日本国家に求める 箸墓発掘の学問的基礎

古田史学会報
2000年10月11日 No.40


日本国家に求める

        ・・・箸墓発掘の学問的基礎・・・
                   古田武彦

    一

 近年における考古学上の発掘の成果はめざましい。たとえば、ホケノ山古墳(二〇〇〇・三月)や黒塚古墳(一九九八・一月)をはじめ、各地に新発見の遺跡の報告類や写真が日々の紙面で人々の目を奪っている。
 しかし「では、日本の古代史の全体像は、格段に鮮明となったか。」「いわゆる『邪馬台国』をめぐる、従来の疑問は氷解したか。」そのように問われれば、誰しも直ちに「イエス」と答えうる専門家、またジャーナリストは、おそらくきわめて“少ない”であろう。これが実態ではあるまいか。
 それどころか、逆に、従来には“なかった”困難と、新たな“晦冥”の相が現出した、或いは増大したとさえ言いうるのである。
 そのような現状を具体的に明らかにしてみよう。


    二

 先ず、ホケノ山古墳の場合。この古墳の成立年代は三世紀前半(前後)とされた。三国志の魏志倭人伝の卑弥呼の時代である。いわゆる「三角縁神獣鏡」中に現われた紀年銘として知られる「青龍三年(二三五)」や「景初三年(二三九)」などの時点と、ほぼ「同時代」に当る。或はそれに“近い”と言いえよう。しかし、「三角縁神獣鏡」は一枚も出現せず、出現した“形跡”もなかった。 (1)
 それとは逆に、「復元」すれば、約二十六センチの直径かと想定される「内行花文鏡」の破片が出土していた(未公開)。(2) この“大きさ”は明らかに“イ方*製”としてのスケールだ。中国鏡には、ほとんど存在しない。そしてあの有名な、平原遺跡(福岡県)出土の巨大内行花文鏡(直径四十六・五センチ。四〜五面)に対してその“下位”に立つ姿をしめしている。
 以上、いずれも決して「近畿中心」の文明分布をしめすものではなかった。むしろ、逆の「北部九州、中心」の文明分布さえ、避けがたく暗示していたのである。 (3)

インターネット事務局注記2003.9.30
イ方*は、人編に方です。


    三

 次に、黒塚古墳の場合。未盗掘古墳の学術発掘として画期的だった。従来、最大の「三角縁神獣鏡」出土数を誇っていた、椿井大塚山古墳(京都府)と並ぶ、圧倒的な当鏡の出土状況をしめしたのである。
 しかし、反面、“困難な”実情がしめされた。すなわち、それらの「三角縁神獣鏡」はすべて、棺外にあり、棺内にあったもの、それは画文帯神獣鏡一面のみであり、問題の「三角縁神獣鏡」ではなかったのである。
 困難は、それだけではなかった。従来の小林行雄氏の著名な「配布理論」では、専ら椿井大塚山古墳が「一元的中心」をなしてきた。しかしながら、右と同類規模(三十余面)の黒塚古墳が現われた以上、今後は「二元的中心」を説かねばならなくなったのである。
 ために、当古墳発掘の研究調査部長の河上邦彦氏が改めて公然と「三角縁神獣鏡、非魏鏡」説を説かれる姿にしばしばわたしたちは接するようになったのである。


    四

 以上の経過を経て、真の“困難”は、その次に来た。なぜなら、「三角縁神獣鏡」を「非、魏鏡」の葬具と断じた河上氏は、「卑弥呼の墓」として、最大の可能性をもつ墳墓に、有名な箸墓古墳(奈良県)を以て当てられることとなった。一方では「非、魏鏡」説、他方では「邪馬台国、近畿」説、両説「共存」の道を歩まれることとなったのである。
 それは、ひとり河上氏だけではない。早くから「三角縁神獣鏡、非魏鏡」説を示唆しつづけてきた森浩一氏もまた「箸墓古墳」に対し、卑弥呼の後継者たる「台与(壱与)」の墓としての大きな可能性を示唆されるに至ったのである。
 もちろん、「三角縁神獣鏡、魏鏡」説の中心にある樋口隆康氏等、考古学界の多数説の研究者にとっては、箸墓古墳を含む、近畿の「天皇陵及び準天皇陵」の巨大古墳群はまさに「邪馬台国」の直接なる後継と発展であること、疑うべくもないところであった。
 それ故、今やこの箸墓古墳の存在は、考古学界の多数派(樋口氏等)にとっても、また少数派(森氏等)にとつても、同じく「期待の眼射し」のそそがれるべき、魅惑の中枢古墳として、学界の中心に屹立することとなった----これが現況である。


    五

 箸墓に対する研究論文は、研究史上少なくない。その代表的なものを左にあげよう。

 A、笠井新也「卑弥呼の冢墓と箸墓」(考古学雑誌、三二-七、一九四二年七月)
 B、土橋 寛「箸墓物語について」(古代学研究、七二号、一九七四年)
 C、森 浩一「箸墓古墳とその時代」(『図説日本の古代・4(諸王権の造型)』所収、一九九〇年、中央公論社刊)
 D、大和岩雄「箸墓古墳と箸墓伝承(上、下)--邪馬台国女王台与に関連して--」(東アジアの古代文化、No.64 、No.65 )「箸墓古墳の被

葬者をめぐって--文献史料と考古資料の扱い方について--」同右、No.103 )

 E、近藤義郎「箸墓古墳築造の意義」(東アジアの古代文化、No.84 )
 F、山上伊豆母「三輪山と箸墓伝承」(東アジアの古代文化、No.86 )
 他にも、論文内において「箸墓」について論及したものなどを含めて、その数は多い。

 しかし、本稿は「箸墓古墳の研究史」を目途とする叙述ではないから、その詳細に立ち入って縷述する繁を避け、直ちに、わたしの立論を述べ、従来の諸家の論点との学問的相異を明らかにしよう。


    六

 第一に論ずべきは「径百余歩」の実長問題である。
 三国志の魏志倭人伝中、卑弥呼の墓について右の表記のあること、著名であるが、これを実際の墳墓に対する比定を行なう場合には、その「実長」を正確に判定すべき点、それが技術的、実証的基礎であること、疑いがない。
 周知のように、次のような「里--歩」の関係が知られている。

 古者三百歩、里と為す。
     (穀梁伝、宣、十五)
 周制三百歩、里と為す。
     (孔子家語、王言解)
 里、路程、三百六十歩を以て一里と為す。
     (正字通・・・明代)

 後代(唐以降)は「三百六十歩=一里」となったのであるけれど、周代以降、ながらく「三百歩=一里」の制が守られていたことが知られている。
 すなわち、

 「『里』制と『歩』の実長とは連動し、比例関係をなしている。」

 この定則が浮び上ってくる。ここに、わたしたちがくりかえし提起してきた

 「短里と長里」

の問題が、この「径百余歩」の実長問題に対して重大なる関係をもつことが知られよう。 (4)


    七

 秦・漢代の「長里」については、「約四三五メートル(前後)」(注記(4)、参照)だ。

 数は六を以て紀となす。符、法、冠、皆六寸。而して輿は六尺。六尺、歩と為す。
      (史記、秦始皇紀)

 右にしめされたように、「六尺=一歩」の定式から、尺の実物(秦、漢等)によって知られた実長(二三・〇四センチ等)によって「歩」の実長を知り、その「歩」の実長の「三〇〇倍」として、「里」の実長を算出したのである。(そのため、若干の「幅」をもつ。)
 従って、倭人伝の「径百余歩」に関しても、右の「約四三五メートル(前後)」の「三〇〇分の一」としての「一歩」を「約一・二五メートル」とみなした。ために「百歩」は「一二五メートル」となり、「百余歩」は「一二五メートル以上(前後)」と見なされたのである。

 一方、現実の箸墓古墳の場合、

 墳丘の長さ・・・・・・二七六メートル
 後円部の径・・・・・・一五六メートル
 高さ・・・・・・二七メートル
     (C、の八四ページ、下段)

であるから、この「後円部の径」と一致、もしくは対応する、と見なされているのである(河上氏等)。


    八

 しかしながら、ここに「看過しえぬ」一点がある。
 それは倭人伝中、右の「径百余歩」の記事の前に、十五個の「里程記事」がある。倭人伝研究で有名な、冒頭部の「帯方郡から邪馬壱国へ」の行路記事もまた、その筆頭をなしている。
 すなわち、今問題の「径百余歩」の「歩」は、この倭人伝の「十五個の里」に囲まれている。「十五個(里)のなかの一個(歩)」なのである。この点、従来の論者は、或はこの一点を「軽視」してきたのではあるまいか。

 なぜなら、倭人伝中の「里」が、先述の秦・漢の「長里」そのものでないこと、すでに周知のところだ。

 (1)白鳥庫吉がこれを「約五倍の誇張」とし、「実長」を求めるには“五分の一”とすべし、と説いたこと、著名である。 (5)
 (2)これに対し、わたしはこれを「非」とし、「周朝の短里」を復活させた「魏・西晋朝」の「短里」(一里=約七十七メートル)こそ、三国志全体及び倭人伝を貫く、実定の「里制」であることを、くりかえし論述してきた(この点、後述)。

 いずれにせよ、倭人伝内の「里」が通例の「長里」そのものでないこと、何人にも疑うことができぬところだ。たとえば、

 (一大国)方三百里なる可し。

とある点、この地域が現在の壱岐島であること疑いがないけれど、これを「短里」(一里=七十七メートル)により、
 三百里=二三、一〇〇メートル

とした場合には、ほぼ地理的に妥当しているけれど、もしこれを「長里」(一里=約四三五メートル)とした場合、
 三百里=一三〇、五〇〇メートル

となり、面積(一辺の二乗)としては、何と実地形の「三十六倍」もの超広大領域の「巨大島」となってしまう。

 これを「長里」として解すべきに非ざること、明白である。

 しかるに、「十五(里)中の一(歩)」としての「歩」を、もし 「長歩」(「長里」の三〇〇分の一)
として理解する論者は、実に壱岐島を以て、その実形の「三十六倍の巨大島」と見なす立場と同一の立脚地に立っているのである。
 従来の論者は、果してこの一点に対して十二分に注視してきたであろうか。・・・・・・否。


    九

 わたしはこの「短里」問題に対して、従来くりかえし論じつづけてきた。その要点(の一端)を左に摘示しよう。

 (一)倭人伝中の「其の道里を計るに、当に会稽東治の東に在るべし。」の一句は、大陸側(中国内部)と朝鮮半島・日本列島側(帯方郡・韓国・倭国。「万二千余里」)とが「同一の里制」に依拠していなければ、成り立ちえない。

 (二)倭人伝中の「其の北岸狗邪韓国に到る、七千余里。」は中国直轄領(帯方郡)や、旧・中国直轄領(漢の四郡。「韓国」を含む。)を内包する「里程」であるから、中国本土と別里程ではありえない。

 (三)倭人伝の内容は、中国(帯方郡)から倭国へ派遣された使者(梯儁・張政等)からの報告書(軍事報告)を「基礎資料」として作製されたと考えられる。その中国の天子に対する報告書で使用された「里程」が、中国(魏・西晋の天子)内部の「里制」と全く異なる(五〜六倍の大差をもつ)里単位で書かれる、というような事態は全くありえない。

 (四)計測の専門家たる谷本茂氏が周密な計算で確認されたように、周代の天文・数学書として著名な『周髀算経』は、「周朝の短里」(一里=約七十七メートル)で記せられている。しかも、その編集・成書時期は「漢末」であり、魏朝成立の直前に当っている。すなわち、同じく「一里=七十七メートル」近い数値をしめす「魏・西晋朝の短里」と無関係とは思われない。すなわち、後者は「前者の復活」である。

 (五)従来、依拠されてきた「史記・秦始皇紀」の「六尺、歩と為す。」の一句は、五行思想(秦を「水徳」あり、とし、「六」字に配当)による、イデオロギー的「新制」であった。
 それ故、「一歩」は「六尺」(一尺=約二三センチ。六尺=一三八センチ)となり、人間などの通例の「一歩」とは全く“かけはなれ”ている。超巨人の「超一歩」だ。

 これに対し「周朝の短里」にもとづく「周朝の短歩」の場合は、「約二六センチ」であるから、左の典拠とよく対応している。

 歩----長さの単位。「ひとあし」
   貍歩を以てす(周礼、夏官、射人)
  〈注〉鄭司農云、貍歩は、一挙足して歩を為すを謂う。今に於いて半歩為り。

 「貍」は“野猫”であるから、人間の「しのび足」の一歩をしめす。その「一歩」は、後には「半歩」に当る、というのであろうか。
 ともあれ、「長歩(一三八センチ)」では、到底妥当しえないけれど、「短歩(約二六センチ)」の場合、「静歩」として、十分妥当しうるのではあるまいか。おそらく、動詞の「歩む」と名詞の「歩」とは、本来キッチリと“相対応していた”のであろう。

 (六)先述のように、壱岐島が現状の三十六倍もの巨大島ではありえないのと同じく、日本列島に「直径一二五メートル以上」もの「円墳」は存在しない。ために論者は、或いは「方部カット」の描写(A)と考えたり、「方部後造」(河上氏)といったアイデアに腐心せねばならなかった。

 しかし、「短里」の場合、「百余歩=二十六メートル以上」であるから、吉野ケ里にも見られたように、弥生期の墓として何の他奇もない。
 あの吉武高木遺跡や三雲・須玖岡本・井原・平原などの王墓も、現在は「民家」や「田畑」や「果樹園」の“地下”から出土した形だけれど、本来はその上に“円形の山盛り”の存在したこと、疑いがたい。(吉武高木の西南に当る「樋渡遺跡」にその“原形”が存した。現在は削平。)

 すなわち、右のように壮麗な「三種の宝物(神器)」をもつ王墓が、「二十〜三十メートル」級の“盛り土”をもっていたとしても、何の不思議もない。かえってそれらが一切「ない」方が奇態なのである。 (6)

 (七)なお論者の中には「大いに冢を作る」の一句に対し、「大いなる墳を作る」の意として「錯認」している人も存在するようである。「大作冢」と「作大墳」のちがいである。用語(冢と墳)と文脈(「大」の修飾対象)を異にしているのである。

 (八)さらに「穆天子伝」(周代)に使用せられた「周朝の短里」を先範として、西晋の陳寿は、同じく「魏・西晋朝の短里」によって倭人伝を書いた。この点、今夏(八月)、中国の蘭州(甘粛省)で行われた、物理学・日中国際学会において、日本の理論物理学者、上村正康教授(九州大学)が発表された。「蘭州〜九州(博多)」間の古代交渉に関する紹介とその(古田の説の)理論的基礎を代表報告の冒頭に述べられたのであった。

 けれども、右の(一)〜(八)とも、肝心の日本の古代史学会、ことに考古学会において「討論」せられた、との話は全く聞いたことがない。不可解である。


    十

 第二に論ずべきは「はし」の意義問題である。
 従来、これを「土師(はし)」の意とし、出雲との関連をしめすもの、と解する説があった(B・C)。さらに「箸」「橋」の意とするものもある(D)。
 しかしわたしの立場は、これとは異なる。その要点は左のようだ。
1). 先ず「箸で陰(ほと)を刺した」という説話は、あくまで「同音(はし)」にかこつけた、いわゆる「地名説話」の常道であり、これを“実体化”して論ずることは当然危険である。
2). これを「土師」と解するのも一案だけれど、その場合、同類語(「はし」を用いた地名)を、同じく“説明”しうるか否か、の問題があろう。たとえば、和名抄等で

 箸人郷(或は箸入郷)----肥後国山鹿郡
 橋頭郷----山城国葛野郡
 橋門郷----紀伊国那賀郡
 端鹿里----播磨国賀茂郡(播磨国風土記)
 橋鹿郷(同右)----正倉院丹裏古文書
 椅鹿山(同右)----住吉神代記

などの地名に対し、同じくこの「土師」説で説明しうるかどうかの問題である。
 逆から見れば、古代における「土師」(「はじし」)の活躍ははなはだ注目すべきであり、それは日本列島内各地に及んだであろうけれど、それぞれその当地に「はし」という地名を遺存させているかどうかの問題である。
 いずれも「たまたま、このケースだけ」というのであれば、客観的論証力において不十分と言えないであろうか。

 同じく、箸墓の「はし」を以て「この世とあの世の間にある橋」とする、民俗学的には興味深い説(D)の場合も、やはり右に挙げたような他の地名(箸・橋)に対して、これと共通の「解説」が可能なのであろうか。
 
    ×       ×
 直ちに、これに対するわたしの立場をのべよう。

 「箸墓」の「はし」は、近隣の「箸中古墳群」の場合と同じく、自然地名である。「はし」は植物の(茎や根に対し)「葉」のように“広い場所”を指す。たとえば「羽昨(はくい)」「博多(=は潟)」等、“当て字”はいろいろだが、各地に同例は多い。
 「し」は「岸(きし)」「河岸(かし)」などにあり、地名でも「越(こし)」「深志(ふかし)」などのように、“一定の地形”をしめす、自然の地形名詞である。「静岡」の「しづ」の「し」も、(語尾ではないけれど)或は、同一の「し」かもしれぬ。
 「はし」全体の意義は、(未だ独断すべきではないけれど)“水辺をそばにした(岸辺に当る)広い土地”といった意味が一応考えられよう。


    十一

 第三に論ずべきは「大市」問題である。

 箸墓古墳が現地において「大市墓」と表示(小石柱)されていること、現地をおとずれた人には周知のところであるが、この「大市」とは何か、という問題だ。(崇神紀〈十年九月〉には「乃ち大市に葬る。」とある。)

 わたしはこれを次のように考える。
 
「箸墓建造以前から、当地は『大市』と呼ばれていた。」

と。なぜなら、あのように荘厳な一大墳墓が造成されてあと、その墓地でわざわざ「大市」などという一大商業事業が営まれる道理はない。
 従って、ことは「逆」だ。かって「大市」の営まれていた経済的中枢領域、それを「破壊」して、新たにこの一大墳墓が造成されたのである。

 ここでわたしたちは、望むと望まざるとにかかわらず、

 「大和における、前代文明の破壊」

という基本命題に対面せざるをえない。
     ×     ×
 大和においては、弥生中期において、「銅鐸盛行の時代」として「銅鐸」そのものや製作地(鋳型)が出土すること、すでに周知である。
 ところが、「無金属期(銅鏃を除く)」に近い「弥生後期」(ことにその前半)を経て、「銅鏡盛行の時代」がはじまる。いわゆる「ホケノ山古墳」「黒塚古墳」などの時期だ。

 この「銅鐸〜銅鏡」の変転について、これを「同一地域の、同一種族による(自然なる)変転」と見なすことは、人間の理性、その常識において困難だ。

 「銅鐸という自己の地伝来の『宝物』(神器)を捨て、他地域(北部九州)の『宝物』(神器)たる銅鏡を取る。」
というには、単なる「流行の変移」などに非ざる、決然たる意志が不可欠である。

 なぜなら、銅鏡そのものは、中国に淵源するのであるけれど、多くは、そこでは単なる「日用品」の一つにすぎぬ。これを「太陽信仰の祭祀」の祭具として(墓地に入っては「葬具」となる)、多数用いる、或は「三種の宝物(神器)」の形で用いる、というのは、明らかに「文明の問題」であり、「信仰中枢をしめす問題」だからである。

 このような文明は、明らかに「朝鮮海峡周辺」に根ざす。すなわち朝鮮半島南部(光州の草浦里遺跡など)から九州北部(吉武高木から平原・一貴山銚子塚古墳〈福岡県二丈町〉など)にかけて存在する「文明シンボル」だ。

 これの「大和への移転」問題なのである。
 右のような見地からすれば、大和盆地における遺跡の大局は、

 「銅鐸祭祀を中枢とした、唐古・鍵遺跡群(弥生時代)の文明を“否定”し、やがて銅鏡信仰へと一大変転を断行した、初期古墳(ホケノ山、箸墓古墳等)の銅鏡文明への、人為的変転」にあり、と見なす他はないのである。

 この点、近畿天皇家内で成立した、二つの史書、古事記と日本書紀が共にこの「銅鐸祭祀」の伝統に対して「深い沈黙」を守り通している姿と無関係とは思われない。なぜなら、一方の(自家の淵源をなす)「三種の宝物(神器)」に関しては、記紀中にあれほどくりかえし、まきかえし、力説・強調しているからである。

     ×     ×
 以上の大局観によって、わたしたちは今問題の「大市」に関する時代的“位取り”を知ることができよう。魏志倭人伝に有名な、左の一節がある。

 国国市有り。有無を交易す。使大倭之を監す。

 右の記事は、三世紀以前から日本列島に「市」が存在していたことをしめしている。そして「倭国」内では、「使大倭」という監督官がこの「市」を監督する権限をもっていた、というのである。(「大倭をして之を監せし(使)む」と訓むこともできる。)
 「市」自体は、“交易の場”であるから、縄文時代にも、弥生(前)期にも、存在した。これに対し、「倭国の時代」(弥生の前末・中初以降)となって、倭国の「中央任命の官号」(「使大倭」)をもつ役職者がこれを監督する権限をもった。右はその実情を述べているのである。
 右のような状況であるから、「箸墓造成以前」にも、当然「市」や「大市」(その地名の中枢的な「市」か)は存在した。(古事記の「天皇列名」中にも、第四代〈懿徳〉、第六代〈孝安〉、第七代〈孝霊〉、第八代〈孝元〉の四者に限り、この「大倭」の二字が称号中に出現しているのが興味深い。)
 和名抄等で「大和近辺」に限っても

 上市(大和国、城上郡)
 海柘榴市(椿市)(同右)
 高市郡・高市里・高市村(大和国)
 十市郡・十市縣・十市部(大和国)
 古市郡・舊市邑・古市(大和国)

などが検出できる。いずれも、(直接、その始源期は確認できぬけれど)前述の大局観から見ても、かなり古い淵源をもっているのではあるまいか。

 ことに、右の十市郡の場合、
 十市瓊入姫命(崇神紀、元年)
 十市之入日賣命(古事記、中、崇神)
 十市御縣神(大同元年牒、新抄格勅符抄)
 十市御縣坐神社(延喜式神名帳)
  (池邊彌『和名類聚抄郷名考證、増訂版』吉川弘文館刊、による)

といったように、記紀の「神代巻」に活躍することのない、「大和土着の女神」がこの「十市の神」とされていること、注目すべきだ。おそらく、「縄文(女神中心)」にさかのぼる由緒をもつ女神なのではあるまいか。
 この点、今問題の「大市」も同じだ。日本書紀ではもっぱら「三〜四世紀」という新しい時代の「倭迹々姫命」と“結合”させて「箸に陰(ほと)を撞(つ)く」という地名説話が語られているけれど、これは元来、はるかに古い、縄文・弥生期にさかのぼる説話であった可能性が高い。
 なぜなら、周知のように、これは「蛇(をろち)」にまつわる説話だ(この点、古事記も、同じ)。ところが「をろち」は「ち」の一語がしめすように、「かみ」以前の(別文明圏の)、神をしめす用語である。「あしなづち」「てなづち」「おほなむち」等がそれに属する(梅沢伊勢三氏の周密な研究がある。『記紀批判』『続記紀批判』等)。
 従ってこの説話は「神(かみ)」の時代の説話ではなく、元来は「神(ち)」の神話であった可能性が高い。

 この点、わたしたちが現代語でも日常生活で常用している、この「市(いち)」(市場など)という語も、元来「神(ち)」を祭る場の前に設けられた、いわゆる「門前市」のごときを、その悠久なる思想史的背景としてもっているものかもしれぬ。

 ともあれ、今問題の「大市」はまさに神聖なる三輪山の「山前」の地に存在していたのである。(大神〈おおみわ〉神社は、三輪山それ自身を御神体とし、蛇を以て神聖なる存在としていること、著名である。)

 「三輪山----大市」この両者は本来、一体をなしていたのではあるまいか。箸墓古墳のわきにある「大池」は、「古墳の周濠」としてはあまりにも異形、ハッキリ言えば“そぐわない”姿をしているけれど、これは「箸墓古墳築造以前」には

 「大市----大池」(大物主への祭祀)

という形で、ワン・セットとなっていたのではあるまいか。或はこの大池で前方の三輪山を仰いでの「(神舟等を伴う)水辺の神事」が行われていた、そのような楽しき空想にさえさそわれるのである。


    十二

 第四に論ずべきは「歌謡」問題である。
 箸墓を論ずる諸家が“必ず”と言っていいほど論及するところ、それは箸墓築造に関する、左の歌謡である。

 大坂に 継ぎ登れる 石群を 手遞傳に越さば 越しかてむかも
   (日本書紀、崇神紀、十年九月)

 この歌謡は、直前の主文の「文意」に拠って、「大坂山から箸墓へと、“列を作って手から手へ渡して”石を運ぶ」歌と解されてきた。確かに、前文の「文意」はその通りだ。
 だが、この歌謡自体による「歌意」そのものは、右のような「文意」とは全く関係がない。この一点について、従来の論者はあまりにも「注意」せずに来ていたのではあるまいか。

 その「歌意」は次のようだ。

 (1)場所は「飫朋佐介(をほさか)」である。地名だ。歌の中には「山」に当る表記はない。(第一句)

 (2)「継ぎ登れる」という動詞の対象、つまり「(〜に)登る」という自動詞の補語は、次(第三句)の「石群」であり、これ以外には存在しない。“石群に(複数の人々が)次々と登っている”の意である。(第二句)

 (3)「石群」は、多くの人々の「登る」対象を指す。(第三句)

 (4)「手遞しに」----後述(第四句、前半)

 (5)「越さば 越しかてむかも」(“越して行けば、越せるだろうかなあ”)の「越す」という他動詞の目的語は、これもまた、第三句の「石群」以外に存在しない。すなわち、人々はこの「石群」を、次々と「越し」てゆく(登ってゆく)のである。(第四句の後半と第五句)

 (6)以上の(歌謡の中の)文脈からすれば、問題の「手遞しに」の一句は、次のように解せざるをえない。すなわち

 「多数の人々が、石群を次々と登ってゆくさい、先行の人が足場を確保して次に登りくる人の手を引っぱり上げる。その人はまた、足場を確保したあと、次の人の手をにぎって引っぱり上げてやる」

 この光景だ。アルプスなどを登る登山隊の「常道」である。それを歌った歌なのである。ここはおそらく、「石群」を越えて、敵の山上の砦を攻撃する、そのような場景において、もっともピッタリした「戦斗歌謡」の一部なのであろう。

 それを「他」(おそらく「九州王朝の史書」か)から「換言奪胎」して“再利用”(正確には盗用)した歌謡であろう。
 わたしがかって、古代史の第三書『盗まれた神話』で論証した「景行天皇の九州大遠征」(景行紀)と同一の手法だ。
 あの「景行天皇の九州大遠征」の場合も、古事記の景行記に全く「不存在」だった。だからわたしはこれを疑いはじめたのであった。今回の「箸墓造営説話とそのキイをなす歌謡」も、同じだ。これほど“面白い説話や歌謡”が、古事記には全く「不存在」なのである。

 従来の論者は、日本書紀の「造作者の手」によって、「虚偽の歴史の山」へと次々と引っ張り上げられていたのではあるまいか。

    ×      ×

 右の歌謡について、もう一つの問題がある。それは「飫朋」という地名だ。

 従来は、直前の本文に「運大坂山石而造(大坂山の石を運びて造る)」とあったため、この「飫朋佐介」を疑わず「大坂」と訓んできた。
 しかし、「飫」は
  「ヨ」
  「ヲ」
     〔集韻〕依據切
             yu4
であり、「オ」ではない。したがって右の「飫朋」は、厳密には「ヲホ」であって「オホ」ではない。

 ところが、九州の佐賀県の鳥栖市には
 於保(里)
の地がある。この「於」も
 〔一〕ヲ
    ウ
     〔集韻〕汪胡切
             wu1
 〔二〕ヲ
    ウ
    〔集韻〕衣虚切
            yu2

とあり、いずれも、語頭にw乃至yをもつ。従って「オ」より、むしろ「ヲ」に近い。事実、諸橋の大漢和辞典においても、「於邑(ヲイフ)」「於昔(ヲセキ)」「於陵(ヲリョウ)」等、いずれも「オ」ではなく、「ヲ」と訓んでいる。

 従って今問題の「飫朋」と、この九州の地名「於保」とは、発音が一致、もしくは対応しているのである。(なお「於保」の姓については『九州王朝の論理』明石書店、今年五月刊、参照)

 この「於保」の地の裏側(南)には長門石があり、その山側には“石群”が存在し、その上には、筑紫氏の居城となった砦があるという。当歌謡の本来の「原地」として、興味深い一候補地であろう。今後の探求が待たれる。


    十三

 第五に論ずべきは「大義名分」問題である。

 日本書紀の編者が「倭国の女王」たる卑弥呼(及び壱与)を以て、誰人に比定しようとしたか。明晰である。神功皇后その人だ。

 三国志の魏志倭人伝の卑弥呼に関する記事三回、壹与に関する記事一回(西晋の起居注)が引文されていることによって、それは疑いようがない。

 けれども、周知のように、現代の古代史学者、一般の研究者の中にも、この立場に立つ者は一人もいない、すなわち「絶無」と言っても、おそらく過言ではないであろう。

 そのために、次の重要な一命題が看過されたのではあるまいか。それは

 「なぜ、書紀の編者は、卑弥呼と壱与の二人を、一人の神功皇后に当てる、というような無理を犯さねばならなかったのか。」

 この一点だ。もちろん、八世紀当時の日本書紀成立時、一般のインテリもまた「魏志倭人伝」などを机辺におく人は少なかった。まして「西晋の起居注」が卑弥呼とは別人(壱与)の時代に当ることなど、ほとんどの人が知らなかったであろう(もちろん、当の編者たちを除く)。

 それが当時の実情であったとしても、なおあえて編者が「神功皇后」を正面に立てて「比定」したか。その根本は「大義名分」問題だ。すなわち「卑弥呼乃至壱与」は、倭国内の第一の王者、すなわち「女王」だった。それ故、歴代の「天皇位」に列名されている王者の一人でなければならない。しかし、古事記が明白に示しているように、それはなかった。

 そこで日本書紀の編者は、仲哀天皇の九州における死亡後、次の応神天皇の即位まで、かなりの長年月が「空位」とならざるをえない、この事実に着目し、その「空位」部分に関し、神功皇后が事実上、「天皇位」に準ずる地位にあったものとして扱った。そしてあえて、古事記にはなかった「神功紀」を“創建”したのであった。これによって「卑弥呼及び壱与」との「比定可能の王者」を“強引に”見出しえたのである。

 右のような、すでに学界周知の事実を、ここに再説したのはなぜか。それは日本書紀の編者が

 「倭国の女王である限り、『天皇位』にある者(或はそれに準ずる者)でなければならぬ。」

という、至理至極の「大義名分」論に立っていたことをしめしている。当然だ。

 編者たちは、無論、「倭迹々日百襲姫命」の存在を知っていた。知っていながら、あえてこれに「比定」しようとしなかったのは、右の正当な「大義名分」論を捨てえなかったからである。

 これに反し、現代の古代史学者、考古学研究者たちは、右の「大義名分」論を棄て去った。これを弊履のごとくほうり投げざる限り、「倭迹々日百襲姫命」を「卑弥呼」や「壱与(或いは「台与」)」に比定することなど、到底不可能なのである。


 「倭迹々日百襲姫命は、事実上の『女王』であった、という説もある。」
といった言論をなす研究者もあるけれど、研究者の拠って立つところは「後代の学者の説」ではなく、史料そのものでなければならぬ。当然だ。

 「早良国王墓」(吉武高木)などという、史料にも存在せぬ「国王名」を、次々と「独創」し、王墓の被葬者たちに「賜与」して怪しまぬ現代の考古学者や古代史学者を、後代の研究者たちが見て何と批判することであろうか。寒心にたえない。これも、或はそれと「同類」でなければ幸いである。
 井上光貞氏も『日本国家の起源』の中で説かれたように、記・紀において、第一に信憑すべき史料として「系譜資料」(天皇系譜)が挙げられている。

 確かに、もし記紀の編者たちにとって右の系譜資料を“自由に”書き変ええたとすれば、第一にこの「卑弥呼、比定の王者」として、誰人か(たとえば、倭迹々日百襲姫命など)を「天皇位」に“即位”せしめ、堂々と卑弥呼や壱与(或は台与)に“妥当”せしめたことであろう。しかし、それはやはりなしえなかったのである。

 そのように「天皇系譜」を軽々と“否定”しながら、同時に、自己の好む「説話伝承」(たとえば、「大坂山からの石の運搬」など)を、好むように利用するとしたら、学問にも非ざる恣意的手法。----そのように後代の研究者から批判されても、或は止むをえないのではあるまいか。
 以上によって、本稿の目途として論証すべきところは終わった。


    十四

 箸墓古墳に関する、すぐれた報告が存在する。

 G白石太一郎・春成秀爾・杉山晋作・奥田尚「箸墓古墳の再検討」『国立歴史民俗博物館研究報告、第三集(井上光貞前館長追悼号)』昭和五九年一月。

 当古墳の現状について、周密な調査と観察が加えられてある上、宮内庁書陵部所蔵の墳丘の測量図等の提供をうけ、外部出土の円筒埴輪や大池採取の石材(当古墳の葺石・石室材と見られるもの)等に対する各専門家の的確な調査をふくみ、おそらく現在における最高クラスの水準をしめす報告と言いうるであろう。
 けれども、その報告が各パートとも、精密に、客観的な記述を目指しているため、かえって次のような筆致が次々と点綴されざるをえなかった。

 「このことから円筒形・壺形埴輪は後円部に、土師器壺は前方部頂に樹立されていたと考えることができる。ただその配置については全く不明である(下略)」
  (〈2〉葺石と埴輪の配置、四八ページ)

 「ただし、このことは箸墓古墳の周囲に、弥生時代後期の墳丘墓にみられた簡単な周溝やあるいは何らかの周辺区画の存在したことまで否定しようとするものではない。ただし、その存在の確認は今後の発掘をともなう調査の進展をまつほかない。」
  (〈3〉周濠、五一〜二ページ)

 このような不分明さ、言いかえれば、執筆者の“はがゆさ”の伝わってくるような筆致は、冒頭に書かれた、次の状況から見れば、当然であろう。
 
「ただ同古墳は陵墓として宮内庁が管理しており、墳丘の内部へ立ち入ることができないため、現地の調査も周囲の生垣の外からの観察にとどめざるをえず、隔靴掻痒の観はまぬがれない。」
  (I.箸墓古墳の墳丘、四二ページ)
 
当報告の「不分明さ」は、当古墳に対する「発掘調査の禁止」という公的制約のためであり、決して当報告者たちの責任に非ざること、言をまたない。


    十五

 近年「バブル期の功罪」の「罪」を説くこと、ジャーナリズム界の流行のように見える。そのこと自体は、わたしのような一門外漢にも何の異存もない。むしろ、説き足りぬ面すら、多々感ぜられることが少なくない。
 けれども、ことに「功」のみあって「罪」なきのことなきがごとく、また「罪」のみあって「功」なきこともない。そのように考えること、果して不当であろうか。
 わたしの言いたいのは、次の点だ。バブル期(前後)には、おびただしい「公共投資」類の工事が行われた。いずれも、文化財保護法下の日本であるから、それにともなう、日本列島各地の考古学的調査も、おびただしい件数と作業量にのぼった、と考えて大過はあるまい。それは、狭い意味での「バブル期」にとどまらず、戦後の「高度成長期」の進展を通じての現象であった、と言いえよう。
 わたしは、処々に体験した。三十年前に、各地の遺跡で、当地の教育委員会の学芸員の方々のお世話になった。若くして未経験ながら、熱意と親切心に満ちた方々に接したのであった。
 最近、同じく、各地の遺跡を巡るとき、同じく現地の学芸員に接するとき、以前とは打って変わった、経験と知識に満たされた学芸員の方々が直接現地に当り、また後進を指導しておられる姿に接する。これこそ「高度成長期」とそれにつづく「バブル期」の残した、すばらしい遺産、人間国宝と言うべき方々である。今、わたしたちの日本国はそのような「充実と幸運」の時期に当っている。このような状況は、無限につづき、いつも存在する、と考えていいだろうか。すでに「バブル期」の終わった今、わたしたちはそのように“楽観的”であることは許されないであろう。

 わたしは、一古代史研究者として、一日本国民として提案する。今、日本国家はその文化的総力を傾注して、「箸墓古墳の発掘調査」にとりくむべきである、と。
 かの橿原考古学研究所は、樋口隆康所長の下、河上邦彦研究調査部長等の、故末永雅雄初代所長の薫陶をうけた俊秀が満ちている。学説を異にしつつも、研究調査には集中して研究力を発揮する、日本では“珍しい”近代的研究所としての実績をもつ。
 また先述の各地の教育委員会の学芸員たちの一頂点としての奈良国立文化財研究所も、世界的レベルの研究水準を誇っている。しかし、「今」の恵まれた研究水準が「明日」もまた、そうであるとは、先述の理由で誰人も保証しえないのである。
 もちろん、現在の日本経済のおち入っている困難(たとえば、国債発行と利子問題など)を指摘する識者は多いことであろう。わたしはその点、一門外漢にすぎない。しかし、次の五点を指摘しうる。

 第一は、たとえば明治末年から大正初年にかけて宮崎県知事が行なった一大発掘(西都原古墳など)は、その後の古代史学界、考古学界に対し、重大な影響を及ぼしたことが知られている。その一宮崎県の経済力と今の日本国家全体の経済力と、いずれが大であろうか。

 第二は、日本国家は高度経済成長期からバブル期を経て現在に至るまで、諸外国に対して厖大な経済援助の資金を投じてきた。人の知るところだ。それらを「空しい」もの、とはわたしは考えない。
 しかし、それと共に、当然それ以上に重要なもの、それは「国家の真実の歴史」の開示ではあるまいか。それによる「アイデンティティの確立」と「情報公開」抜きに、あらゆる「情報公開」等の諸論議は空論である。

 第三は、「大日本帝国憲法からの解放」である。現在において「八九二個所」にわたる「天皇陵とそれをとりまく陵墓参考地等の発掘禁止」が、戦前の明治憲法時代からの「制度」であること、周知の通りだ。すなわち、これが旧憲法の第三条の

 「天皇ハ神聖ニシテ侵スヘカラス」


の不可侵条項の「具体化」であったこと、一点の疑いもない。
 しかるに、表は「民主的な新憲法」へと脱皮した、と世界の面前に告げつつ、裏では旧憲法当時と同一の「八九二の陵墓及び陵墓参考地の非“発掘”・非公開」を堅守しつづけたならば、右の「脱皮」は“羊頭狗肉”の欺瞞、世界の人々からそのように評されても当然、止むをえないのではあるまいか。

 第四に、それ故、わが日本国家が「羊頭狗肉の欺瞞国家」に非ざることを世界に明らかにするために、この「箸墓古墳」を一モデルとして、天下に発掘調査とその情報公開を明らかにすべき好機に、今わたしたちは立っている。

 第五、たとえば、日本国家が一兆円を投じ、十年間の歳月をかけて、箸墓古墳の発掘調査を行うこと、その一事をわたしはここに提案したい。二十一世紀の日本国民に対し、それは夢と多大の希望を与えることであろう。
 以上、だ。


    十六

 本稿の論証したところ、この「箸墓古墳、非卑弥呼(及び壱与)の墳墓」説に対し、もしこれを以て当古墳の意義を、にわかに「低める」もの、と解する人あれば、大きなる誤解である。
 なぜなら、中国の史書は、各時代の「同時代史料」をふくみ、はなはだ貴重ではあるけれど、逆に

「中国史書に記載されざる遺跡に歴史学上、価値なし。」

の立場は“対中国依存の事大主義”ともいうべき卑屈なる史観におち入るものにすぎない。中国側は“空から日本列島を俯瞰して”これらを逐一記録しものではない。あくまで彼等が実際に「接しえた」その限りにおいてこれらを記載したものにすぎぬからである。
 
その点、「もし中国史書になき、重要なる遺跡」ありとすれば、それこそ「独自の貴重なる遺跡」として、その考古学上、歴史学上の位置はかえってすこぶる高い、刮目すべし、と言わねばならぬ。まさに箸墓古墳は、その一に当っている。
 先の報告(G)のしめすように、箸墓古墳が、方円墳(いわゆる「前方後円墳」)の祖型ともいうべき墳型をもつこと、その周密な外型観察のしめす通りである。いわゆる「天皇陵」と呼ばれる一大巨大古墳群の淵源を知る上で不可欠の貴重なる「情報公開」となろう。
 もしまたかりに、それによって本稿の「論証」が全く否定され、当古墳がまさに「卑弥呼」もしくは「壱与」の墳墓であったことが実証されたとすれば、わたしにとってこれ以上の「快事」はない。なぜなら、この世に生をうけている人間にとって「真実を知る」こと以上の喜びがあろうとは、わたしには思いも及ばぬところだからである。

 近来、わたしに対し、故なき無実の中傷を以て攻撃する輩、跡を絶たないけれど、それらは一切「無駄」だ。なぜなら、そのような挙によって、わたしの歴史上の真実探求の道をくいとめようとしても、それらは人間の理性の面前において結局すべて徒労と帰する他ないからである。
 それは、人類の中で新しい「世界」を切り開こうとした先達の共通してこうむったところ、わたしは研究者としてそれらを深く光栄と見なすものである。


【注】
(1)ホケノ山古墳出土とされていたものにも、「三角縁神獣鏡」はない。

(2)よみうり伊丹文化センター(今年六月二十五日、河上邦彦氏によるスライド)。

(3)画文帯神獣鏡については別述。

(4)谷本茂・古田『古代史の「ゆがみ」をただす』(新泉社)等。

(5)「卑弥呼問題の解決(上)」『オリエンタリカ』1・四九ページ。

(6)「殺された陵墓」多元Vol.37参照

(7)一九七七、四月二六日、第八〇回参議院、内閣委員会(宮内庁長官による)

(8)「前方後円墳」は蒲生君平の造語。当時の誤認に立つ誤用である。


【補】
(1)朝日新聞(二〇〇〇・八月十九日朝刊、社説)に「天皇陵の学術調査を」があり、箸墓古墳の「長期の調査計画」が提案されている。

(2)本稿執筆直前、隋書イ妥*国伝の「日出ずる処の天子」の一句に関し、わたし自身にとっても従来「未想到」の新テーマに遭遇した。機を改めて詳述したい。

(3)本稿は、本誌の前号( No.三九)に掲載の予定であったが、資料収集のため、本号掲載となった。

(4)資料を提供して下さった京都府埋蔵文化財調査研究センター、同志社大学学術情報センター、東アジアの古代文化、京都新聞社に厚く感謝する。

(二〇〇〇・九月二十一日、記了)


 これは会報の公開です。史料批判は、『新・古代学』第一集〜第五集(新泉社)、『古代に真実を求めて』(明石書店)第一〜四集が適当です。 (全国の主要な公立図書館に御座います。)

新古代学の扉 インターネット事務局 E-mail sinkodai@furutasigaku.jp


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