2005年10月07日

古田史学会報

70号

鶴見山古墳出土
石人の証言
 古賀達也

九州古墳文化の独自性
横穴式石室の変遷
 伊東義彰

日本の神像と月神の雑話
 木村賢司

4書評
『親鸞』古田武彦
(清水書院)
林 英治

『神武の来た道』
 横田幸男

神々の亡命地・信州
古代文明の衝突と興亡
 古賀達也

6連載小説『彩神』
第十一話 杉神 4
  深津栄美

7船越(補稿)対馬
阿麻氏*留神社の小船越
 古川清久

教科書の検討
 和田高明

「大王のひつぎ」に一言
読売新聞七月二十五日
・八月三日の記事について
 伊東義彰

10悲痛の弔文
藤田友治氏に捧げる
古田武彦

事務局便り

 

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『月刊まなぶ』二〇〇五年七月号より転載

書評『親鸞』古田武彦(清水書院)

宗教的なものを感じさせない

香川  林 英治

 著者古田武彦を知ったのは、十数年前になります。当時始められた「資本論学習会」で、助言をしていただいていた先生から「こんな歴史の見方もあるんですよ」と、紹介されて『邪馬台国』論争などで、古田史学を展開されていたのを知りました。
 そして、この『親鸞』という書に出会い、はじめて、親鸞の思想に触れたように思いました。
 ちょうどその頃、現在、新社会党委員長である、小森龍邦さんの、親鸞や蓮如の思想や組織論が話題になり、私の親鸞の思想への関心が深まりました。
 その後、義父の法事の席、その時きていた住職に、最近流行になっている八十八カ所めぐりに関連して「我が家は浄土真宗ですが、八十八カ所(空海の真言宗)参りをしてもいいですかね」と聞くと、その住職が「親鸞さんではご不満ですか」と言われ「あっ」となりました。その時、すぐ思い出したのがこの著者の『親鸞』であり『親鸞思想─その史料批判』(明石書店)でした。
 論争の書として、原文改訂をせず史料批判をとおして「主上臣下、法に背き義に違し、念を成し怨みを結ぶ」(民衆を弾圧する権力への怒りを生涯忘れないという意味)をめぐる一節は、一字一句の変化無く親鸞の思想として検証した、古田の迫力が伝わります。
 宗教的なものを全く感じさせない、古田武彦の親鸞研究は、人間とはいかなる存在か、自分がその一人として生きるに値する存在か、生きた意味を説き明かしています。


書評 『神武が来た道』

東大阪市 横田幸男

 この度インターネットホームページに、会員の伊東義彰氏の『神武が来た道』が電子書籍として掲載されました。これは古田氏の『法華義琉の史料批判』(『古代は沈黙せず』中刷り)、『中村幸雄論集』に続くものです。内容は伊東氏が『古田史学会報』や『古代に真実を求めて』に発表されたものを改訂してまとめられたものです。氏の力を込めた力作ですので、ぜひご覧になり批判して頂ければ幸いです。
 伊東氏のこの報告の特徴は奈良県・和歌山県・大阪府などをくなまく訪れ、史料批判の基礎に考古遺跡や地名や伝説をくまなく確認していることです。そのうえで『古事記』『日本書紀』の史料批判を行なっていることです。
 この報告のみごとな点は、古田氏の示唆を受けた「吉野河の河尻」や「贄持之子にへもつのこ」の解釈です。さらにそれを昇華して『古事記』『日本書紀』の史料批判を行ない切ったことである。わたしはこのような史料批判の方法が、こんごの『古事記』・『日本書紀』研究の基礎になる方法として疑っていない。なお『古事記』『日本書紀』などの文献を史料批判を行なって確定することは必要条件です。それに対して考古学・地名などから、その史料批判が間違いないか判定することは十分条件に当たります。
 古田氏の助言を得てみごとな史料批判を行なった伊東氏ですが、その筆先が鈍るのは神武東征の時期を推定する「北部九州の弥生王墓」のところす。結論として考古学資料から文献を解釈し、「系譜上、神武は山幸の孫に当たりますから、ニニギノミコトから四代目の子孫になります。ニニギノミコトの天孫降臨が弥生中期後半の初め(前一世紀初め)ごろとすると、神武が弥生中期末から後期初め(一世紀初め)ごろの、ニニギノミコトの血筋に連なる一族の一人だとしてもおかしくありません。」と古田氏の考えに合わせた文献解釈を行なっています。これは考古資料などをもとに条件を設定し文献に当てはめています。このような解釈は文献・伝説の史料批判を判定する能力しかない考古学・科学から、仮説としての文献解釈を作り出すことです。このような文献解釈は必要な史料批判を経づして行なうものであり、当てはまることもあるし当てはまらないこともあります。
 とは言え、伊東氏が考古学業界の通説(本流の解釈)を論拠に、神武が筑紫の日向(現在の福岡県福岡市・前原市)を出てきた時期を推定すれば、このような文献解釈にならざるをえません。この解釈の問題は、伊東氏の問題ですが同時にもし考古学業界が『古事記』の「筑紫の日向」からの神武東征を認めれば考古学業界の解釈としての一案です。ですが考古学上の事実から文献解釈をおこなうことは幾重にも論証を必要とします。なお古田氏も神武東征(東侵)の時期は文献上では分からないとしています。
以上このような考え方、論理学でいう「必要条件と十分条件」という考え方は縄文晩期にあたるギリシャで哲学や数学として発展したものです。このような考え方は分かりきっているという声もありますが、実際の論理として歴史学のみならず、現代に真面目に適用されているかは疑問のあるところです。のみならず現代人の中には、ソクラテス・プラトンが苦闘の中で獲得した論理を捨て去り、自分たちの都合の良い論理を展開していることは日常見られることです。
 もとに戻りまして、「吉野河の河尻」や「贄持之子」のみならず、伊東氏が自力で開拓された「紀国きのくにの竃山かまやま」、「磐余」、「欠史八代」の理解などは他の方を圧倒される説得力を持って迫ってくる。上滑りになりがちな『古事記』・『日本書紀』の戦闘場面を語らずして、考古資料や地名の解釈から神武の軌跡を迫力をもって理解できることを示された。さらに『古事記』『日本書紀』の「白檮原宮(かしはらのみや)」の「檮」の問題というあらたな史料批判を提起された。
 わたしたちは、これらを引き継いでさらなる史料批判を行い、単なる『古事記』・『日本書紀』に書いてあることをなぞるのではなく、後に神武と呼ばれた男、神倭伊波禮毘古命(かむやまといわれびこのみこと)の生き様を含めた「神武実在の論理」を歴史としてさらに理解できるような史料批判が望まれる。


 これは会報の公開です。史料批判は、『新・古代学』(新泉社)・『古代に真実を求めて』(明石書店)が適当です。

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