古田史学会報 1998年12月 1日 No.29

第三〇回 日本思想史学会大会で古田氏が発表

倭国における「九州」の成立

−日中関係史の新史料批判−−

編 集 部

 去る十月十七〜十八日、同志社大学今出川キャンパスにて日本思想史学会の第三〇回大会が開催され、初日に古田武彦氏による研究発表がなされた。古田氏の演題は「倭国における『九州』の成立--日中関係史の新史料批判」というもので、当日、会場には國學院大学教授の田中卓氏も顔を見せておられた。
主催者が配布した古田氏の「発表要旨」は次の通りである。
「『唐詩選』中に著名な王維の詩がある。阿倍仲麻呂が日本に帰るときの、送別の作詩である(「秘書晁監の日本国に還るを送る」)。
 その第三句に「九州何処遠」とあるが、この「九州」はどこか。従来「中国本土内の中心領域」(「禹貢九州」に拠る)の意か、それとも「(右の領域を、その一部とする)全世界」(史記、陰陽家の説)の意か、その(両者中の)いずれかと解せられてきた。
 しかし、当の明代成立の『唐詩選』は、現在すでに中国では「偽本」としての評価が定まっている。その上、その選集の「祖本」とされた元・宋の刊本は、朱子学をふくむ「中華思想」にもとづく、「改定版」の校本であった(たとえば、劉辰翁<南宋>の須渓先生校本など)。
 それでは、その原型(極元集)は如何。その問題を追及したい。同じく王維には、「送従弟蕃游淮南」(従弟蕃の淮南に游ぶを送る)と題する詩がある(「王右丞集」)。従来は(中国日本とも)、唐軍の渤海遠征を題材としたものの如く解せられてきたようである(趙殿成本、注)。ところが実は、日本史上著名の「白村江(白江)の戦」を中心とした歴史的詠詩であったことが判明するに至った。その上、ここにもすでに「九州」の語が現れている。
 この用語のもつ歴史的意義について、史料批判的分析を行いたい。」
この要旨にもふれられているように、古田氏は二十五分という短い持ち時間の中で、九州王朝説が依って立つ史料根拠として中国史書や志賀島の金印などを示し、さらには王維の詩中に現れる「九州」を倭国の直轄支配領域である九州島であることを論証され、同じく王維の詩に白村江の戦いが詠み込まれているという、目も眩むような新説を発表された。
 古田新説の詳細については、大阪での講演録を製本中であり、本会九七年度会員へのサービスとして送付される予定である。今しばらくお待ちいただきたい(来年初発行予定)。
 最後に、同大会で古田氏が配られた「お願い」と題された一文を紹介する。古田氏の学説の位置付けが簡明に現されたもので、会員諸氏のご参考にもなろう。

 お 願 い
                      古田武彦
 日本の古代史学界の依拠史観を大別すれば、第一に、戦前の皇国史観、記・紀の叙述をその基本において「正」とする立場です。第二に、津田左右吉の「造作」史観、記紀の叙述自体は「非」としつつも、やはり近畿天皇家一元の歴史像を守る立場です。戦後の学界の主流をなしてきました。
 第三は、漢書¥三国志から旧唐書・新唐書に至る、歴代中国史書の対、倭・日本国叙述を「正」とし、基軸とする立場です。「七〇一」以前を倭国(九州王朝)とし、その後を日本国(近畿天皇家)の時代と見なします(新唐書も、亦、この立場です。)。わたしはこの立場に立ちます。
 本日(一九九八、十月十七日)の発表も、この立場からのものですから、おそらく限られた質問時間では、応答十分ならずや、と存じます。
 従ってもし、各位において、各大学・各研究所等において、右の第三の立場以外を採る方々がおられましたならば、改めて当方(古田)へと御連絡賜わりましたならば、喜んで隔意なき情報交換をさせていただくことができるものと存じております。
 右、つつしんで、お願い申し上げます。
(なお、史観に関しては、右の三大別以外に、 その「折衷」や「変容」の存在すべきこと、御存知の通 りです。)
 以上


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