2003年4月1日

古田史学会報

55号

1、国際教育シンポジウム
二一世紀教育における「公」・「共」・「私」をめぐって
  -- 古田武彦氏の発言

2、歴史の曲がり角(二)
  -- 重層地名学
 古田武彦

3、キ国とワ国の論証
 西井健一郎

 学問の方法と倫理10
4、再び熟田津論争によせて
 古賀達也

5、太安萬侶  その二
  古事記成立
  斉藤里喜代

6、連載小説第十話
  真珠(2)
 深津栄美

7、九州旅行雑記
 今井敏圀

8、会活動の現況について
 事務局だより

古田史学会報一覧
ホームページに戻る

歴史の曲がり角(一)(二)(三)


歴史の曲がり角(二)

重層地名学

古田武彦

  一

 今の日本人は、不幸だ。「今」とは、遠くは明治維新(一八六八)以来の百三十五年間。近くは敗戦(一九四五)以来の五十八年間である。

 なぜ、不幸か。「幸せ恐怖症」におち入っているからだ。

 この症状は、女性に多い、という。自分が「母親以上」の幸福を“得(う)る”ことを怖れる。母親からの「嫉妬」を怖れ、第一の「いい男」とは結婚せず、第二位以下(或る場合は、第十位)の男性、一定の「不幸」が約束されている相手をあえて選択する、というのである。(岩月謙司『女は男のどこを見ているか』ちくま新書)
わたしには信じられなかった。人は皆、自己の幸福を求める。当然の欲求だ。人間の至上の権利である。ただ、それが容易に達せられない。それだけだ。──そう信じてきていたのである。

「そんな、馬鹿な。」

  それが、読後のわたしの感想だった。旅行に出る前、駅の売店で、ふと手にした小さな本だった。けれども、或る若い女性にそれを語ったとき、

「そうですよ。御存知なかったんですか。」

  と、さりげなく答えられて一驚した。七十六才の生涯で、わたしの得てきた「常識」は、あまりにもいびつだった。狭小なわくに縛られていたのであった。


  二

 この小文の目的は「女性論」ではない。右の「女性の心理」には、途方もない“歴史の背景”が感じられる。少なくとも、弥生以後(日本の場合)、累積されてきた「女性の呻吟の、壮大なドラマ」が、その背後に横たわっているように、わたしには予感された。

 しかし、この小文の目的は「歴史論」だ。遠くは、明治以降。近くは敗戦以降の日本人は、「真実をありのままに知る」という、人間にとって、まさに「至上の幸福」を手にすること自体を恐れる、その深層心理が存在する。もっとも深く、深層海流のように、体内の奥深くに、それが潜流しているように思われるのである。
 たとえば、敗戦前の「天孫降臨」説話。「天」(sky)から、天皇家の祖先(ニニギノミコト。天照大神の孫。)がこの地上へと降ってこられた。その御子孫が、我が明治天皇とその子、大正天皇、その孫、昭和天皇である。このような、途方もない「うそ」、世界の万人に嘲笑される以外にない「うそ」。それを否定し、真実のありのままを求めること、そのような「人間の幸福」は、わたしたち日本国民には決して許されてはならない。また許されるはずはない。──そのように、不幸にも思い定めてきたのであった。


   三

 この点、敗戦後も、変りはしない。
 明治維新以降、すべての教科書が喧伝してきた「日出ずる処の天子」にまつわる「うそ」。「うそ」の連続だった。
 その天子の名は「タリシホコ」。推古天皇や聖徳太子の名ではない。その天子の性は「男」。妻([渓隹*]彌─キミ─)をもつ。対して、女性の推古天皇に「妻」のあるはずはない。
     [渓隹*]は、渓に隹。ただし三水編なし。

 聖徳太子の方はも「天子」ではない。「太子」どまりだった。すなわち、やはり「タリシホコ」ではない。
 さらに、この「日出ずる処の天子」は、阿蘇山のそばにいた。

「阿蘇山あり。その石、故なくして火起り天に接する者、俗以て異となし、因って祷祭を行う。(下略)」

  阿蘇山は九州にある。大和にはない。この自明の道理を恐れ、明治以来、今日まで、代々のすべての教科書には、右の一節を「削除」してきた。教科書の形では、国民たちの「目」にふれさせないようにしっかりと「保護」してきたのであった。
 もちろん、右の道理のしめす「問題」を“予感”する人々は、いたことであろう。

「国家の教科書は、国民に『真実を知る』ことを求めてはいない。』

  のである。ただ、「自分たちの統治にとって、有益な『不真実』の歴史」を求めているだけなのではないか。そのように疑いはじめる人も、いたかもしれない。
 しかし、その問いはさししめす。あまりにも、まばゆい未来を。人間が人間の目で、何者にも恐れず、真実を求めはじめる時期の到来を。

「今までの人々には皆、封建時代以前にも、明治以後も、それで十分にやってきたのだ。『お仕着せ』の知識で満足する、という、この『不幸』に甘んじてきた。それに耐えてきたのだ。それなのに、わたしだけが『幸福』になることは許されない。」

  このような「幸せ恐怖症」の深層心理が、今もほとんどすべての日本国民の内心を冷酷に犯しつづけているのではあるまいか。わたしはそう考えた。


   四

  本筋に帰ろう。
 前回のべたように、出雲風土記の「国引き神話」はしめしていた。「出雲人は『北門』(ウラジオストック)から渡来した」ことを。神話の形ながら、そのような伝来と伝播の伝承を中核としていたのであった。
 そしてその伝承は、「黒曜石の鏃」によって裏づけされていた。考古学的に、その真実性(リアリティ)が証明されたのである。
 それだけではない。ウラジオストック周辺(約一〇〇キロ)の「黒曜石の鏃」は、その五〇パーセントは、出雲の隠岐島産だったが、四〇パーセントはちがった。はるか東北の彼方、津軽海峡圏の黒曜石(北海道の赤井川産。函館の北)だったのである。ここには

「津軽海峡圏──ウラジオストック」

  という“つながり”が明白に存在した。これは、疑いようもない、歴史事実なのである。

  わたしは思いおこす。あの多賀城碑の中の注目すべき一節を。

「(西)靺鞨国界を去る三千里。」

  「京」や「蝦夷国」「常陸国」「下野国」の国界からの、それぞれの里程が書かれているのは、わかる。しかし、なぜ「靺鞨国」を。これが不明だった。少なくとも、「古事記・日本書紀」を中心とした歴史象からは“出てきようもない”発想だったのである。

 しかしながら、別個の歴史象をしめす史書(類集書)があった。──「東日流外三郡誌」だ。
 ここでは、明白に「靺鞨」が語られていた。日本列島に至った(沿海州からの)第二陣の部族、それが「津保化(つぼけ)族」と呼ばれ、この「靺鞨」の一派だったと記されている。
 それはただ、津軽という「日本列島の東北端」だけに局限された存在ではなかった。わたしがすでに、『「姨捨て伝説」はなかった』(新風書房)でのべたように、

気多(けた)神社(丹波)
気比(けひ)神宮(敦賀)

  といった神社名や

茶屋(けや)の大門(福岡県志摩町)

 苔牟須売(こけむすめ)の神(同右)の地名、神名にも遺存している。後者は「君が代」の一節、その末尾に歌われている。
 また「おばけ」「たわけ」といった、庶民の日用語にも、その「神」を「け」と呼ぶ言語の深い痕跡をとどめている。「つぼけ」の同類語である。
 まことに、日本列島の中に

「靺鞨の足跡は深い。」

 のだ。
 けれども、このような「歴史の真相」は、古事記・日本書紀からはうかがえない。その歴史象の中には存在しないのだ。
 だが、一方の「東日流外三郡誌」からは、明瞭にうかがえる。というより、特筆大書されているのだ。最深の力点の一つをなしているのである。
 それ故にこそ、この史書のもつ、無類の貴重さをうけとめ、「歴史の真実」を確かめようとすること、そのような“人間にとっての幸せ”を「恐怖」する人々がいるのだ。
 否、「いる」などというていではない。
 この「日本国民にとって、貴重の書」を“排除”するために全力を尽くす。もちろん、学問上の論議からではない。そのような論議からは、次の命題

「古事記・日本書紀からは、沿海州という大陸側からの一支脈(半島。やがて日本列島)としての、日本の歴史は不明だ。
だが、東日流外三郡誌はその系列の伝承を含んでいる。」

  誰人にも、このこと自身を否定することは、むずかしい。それ故に、代ってこの文書の所持者(青森県、五所川原市の故、和田喜八郎氏)や学問的研究者(わたしなど)に対して「中傷」と「悪罵」の限りを投げかける外、他に道がないのである。憐れむべきだ。しかし、人間が人間の真実を求める、という「幸せ」は、いかに「嫉妬」や「恐怖症」でこれを押しこめようとしても、無理だ。そのような企ては、結局失敗する他はないのである。人間が人間としての誇りを以て立ち上ろうとするとき、一切の「幸せ恐怖症」は結局、その魔力、呪いの力を消失せざるをえない。


   五

 ウラジオストックへの探究は、さらに前進した。
 もと「北門」と呼ばれていた、この地は、中国語で「海參?(衞)」(「海參」は“なまこ”「?」は“平らかではないさま”「衞」は“まもり”)と呼ばれたあと、現在のウラジオストックとなった。ロシヤ語で「東方を征服せよ」の意という。
 右の「北門」という中心地名(国名)は、後来の「中国語」や「ロシヤ語」によって“とり変え”られた。しかし、その周辺の「中・小地名」(大字・小字)までは、変えられていないのではないか。
 昔の「江戸」は今の「東京」へと変えられても、「新宿・池袋・渋谷・大手門」など、皆「江戸以前」からのものだ。
 ウラジオストックでも、周辺地名には依然、「日本語地名」の残存形があるのではないか。これを現地においてこの目で確かめたい。これが新たな念願となった。「重層地名学」(古賀達也氏の「言語考古学」当誌二二号)のテーマである。


   六

 わたしは思い出した。子供のとき、母からくりかえし聞かされていたことを。

「農村の女の人たちは、とってもつらいのよ。」

 と。かって農村に嫁した経験をもつ母だから、その経験が反映しているのであろう。
 しかし、その「家」に反撥して“帰って”きたと(姉から)聞いているから、自分自身の「現在の心理」ではなかったであろう。(再婚の、わたしの父は教師。)
 それなのに、なぜあれほど、くりかえし、幼いわたしにあの「教え」をそそぎこんだのだろう。「農村の」それも「女」のつらさを、わたしに覚えこませようとしたのだろう。
 わたしは誤解してきた。

「あの、母の言っていたのは、戦前のことだ。敗戦後は、農地解放が行われ、小作人もなくなった。なまじっかの都会労働者より、農家の方が裕福になった。楽になったのだ。
だから、母の言っていたことは、“過去”のことなのだ。」

 そのように、考えていたのである。
 しかし、今回、知った。最初にのべた「幸せ、恐怖症」が、今も多くの女性の心の中を束縛しつづけている。その全人生の「選択」を呪縛しつづけているのだ。
 母が言っていたのは、「農村」のことではなかった。ただ、農村に例をとって「女」のおかれた運命、その呪縛を語っていたのであった。
 だから、「農地解放があったから」などというのは、まことに薄っぺらな、ことの皮相をしか見ず、知ろうともせぬ一大誤解だった。
 母は、わたしにみずからの願いを語りこめていたのである。


 これは会報の公開です。史料批判は、『新・古代学』(新泉社)、『古代に真実を求めて』(明石書店)が適当です。
新古代学の扉 インターネット事務局 E-mail は、ここから

古田史学会報五十五号

古田史学会報一覧

ホームページへ


Created & Maintaince by" Yukio Yokota"