日本の原理主義批判 ー天皇家に先立つ九州王朝ー

古田史学論集『古代に真実を求めて』 第五集 二〇〇二年掲載予定 明石書店

古田史学会報
2002年 2月 5日 No.48


社団法人・日本外国特派員協会2001年10月 5日発表要旨

日本の原理主義批判

ー天皇家に先立つ九州王朝ー

古田武彦と古代史を研究する会会長 藤沢 徹

 十月五日(金)、(社)日本外国人特派員協会主催のもと、有楽町の電気ビルの同協会で十二時から二時間昼食講演会が開かれた。司会は同協会副会長オランダのハンデルスブラッド紙特派員のヴァン・デル・ルフト氏。通訳は同協会の臼井直昭氏。
 古田先生は、「日本の原理主義批判」の題、『天皇家に先立つ九州王朝』の副題で講演し、引き続き質疑を行った五十名近い内外の出席者は「初めて聞いた」など感銘を隠さなかった。
 講演の要旨は次のとおりで、文責は筆者にある。

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1.
 最近話題となった教科書問題は、実は客観的に見ると、「コップの中の嵐」である。
 なぜなら、いわゆる「新しい歴史教科書」のみならず、他の7種類の教科書もまた、すべて「明治以降の『官撰』歴史」の立場に依拠しているからである。それは、日本の歴史を、ひたすら「天皇家中心一元主義」の立場から叙述し、それと矛盾する史実や歴史現象は一切これを排除する、という“国粋主義(ウルトラ・ナショナリズム)”の立場である。
 その立場がわが国では、明治以来、この130年間継続され、その立場の「不正直な歴史」の教科書によって「洗脳」されつづけた国民が、明治・大正・昭和・平成の4代にわたって、おびただしく生み出されてきたため、彼等(日本国民一般 )自身が今やそれを“自覚しえぬ”状態にまで入りこんでいる。危険である。

2.
 その点を、もっとも率直に証言しているもの、それが隣国である中国の代々の歴史書である。中国では、前2世紀(史記)より断絶することなく、「正史」が記述されてきた。中国では一つの王朝が滅亡すると、その直後、前王朝の歴史を「記し定める」という、世界でも稀な一大記録国家だったのである。
 その「正史」には、隣国である「倭国」すなわち日本列島(の西部)に関する記事が1世紀(漢書)以来、継続している。第一に、中国(後漢、前57年)から与えられた金印が九州の北岸部(博多湾の志賀島)から出土している。第二に7世紀に到来して倭王に会った中国(隋)の使が、その報告(にもとづく隋書)の中に、倭国の特色ある風物として、九州の名山を特記し、「阿蘇山有り、火起りて天に接す」と書いているように、「日出ずる処の天子」(隋書)で有名な7世紀前半においてもなお、「倭国」の中心(都)は九州(福岡県の太宰府)にあったことがあきらかである。※
 さらに日本側と最も交流の深かった中国の王朝「唐」の歴史を記した二つの歴史書(旧唐書と新唐書)は、二言とも、「7世紀末以前」を以て九州(福岡県)を中心とする「倭国」とし、「8世紀以降」を以て、近畿(奈良県と京都府)を中心とした「日本国」として記述している。
 交流濃密の時期の唐が、このような国家の基本事実を“まちがう”はずがない。

3.
 一時代の権力がいかに「不正直な歴史」によって「国民に対する洗脳」をつづけてみたとしても、真実はゆるがず、かっ雄弁である。
 それは次頁の1枚の地図をしめせば、足りる(他に愛媛県、岡山県、各1、類同)これらは神籠石と呼ばれる山城群である。


 数百メートルから千メートル近い山地群の中腹に煉瓦状に切りそろえられた巨石が、山腹の周囲を取り巻き配置されている。山城の外柵(二重)の基石である。その一部には、必ず水門がある。敵の侵入にさいし、この山中に籠る兵士や民衆のために作られた「水の施設」である。これが外敵(高句麗や新羅や唐等)の侵入に対して設けられた軍事的要塞の“残骸”であること、疑いがたい。
 成立の時期は従来「6~7世紀」といわれていたが、最近の「年輪測定法」によれば、測定の70-80%のケースは従来の「土器にもとづく考古学編年」の結果 を約100年前後、さかのぼっている。従ってこの神籠石山城群の場合も、これが「5-6世紀」の成立となる可能性は高い。では、この軍事要塞群の建造者は誰か。当然、その内部の中枢域に当る「筑紫(現地音ちくし、現在の福岡県)・肥前(現在の佐賀県)の中心王者」(太宰府と筑後川流域中心)である。決して近畿の天皇家ではない。
 この自明の事実に対して、明治以後の「官撰」の歴史学は、目をそむけ、教科書からこの図を「削除」してきたのである。
 この軍事要塞は、当然白村江の戦い(唐及ぴ新羅と倭国及ぴ百済。唐側の完勝。662年あるいは663年)以前の存在である。従って7世紀前半の推古天皇・聖徳太子を以て「日本列島中心の王者」であるかのように“宣布”してきた、明治以降、今日に至る日本の学界と教科書はすべて決定的に「不正直」だったのである。

4.
 江戸時代に「鎖国」の中で偏狭な「国粋」主義(ウルトラ・ナショナリズム)が高揚された。それが一方では水戸学(儒教)、他方では国学(国文学)として派を立て、明治維新の成立に甚大な影響を与えた。維新の成立後、二派協力して「神道、原理主義」と称すべき国家的イデオロギーを樹立した。その歴史像がその後130年の日本の思想界の基本となっている。
  ために、敗戦(1945年)後は、表面、学問・思想の自由の立場から、異説の「公示」や「発表」は認めておきながら、通 例これを「論議や論争」の対象にはしない。これが日本史学のプロの専門家にとって、内密の「処世術」となったのである。
 このような姑息な雰囲気の中で、もし人間精神の独創を求めるならば、いわゆる「木に登って魚を求める」たぐいと言う他はない。
 日本のウルトラナショナリズム下の歴史像によって「洗脳」されてはいない外国人記者諸氏の前で、わたしは人間としての理性にのみ期待しつつ、これをあえて発表させていただくこととしたのである。

 ※太宰府には「紫宸殿」「内裏」「朱雀門」といった地名(字 あざ)が遺存している。ここに「天子の居処」のあった証拠である。

一2001年 9月15日記一


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著作  古田武彦