2003年8月8日

古田史学会報

57号

1、九州王朝の絶対年代を探る
 和田高明

2、「邪馬壹国」と「邪馬臺国」
 斎田幸雄

3、わたしひとりの八咫烏
 林俊彦

4、可美葦牙彦舅尊の正体
記紀の神々の出自を探るii
  西井健一郎

5、連載小説「彩神」第十話
 真 珠 (3)
 深津栄美

6、桜谷神社の
古計牟須姫命

 平谷照子

7、「古田史学いろは歌留多」
安徳台遺跡は倭王の居城か
会員総会・事務局だより

 

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豊斟淳尊と豊国主尊 -- 記紀の創世神の出自を探るi(会報56号)
高天が原の神々の考察 -- 記紀の神々の出自を探るiii(会報58号)


可美葦牙彦舅尊の正体

記紀の神々の出自を探るii

大阪市 西井健一郎

1.記紀の神々には出自がある

 豐國主尊の亦名で紀に紹介される葉木国尊はハコ国の支配者であり、その支配する国は菟道稚郎子が治めた後世のワキ国である。その国はかっては許(コ)の国と呼ばれ、の祖にされたククノチが支配していた。ククノチは倭人伝にいう狗古智比狗であり、コの国とは狗奴国である、とする。これが私の仮説の前提である。
 これまで想像上のものとされた神々の実在した痕跡が記録に残っていた。とすれば、他の神々も実存時の記憶や伝承があり、記紀の中にもその痕跡が残されている筈。これが前稿からの独断的仮説である。
 そこで、それら神々を逐次取り上げ、その出自や活躍を示す痕跡を記紀の中に探す作業を始めた。捜索手段は古田先生が創造され、私が勝手に「一大率の等式」と名づけた論証技法である。その「一大率は一大国が派遣した軍団長である」という論証法を拡大解釈し、「同字や同音は同じ存在や中身を示す」という論法に変え、かつ乱用させていただいた。
 今回取り上げる神は可美葦牙彦舅(うましあじかびひこじ)尊。神代紀上の神誕生神話で、第2の一書に登場する原初神である。

2.可美葦牙彦舅(ウマシ・アシカビ・ヒコヂ)尊

 神代紀本文の冒頭には、国常立尊・国狭槌尊・豊斟淳尊の三神。続く第1の一書は、豊国主尊や葉木国尊や見野尊を載せる。
 続いての第2の一書は、最初に出現した神は可美葦牙彦舅であると、次のように記す。
 「一書曰、古國稚地稚之時、譬猶浮膏而漂蕩。于時、國中生物。状如葦牙之抽出也。因此有化生之神。號可美葦牙彦舅尊。次國常立尊。次國狹槌尊。葉木國、此云播擧矩爾。可美此云于麻時」。続く第3の一書でも、「天地混成之時、始有神人焉。號可美葦牙彦舅尊。次國底立尊。彦舅、此云比古尼。」〔岩波文庫本30-004-1日本書紀(一)による。 以下、文庫本・紀(一)と略記、〕とある。記〔岩波文庫本30-001-1 古事記〕では、宇摩志阿斯訶備比古遅と記す。
 この神名をウマシ・アシカビ・ヒコヂの三つの字句に分け、由来を探索してみよう。

3.ウマシの氏族は祭祀者か、武将か

 「ウマシは美称」と記すのは、文庫本・紀(一)の註である。しかし、それは氏(うじ)であると考えている。「可美」ではないが、同じウマシと読ませる「甘美」が姓に使われている人物が2名、記紀に載るからだ。その一人が甘美韓日狭(からひさ)、もう一人は甘美内(うち)宿禰である。
 甘美韓日狭は、崇神紀六〇年七月条の天皇が出雲の神宝を見たいといい出し、その保管主の出雲振根が筑紫、先生が論証された九州王朝へ出かけていたため、弟の飯入根が預けて持って行かせた別の弟の名前である。戻りそれを知った振根は飯入根を責め、欺いて殺す。韓日狭は大和朝に訴え、吉備津彦と武淳河別とが誅伐にくる。
 推測するに、この韓日狭の甘美とは可美彦舅の血を引く一族の姓か、その神の祭司家が継ぐ氏名(うじな)ではなかつたか。
 振根が討たれた後、出雲の神を祭らなくなったため、氷香戸辺が祭りを復活させるように上申する記事が同条にある。 「やつがれが小児有り。而して自然にもうさく、『玉妾*鎮石(たまもしずし)。出雲人の祭る真種(またね)の甘美鏡(うましかがみ)。押し羽振る、甘美御神(みかみ)、底宝御宝主(そこたんらみたからぬし)。山河の水泳(みくく)る御魂。静挂(しづか)かる甘美御神、底宝御宝主』是は小児(わくご)の言に似らず。・・・」
 だから、韓日狭も甘美御神を祭る神官として出雲の長官の振根に仕えていた人物との想定もできる。この甘美御神こそ、可美葦牙彦舅の神であろう。
 この振根は出雲梟帥(たける)の地位にあったらしい。
 振根は飯入根を水浴びに誘い、上がる際、刀の取替えっこを持ちかけ、自分の竹光を仕込んだ刀を弟に佩かせてから、弟の刀で殺す。その時人の歌として“や雲立つ 出雲梟帥が 佩ける太刀 黒葛(つづら) さわまき さ身無しに あわれ”とある。
 タケルとは、武臣の長を指すと独断しているから、その弟達も武将だった可能性もある。
     妾*(も)は、草冠に妾。

4.甘美内宿禰は内廷臣

 次に、甘美内宿禰は、紀では武内宿禰の弟と記す。応神紀九年四月条によれば、彼は九州へ出かけている兄、武内宿禰が半島勢力と組んで九州を我が物にしようとしていると、天皇に告げ口する人物である。その時、武内宿禰が九州へなにをしに行ったのか興味のあるところだが、多分九州王朝へ応神がコの国を征服したとの報告とその領土の安堵を確認するために行ったと思う。これは、ウマシ探索とは別の話なので別稿に譲る。
 文庫本・紀(二)の補注を要約すれば、甘美内宿禰は「山代の内臣の祖。孝元記に比古布都押之信命、娶尾張連等之祖意富那毘之妹、葛城之高千那毘売生子、味師内宿禰。山代の内は京都府綴喜郡八幡町内里付近。」とある。
 内臣の意味が内里出身ではなく内廷臣の意にとると、宮廷内の祭祀を司る職種と見ることができる。彼が祭った神は、甘美御神の可美葦牙彦舅ではなかったか。出雲からワキ国へ移住した神官韓日狭の後裔であったのかも。
 武内宿禰は、何百年も生きた伝承の人物だけに、本当の兄弟かどうかは確かめがたい。同じ孝元記には、「比古布都押之信命、娶木國造祖宇豆比古之妹山下影日賣、生子、武内宿禰」とある。私見では、武内宿禰とは役職名である。活躍場面からいって、軍事大臣と外務大臣を兼ね合わせた職種のようだ。時代によって違う人物が就いていたのだろう。
 とすると、弟の甘美内宿禰も武装外務官の一族の一人だったのかもしれない。さらに、となるとウマシとは、馬氏あるいは馬士(師)から生まれた呼称ではないか、との空想が浮かぶ。馬とともに北方から南下してきたツボケ族の一支隊が出雲に進駐したという先生のお話に触発されて想像域を広げると、この一族は元は北方からの武装騎馬隊の一族であり、やがて土着融和し、軍事集団家系として当地の王に仕えたが、一族の名前にその出自を残したというものだ。

5.宇摩志麻遅もウマシ一族か

 ウマシとつく登場人物がもう一人、記紀に載る。紀では、義父の長髄彦を殺して神武に降伏する饒速日命と長髄彦の妹、三炊屋媛(亦名長髄媛、亦名鳥見屋媛)との子を可美真手命と記す。原註に于魔莽耐とあり、ウマシマデと振られている。記では、邇藝速日(にぎはやひ)命が登美毘古の妹、登美夜毘賣との間に宇摩志麻遅をもうけたと記す。
 登場する場面が神武記紀の終わり部分だから、国学者的解釈では当然奈良の人物になる。広辞苑にも、ウマシマデの命は「饒速日命の子。神武期の武臣。近衛の将として殿内を守る。物部氏の祖とする」と載る。だから、このウマシは「美し」より「馬士」との仮定に近い。神武期かは別にして、このウマシも武力に関係がありそうだ。また、ウマシ氏を神官系とみなすと、ニギハヤヒ付きの祭司長をしていたのかも。
 しかし、宇摩志麻遅の麻遅をムチ(牟遅)の変型とすると、彼はウマシ氏族の貴だった可能性がある。とすれば、宇摩志麻遅は歴代の大国主の一人で、神武は勿論、饒速日命とも長髄彦ともなんの関係もなく、大和朝への降伏者として記録したかっただけに違いない。
 さらに、麻遅=牟遅とすれば摩乳も貴(むち)だった可能性がある。紀には出雲に降りたスサノヲが泣いている老夫婦に会う場面がある。爺が云う、“對曰、吾是國神。號脚摩乳(あしなづち)。我妻號手摩乳(てなづち)。”と。アシナヅチと読ませているが、彼は葦(国)または葦那(国)の貴(むち)だったのでは。

6.饒速日命は速日の爾支

 ところで、親の邇藝速日の速日とは、筑紫が白日別という古古代の別称を持つと同じく、速日別の国を指す。後続稿で述べる大戸日別と同じ、今は伝承すら残らない古古代での国名の一つであろう。
 この速のつく地名で著名なのは、紀でいう速吸之門である。伊奘諾が流れが速くみそぎを仕損なう地、また神武が珍彦と出会う地である。先生はその地を鳴門海峡と比定された。珍彦が神武を誘導したのは現鳴門海峡かもしれないが、そこは別の地名だったのでは。
 私見では、速の吸之門とは関門海峡であり、その(形状そのものの)曲浦(わだのうら)で塩土翁こと、豐の(旧)國主事勝国勝長狭と天国からの侵略者ニニギとが出会うのだ。
 この速日別の国は、関門海峡のどちらかの岸または両岸であろう。その後ニニギ(神武ではなく)は豊国の菟狭に設けられた壱岐島(別名天比登都柱 あまのひとつばしら)軍の駐屯地、一柱騰宮(あしひとつあがりのみや 一つ柱の国から騰がって来た人たちの宮)に頓宮(丘)を構えたと読み取れることから、北九州市側であろう。この仮説は別稿で述べたい。
 また、饒速日命は爾支(にき)のハヤヒ、この速日別国の(伊都国の官名として倭人伝に載る)爾支である。その役職名からいって筑紫の長髄彦(=先学の云う中洲根彦)に任命された速日国の婿長官かも。

7.葦原の国と中ッ国

 葦牙彦舅の葦は、葦原中国の葦である。葦原中国は当時、出雲を指す“葦原”と筑紫を指す“中ツ国”とから成り立っていた。
 葦原国(山陰地方)の存在を示すものが、スサノオの言にある。記によれば、スサノオは娘須勢理(すせり)毘賣が連れてきた神を見て「こは葦原色許男(しこを)と謂(い)うぞ。」と告る。“葦原中国”のシコヲとはいわないのである。つまり、当時は葦原という地名と地域が認識されていたのだ。
 この葦原国から葦牙彦舅の名称が生まれたのだろう。
 ついでに、中国は、中州根彦のテリトリーの北部九州だった。須佐之男や大国主の時代の日本は、豊・葦原・中ス国から成り立っていた。
 一方、牙(かび)は齧(かじる)が変形した可能性がある。齧は喰いに当てられ、大山咋の咋と同じ神号との説がある。前号の豊国主の亦名の豊齧野(とよかぶの)尊は「豊の咋」が正解らしい。葦牙は「葦の咋」が葦齧と表記され、アシカブと読まれだし、いつかアシカビに変わっていったと見る。

8.彦舅は初代の大国主

 一方、彦舅について文庫本・紀(一)の註は、「ヒコヂは、もとはコヒヂ(泥の意を表わす古語)であったが人格化され、ヒコヂと音が顛倒して成立したものと思われる」とある。また、補注には「古語に夫をいう語。ただし、この語がここに現れることには疑問がある。古事記によれば、別天神五柱は、独神で隠身であるという。その中に、アシカビヒコヂの神があるのはおかしくはないか。」と記す。
 紀では「彦舅」しか発見できていないのだが、記では「日子遅(ひこじ)」と「比古遅(ひこじ)」が載る。
 日子遅の箇所は、「又其神之嫡后、須勢理毘賣命甚為嫉妬。故其“日子遅神”和備弖(わびて)、三字以音。自出雲将上坐倭国而装束立時、片御手者、御馬之鞍、片御足、蹈入其御鐙而、歌曰」とある。先生が「上るとは九州王朝へ対馬暖流を遡ることを指す」と指摘された有名な場面である。
 馬に乗ろうとする点が、ウマシとの関連で気になる。ここまでに紀に出現した乗り物は船しかない。馬が出たのは、素戔鳴尊の関連記事、天斑駒を田に放ったり、剥いだ馬皮を投げ込んで天照を天の石窟へ幽らせる場面だけである。スサノヲと大国主だけが、つまり出雲神だけが馬とともに登場してくる。
 和備弖(わびて)とは、現代の“侘びて(=思いわずらうこと)”であろう。スセリヒメのやきもちを思いわずらい和らげようと、馬に乗るときヒコヂの神は歌うのだ。で、この歌に答えてスセリが「八千矛の神の命や 吾が大国主 汝こそは・・・」と返歌するから、ここのヒコヂの神は大国主の地位にある八千矛神を指す。
 この大国主説話中、夫の字の場所にルビはともかく、日子遅がすべて使われているわけではない。他の、例えば蛇室へ入れられる大国主に蛇除けのヒレを渡す場面や、むかで除けの赤土を渡す場面には“授其夫云、…”とある。だから、歌の場面のヒコヂとは固有名詞に近く、スセリヒメの夫となった後の、特定の時代の大国主を指している。
 一方、比古遅の方は、古事記上巻最後のウガヤフキアエズを生んだ豐玉毘賣が妹玉依毘賣につけて贈った歌に、そのヒコヂ(夫=ヒコホホデミ)が歌を返すとして使われている。
 この二つの事例から見れば、王の正妻がその夫の王を指していう場面にだけ“ヒコヂ”が使われていることになる。だから、ウマシヒコヂとは、馬士の女系統率者のご主人との意味ともとれる。

9.ウツシはウマシの誤記?

 その大国主に呼びかけるフレーズであるため、ウマシの間違いではなかったか、と思わせるような言葉が載る。
 それは記の、スサノヲがスセリヒメと駆け落ちする大国主に叫ぶ、「・・・、意禮(おれ)、為大國主神、亦為宇都志國玉神而、…」とのことばである。この「宇都志(うつし)」とは、現代の現世(うつしよ)などの「現(うつ)し」「顕し」の意味とする。
 だが、國玉神とは国を鎮める神だから、地名の後につくことが多い。ゆえに、宇都志とは国名であった可能性も高い。ただ、ここではウツシはウマシの誤記であると考えたい。
 とすれば、スサノヲは大国主に、ウマシ族の女王スセリヒメの婿になって大國の王兼侵略者ウマシ族を統括する王になれ、といったことになる。 ここまでの説話を見ると、スサノヲと馬との関連が深く、初代のウマシ(馬氏)とはスサノヲを指す名称だったのではないかと思える。そうすると、その娘須勢理毘賣もウマシであり、その婿でスサノヲの権力を継いだ初代の大国主が馬士の夫、ウマシヒコヂと呼ばれていたとも考えられる。
 しかし、紀が「彦舅」の漢字を使ったのが気になる。彦=日子=大国主とすると、舅(しゅうと)はスサノヲになるからだ。「可美」をそのまま神(かみ)と読み、葦牙を葦の咋とすると、神・葦咋・日子・舅となる。つまり、“葦国のクイの息子(八千矛神)” の舅の神、これが葦牙彦舅の実像であり、それが出雲のスサノヲではないか。舅になったよそ者の神との印象を受ける。
 ただ、この神が天国を追放(かむやらひ)されたスサノヲと同人物とは思えないのだ。だから、天岩戸の原因を作った弟神は別の名前ではなかったかと疑っている。 (終)


 これは会報の公開です。史料批判は、『新・古代学』(新泉社)・『古代に真実を求めて』(明石書店)が適当です。

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