続平成・翁聞取帖 『東日流外三郡誌』の真実を求めて(『新・古代学』第4集)へ

和田家文書との出会い(1) 藤本光幸(古田史学会報5号) へ
東日流外三郡誌は偽書ではない(1)北日本の歴史の再認識を教えるもの 青山兼四郎

和田家文書との出会い(3) 東日流外三郡誌は偽書ではない(2)
古田史学会報1995年 6月25日 No.7
-------特別寄稿----------------------------------

和田家文書との出会い(3)

青森県藤崎町 藤本光幸

 昭和三十六年から三十七年にかけて、和田喜八郎氏の所から“天真名井家文書”“高楯城関連文書”がくるようになり、これら資料の整理研究を進めている所に昭和三十八年になって“安東氏関連文書”が出て来たのですが、最初はそれも『東日流外三郡誌』の表題のない断片的なものばかりでしたが、今まで全くと云って良い程、敗者の側即ち安東氏側から見た資料がなく勝者の側からの資料が多く残って居った為、私にとっては和田氏が持参する全てが、大変貴重な生の資料でした。

 従って、この頃は天真名井宮一族、高楯城藤原氏一族、安東氏一族の調査研究を並行して進めて居り、和田氏の五所川原市飯詰へは足繁く通 って、行く度に安東氏関連の資料のないことと、和田氏の資料の貴重なこと等を説明した所、遂に『東日流外三郡誌』と表題のある安東氏関連文書がくる様になったのです。
 しかし、一巻目から順序よく持参する事はなく順不同であり、しかも冊子本あり巻子ありで、最初はその全貌を把握することが出来ませんでしたが、和田氏からは膨大な量 の資料群である事は話されて居りました。

 飯詰の和田氏宅へ頻繁に通っているうちに高楯城の関係者である木村実氏、長峰繁正氏、今集次郎氏、山口貞治氏、中野金一氏、角田義雄氏、柳原与四郎氏等と知り合う様になり、昭和四十年十月に第一回目の会合をもって、昭和四十二年三月に飯塚平次氏を会長として高楯城史跡保存会を発足させたものでした。

 昭和四十四年九月に角田義雄氏宅から藤原藤房卿御像が発見されたと報告があり、史跡保存会の一同で大いに喜んだものでした。
 この頃、高楯城史跡地の土質がスナ地盤であることに目を付けた土建業者が史跡地を買収して土を採る計画があるとの情報が入り、史跡保存会では会議の結果 、史跡地を守るために昭和四十四年二月から昭和四十八年八月までの間に、史跡地の主要部分を土地所有者個人から買い上げて史跡の保存を計ることに努力し、その結果 、高楯城の地形をほぼ原型のままの姿で残す事が出来たわけです。  

 所が、昭和四十五年四月二十六日になって“高楯城史跡保存会”が“高楯城史蹟保護会”に改組され、高楯城に直接関係のない地元の人々が多数会員になるにつれて情況が変化して来ました。私としては出来るだけ手を加えずに史蹟としての保護をしたかったのですが、地元の人達は、これを観光資源優先に結びつけたかったようなのです。
 高楯城趾には日清日露戦役、支那事変、太平洋戦争の忠魂碑が以前から建って居ります。その遺族の方々の希望で、高楯城の戦没者を含めた供養を兼ねた資料館を西丸跡地に建てたいと云う希望が出て来たのです。

 以下に参考までに和田氏提供の資料に基づいて昭和五十年に私が書いた趣意書を御紹介したいと思います。

「まぼろしの城と云われている高楯城は、始め藤崎安東氏の玄武砦として寛治五年に築かれ、後、興国二年に萬里小路中納言藤原藤房公が安東宗季より受領、一子景房に飯詰領及び玄武砦を与えて治領の任に当たらせた。
 其の後、景房は玄武砦を改築し高楯城と称し、景房も姓名を朝日中將藤原景房と名乗り、高楯城の初代となったのです。以来、藤原一族は藤房より朝日左衛門尉藤原行安に至るまで、十三代にわたってよく治領し、領民からは名主として慕われていたが、天正の頃に至り、大浦為信が津軽一統を企て、天正六年から天正十六年六月十六日、朝日一族をはじめ飯詰領民ことごとく城を枕に玉砕して果てるまで、実に十有余年の長期に渡る合戦が大浦氏との間に繰返されたのであります。
 後、為信は津軽を統一し、津軽越中守として大名となり、津軽家は藩政期の長期に渉る統治を行ったものでした。
 この為、津軽家初期の敗戦の数々を物語る大浦氏の高楯城攻めの記録は、官選の歴史書である『津軽一統志』からは除外され、高楯城並びに朝日一族は、まぼろしの彼方へと追ひやられたものでした。

 しかしながら、昭和五十年の今日に至り、真実の歴史とは何か、と云う事で、高楯城に、縁りある同志相集いて、ここに高楯城資料保存館の建立を計画したのであります。
 既に昭和四十五年高楯城史蹟保護会が結成され、高楯城に関連ある諸種の古文書、資料等の収集、城趾の買収等、史蹟保護の為の執行をなして居りますが、これら資料の保存を期し、なほ在野に埋もれている関連資料の発掘を期すべく進行中ですが、本回市当局の御援助に依り“あすなろの家”として建設のめどがつきました。
                    
 “あすなろ”とは中山山脈の銘木ひば材(ひのきあすなろ)の事ですが、中山のひばは、古来より安東氏並びに朝日氏が造船用の用材として使用したほか、その耐久性から全国寺院の建設用材として使用されて居り、なかでも平泉中尊寺、金色堂の建設用材として使用されていることは、つとに有名であります 。全国三大美林の一つとして数えられる津軽のあすなろ(ひば)を生産するために使用された造林上の諸道具類の保存展示もかねて、本回の発起となった次第です。
 真実の津軽の姿、否、五所川原の、飯詰の姿を知らしむべく右企画したものですから、よろしく趣意御賛同の上、強力なる御援助お願ひ申し上げる次第です。」
 以上の様な経緯で和田氏と私が中心となって歴史資料館の建設を進めたものでした。そして、昭和五十一年十月には“あすなろの家”建設完成、建設関係決算報告書が出され、昭和五十三年には“高楯城史蹟保護会”が社団法人として五月二日付で県教育委員会から認可を受け、同月十三日には“社団法人高楯城史蹟保護会”として法務局に於て設立登記を終了しました。(つづく)


東日流外三郡誌は偽書ではない(2)

北日本の歴史の再認識を教えるもの

北津軽郡中里町 青山兼四郎

坂東随一の城郭規模 福島城

 相内集落の東南方、十三湖北岸の台地の上に存在する字・実取、露草地区の中にある。城跡の北と西は太田川と相内川沿いの沖積地に接し、東は中里町大字今泉へ続く台地で、南は十三湖岸の海食崖の突端にある。従来通 説ではとかく中世の安東氏の拠点であると推察されていた。だが一九五五年に東京大学が実施した調査の結果 、台地の外側を土塁で囲み、内部に方形部分をもつ古代城柵に似た極めて規模の大きいもので坂東随一の城址であることがわかった。

 古来より不明の点が多く近年まで全く語られなかった。だが多賀城の遺構と匹敵するものであることがわかり、十一世紀のものであることが、そこにある遺物と併せて発表された。蓬田大館や中里城などの防御的集落ともいいうる如き本城とよく似かよった構造をもつ城柵が北日本で最近相次いで発見されていることをも発表された処である。

 十三湊に住んでいた藤原秀栄が嘉応年間(一一六九−七一)もしくは文治年間(一三一七−一九)に築城とも伝えられる。東北大学蔵書によれば「花園帝御宇正和年中、安倍政秀(貞季)新築之城郭也」、「この城の境内各八十丁、池水を掘り、築地を設け、恰かも秦の長城を髣髴す」とあり、十三藤原氏を破った安東氏が正和年間(一三一二−一七)に築いたとも考えられる。
 これらのことは大和朝廷や中央政府その他の記録にも全く出てこないことから、多賀城のような律令国家制度の政庁とは考えられない。このような防御的集落は十一世紀にほぼ同時に造られている点から考察されるように、福島城はより大規模で計画性に富み、より政治的なものであるようだ。

 遺構は内城と外城からなり、外城はほぼ三角形をなし、一辺がそれぞれ一粁であり、総面 積は約六万五千m2、標高約二十m、土壁は東の一辺のみに沿うて南北に一列に走り、高さ約三・六m、基部の幅約十五m、堀も土壁の外側だけにあるが(最近は西北隅にもあると発表されている)、その全構造はなかなか確かめられない。

 この時期には従来の狩猟生活より北日本に於いてもようやく農耕に入り、稲作が開け蔬菜類づくりや鉄の生産に入り、また製塩なども急激に発展してきた時代との報告もされている。城柵の内部から製鉄を営んでいた工房の遺物などの発見もされていた。これらのことについて、内は中央朝廷からの年貢の収奪や外からは朝鮮・中国等からの外攻を想定したなんらかの緊張関係が生れてきたので守備を固める必要があったのではないのか。
 この遺構は広大な規模をもっているにも拘らず、東北地方に古代の中央政府が設置した古城柵とは本質的に異なり、湖沼や河川で囲まれた舌状台地の天然の要害を利用して築かれ、東北・北海道に特有な館の一類型である。しかも福島城は東に鏡城、南に青山城、西に羽黒館・中島柵、北に唐川城の四箇の城郭に守られていることも類のないことである。
 福島城を拠点にした安東氏は鎌倉幕府の水軍として船団を警護し遠くジャワ・スマトラ、印度洋まで航行したと東日流外三郡誌にある。

 元亨二年(一三二二)から嘉暦三年(一三二八)にかけて安東氏の内紛が展開し、津軽大乱とも云われて幕府の派兵をみた。その後安東氏は興国元年(一三四〇)十三湊を襲った津波の被害復興に追われ、その修築に努力していたが、やがて津軽に侵出してきた南部守行・義政の攻撃を受け、永享四年(一四三二)もしくは嘉吉三年(一四四三)遂に福島城から唐皮城へ移り、八年間を持ち続けて小泊紫崎城に退きついに松前に逃避したという。また南部氏との争いの外に安東氏一族内部にも抗争が続き、その後も十三湊の奪回はならず、本城は放棄されたまま荒れるにまかせ、百五十三年間で津軽氏の治世となった。

城と航海を守った山王坊

   山王坊跡については、東北大学教授加藤孝氏が昭和五十九年度までの三ケ年にわたり発掘調査を行った。この発掘を依頼した人こそ前市浦村長白川治三郎先生であった。この発掘作業が進むに従って次第に中世期東日流安東氏治世時代における行政と信仰の基幹をなしていたことが判明するに至った。遺構と遺物が出現・出土するにつれて愈々中世期の姿が現われ、その規模の大きさ、その配列の正確さ、神社・仏閣の気宇の広大さに白川前村長の眼識の高さに改めて敬服するとの教授の言葉が今も私の耳より離れない。

 山王坊及び日吉神社は市浦村相内の岩井の東北方に位置し、この村落の支流の山王坊川流域に開かれた田圃の北端の森に鎮座する。
 創建は十三湊が開かれた頃及び福島城が最初に築城された頃とされる。安東氏がその鬼門の守護神として祀ったと伝えられ、山王造りの京風二重鳥居は近隣に存在しない。
 遺物が次々に姿を見せ、遺構も数百年ぶりに本殿跡、広場跡、石組段跡、大鳥居跡、拝殿跡などが現われ、北の山地中腹より更に本格的な社殿が現在の日吉神社の東側に磁北磁南を結ぶ直線上に現われている。これに沿うて、礎石と社壇を置いた本格的な建造物のあったことを思わせるに充分な中世神域が発見せられた。

 菅江真澄の「外浜奇勝」に次のようにある。

「その沢奥に山王坊とて寺のあともありき。そこに名聞こえたる弘智法印すみ給ひて(中略)はたの山王坊にやまねびし給ひたらんか。かの沢のそこに、としふる石碑どもまろび埋れたりしを、近き世に此里のところどころにもて運び建て〜。」

 『津軽俗説選』にも「山王三千坊有古跡」とみえ、五輪搭やその他の古碑が多くあったことが知られ、十三千坊を中心としての繁栄を推定しうるが、今やっとその発掘に会い、そのようなことが知られるようになった。
 本社殿跡北側及び東側には「盤座」「盤鏡」を示す大型石塊群が散在し、山王沢所在の日吉神社の全神域が実は中世安東氏の鎮守として尊崇した杜であった。しかも日吉神社の神域と古代の神域が重複し、その上に中世安東氏の設立した神社施設が想像以上の広大さで山王沢全域を占めている事が知られるに至った。この安東氏の遺跡の南方平地には豪壮な規模の礎石を配した付属寺院跡と神宮跡も知られて、三間四方の方形建物跡に一間の廻り縁を配した規模の豊かなものであって、その外方に石組みの雨落ちの配石列があるなど、如何にも堂々たる偉容を示したものである。

 山王坊跡から出土した遺物は僅少であって、中世の居館跡や港湾跡、城塞跡、その他の遺跡と異なって宗教遺跡としては量 的に少ないのが特色の一つでもあると発掘報告は述べているが、南部氏が東日流を攻略した際にはすべての建造物など火入れをして焼失したと記録にあり、今も村人たちには七昼夜燃え上がったと伝承されている。なおその後墓地などを造るために石材、踏み台、残された仏具などは相当数運びだされたのである。今もその運び出された石材などが墓地に数多く残されている。

 以上のように出土遺物は多岐にわたるが、特に本社殿跡出土にかかる三点の石材は昭和五十九年度調査の発見品であり、これを考察する。

1.八角灯篭基礎
 これは安山岩質の小製品である。高さ十七.〇糎、底径二五.〇糎、上径一五.三糎。格狭間で鎌倉後半より南北朝期の形式を持つと見立てられる。
2.請華                
 石造物で本社殿跡のほぼ正面南側中央部近くで発見されている。文化史上、かけがえのない資料の一つと考えられる。なお各弁に仏画のそれと相似て華脈が施されていて、新例の一つと見なければならない。
3.請華
 これまた石造物、小品で本社殿跡背面中央部より転落した形で、単独に発見せられた。やはり鎌倉後半から南北朝に比定せられるが、或いは少し時期が上がるぐらいの時期であろうと考えられる。

 こうした遺物には至聖所を荘厳にするにふさわしい造形が求められる。この取上げた三基の遺物には、組合わせ部分の一つ一つではあるが、いずれの点からもそれにふさわしい手が加えられていることが知られるのである。なお芸術史的位 置は、鎌倉末期から南北朝期に比定せられるとあるが、これは全く応永の末期に相当し、南部氏が安東氏を松前に追放したあとの百五十三年間をとびこえて、それ以前の神社とするなら全く適中している。
 津軽の地に君臨した中世安東氏本宗の文化は、至極高水準の本格的なものを定着せしめていたことが知られ、従来一部学者によって疑問視せられていた『十三往来』の記事内容の史料的価値が決して絵空事でなかったと語っている。遠く北の国より南の国まで安東水軍を護衛させての貿易は当時として世界に冠たるものであったろう。従って比叡山三石岳山麓より延暦寺、日吉神社の護持は当然であったであろう。当時の海運界に交易の共同体の安東水軍と在地勢力がまとまって外部に対抗するには神社の加護に深く祈念致したことと思う。(つづく)


 これは会報の公開です。史料批判は、『新・古代学』第一集〜第四集(新泉社)、『古代に真実を求めて』(明石書店)第一・二集が適当です。 (全国の主要な公立図書館に御座います。)
新古代学の扉 インターネット事務局 E-mail sinkodai@furutasigaku.jp
古田史学会報一覧に戻る

古田史学会報7号
 へ

ホームページ へ


Created & Maintaince by" Yukio Yokota"