2003年4月1日

古田史学会報

55号

1、国際教育シンポジウム
二一世紀教育における「公」・「共」・「私」をめぐって
  -- 古田武彦氏の発言

2、歴史の曲がり角(二)
  -- 重層地名学
 古田武彦

3、キ国とワ国の論証
 西井健一郎

 学問の方法と倫理10
4、再び熟田津論争によせて
 古賀達也

5、太安萬侶  その二
  古事記成立
  斉藤里喜代

6、連載小説第十話
  真珠(2)
 深津栄美

7、九州旅行雑記
 今井敏圀

8、会活動の現況について
 事務局だより

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豊斟淳尊と豊国主尊 -- 記紀の創世神の出自を探るi(会報56号)


キ国とワ国の論証

コの国の発見

大阪市 西井健一郎

1.木の国は紀伊国なのか

 垂仁記には、八拳鬚になつても喋れなかつた本牟智和氣が鵠を見て『阿藝登比』と発声したので、その鵠を捕らえるため捕者が次の各地を廻る話が載る。
  “故、是人追尋其鵠、自木國到針間國、亦追越稻羽國、即到旦波國、多遅麻國、追廻東方、到近淡海乃越三野國、自尾張國傳追科野國遂高志國而、於和那美之水門張網、…”。

  これら通行できた国々はこの王権に支配されていたか、友好関係にあったものと思われる。だからこれが奈良王権の話とすると、大和や河内の国名が出ないのが不思議である。この事件は他の王権のものであることを物語る。私はそれが稲日大郎女を娶る播磨王権、との仮説を年来暖めている。
 この逸話の出発地は自木国、「木国より」である。これまで木国は紀伊国と誤解されてきたが、文を素直に読めば、木国から続いて播磨へ入るのだから木国はもっと播磨の近くにあるべきだ。
 古事記には他にも、明らかに紀伊とは違う木国が載る。その一つが大国主の話で、兄弟の八十神の焼き石を抱かせたり、木の股に挟んだりの迫害を見かねて母神が大穴牟遅を木国の大屋毘古命の元へ逃がす話“乃違遣於木国之大屋毘古命之御所”がある。因幡の白兎に続く話だから、木国は因幡にも近い。但し、紀伊国所坐大神として祭られる三神(五十猛命・大屋津姫命・抓津姫命)の大屋津姫命を大屋比古とセットとし、木国を紀伊とする註がある。
 また、考元記には木国造の祖、宇豆比古(考元紀では紀国造の祖菟道彦)の妹を娶して武内宿禰を生む話が載る。武内宿禰が宇治(菟道)の王族の一員であることに注目したい。崇神記では、木国造の荒河刀辮〔但し、紀では紀伊国荒河戸畔と記す〕の娘の遠津年魚目目微比売を娶る。垂仁紀では山背大国の不遅の娘の綺戸邊を娶る。綺はカニハタと読ますが、原語はキだった可能性がある。但し、記には淵の女、苅羽田刀辮と記す。垂仁記の圓野比売の条には、京都府相楽郡の懸木の地名説話がある。サホ姫の遺言で娶った四人のタニハノミチノウシの娘ののうち、送り返されたブスのマドノ姫が悲しんで首を吊ろうとした場所をサガリキというとある。サガリキとは、木国の河〔木津川〕の下流の場所の意味だ。木津川も下の淀川に近い八幡あたりではなかったか。
 これらの記事は、現代では消えてしまった紀伊ではない木国が、かっては畿内地方に存在したことを示している。

 

2.木津川の検証

 古代天皇の活躍舞台である近畿地方で、最初に気づくキの付く地名はその木津川である。京都盆地南部を北に流れ、今は無き巨椋池の南で桂川・宇治川と合流し淀川となる。木津とは、キの津つまり木国の港ではなかったか。だから、木津川に関する逸話を探せば、木の国の姿が浮かび上がるだろう。
 但し、木津川と呼ばれだした時期は、そう古いものではないようだ。崇神記のタケハニヤス戦に“於是到山代之和訶羅河時、其建波邇安王、興軍待遮、…”とあり、岩波文庫本の注に「和訶羅河とは、木津川の旧称」とある。ワカラ河とは、ワ(後出)“から”流れてきた河の意だろう。
 我々は木津川をキヅガワと呼ぶ。木はキと発する。キを頼ってアギという地名を見つけた。
 森浩一氏著『記紀の考古学』朝日新聞社刊の三八頁に崇神とタケハニヤス彦をテーマにした次の記述がある。

「木津川中流域にはタケハニヤス彦にまつわるものが集中しているようである。涌出宮(式内社、和伎坐天乃夫支売神社)はその場所も弥生時代の大遺跡であるばかりか、奇祭として名高い居籠神事があり、…。紀によればタケハニヤス彦の敗退の最後に『叩頭したところをなづけて我君という』と付言している。…涌出宮の古い地名の和伎をアギのなごりとみる考えがでるのも自然のことと思う」

 で、問題は和伎坐のワキである。最初は紀伊国とは異なる“ワ“国のキ地区ですよと云っていると見たが、ひょっとすると“ワ”と“キ”の二つの国にまたがる神ではなかつたか、と思うのだ。
このワギの地名説話は、播磨風土記にも登場する。景行天皇が印南の別嬢に婚姻を申し込もうと播磨に出かける場面である。“天皇が攝津の高瀬の済にきて渡し守に乗せてと頼むが、渡し守の紀伊国生まれの小玉は、「私は貴方の召使ではないからノー」と断った。そこで天皇は「朕公(親愛なる貴方)、ぜひ渡してくれ」と身につけていた弟縵をとり、舟に投げ込んだ。渡し賃を得て小玉はお渡しした。だから、そこを朕公(ワギミ)の済という。”
 この渡しの原名は、ワキの渡りであつた筈。後から明らかにするが、“ワ”と“キ”の両国を結ぶ渡し場であつた可能性が高い。また、紀伊の小玉ではなく、木の小玉と書かれていたのでは。紀州から淀川まで当時出稼ぎにきたとは考えにくい。もっと追及すれば、木国の小玉がワ国の王様に貴方の家来と違うよと言ったことも興味深い。原話の当時は“ワ”と“キ”は別の王権下にあったのだ。
 さらにこのワキが名前に入った皇子がいる。それが応神紀の、和珥臣祖の日觸使主の女、宮主媛が産んだ菟道稚郎子(ウジノワキイラツコ)である。記では宇遅能和紀郎子と記す。彼は、仁徳に天皇位を譲るため自殺したとされる。実際には、攻め殺されたのだろう。この皇子は、天皇となった時期があるらしく、播磨風土記の上筥岡などの条には“宇治の天皇(菟道稚郎子)のみ世に、宇治連らの遠祖兄タカナシ・弟タカナシの二人が…”と載る。
彼の名前から察するに、彼は河内・和泉を治めるオオササギ(仁徳)と並立する、“ワ”と“キ”を治める王子であった。では、その“ワ”と“キ”の国はどのあたりにあったのだろうか。

 

3.木の国の範囲

 まづ、キ国の範囲はどうか。
 それには、菟道稚郎子の母親の里、和珥臣の勢力範囲を使おう。ワニ氏の祖先、彦国葺は崇神のハニヤス戦で山城へ侵攻勝利し、その領地を占領したようだ。
 前出の『記紀の考古学』二〇四頁に、「ワニ氏は奈良県北部・滋賀県南部・山城各地に居住した豪族である。」と述べられている。これが木国王権の最大時の範囲だったのでは。もっとも、岩波文庫本の日本書紀の注には「和珥臣は大和国添上郡南部の和邇より起った大族」とあるから、関連がないのかもしれない。
 また、謎の人物武内宿禰(前出、木国王宇豆比古の一族)の応神紀に見る4人の息子を祖先とする次の各氏も、木国の範囲と関連があろう。紀角宿禰(木臣・都奴臣・坂本臣の祖)、羽田矢代宿禰(波多臣・林臣・波美臣・星川臣・淡海臣・長谷部君の祖)、石川宿禰(曾我臣・川辺臣・田中臣・高向臣・櫻井臣・岸田臣らの祖)、木菟宿禰(平群臣・佐和良臣などの祖)と注にある。紀角は“キツの”だし、ミミズクの逸話はさておき木菟の菟は呉音ではツだ。
 なお、この応神紀三年十一月に続く是歳の条に、“是歳、百濟辰斯王立之失禮於貴國天皇。故遣紀角宿禰・…”の貴國をカシコキクニと岩波文庫本は振るが、実は木国のことで宇治天皇に対する無礼、例えば河内朝には使者が行ったが木国朝には来なかった、という事件があつたのではないか。だから、木国朝の4人の宿禰が百済へ派遣されたのである。王仁の薫陶で高句麗王の「日本に教ふ」に怒ったとは別の事件であろう。

 

4.隣のワの国とは

 菟道稚郎子が治めたもう一方の国、ワ国はどこか。
 古田先生は、古田史学の会関西の今年の新年会で、「“そらみつ大和の国”のそらみつとは九州山門郡で生まれた枕詞で、「大和」の文字を含め奈良には後世持ちこまれたものである」とおつしゃつた。また、先生著の『まぼろしの祝詞』新泉社刊では、倭にヤマトと振るのは天智末年(六七〇年)以降であると論証されている。
 では、それ以前、何と発声されていたか。それがワキのイラツコの“ワ”である。
 ワと呼ばれていたから、九州王朝に使われていた“倭“が当てられた。多分、同王朝では卑字として恥じ、対中国(倭の五王)以外は使わなくなっていたのでは。
 また、美称として“オウワ”と言っていた可能性が大である。オウワとはオウ・ワ、大の和で「大和」と当てた。大倭社も大神社もオウワの当て字だろう。
 その頃は、出雲王権の影響下にあり、出雲の大(オウ)国の支配するワ地域だったかもしれない。
出雲風土記によれば、オワはミワであるという。同風土記の宍禾郡、伊和の村の条には、“伊和の村《もとの名は神酒ミワである》大神が酒を醸したもうた。だから神酒ミワの村という。また、於和オワの村という。大神は国作りを終えてから後、「於和」と仰せられた。於和は美岐と同じ〔意味〕である。”とある。訳者の吉野浩氏の注で、「ここの原文は『等於我美岐』とあるので古くはトオガミキ・ミキトマモラムなどと読まれている。しかし、於我は於和の誤写とみてよく、『オワはミキに等しい』とよみ、於和はミワと同語で、神酒ミワは神酒ミキと同一だとする伝承であることを書いたものだろう」とある。
 この注に従えば、三輪大神の原名は於和大神であり、大神社である。奈良盆地の王者だったことを示す。
この奈良と出雲が親しい関係にあつたことは、古田先生がかつて示されたように、阿菩の大神が畝傍・香具山・耳成の争いを聞いて仲裁に乗り出した話(出雲風土記揖保郡上岡里の条)で分る。奈良の情報は出雲へ筒抜けで、出雲王権は上位者として仲介に出掛けざるをえない立場だったのだ。
ただ、なぜヤマトと発することになったのかは不祥である。推測するに、山ノ辺の“ヘ”が兄の(エ)で、南方の小ヤマトといわれる磯城地域がそれに対する山の弟(ヤマノト)となつていたのかもしれない。あるいは、かつて勢力の中心だった山城方面から見て伊賀越えや紀伊山地の入口(戸)の意味かも。

5.コの国の発見

 ここまで木をキと読んできた。紀伊と誤認されていたことや木津川と呼ぶ例を見てきたからだ。また、ある時代にはキと呼ばれていた可能性は否定できない。しかし、最古の時代には、その国は“コ”の国と呼ばれていた証拠がある。それが山城風土記逸文の宇治の条だ。

“山城の風土記にいう——宇治というのは、軽島の豊明の宮に天の下をお治めになった天皇(応神天皇)の子の宇治の若郎子は、桐原の日桁の宮を造って宮室となされた。それでその(皇子の)御名によって宇治と名付けた。もとの名は許(コ)の国という。”

 コと呼ばれていた国に木の字が当てはめられ、やがてキと読まれるようになった、と思われる。
木は最古の時代には、コと呼ばれていたらしい。神代紀のイザナギ・イザナミが国生みの後、“次生海。次生川。次生山。次生木祖句句廼馳。次生草祖草野姫。亦名野槌。…”と自然を生む。岩波文庫本では、木祖句句廼馳には「キノオヤ、ククノチ」と振られ、ククノチを註して「木の精。ククは木木(キキ)の古形、クはクダモノ(木の物)のクに同じ。木はkiの音で、kiはkoまたはkuから後になって転成した音。ノは助詞。チは勢威のあるもの」とある。本当はクのチ(神をあらわすチ)で木の国の創生神ククノチと読みとることができる。
神代上紀の神生みの第1の一書に、化生した豊国主尊の別名として“亦曰葉木国野尊”が載る。同第2一書には“葉木國、此云播擧矩爾。”とある。この「ハコ」はひょっとすると「ワキ」国の原音で、古く縄文の昔から知られた近畿の王国だったかもしれない。
 かって威勢のあった許の国はタケハニヤス王または菟道稚郎子王朝の滅亡とともに消え、河内王朝から見ての山背(山の後ろ)と記されるようになった。そして木国が紀伊に誤認される時代がはじまった。しかし、崇神やタケハニヤス、垂仁や景行までは、コ(木)の国だったに違いない。
 この山城に、奈良に先行する広域王権が存在していたことに合点がいく。それは、どんずまりで伊勢への山越えルートしかない奈良と異なり、九州・瀬戸内や山陰と、越・東海とを結ぶ物流の要の淀川・琵琶湖を制する地点だから。そのコ国王の威勢を懼れ、かっての九州からの侵入者神武は紀伊から?奈良に入ったものとも見えよう。三月例会でこれらのメモを発表したところ、事務局古賀氏から貴重なご指導をいただいた。近畿にコの国があれば、狗奴国近畿説の突破口になりますね、と。狗奴国の王は狗古智卑狗、その祖が葉木国野尊であり、ククノチ神だったのであろう。
 これら惧れを知らず述べてきた仮説(暴論?)が、もし少しでも古田先生の立論のお役に立つようなら、会員として望外の喜びである。

なお、準拠した文献は以下のとおり。
岩波文庫「古事記」倉野憲司校註
岩波文庫「日本書紀(一)(二)(三)」坂本太郎・家永三郎・井上光貞・大野晋校註
平凡社ライブラリー「風土記」吉野裕訳


 これは会報の公開です。史料批判は、『新・古代学』(新泉社)、『古代に真実を求めて』(明石書店)が適当です。
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