2008年 8月12日

古田史学会報

87号

「遠近法」の論理
再び冨川さんに答える
 古田武彦

2祭りの後
「古田史学」長野講座
 松本郁子

『越智系図』における
越智の信憑性
『二中歴』との関連から
 八束武夫

「藤原宮」と
大化の改新について I
移された藤原宮記事
 正木裕

5 伊倉6
天使宮は誰を祀るか
 古川清久

6彩神(カリスマ)
シャクナゲの里6
 深津栄美

 

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『豫章記』の史料批判 古賀達也(会報32号)


『越智系図』における越智の信憑性

『二中歴』との関連から

松山市 八束武夫

一 はじめに

 中世伊予(愛媛県)の歴史をリードした河野氏は、越智国造を務めた古代伊予の豪族越智氏の裔で、「第二十二世玉澄」の代に越智氏から分かれて河野氏を称したことになっている。しかし、越智氏からつづく河野氏の系図を収めた『越智系図』註(1) で歴史上はっきり確認できるのは第四十四世通清からで、それ以前は真偽不明とされ、河野氏の由来については疑念がもたれている。と云うのも、歴史上確認できる越智氏が一人も『越智系図』に現れてこないからである。
 ここでは、一例として『越智系図』に出てくる「第十六世益躬」を取り上げて検討してみる。

 

二 越智益躬の伝承

 『越智系図』は、益躬が推古天皇の時代に異国の戎人が鉄人を大将として攻めて来たのを播州(兵庫県)蟹坂で討ち取ったとの伝承を伝えている。この件について、河野家家譜『予章記』註(2) は詳述しているが、大略は、益躬は推古天皇の御代に百済国から攻めてきた鉄人を播州蟹坂で退治したというのである。
 鉄人がどこから来襲したか、「異国」と「百済国」の違いはあるが、時代はいずれも推古天皇の御代としている。しかし、記紀には、推古天皇の時代に百済など異国から来寇したとの記録はなく、創作ではないかといわれている。
 ところが、播州明石に同じような伝承 註(3) が残っている。それによると、推古天皇の時代に、異国から鉄人が八千人を率いて攻めてきた。伊予の越智益躬は勅命で九州に向かい、敵陣に入り、偽って降伏して彼らを東に導いた。明石に到着した時、俄に雷鳴が轟き、凄まじい稲妻の中に三嶋大明神が現れて益躬を助け給い、鉄人たちは忽ちに撃たれてしまった。そこで益躬はその地に三嶋大明神を祭り、稲妻大明神と崇めたのが稲爪神社(明石市大蔵町)の縁起だというのである。
 記紀には、推古天皇の時代に百済など異国からの来寇記録が残ってないにもかかわらず、「稲爪神社縁起」と『越智系図』・『予章記』の内容が大筋で符合することに不思議さを感じる。
 さらに不思議なのは九州王朝の年号を記録した『二中歴』註(4) にも、それらしい記録が残されていることである。『二中歴』に「鏡当」という年号があるが、その注に「辛丑、新羅人来る。筑紫より播磨に至り、これを焼く」という記録が残されているのである。
 もし、この記録が『越智系図』などの益躬活躍記事と同じ事件を指しているとすれば、新羅人来襲は辛丑(五八一年)であるから、推古天皇の在位年(五九二〜六二八)とは重ならず、三代遡った敏達天皇(在位五七二~五八五)時代の事件となる。『二中歴』が示す時代と、『予章記』・『越智系図』・「稲爪神社縁起」が示す時代とに食い違いがみられるのであるが、内容には非常に近親性が認められる。
 また、上記とは別に、次のような伝承 註(5) が、同じ播州明石の蟹坂坂上寺(明石市和坂)に残っている。
 雄略天皇の時代に、播州明石の蟹坂(和坂)に「赤浦鉄人」という賊が屋敷を構えて住み、陸上のみならず海上でも暴れ回っていたが、天皇の勅命を受けた小野大樹なる人物に討たれたというのである。
 これらのことから、『越智系図』・『予章記』・「稲爪神社縁起」の「鉄人来襲伝承」は、「敏達天皇時代の新羅人来襲事件」をもとに「赤浦鉄人伝承」を加えて創作されたと推測されるのである。
 おそらく、(1) 『二中歴』の伝える「新羅人が筑紫に来襲し、さらに播磨にまで攻め込んできた」という記事と「赤浦鉄人」伝承を、『越智系図』が取り入れ、時代を推古天皇の御代として、異国戎人八千人が鉄人を大将にして九州に来寇し播州まで侵入してきたのを益躬が蟹坂で討ち取った旨の簡潔な文にまとめた。(2) さらに、『予章記』が『越智系図』の簡潔な記事を潤色して詳細な内容に仕上げた。(3) その後『予章記』の内容に、三嶋大明神(大山祇神社)の霊験を加えて播磨の稲爪神社が創祀された、というのが実態であろう。
 これらとは別に、慶滋保胤が永延二(九八八)年頃に著した『日本往生極楽記』三十六註(6) に次のような話がある。
 「伊予国越智郡の土人越智益躬は、当州の主簿(最下級の国司目の唐名。後記の二書は越智郡の大領とする)たり、少きときより老にいたるまで、勤王して倦まず。法に帰することいよいよ劇し。朝は法花を読み、昼は国務に従ひ、夜は弥陀を念じて、もて恒のこととなせり。いまだ鬢髪を剃らずして、速く十戒を受けて、法名を自ら定真と称へり。臨終に身苦痛なく、心迷乱せず、定印を結び西に向ひて、念仏して気止みぬ。時に村里の人、音楽あるを聞きて、歎美せずということなし」。
 この益躬の往生説話は、『大日本国法華経験記 註(7)』や『今昔物語集 註(8)』に受け継がれて流布しており、伊予でも広まっていたと思われる。

 

三 おわりに

 これら三著作を通じて、越智益躬は伊予では古くから著名な人物であったと思われる。ただし、説話類に名を残す益躬も歴史上は確認できない。そのため実在の人物かどうかは不明である。だが、河野氏にとっては、実在かどうかよりも、「越智姓」でかつ著名であることが重要であったと思われる。
 河野氏はこの著名な「越智益躬」を系図に取り入れることで、越智氏の裔であることを強調し、さらに、益躬に「鉄人退治伝承」を付加することで武門の河野氏の先祖に相応しい武人に仕上げたと思われるのである。

註(1) 『続群書類従第七輯』所載。河野氏は越智氏から出たとして、孝霊天皇から河野家が滅亡した第五十九世通直に至るまでが記されている。
註(2) 本稿は『予章記・水里玄義』(伊予史談会双書第五集)によった。史談会版は「上蔵院本」と「流布本(長福寺本)」を併載している。「『群書類従第二十一輯』所載『予章記』は「流布本」に拠ったらしいが、三本はいずれも推古天皇の時代としている。
註(3) 『新明石の史跡』 あかし芸術文化センター
註(4) 『改定史籍集覧第廿三冊』臨川書店
註(5) 前掲註(3)
註(6) 『日本思想大系 往生記・法華験記』(岩波書店)所載
註(7) 前掲註(6)所載『大日本国法華経験記』巻下百十一
註(8) 新日本古典文学大系 今昔物語集』(岩波書店)巻十五ノ四十四
 本稿は古賀達也氏による「鏡当年の注記」のご教示を得て成ったものである。


 これは会報の公開です。史料批判は、『新・古代学』(新泉社)・『古代に真実を求めて』(明石書店)が適当です。

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