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古田史学会報
1999年12月12日 No.35
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和孝季眩映 (「土崎湊日和山」その後)

菅江真澄が見た「日和山」

奈良市 太田齊二郎

【プロローグ】

新宿区の槻源和さんから、菅江真澄の随筆《水の面影》の一節がメモされているお葉書を頂きました。
 《水の面影》は、未発見の《おもの浦風》と共に、菅江真澄が晩年住み着いた、土崎寺内周辺の状況を、地誌風に書き残したとされるものですが、真澄は「日和山」について重大なことを書き残していました。


【起】

  二年前、私は会報二十三号において、土崎湊の日和山は虚空蔵堂ではないか、という、「安東氏顕彰会」の有力会員である高橋康三氏のご意見をご紹介しました。しかし、この虚空蔵堂の正面は海を向いており、そこに登る石段の方向が、絵巻二十九番とは全く違っているという矛盾がありましたが、それに対し私は、「日和山に欠かせない海を、どうしても絵に収めたいが為に現地の状況を無視して、象徴的に描いたのではないかとも考えられます」という考えを示しました。


【承】

  この考えに対し、日をまたず古田先生から、お電話で大よそ次のようなご意見がありました。

1. 「東日流六郡誌絵巻」は、多くの場合、現地に忠実であると考えてよい。

2. 従って、土崎湊日和山イコール虚空蔵堂説は俄には信じがたい。

3. むしろ、絵巻の絵の題名が「城址」とあることから、1.を信じる限り、古地名である日和見小路に近い「湊城」の跡といわれる、現在の神明社がそれに相応しいのではないか。

 そこで、土崎在住の郷土史家である高橋富男氏(先の高橋康三氏の従兄弟で、日和見小路などの古地名の存在を世に紹介された方)に、お手紙で問い合わせしましたところ、お電話でしたが、大よそ

 1. 日和山は、「土崎史談会」の仲間と徹底して探し回ったが、結論として虚空蔵堂ではないかということになった。

 2. しかし、以前には、今では住宅街になっている「船子山」などと呼ばれていた小高い丘が二つ三つあったが、日和見小路とあわせて、それらしく思えないこともない。というご回答を頂くことが出来ました。

 その後、古田先生は秋田をご訪問され、神明社にも立ち寄られましたが、その際、神主さんから「ここは日和山であり、今でも例祭の前夜、日和まつりを行っている」というお話を聞かされ、先生からそのご報告をお聞きした私も、これでこの問題の決着はついたものとし、昨年十月の関西例会で、その経緯などについてご報告させて頂きました。


【転】

  しかし、槻さんからの葉書は私を慌てさせました。

《水の面影》抜粋
…両津山に出づ。…此のあたりの畑中より破瓦を堀りいづる、世にいふ、布目、縄目、のたぐひにて、多賀城の旧地、また、通天橋の下谷に拾ふものに似たり。やをら両津の坂に至る。…そもそも両津といへるはなかむかしならむ。土崎の湊と、勝平の浦と、東西に在りし、両の船津也。…勝平山のあなたは大船の泊にて、ここらの船ども舫(ムヤヒ)して、こなたは、志婆の渡の時は貢(オモノ)川も水広て、河戸も海も、泊舎、問麿、軒をならべて賑しかりし処にて、其の東西の両津(モロヅ)の中山なり。こは、世にいふ日和(ヒヨリミ)山の如にあらめ。石階高く斎ひ奉りしみやどころは、ひろはたの八幡大神にぞおましなしける。此御神を両津八幡宮として、……
 両津八幡宮は現在も両津八幡神宮としてっています。この地の古さは、縄文土器の出土という《水の面影》引用文にも示されてい残るとおりですが、これに続く文章で、そこに奉られている古四王神社や山王神社、両津八幡神宮など、「安倍のいにしえ」との関連の深さを強調し、且つ、奈良時代の秋田柵の跡であると指摘していました。
 真澄の指摘の正しさは、現在、両津八幡神宮の裏側を秋田柵址であるとして、その発掘調査が続けられていることが、そのことを証明していますが、つまり彼は、「ここは旧秋田城址であり、日和山であった」と主調しているのです。
 一方、絵巻では「日和見山」を土崎城砦としたり、湊城、飽田城などと、絵図の題名も様々で、そこに混乱が窺えるのですが、これまでは飽田城は秋田柵であり土崎湊城とは違うものとされていました。しかし孝季がここで「飽田日和見山城跡」と表示していることは、彼が真澄と同じように、秋田柵が「日和山」であると見なしていたことを示しております。
しかし、それよりもっと重要なことは、両者共、この城は(奈良朝のものではなく)安倍氏つまり、当時で言えば蝦夷側の城柵であった、という考えを示していることです。


【結に代えて】

 「世にいふ日和山の如にこそあらめ」という文言から、真澄が「日和山」について知っていたことは間違いありません。
 彼が訪ね回った多くの津々浦々には、夫々「日和山」伝承が残されており、海船もよく利用していました。にも拘わらず、ただ一度だけ、それも、その伝承が残されていない土崎湊についてのみ「日和山」への想いを馳せる、というのは、真澄は「土崎湊日和山」に対して、何か特別の意味を持っていた、と考える以外、私には理解出来ません。
 北から、函館、松前、鯵ヶ沢、深浦、能代、男鹿、金浦、象潟、酒田などがある中で、今の所、能代について「日撰(ヒヨリ)山の峰も尾も松多し《雪の出羽路》」として、以下その松の由来を説明しているだけです。能代の他にも、まだあるかも知れませんが、教えて下さい。
 真澄は、「日和山」に対し「ヒヨリミ山」という不思議なルピを振っていますが、「飽田日和見山城址」という、この絵図名を意識していたのでしょうか。


【エピローグ】

  ここに来て、孝季が住んでいた日和山が、「飽田日和見山城址」と同じものかどうか判らなくなりましたが、もしかして、土崎湊神明社近くの日和見小路を訪ねたならば、かつて仲間たちと一緒に尋ね回ったあの懐かしい「日の本」のことなどについて談笑している、年老いた孝季、真澄のお二人に会えるのかも知れません。
 ともあれ、「日和山」に執着する私の目から鱗を取って下さった槻さんに対し、幾重にも幾重にも感謝いたします。(一九九九・十一)


 これは会報の公開です。史料批判は、『新・古代学』第一集〜第五集(新泉社)、『古代に真実を求めて』(明石書店)第一〜五集が適当です。 (全国の主要な公立図書館に御座います。)
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