meta name="description" content="古田史学会報68号 2005年6月1日,大宝律令の中の九州王朝 泥憲和,兵衛府の謎,兵衛を派遣していなかった九州,兵衛と釆女,兵衛と舎人,九州王朝の軍事組織─「率」と「督」,兵衛と衛士,兵衛の消滅" /> 大宝律令の中の九州王朝 泥憲和

2005年6月1日

古田史学会報

68号

「伊予風土記」新考
 古賀達也

削偽定実の真相
古事記序文の史料批判
 西村秀己

船越
 古川清久

4連載小説『彩神』
第十一話 杉神 3
  深津栄美

大宝律令の
中の九州王朝
 泥憲和

鶴峯戊申
不信論の検討
『臼杵小鑑』を捜す旅
 冨川ケイ子

ミケランジェロ作
「最後の審判」の謎
 木村賢司

高田かつ子さんを悼む

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大宝律令の中の九州王朝

姫路市 泥憲和

1 兵衛府の謎

 『大宝律令』には「衛府」と総称される天皇親衛軍組織が定めてある。
 当初、衛府は五部門に分かれていた。五衛府という。衛門府、左右の衛士府、そして左右の兵衛府がそれで、すべて「府」がついている。そしてこのうち兵衛府だけは他の衛府と異なる扱いをうけている。なぜか理由は不明だが、その長官の官位が他の衛府の長官より低いのだ。衛門・衛士両府は長官の位が正五位なのに対して、兵衛府のそれは従五位であった。同じ親衛隊なのにどうしたことだろう。
 軍防令によれば、六位以下、八位以上の嫡子で二一歳以上の子弟に対し簡単な試験を行い、兵衛に任用する制度があった(軍防令四七条六位条)。兵衛の他に宮廷の大舎人、使部(雑用人)も対象とされていた。位子という。これは下級地方豪族の憧れであったのか、『続日本紀』和銅元(七〇八)年四月十一日記事に、嫡子ではない位子が偽って登用されているのを改めよという勅が出されている。
 地方豪族の子弟で構成されていた兵衛に比して、衛士府と衛門府の兵士は「衛士」から選抜されていた。衛士が班田農民から徴用された兵士であることは万葉集の歌などで有名だ。すると兵士自体の身分は衛士より兵衛の方が高かったのだ。それなのに、どうして兵衛府は組織としての位階が低いのか、ますますわからない。兵衛は組織の規模も小さく、実質的軍事力をもたない、儀仗兵のようなものだったという史家もいる(根拠は不明)。だが兵衛が地方豪族子弟の名誉職だったとすれば、その地位が低いのは却って変ではないか。在地豪族の信頼をそこねてまで、わざわざ組織の位階を低くすることに何の意味があろう。何かもっと深刻な理由があってそうしているに違いないのだ。
 五衛府についての不審は他にもある。衛門府と衛士府は長官を「督」と称していた。「督」は「都督」「評督」の「督」ではないのか。また兵衛府の長官を「率(そつ) 」と呼称していた。『三国志魏志倭人伝』に、「一大率」が伊都国に駐屯して交易を監視していたという記事がある。果たして兵衛府の「率」と関係はないのだろうか。『続日本紀』和銅二(七〇九)年六月十二日条に「大宰府率」という表現が現れている。通説ではこれは「大宰府師」の誤りとされているが、そうだろうか。「率」はやはり九州に由来する階級呼称ではないのだろうか。また兵衛府副官の官名は「翼」あった。『隋書イ妥*国伝』には「軍尼」の下部単位として「一伊尼翼」という名称が現れている。これと兵衛府の「翼」は関係していないのだろうか(この呼称は行政単位か行政庁の長官の官名だったようだが、九州王朝では行政も軍事化していたと推測できる点について後述する)。それに組織名の「府」にしても「太宰府」「都督府」の「府」と関係ありそうだし、どうも九州の匂いがぷんぷんする。もしかすると五衛府はもともと九州王朝の敷いた軍事制度の名残ではあるまいか。新興大和朝廷にとって官僚組織を一からこしらえるより、九州王朝の遺産を利用できればその方が合理的だった。兵衛府だけ長官の官位が低い理由も、あるいは九州王朝の存在を認めたならは合理的な理解ができるかも知れない。

イ妥*国のイ妥*は、人偏に妥です。

 本稿はこの着想に基づいて調べた結果であるが、私の力が及ばないので、疑問を解き明かすにはほど遠い現状である。どなたかにきちんと調べていただければ有り難いと考え、浅学を顧みずに発表するものである。


2 兵衛を派遣していなかった九州

 九州と兵衛府とのつながりを示す記事としては、『続日本紀』大宝二(七〇二)年四月十五日、筑紫の七カ国と越後に命じて釆女、兵衛を試験で選んで貢進させたというものがある。

 「令筑紫七国及越後国。簡點釆女兵衛貢之。但陸奥国勿貢。(簡の原文は草冠に間)」

 通説ではこの箇所を、これらの国はこの時点までは兵衛も釆女も貢進していなかったと解釈している。確かにそう読める記事である。この点、越後はその理由を理解できる。越後国といえば、直前の文武三(六九九)年四月二五日、越後国の蝦夷百六人に身分に応じて位を授けたとの記事があり、またその後には越後と陸奥国の蝦夷が反乱を起こした記事もある(後述)。
 この時期、越後は大和朝廷の支配が十全ではなく、不安定な半占領状態だったのだろう。つまり建前上はともかく、実質的に越後はそれまで近畿天皇家の版図に入っていなかったのだ。だから兵衛を派遣していなかった(派遣させることができなかった)のだ。すると九州はどうなるのか。九州に対し、大宝二年になって初めて兵衛を派遣させるというのは、どういうことか。通説では大和王朝の勢力は五世紀から九州に及んでいたはずなのに。
 更に一カ所、この文章にはいぶかしい箇所がある。「但し陸奥国は貢するなかれ」という末尾だ。何が「但」なのか。前半部分では陸奥国のことなど何も触れていないのに、いきなり「但」はないだろう。これは更にもう一文の前半部分があったのに、カットしてあるとしか考えられない。
 次項ではこれらの疑問について考えてみよう。


3 兵衛と釆女

 「軍防令」では、釆女と兵衛が一体で扱われている。
 「凡兵衛者。・・・。郡別一人貢之。若貢釆女郡者。不在貢兵衛之例。」
 郡ごとに兵衛か釆女のどちらかを出せばよいというのだ。釆女を貢進させる目的は、通説では朝廷に対する服属の意思表示を在地豪族に強制することだったという。要するに人質である。おそらくこれは正しい。兵衛についてもその目的は異ならない。既支配領域と半占領状態とに関わらず、兵衛を出させる目的は、基本的にはおそらく在地豪族に対する踏み絵のようなものだった。新征服地に対する服属外交の強要と言ってもよかろう。そうは言っても親衛隊としての登用は、同時に彼らに名誉と、朝廷が彼らを信頼している証しを与えることにもなるので一石二鳥である。後世の人名に○○兵衛、○○衛門が多く見られるのは、彼らの先祖がそれに選定されたことを誇りとした事実を示しているのではないか(冨川氏に示唆されて気づいた)。
 これを証明するものとして、釆女には官位が与えられたという事実がある(『郡司及び釆女制度の研究』磯貝正義)。兵衛と釆女を貢進させる目的について、朝廷側からの動機を裏付けると思われる記事が養老六(七二二)年の記事にある。七〇二年以後のある時期から陸奥国も兵衛と釆女を朝廷に送っていたようなのだが、七二二年に陸奥国の反乱が起こったので、両者とも故郷へ送り返されているのだ。これは服属しない者には朝廷に起居する権利を与えないという、反乱に対する朝廷の怒りの表現であり、同時に、名誉の剥奪である。
 兵衛と釆女の貢進は「朝廷の支配領域」に対するアメとムチの仕組みだった。しかし越後と九州からは大宝二年まで貢進がなかった。この事実は一元史観に拘泥する限り合理的解釈が不可能である。しかし古田史学の立場によれば何の奇異もない。天皇家史書はここで、大宝以前は越後と筑紫が天皇家の支配領域ではなかったこと自らを暴露しているのである。それまで兵衛を派遣していなかった九州からONラインを越えた途端に兵衛が派遣されたという事実について、古田史学以外の解釈が可能ならば示していただきたいものだ。
 さてこれで伏せられた文章が浮かび上がってはきまいか。さらに「但」の意味も。「陸奥国並筑紫七国及越後国者自今服属於天朝也(筑紫七国並びに越後国及び陸奥国は今より朝廷に服属するものなり)。」とでも大宝二年記事前半部分に書かれていたと考えれば、「但」の一字に説明がつく。そして朝廷がその文章を取り除いた理由も。「但し」、これはかなり空想が過ぎるかも知れない。


4 兵衛と舎人

 通説では兵衛府長官の官位が低いのは大舎人の官位に合わせたからだという。兵衛府は在地豪族によって維持されていた大舎人制度が発展、改編されたものだというのだ。そういうこともあろうが、それだけが理由ではないと思う。なぜなら、通説のいうとおりならば兵衛府制度が作られたと同時に、不用の舎人制度が廃止されなければならないはずだからだ。兵衛府が設立されても舎人制度がなくなっていないという事実は、この二つが同じものだからではなくて別々のものだからだろう。「いや、全く同一だと唱えているのではなく、密接に関連していると言っているのだ」、という反論もあり得ようが、それならばどうして舎人とまぎらわしい兵衛府がその必要もないのに新たに設置され、他の衛府と扱いが異なるのか、答えねばならない。問題は振り出しに戻っただけだ。つまり通説は何も答えていないのと同じなのだ。
 大舎人にはたしかに五衛府と同様、天皇親衛隊的な役割が与えられている。しかし大舎人は二官八省のうち中務省に属する。五衛府は二官八省に属さず、太政官の直轄であったとされている。この事態は政府組織としてはまことに不合理である。宮中を警護する部隊の統率権が複数に分かれていては、万が一の不測の事態に指揮系統が混乱して不都合であろう。これはおそらく九州王朝の法制度を導入して中央集権的軍事組織を作ろうとしたのだが、古来からの有力豪族の影響も抜きがたく、古代的舎人制度が解体できなかったのだ。そこで両者が併存するという不合理な事態に立ち至ったのであろう。


5 九州王朝の軍事組織─「率」と「督」

 九州王朝は氏族社会から発展してきた国家である。韓人の国家がそうであるように、倭人国家も当初の軍事組織は氏族的紐帯を基礎に作られたと思われる。三世紀邪馬壹国の当時にどの程度国家組織が整備されていたかは不明だが、小国家同士が相攻伐したり女王を共立したりと言う状態を見れば、原始的氏族社会の要素を克服できていないようだ。すると他の氏族社会同様、軍は氏族単位で編成されており、兵士は氏族の庶弟から構成されていただろう。氏族軍の長が「率」である。「一大率」が一大国の軍の長ならば、一大国は氏族国家であったことになろう。
 四世紀、西晋が滅び、力の空白が生じた朝鮮半島に戦乱が起こる。当初優勢だったのは百済である。弱小国だった高句麗は南方の百済に圧迫されて衰退を窮め、王都を攻められて国王まで殺された。その状況を打開するため、高句麗は中国の機能的な国家体制である律令制的官僚組織と軍事組織を導入することとなる。その結果、高句麗国家は急速に漢風化し、中央集権的軍事国家に変貌した。成果が如実に現れたのが四世紀末、好太王の時代である。好太王の疾風怒濤の進撃に韓人・倭人社会はどよめき、おののいた。高句麗の強大な軍事力に対抗するため、倭・百済もまたそれぞれ中国の行政制度・軍事組織・文物を争って導入した。律令制度の導入や仏教の受容はこの対抗関係を抜きにして論じることはできない。
 五世紀、漸く国内改革が整いつつあった倭国は、ますます強勢を誇る高句麗と、半島支配を巡って激突する。「倭の五王」と好太王の時代である。倭王たちの「開府儀同三司・・・大将軍」の呼称は中国風軍事組織の完成(行政組織も含める)を誇示しているのであろう。当然軍団組織は中央集権的政治体制のもとで新編成されたことと推測できるが、それが当時としては先端の徴兵制度である「衛士制度」だったのではあるまいか。倭国の戦闘部隊は、旧来の氏族私兵集団の連合体から、徴兵制度の実施によって体系的に整えられた「軍団」となった。その階級呼称が「督」「翼」だったと考えたい。「衛士」は戦闘部隊と親衛隊に分割された。親衛隊が「衛門府」なのだ。
 一方氏族上層部から発展した豪族たちは九州王朝から地域支配を公認され、九州王朝の権威を背景に地方で権勢を極めていたはずだ。彼らは王朝との紐帯の証のひとつとして、子弟を人材として供給していた。それが「兵衛府」であり、おそらくは騎馬中心の貴族部隊のようなものだったのだろう。長の呼称が「率」なのは氏族時代から続く血縁的軍事組織なので、その伝統を反映していたと解釈できよう。

6 兵衛と衛士

 八世紀初頭は大変革の時代だった。九州王朝を支えてきた豪族たちと新興の天皇家を担ぎ上げた豪族たちとの闘争の時代でもある。天皇家にとって九州王朝時代から続く、大古代の亡霊みたいな在地豪族は厄介な存在であったことだろう。豪族の子弟で構成される兵衛には旧勢力の子弟も含まれていたから、まるでダモクレスの剣である。しかし衛士は在地豪族の子弟ではなく班田農民であり、天皇家が直接影響力を行使できる存在である。
 天皇家に対する関係が微妙に異なる両者の緊張関係を示すと思われる記事が『続日本紀』に見えている。兵衛府は豪族のおぼっちゃま部隊だったので、他の衛府よりも待遇が良かったようであるが、衛士府から不公平であるとの声があがった。徴兵された班田農民である衛士たちにとって、兵衛府に集う豪族の子弟は、故郷では畏れ多くて口もきけない相手であった。しかし朝廷のために働いている以上は対等ではないかとの意識が農民兵に生まれたのだろうか、待遇改善を要求したところ、朝廷がこれを認めて兵衛と衛士に対等の待遇を約束したのだ。要求を認めて実現したことで朝廷の権威は格段にあがったことだろう。
 「天子様が一声あげれば、郡司さまの子弟といえどもぐうの音も出ない!」
 時代は確実に変化していた。
 兵衛府の地位が法的に衛門府や衛士府より低かった理由は、このような社会関係の中で考察されなければならない。大舎人とのバランスを考えての措置であるというのも一面の真実であろう。しかしそれは口実であって、実は豪族の私的軍隊組織の影をひきずる兵衛制度を差別することで、新時代を象徴させたのかも知れない。というのは法的にはたしかに兵衛の地位は低いのだが、実際にはそのまま施行されていたわけでもなく、兵衛府の長官に二位や三位の人物が就任している事実もあるからだ。内戦を覚悟しなければ軍閥は解体できない。そこで制度的タテマエと現実的ホンネを使い分ける・・・なんとも現代政治の姿を見ているようで気味が悪い話だ。

7 兵衛の消滅

 ともあれ九州王朝の影をひきずったこれらの組織は天皇家にとってはいわば急場しのぎの制度である。やがて「養老律令」では兵衛に対する不思議な差別はなくされた。天皇家の支配機構が整備され、天皇家と結束の強い新興豪族が地方で力を強めていくに従って、差別は意味のないものになったからだろう。九州での旧体制勢力も、徴税権と徴兵権を奪われて弱体化し、ひんぱんだった反抗も鳴りを潜めた。やがて衛府は天皇家の独自組織である授刀人寮や検非違使に取って代わられていく。それとともに九州王朝の記憶も人々から消え去っていった。
 衛士と呼ばれ、防人と呼ばれ、足軽、徒士と呼ばれ、呼び名と時代は変わっても、庶民はいつでも自分には何の関わりもないいくさに駆り出され、益もなく殺人を強制され、また殺されてきた。誰がこの地を支配しようが、いつでも人々はその欲望のために苦しめられてきたのだ。
 今再び私たちの国の若者が血を流さなければならない時代が近づいているように思う。何度愚かな過ちを繰り返しても懲りない、それが権力者というものなのだろう。それでも私たちはこれからも生きなければならない。この国がどんな国になろうとも、私たちは生きていくための努力を止めるわけにはいかない。そうやってこの島国の庶民は命を紡いできたのだ。おそらくはこれからもずっと。悠久の歴史をつなぐ庶民にとって、一時の権勢を誇る支配者が誰であろうと、そんなものはうたかたのようなものであるのかも知れない。
 芭蕉の思想を借りれば、そうした命の連なりだけがいつまでも変わらぬ「不易」であり、九州王朝千年の歴史と言えどもつかの間の「流行」に過ぎなかったのであろう。


 これは会報の公開です。史料批判は、『新・古代学』(新泉社)・『古代に真実を求めて』(明石書店)が適当です。
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