥*王・多利思北孤は王であり、天子と自称している。後宮には女性数百人がいた。この時代に来た隋使斐世清は_王と面談したとの記録がある。
 
 書紀では聖徳太子は太子であり、王ではない。天皇は推古であり、女性とされている。通説では多利思北(比)孤を聖徳太子としているが、人物像は全く一致しない。

 法隆寺金堂の釈迦三尊光背銘文は、聖徳太子の病気と死去について述べたものとされるが、年号の「法興」、「干食王后」という后名、命日など、いずれも日本書紀の聖徳太子と一致しない。

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釈迦三尊の光背銘に、聖徳太子はいなかった(講演集より)

「法華義疏」 の史料批判

イ妥*は人偏に妥。


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制作 古田史学の会