古田史学会報
2002年 2月 5日 No.48

古田史学会報

四十八号

発行  古田史学の会 代表 水野孝夫
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古田武彦外人記者クラブ講演会報告 日本の原理主義批判─天皇家に先立つ九州王朝─ 藤沢 徹


2021.05.01訂正 西村氏より訂正の報告です。原文で確認することの大事さを再確認しました。

 

 

水滸伝中の短里

向日市 西村秀己

 「水滸伝」は私の最大の愛読書の一つである。小学校半ばに子ども向けのダイジェスト判を読んで以来四十年弱、数え切れないほど繰り返し読んできた。好漢百八人の綽名と姓名をそらんずることができる、これが私の密やかな自慢でもある。そしてその後日談を描いた「水滸後伝」。これには三十年程前に出会った。本伝が悲劇的な結末を迎えるのに対し、後伝は大団円を迎える。本伝のフラストレーションを解消するにはピッタリの書物である。
 ところがここで白状しなくてはならない。この三十年、私は書を見て読んでなかったことを。以下に述べることを私は全く見落としていたのだ。後伝と古田史学との出会いがほぼ同時期であった、にもかかわらずである。
 周知の如く水滸伝には百八人の好漢が登場する。百八人の好漢達は様々な特殊能力を有する。その中で軍隊にとって必要欠くべからざる「情報」を律するのが、神行太保戴宗である。

 『この戴院長は、他人にはまねのできない道術を心得ていた。旅に出るとか、緊急の軍事情報文書を飛ばすとかいう場合、二枚の甲馬(神仏の像をかいたお符)を両脚に結びつけて神行の法をつかえば、日によく五百里を行き、四枚の甲馬を脚に結びつければ日によく八百里を行く。そのため人々から神行太保の戴宗とよばれていたのである。』(平凡社 施耐庵編著 駒田信二訳 底本 商務印書館萬有文庫「一百二十回的水滸」)

 八百里、これは長里でいえば約三百五十キロメートルである。一日に三百五十キロメートルとはまさしく超人的である。ところが、「水滸後伝」では、こうなっているのだ。

 『さても安道全と戴宗、雑談の最中に、泰安州の知事が見えましたとの突然の知らせに、安道全は奥のへやに退きました。戴宗、出迎えて前に進み、見参の礼をほどこすのを知事はおしとどめ、「ご辺は、かつて功を朝廷に立て、官職を辞退されたとはいえ、いまは都統制の役職を授けられようとするお方、文武の差はあれ、本職とは同列、そうした敬礼はいたみ入ります。目下童枢密(童貫)は北京の守備にあたられ、金の兵と呼応して遼を破らんご計画、ご辺が一日に百数十里を歩行する術をお持ちであることを心得ておられ、…」』
(東洋文庫 陳忱作 鳥居久靖訳)

 百数十里は長里では約六十五キロメートル前後であり、普通人と比べやや健脚というべき数値でしかない。
 これはどういうことだろうか。「水滸後伝」の作者である陳忱は何故八百里を百数十里と改めたのだろうか。八百里と百数十里、この比は五・五対一。まさしく長里と短里の比率に等しい。これは偶然とは思えない。明末清初の陳忱が何故このような改変を行ったのか、これが本稿のテーマである。

 陳忱の改変の理由は次の様に考えられる。

1). 陳忱は本伝の「八百里」を知らなかった。だから適当に「百数十里」とした。

2). 陳忱は本伝の戴宗の行動記録を計算し、百数十里/日との結論に達した。

3). 戴宗には短里時代のモデルが存在し、そのモデルの行動記録を陳忱は実測値で表現した。

4). 陳忱は短里の概念を知っていた。だから「八百里」を短里と判断し長里に換算した。

 以上である。これらについて検討しよう。
 先ず、1). は有り得ない。陳忱は本伝をかなり正確にトレースしている。彼の後伝における本伝との矛盾は、祝家荘の戦いで敵側の武将として死んだ鉄棒欒廷玉が生きていて今度は仲間として合流する、くらいのものである。本伝に出てくる数値のうち、百八(梁山泊の好漢の数)三十六(梁山泊大幹部の数)七十二(梁山泊小幹部の数)九(史進の竜の刺青の数)についで戴宗の「八百里」は有名な数値といえよう。これを陳忱が知らないとするならば、陳忱は本伝を読んでいなかった、とするほかない。本伝を読まずに後伝が書けるかどうか、これは考えるまでもないだろう。
 次に2). である。結論から言えばこれも有り得ない。水滸伝の地理感覚が無茶苦茶であるのは有名な事実である。例えば、花和尚魯智深が五台山(山西省)から東京開封府(河南省)に向かう途中で山東省(それも東部)にある桃花山の麓を通る、等だ。水滸伝の作者たち(水滸伝は一人の作者によって作られた物語ではない。長い年月と数多くの講談師や文人の手によって徐々に発展してきた物語である。この物語群を統合し一つの長大なストーリーに纏め上げたのが施耐庵や羅貫中と呼ばれる正体不明の作者或いはその複数形なのである)が山東や河北を舞台としながらその地理に不案内であると伝えられる所以である。だが、煩雑を懼れず本伝中で描かれる戴宗の走行記録を眺めてみよう。

 I  江州から東京開封府 直線距離約五百五十キロメートル/五日 戴宗の一日当たりの走行距離は長里なら約二百五十里、短里なら約千四百三十里。(第三十九回)

 II 江州から梁山泊 直線距離約六百八十キロメートル/二・五日 長里約六百二十五里、短里約三千五百三十里。(第三十九回)

 III  梁山泊から少華山 直線距離約五百八十キロメートル/三日 長里約四百五十里、短里約二千五百里。(第五十九回)

 現在の中国の地図上において私の能力ではっきりと追える走行記録はこの三例だが、かくの如く、である。戴宗の能力はむしろ普通人との差を見るべきかも知れない。
 第四十回では戴宗は梁山泊から江州へ二日半で到着する。(これは先の II の帰路であるから当然だ)その戴宗の跡を追った梁山泊軍は同じ距離に七日半をかける。ここでの戴宗のスピードは普通人の三倍である。また、第五十四回では薊州で先発する戴宗を見送った公孫勝らは高唐州までの三分の二の地点で一旦高唐州に着いてから引き返した戴宗と再会する。公孫勝は三分の二。戴宗は三分の三を走った上に三分の一を引き返すのだから合計三分の四。つまり戴宗は普通人の二倍のスピード。(ただし、戴宗はこの薊州行の際、何故か甲馬を二枚つまり一日五百里分しか使っていないようなのだ。とすれば、八百里で三倍。五百里で二倍と辻褄が合う)では、水滸伝において、普通人は一日何里を歩くのだろうか。本伝中、はっきりと距離と所用日数が明示されるのは次の一例だけである。すなわち浪子燕青の泰安州行きである。

 IV 梁山泊から泰安州 直線距離約九十キロメートル/二日 長里約百里、短里約五百八十五里。(第七十四回)

 これは江戸時代の旅行者たちの一日の旅程、一般に十日本里(約四十キロメートル)とよく合う。これらから考えると、戴宗の一日の走行距離は、長里で表すならば、二百里から三百里ということになるのである。

 以上のように、本伝記事から導き出される距離は長里ならば二百里から六百二十五里であり、後伝の百数十里という数値はあまりにも過小なのだ。
 さて、では3). を考えてみよう。本伝の好漢たちには過去の有名人をモデルとし、或いは有名人のイメージを借り、又は有名人の子孫と称する人物が十数人いる。その有名人たちは秦末から宋初までに散らばる。ここに数例をあげる。

 【モデル】小李広花栄は西漢の李広。共に弓の名人である。小温候呂方は東漢の呂布。温候とは呂布の爵位であり。呂方の装束・武器は共に呂布のコピーである。豹子頭林冲は同じく東漢の張飛。二人の描写は「身長八尺、豹頭環眼、燕頷虎鬚」(この描写は東漢の班超にも通じるらしい)であり武器も同じ「丈八の蛇矛」である。その他、項羽、関羽、関索、尉遅恭、薛仁貴が好漢のモデルとなる。

 【イメージ】智多星呉用は諸葛亮のイメージをを借用する。呉用は梁山泊の軍師であり、これを国家とみれば宰相である。この呉用の字は「学究」だが号は「加亮」であり、明らかに呉用のキャラクターに「亮」即ち諸葛亮を「加」えているのである。

 【子孫】大刀関勝は関羽、双鞭呼延灼は呼延賛、青面獣楊志は楊業(楊家将演義では楊継業)のそれぞれの子孫とされ、彼等の使用武器はその先祖と全く同一である。

 水滸伝の好漢たちがこのようなモデルもしくはそれに類するものを持つ理由は何か。それは人物描写が(作者にとって)容易になるからである。例えば、郭盛は薛仁貴をモデルとするが故に、本来中華では喪服とされる白装束を常にそして全身にまとうことが受け入れられる。従って、水滸伝の作者或いは作者たちが作中の好漢のモデルを隠蔽する必然性は皆無である。

 ところが戴宗にはこの様なモデルは明示されない。さらに、短里を使用したとされる周・魏の歴史を記録した「史記」や「三国志」(三国志演義ではない)には戴宗のごとき快速の人物は登場しない。唯一考えられるモデルは「千里馬」だろうか。本伝にて戴宗を紹介する臨江仙(曲の名称)には、

 『・・・健足追わんと欲す千里の馬、・・・神行太保、術奇なる哉、程途八百里、朝に去いて暮に還り来る』(平凡社前出)

 と、唄われる。だが、千里馬がモデルではこの第3). 項の論理は成立しない。また、宮崎市定はその著書「水滸伝 虚構のなかの史実」(中公新書)の中で、
 『・・・同様な信仰は北宋滅亡後、華北が金軍に占領された後まで民間に存続した。中国人の独立部隊が、馬の形を画いて足に縛りつけ、馬よりも早く行動できる、と宣伝して金の将軍を脅した事実があった。水滸伝の神行太保の話は、まんざら作者の造り事だけではなかったのである』

 と、戴宗のモデルを暗示した。これは逆に言えば、宮崎にして戴宗の歴史的有名人のモデルを明示し得なかった証左でもある。
 だがしかし、この第3). 項を否定しきるには、もう一つの可能性を考慮する必要がある。本伝の作者たちには戴宗のモデルは存在しないとしても、陳忱が彼独自に歴史の中から戴宗のモデルを掘り起こしていた場合だ。これを解決するには私の能力はあまりに乏しい。従って、本項の諾否に関しては保留する。諸賢の論を待つべきであろう。

 最後に4). を検討しよう。陳忱の知識は陳忱ただ一人のものではない。陳忱はその読者との共通理解の中でしかこういった改変を成し得ない。即ち陳忱が短里を知っていたとするなら、清朝の他の知識人も短里を知っていたとするほかない。しかしながら、第3). 項がわずかにでも生き残ってしまったからには、本項は検討する術がなくなってしまった。何故なら本項は消去法でしか成立し得ない論理だからである。清朝において短里概念が通用したかどうか(短里を使ったかどうかではなく、短里を知っていたかどうか)は未だ闇の中でなのある。そして、今のところ清朝において短里概念の通用は痕跡すら残されてはいない。
 以上、結果としては竜頭蛇尾に終わらざるを得なかったが、一つの問題提起としてお読み戴けたなら幸いである。

 

2021.05.01訂正 公開が遅れましてすみません。

西村氏より訂正の報告です。原文で確認することの大事さを再確認しました。

編集後記(会報147号より)

 会報一四七号は初登場茂山さんに巻頭を飾って戴きました。古谷さんは久方ぶりの投稿です。
 さて、反省の弁を。小生会報四八号で「水滸伝中の短里」という小考を書きました。これは「水滸伝」において一日に八百里を走るとされる神行太保戴宗が東洋文庫「水滸後伝」では一日百数十里とされているのに気が付き、この比が一対五~六で丁度長里と短里の比率と同じ為、てっきり「後伝」の作者陳忱は短里の概念を知っており、「本伝」の短里的表記を長里に改めたと考えたのです。ところが最近「後伝」の原文を見る機会があり当該箇所を確認したところ「八百里」となっているのです。そこで調べられる限りの原文や東洋文庫以前の日本語訳を確認したらその全てが「八百里」でした。東洋文庫鳥居久靖訳と原文の全ての「里」を確認したところ、慣用的表現・固有名詞以外の全ての「里」が鳥居氏によって約六分の一にされていたのです。鳥居氏はどうやら中国の里を一里約四㎞の日本里に直したようなのです。鳥居氏にはどこかで断って欲しいものですが、やはり原文確認は大事だということですね。猛省です。(西村)

 


短里と長里の史料批判(補論) 論語と孟子の百里  京都市 古 賀 達 也

盗まれた降臨神話 『古事記』神武東征説話の新・史料批判  京都市 古 賀 達 也

随想「御立為之嶋(みたたしのしま)
                          福岡市 力石 巌

 昨年の夏、古田先生は福岡県小郡での調査を終えて七月七日福岡に来られた。重要な地名を発見したので現地で確認したいとのことでご案内することになった。行先は糸島の宮ノ浦町北崎郵便局。そして郵便局長永翁さんの案内で、二見ケ浦の丘の上に立った。

 「ここが左田ですたい。」
 地主の西さんが畑を見降ろして指差した。「佐田の岡辺」を現地に確認した瞬間でした(『壬申大乱』あとがき参照)。その後二度、二見ケ浦に行ったが、そのつど『壬申大乱』の付論「舎人の歌」のことが思い出され、或る「不満」がいつも脳裏に残っていた。以下では、そのことを書かせていただきました。

 舎人達が明日香皇子のことを思って「佐田の岡辺」に来て二見ケ浦を眺望したとすれば、二見ケ浦の「夫婦岩」が見えたと思う。二見ケ浦の「夫婦岩」は西の「芥屋の大門」と並んでこの地、糸島の名勝だ。なのに何故舎人達は「夫婦岩」を歌に詠まなかったのか。興味がなかったのだろうか。そんな思いで過ごしていた或日、「舎人の歌」二十四首の中に「夫婦岩」の事が何か出ているのではないかと思い、歌の中の地名を抜き出してみた。その結果は表 Iに示す通り、全二十六ヶ所の地名があった。



表 I
        地名  頻度

1). 島の宮他     島の宮      4
         御門       6
         御橋       1
2). 佐田の岡辺   佐田の岡辺    4
3). み立たしの島  み立たしの島   4
4). 勾の池他     勾の池      1
         上の池      1
         真弓の岡     2
         宇田の大野    1
         佐日の隈廻    1
         磯の浦廻     1
          合計     26※まとめ(地名の出現頻度)

1). 島の宮他  十一ヶ所
2). 佐田の岡辺  四ヶ所
3). み立たしの島 四ヶ所
4). 勾の池他   七ヶ所

 歌に詠まれている地名の中で最も頻度の高いのは当然、明日香皇子の「別宮」である「島の宮」およびその別称「御門」で合計十一ヶ所。次に多い地名が「佐田の岡辺」と「み立たしの島」で各四ヶ所となっている。
 この地名の中で、もし名勝、二見ケ浦の「夫婦岩」が詠み込まれているとすれば、3). の「み立たしの島」以外にはない。「み立たしの島」を詠んでいる四首は次の通りである。

(A)み立たしの島を見る時にはたづみ、  流るる涙止めそかねつる(一七八)
(B)み立たしの島をも家と住む鳥も、荒  びな行きそ年かはるまで(一八〇)
(C)み立たしの島の荒磯を今見れば、生  いざりし草生いにけるかも(一八一)
(D)朝曇り日の入りぬればみ立たしの島  に下り居て嘆きつるかも(一八八)

 「み立たしの島」とは、「皇子が立っておられた庭園」とされている(岩波、新日本古典文学大系)。「庭園」は、従来説では「島」のことだから(『壬申大乱』)、「み立たしの島」とは、「皇子が立っておられた島」ということになる。この「み立たしの島」と「島の宮」の「島」は同一の島なのだろうか。「島の宮」の「島」は糸島半島(志摩郡)全体をさす(『壬申大乱』)。そこで、前記した四首の歌それぞれについて検討してみる。

 (A)「み立たしの島」を見る時、皇子の事が憶い出されて涙が目に溢れ、流れ出るのを止めようがない、と歌っている。「み立たしの島」が糸島の全体であれば、この歌の作者は「み立たしの島」の外側(例えば志賀島)から見て歌っていることになる。作者が「み立たしの島」の中に居ては自分の四方皆島中であり、視座が定まらない。不自然である。
 「み立たしの島」が志摩郡の中にある特定の小さな島であれば、志摩郡内で歌ったとしても意味は通じる。
 この作者にとって、皇子の憶い出の「島」が間近に見え、「島」の形、色、草や木の様子がよく分かる位置で見る時、皇子の憶い出が強く脳裏に写し出され、目が「庭多泉」状態になるのではなかろうか。

 (B)皇子の憶い出の残るこの「み島」(み立たしの島の略)にいつも休んでいる鳥達よ、お前達も皇子の死を悲しんでくれるのか、せめて年のかわるまで、荒れないで居ておくれ。「み島」は皇子の憶いでの強く残る、ある特定の場所であり、この「鳥」も特定の「鳥」であろう。志摩郡全体には、多種かつ多数の鳥類が生息している。「み島」が志摩郡全体ならば、そこに住む全ての鳥に向かって、このように感情移入することは考えにくい。「み島」とそこに住む鳥は、この歌の作者と皇子の命との関係を憶い出させる特定の対象なのだと思われる。

 (C)昔、皇子の御供をして「み島」の磯で遊んだあの時には、たしかこの草は生えていなかったんだが、と歌の作者は皇子と過ごした往時を懐古している。作者は、憶い出の場所に生えている、つわぶきやショーマやつる菜など海浜性の植物を間近で観察してこの歌を作っている。「み島」が志摩郡全体であれば、その荒磯を遠距離から見て、このように詳細な表現をすることは無理である。

 (D)朝、晴れていれば他に仕事の予定であったのだろうか、この作者は太陽が雲に隠れると磯の上の小高い丘(または山)から磯伝いに降り、「み島」に渡って在りし日の皇子を憶い出して嘆いてい
る。「み島」が志摩郡全体ならば、この作者は天空より「み島」に下降する他はない。まるでおとぎ話である。

 以上の考察から、この「み島」即ち「み立たしの島」は次のような島である事が解る。
 即ち、

1). 「島の宮」、「佐田の岡辺」などの近くに位置している。

2). この島は低い小さな島であり、近くの山や丘から磯伝いに降りられる(大潮の時)。

3). この島事態が荒磯の一部となっている。

4). この島には常に鳥が休んでいる。

5). この島は、人々に尊崇されている(敬語の対象は皇子ではなくこの島自信であると考える)。

 この五条件を全部満足する島、それが、二見ケ浦の「夫婦岩」だ。

 この島をおいて他にはない。志摩郡は、それ自身が島であったと考えられるが、周囲に島嶼は少ない。玄海島(径一・五キロメートル)と二、三の周囲の小島および姫島(径一・三キロメートル)を除けば、二見ケ浦の夫婦岩、幣の浜の渡島とコブ島、小田の縄瀬、船越の平瀬などの碆があり、全体として島は少ない。
 二見ケ浦の「夫婦岩」は、宇良宮(浦の宮)とも呼ばれ古代より当地、汐斎浜の御神体である。宇良宮や岩戸神社(奥宮)は桜井神社の摂社であるが、摂社の方で古い神様を祭っている。桜井神社の創建は寛永二年(一六二五)とされている。宇良宮は毎年五月の初めの大潮干潮に「夫婦岩大注連縄掛祭」が斎行される。重さ一屯の大注連縄を数十人の氏子が磯伝いに持ち渡り、長さ三十米のスパンで注連縄を張る。磯には、ヒジキ、ワカメが育ち、潮斎浜には、つわぶき・つる菜が生えていて食用に採取するのは春の楽しみのひと時である。
 「夫婦岩」から東方三百米に「佐田の岡辺」がある。「佐田」は「西ケ岳」の北側の斜面にあり、畑となっている。「夫婦岩」の南側の磯の上の山(二見霊園)から下を見下ろせば、青い海の中に注連縄でむすばれた黒い双錐体の「夫婦岩」がくっきりと浮かんで見える。囲りに島なく、沖は広々とした玄界灘、水伝う磯の浦廻の海中に二つの神(二見)様が仲睦まじくお立ちになっている。黒くごつごつした岩肌に、潜り疲れた海の鵜達がいつも西方に顔を向けて一斉に羽を休めている。
 二見ケ浦に来る度に見る風景である。

 御立為之嶋(み立たしの島)とは、二見ケ浦の「夫婦岩」のことではないか。私はこのように考え、従来の解釈に対して「不満」を感じていた。田端義夫の「島育ち」の一節に「沖の立神、沖の立神や、また片瀬波」というのがあるが、海の神様はお立ちになっていらっしゃるのではないか。私の考え過ぎか、勘違いか、そのうち古田先生に聞いてみようと思っている。
 (平成十四年一月十三日)

盗まれた年号 ー白鳳年号の史料批判ー  京都市 古 賀 達 也

第三回 古代武器研究会を傍聴して

生駒市 伊東義彰

 

日時 平成十四年一月十三日
   九時三十分~十六時

会場 滋賀県立大学交流センター研修室

参加者 古田先生、古賀達也氏、木村賢司氏、伊東義彰


  はじめに

 古代武器研究会は一月十二日・十三日の二日間にわたって開催されましたが、両日とも参加されたのは古田先生だけで、小生以下三名は十三日のみ傍聴致しました。
 ポスターセッションに出展されるため、開会時間より早めに着いて準備する必要があり、早朝七時に近鉄西大寺駅で待ち合わせをし、名神高速を走って九時頃に到着しました。わたしが京都の地理に不案内のため、早朝から奈良の西大寺まで出向いていただくことになり、大変恐縮すると同時に、先生のいつもと変わらぬ元気なお姿を拝見して、改めて気持ちを引き締めた次第です。木村さんは前日から近江舞子に所有されている別荘の手入れに来ておられたとかで、会場で合流しました。
 傍聴した感想を書いて欲しいと古賀さんから依頼されたものの、わたしの非才では微に入り細にわたる専門家の研究発表を理解するのはいささか困難で、加えて、まことに失礼ながら発表者の全てが話し上手とは限らず、とてものことに内容を把握するまでには至りませんでした。あしからずご了承下さい。


  研究発表

『Spangenhelm and Scale Armour ─日本古墳時代に相当する西アジア─欧州の武具概観』
 濱田英作(国士舘大学 アジア・日本研究センター)

*資料 英国Osprey Publishing Ltd,刊行の“メン・アット・アームス”シリーズによる、古代兵器の考証と復元。と題し、Osprey seriesの概要を十九頁に及ぶ英文で掲載、民族と世紀ごとに騎馬兵の挿し絵あり(恥ずかしながら翻訳するだけの英語力を持ち合わせておりません)。

*内容 上記英文の要所と思われるところを解説、その上で自説を簡単に述べておられました。
1). Spangenhelmー留め金付き兜(複数の鉄板を留め金で繋いだもの)。
2). Scale Armourー魚鱗甲(ぎょりんこう)。皮革などの胴着に小札を一面に縫いつけた鎧。
3). Lmellar Quirssー層状重ね鎧。小札を革ひもなどで繋いだ桂甲状の鎧。
4). ラメラー・クィラスは日本の古墳時代の桂甲に、シュパンゲンヘルムは同じく眉庇付冑に相当する。
5). 従来説によると、武具や武器は、地域ごとの必要性に応じて生まれ発展してきたものとされており、地域を超えた共通性があったとしても、それは必要性から生じた偶然に過ぎないと考えられている。しかし、鎧、兜などに地域を超えた共通性が見られるのは、北方民族が南方の帝国を侵略し始めた結果であって、北方民族の武具・武器などが広く南方の帝国に伝わったものである。

*感想
1).  世紀別の西アジア(パルチア、ササン朝など)やヨーロッパ(ゲルマン諸族)の重装騎兵の挿し絵からは、日本の古墳時代に相当する世紀の鐙が確認できませんでした。
2).  挿し絵の騎兵たちは何故か弓矢を携帯していません。日本の古墳からは銅製や鉄製の鏃が数多く出土しています。重装備の騎兵には必要ないのでしょう。
3).  日本の古墳からは、鉄板(三角板や長方形板)を鋲留めしたり、革ひもで綴じた短甲が数多く出土していますが、挿し絵の騎兵は全て小札(魚鱗甲にせよ、層状重ね鎧にせよ)を用いた鎧ばかりでです。
4).  磐井の事件が英文で紹介されているのに驚きました。眉庇付冑と桂甲を着用して立っている二人の武人と馬を描いた挿し絵があり、一人は首から足首まで桂甲で覆われています。おそらく騎乗者のつもりなのでしょう、桂甲製の膝鎧・臑当とでも言うべきものを着けています。浅学ゆえに未だ古墳時代の桂甲製臑当や膝鎧を見たことも出土例を聞いたこともありませんが、相川考古館所蔵の武装人物埴輪がそれらしいものを着用しているようでした(写真で確認)。もう一人は足には桂甲を着けておらず、裾の開いた短いスカートのような草摺を着けており、これでは草摺が邪魔になって馬に乗れませんから、おそらく歩兵のつもりかと思われます。しかし、桂甲をまとった姿はかなりの重装備ですから、これで行軍や敏捷な動きが必要な戦闘に適しているとは思えません。転んだら起きあがるのも大変でしょう。さらに、二人とも当時の最強の武器であったはずの弓を携えていませんでした。日本では弓を携え靫を背負った武人埴輪が数多く見つかっています。前述の武装人物埴輪も左手に弓を持ち靫を背負っています。
 尚、日本の古墳からは鎧の一部である草摺や綿噛が、埴輪には装着されているのに、何故か出土しません。おそらく革などの有機物で造られていたものと考えられています。
5).  日本の古墳時代に重装騎兵軍団や密集重装歩兵軍団が存在したとは考えられません。



『弥生時代の銅鏃の地域性と変革』
 高田健一(鳥取県教育委員会文化課)

*資料
 弥生時代銅鏃の鋳型とその製品の図
 弥生時代銅鏃の未成品の図
 古墳時代初期の銅鏃の図
 弥生時代銅鏃の分布図

*内容
1).  銅鏃はその形状によって紡錘形・無逆刺三角形・有逆刺三角形・柳葉形・短茎形など種類も多く、地域によってそれぞれ特徴を持っているが、概して言えば、先の尖って(鋭角)いるものが中心で、古墳時代初期のものと比べて若干小型のものが多いようである。
2).  出土した未成品や鋳型から、何本もの鏃の型を連ねた鋳型(連鋳式)で鋳造したことがわかる。
3).  銅鏃の成分は、錫や亜鉛の含有量が極めて少なく、良質なものとは言いがたい。
4).  古墳時代初期のものは、錫や亜鉛の含有量(二〇%前後)が多くなって持続性や殺傷力がかなり高くなり、埋葬用の装飾品と言うよりは実用品であったと思われる。 
5).  古墳時代の鉄鏃は茎が異常と思われるぐらい長くなっている。

*感想  わたし(筆者)が訊きたかったのは、初期古墳から出土する銅鏃が副葬用につくられた装飾品か、あるいは実用品が副葬されたものかと言うことでした。橿原考古学博物館に展示されているメスリ山古墳出土の銅鏃の、そのあまりの白い輝きと鋭く研ぎ澄まされた刃が副葬用だけにつくられたものとはとても思えなかったからです。革甲などは苦もなく突き抜けて肉や骨まで切り裂く殺傷力があると感じました。今日はそれが確認できました。


『甲冑と甲冑形埴輪』
 藤田和尊(御所市教委句委員会)

*資料 各地の各種甲冑形埴輪と石人六八体の図
 甲冑形埴輪の写実度認定基準とそれに基づく分類一覧表

*内容
1).  古墳時代中期の甲冑形埴輪については、有機質製の甲冑を写したものが多いとの主張に対する反論。
2).  有機質製の甲冑を写したものが多いとすれば、首長層は古墳に副葬された鉄製甲冑以外にも有機質製の甲冑も所有し、着用していたことになるが、果たしていかがなものか。
3).  有機質製の甲冑と見えるのは、甲冑形埴輪制作者の甲冑に対する馴染みの多寡によって、写実度の高低に差が生じる場合があるのではないかと考える。
4).  前記資料を指摘しながら説明。中期前葉の甲冑形埴輪の写実度は低い場合が多く、時期が下るに連れて高い場合が多いことが判明。百舌鳥・古市古墳群や日向・上野など、甲冑の集中管理体制(?)を想定し、甲冑保有率(?)の高い地域では原則として時期を問わず写実度が高い。逆に甲冑保有率の低い豊後・因幡・美作・丹後などの地方では写実度の低い甲冑形埴輪が目立つ。
5).  甲冑形埴輪は、その製作者の甲冑に対する馴染みの多寡によって写実度の高低に差が生じている。このことは、革製草摺などを除く有機質製甲冑の存在に否定的要素となる。

*感想
1).  革製衝角付冑や有機質製草摺を除く有機質製甲冑の存在しないことを、甲冑形埴輪の写実度の高低によって立論しようとされているようでした。
2).  豊後の日田石人や日塚石人は短甲と草摺を備えているが、冑がない。これを以てこの古墳の主は生前に冑を持たない武装をしていたのではないかと推測しておられたが、弓矢や刀槍の戦闘で人体のもっとも大事な首から上を防御しないなど考えられないし、さらに上級の支配者から戦闘への参加を命じられたとき、冑のない武装で従軍したのだろうかとの疑問を感じざるを得ません。
3).  写実度の低い例として、因幡の長瀬高浜の埴輪には頸鎧がなく、帯金と地板の区別が全くないことを上げておられました。しかし、錣を装着した衝角付冑や肩鎧・草摺などはかなり丁寧につくられています。
4).  埴輪や石人をつくるとき、甲冑に馴染みの薄い製作者であるほど現物を何度も確かめながら作業したのではないでしょうか。甲冑姿の特に強調したいところがあって、不必要(あるいは邪魔)なところを省いたように思われてなりませんでした。 


 原稿枚数の都合により、以下は割愛します。

『日本列島の初期の馬具生産』
 千賀 久(奈良県立橿原考古学研究所附属博物館)

『木製鐙の話題』
1). 「纏向遺跡出土の木製輪鐙」橋本輝彦(桜井市立埋蔵文化財センター)
2). 「湖北の馬事文化について」西原雄大(長浜市教育委員会)
3). 「蔀屋北遺跡出土の木製鐙」宮崎泰史(大阪府教育委員会)


  討論会

 二十名近くの武器・武具・馬具の専門家が参加。特に決まったテーマ無し。
 発掘された豪族の館跡やその周辺に防御施設らしいものがほとんどない、との議論の後、古田先生が「古代の軍事要塞である神籠石についても議論を深めて欲しい」と発言されましたが、何の議論もないまま終了してしまいました。


  ポスターセッション
1).  野洲町甲山古墳と円山古墳出土武器(野洲町教育委員会)

2).  長浜市神宮寺遺跡出土木製鞍・鐙、金剛寺遺跡出土木製鐙(長浜市教育委員会)

3).  桜井市箸墓古墳出土木製鐙(桜井市教委区委員会)

4).  四条畷市蔀屋北遺跡出土木製鐙(大阪府教育委員会)

5).  仙台市藤田新田遺跡出土木製鐙(東北歴史博物館)

6).  古代の軍事要塞─考古学の遠近法(神籠石の写真)─(古田武彦)


追記 休憩時間には、古田先生の展示の前に大勢の人が集まり、段ボール箱一杯に用意していった資料がほとんど捌けてしまいました。参加者の関心がかなり高かったと確信しています。尚、1). の甲山古墳と円山古墳(ともに横穴式石室で六世紀前半)の石棺は、ともに九州産の阿蘇ピンク石で造られています。



クエを九州ではアラと呼ぶ


豊中市 木村賢司

 新年あけましておめでとうございます。本年もよろしくお願い申し上げます。
 昨年末の南紀調査旅行で、夕食をしながらの懇談時に、先生は、先生の教え子が映画監督になられ、このほど、高倉健が主演の「ホタル」を作成された。招待券が送られてきたので、見に行った。そこでは、特攻上がりの主人公が知覧(鹿児島)の海で漁師になり、「アラ」釣りに行くシーンがあった。「アラ」は土佐や関西では「クエ」と呼ぶらしい。と言われた。私は、「アラ」と「クエ」は品種が違う。どちらも大型魚であることには変わりはありませんが・・・。と申し上げた。
 その時は、釣り魚のことなので、私もかなり自信を持って申し上げたのですが、正月に手持ちの「さかな大図鑑」(株式会社週間釣りサンデー発行)で確かめておこうと、「クエ」の欄を見ていると「クエは関東でモロコと呼び九州ではアラと言う。モロコもアラも同じような名前を持つ別種の魚がいるのでややこしい」とあった。
 私はクエを別名でモロコと呼ばれることは知っていた。琵琶湖特産の小魚であるモロコも良く知っていた。でも、クエの別名にアラもあることは知らなかった。
 先生がアラと言ったとき、私の知っている同じく大型魚であるアラ(スズキ科)のことと思い、アラはクエ(ハタ科)ではない。混同されている。と思っての発言であった。大図鑑に載っているクエ(ハタ科)とアラ(スズキ科)のコピーを、ご参考までに同封致します。
 魚の呼び名が、地方、地方によって、異なる場合があることは、よく知っておりましたが、クエがアラとは、アラ、アラ、という思いです。では、アラ(スズキ科)のことを、九州ではなんと呼ぶのか、知りたくなりました。
 磯釣りの代表的な魚であるメジナ(関東・正式名)は、関西ではグレと呼び、九州ではクロと呼ぶ。私は九州の方がクロ、クロと呼ぶので、はじめ黒鯛のことかと思っていましたが違った。黒鯛の成魚は関西ではチヌと呼び、南九州ではチンと呼ぶ。また、幼魚と成魚で呼び名が異なる魚も多い。出世魚の代表である「ブリ」は、関東ではワカシーイナダーワラサーブリとなるが、関西ではツバスーハマチーメジローブリとなる。
 少し言い訳がましくなりましたが、古代史関係でも、今回のように誤りや混同しているものが、なかには、あるかも知れないと思うようになりました。「呼び名が同じで違う場合」と「呼び名が違うが同じ場合」である。
 原文改定は慎重の上にも慎重にとの、先生の教えがどこかにあって、図鑑で確認、私の誤りが訂正できた。と感謝しております。
 でも、高倉健は、本当は、熊本ではイシアラ、和歌山では大師魚とも呼ばれる巨大魚、九州南部では数が少ないといわれる、イシナギ釣りに出かけたのでは? 私は釣りロマンとして、そう感じています。いや、願っています。

 〇二・一・五


会報四七号の正誤表(全て訂正済み)

六頁3段後二行
(誤)ローの法王 →(正)ローマ法王
六頁4段一~二行
(誤)ハルン・ラソッド→(正)ハルン・アル・ラソッド
 お詫び申し上げ、訂正いたします。


□□事務局だより□□□□□□
▼十二月、古田先生と熊野猪垣調査に行った。その中で神武説話を巡って先生と討議を重ね、本号掲載の拙稿が誕生した。その後も研究は進み、既に書き直しが迫られている。
▼一月、滋賀県立大学での武器研究会に参加。そこでの学問レベルに落胆した。一元通念は古代史のあらゆる分野で醜態を晒している。ポスターセッションで古田先生が掲げた軍事要塞神籠石の分布図に、誰一人として答えられるはずもない。
▼大阪での新年講演会に上岡龍太郎氏が見えられていた。最近、本を出され、古田史学や東日流外三郡誌についても、歯切れよく触れられている。いわく、古代史は古田武彦だけ見ていれば良い。
▼古田武彦著作集の刊行が開始された。是非、お近くの図書館へ購入を働きかけて欲しい。できれば会員の皆様にも買って頂きたい。古田史学を後世に伝える為の一大事業だからだ。刊行に踏み切った明石書店に感謝。
▼本号掲載の力石稿は土地勘に裏づけられた好論。つられて、古田先生の『壬申大乱』(東洋書林、昨年十月刊)を再読。
▼次号回しになった好論もあり、編集が楽しい。会外からも本紙への賞讃が届く。有り難いことだ。@koga


 これは会報の公開です。史料批判は、『新・古代学』第一集~第五集(新泉社)、『古代に真実を求めて』(明石書店)第一~六集が適当です。 (全国の主要な公立図書館に御座います。)

新古代学の扉 インターネット事務局 E-mail sinkodai@furutasigaku.jp


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