李白の詩に寄せて

古田史学会報
1999年 2月 2日 No.30


李白の詩に寄せて

古田武彦

 昨年(一九九八)は多くの新発見に恵まれた。中でも、その筆頭に位置するもの、それは李白の詩に関する新理解だった。わたしの生涯中、最大の発見とも言いえよう。なぜなら、もしわたしの理解が正しければ、この詩は李白の全詩中、最高の作品と見なさるべきものとなる。否、全人類の詩の全歴史中、至高の作品と称しても過言ではない。そのようにさえ思われるからである。

 その詳細はすでに昨年七月十八日の講演でのべ、当会において小冊子化(「古田武彦講演録九八」九七年度会員に送付:編集部注)されたが、これに対する「重大な補遺」三点を追記する。

 第一、李白の「臨路歌」の末尾に「仲尼(孔子)」を挙げ、「同憂の先輩」視しているのは、孔子がのべた、有名な「中国に礼が失われたら、 筏に乗って、云々」の一節にかかわる。阿倍仲麻呂の故郷たる「扶桑の地」(注 1. )は、かって孔子のあこがれたところ、そして今李白の夢見つつも未到達の地だったのである。(古田『邪馬一国の道標』第一章参照)

 第二、「志半ばにして、中途に没した」人、それは古えの舜、現代の阿倍仲麻呂だった。そして今、実は李白自身がその当人であったことを告白しているのである。彼の人間観、そして彼の美学が、この臨終の詩において見事に結晶化されている。わたしの李白の詩(哭晁卿衡)理解が適正にして、決して偶然ではなかったことを証言するものであろう。

 第三、李白は従来言われていたように(たとえば、諸橋大漢和辞典)、蜀の出身ではなく、中央アジアのトルキスタン出身であったという(京大の礪波讃氏による。郭沫若の研究あり)。とすれば、もし「紅毛碧眼」めいた相貌の彼が、公的には人種「平等」でも、私的にはかなり、人種上の差別に悩まされていた、と見なしても、大過ないのではあるまいか。このような見地に立つとき、生の李白の詩(哭晁卿衡)のしめした、「人種差別」を正面から叩き斬るような鋭い気魄の由るところもまた、よく察知しうるのではあるまいか。
 さらに、シルクロード途上の地の出身者たる彼が、東方海上の「扶桑」の島、阿倍仲麻呂の故郷の地をあこがれていた心裡も、察するに余りがあろう。それはあたかも、この島国日本列島中に、たとえば司馬遼太郎氏のような、シルクロードファンの少なからざる現象と表裏軌を一にするもの、と言っても過言ではない。わたしにはそのように見えるのである。

 以上、「補遺」として追記した。

<注 1.>旧説(学界の通説)では、阿倍仲麻呂の故郷の地を、「扶桑の地」に非ず、「扶桑の外」の地と見なしてきた(王維「送晁監帰日国」等参照)。この点も、右の李白の「臨路歌」等の理解を的確ならしめえなかった一因かもしれぬ(「扶桑」問題)。なお右の旧説に依存せんとする論者もあるようであるから、改めて徹底して悉論する機を得たい。右、確言する。

<注 2. >本稿関連の詩を掲載する。晁卿衡を哭す「日本の晁卿帝都を辞し、征帆一片蓬壷を遶る名月帰らず碧海に沈む。白雲愁色蒼梧に満つ」臨路歌「大鵬飛んで八裔に振ひ、中天に摧(くだ)けて力濟(すく)はず。余風は万世に激し、扶桑に遊んで石袂(べい)を挂(か)く。後人之を得て此を伝ふ。仲尼亡びたるかな誰か為に涕を出さん」(いずれも、李白)

一九九九、一月十三日、関西汽船にて。


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