『古代に真実を求めて』 (明石書店)第十集
古田武彦講演 「万世一系」の史料批判 -- 九州年号の確定と古賀新理論の(出雲)の展望
(二〇〇六年二月十八日)七出雲の神話  八「サマン」と「サマ」

 

「言語考古学」の成立(序説) 芭蕉自筆『奥の細道』」真偽論争の現況


古田史学会報
1997年 10月27日 No.22

「言語考古学」の成立(序説)

−− 「山」と「森」について−−

京都市 古賀達也

 言語は歴史性を帯びている。言語が異なる民族や集団間の支配・被支配により、一方の言語が他方の言語と混じりあい、あるいは侵食しながら現在の言語を形成していること、古田氏が指摘されてきたところだ。日本語の朝鮮半島や中国語への影響の痕跡さえ残っていることも、氏は『学問の未来』で述べられた。今回、私は同類の問題の「発見」と、それらの分布や重層構造の調査により、「言語考古学」とも言いうる学問的フィールドがフィロロギーの一つとして存在する可能性を見いだしたので簡単に報告したい。
 日本列島では山のことを「ヤマ」「タケ」「ミネ」と呼ぶこと周知のところだ。しかし、これら以外に「モリ」(森、盛、守)と呼ぶ地域が存在する。分布の最密集地は青森・岩手・秋田を中心とする東北地方各県(太平洋側は福島県まで)で、次いで愛媛・高知、そして和歌山にも見られる。わずかだが長野・岐阜・沖縄にも存在する。逆に、東北でも日本海側の新潟県以南は激減し、関東・関西・中国・九州は殆ど見られない。また、北海道も同様のようである。四国も香川県・徳島県では激減している。このように分布が極めていびつなのだ(いずれも『ホームアトラス日本列島』リーダーズダイジェスト社一九八二年刊、四五万分一による)。
 福岡県出身で、現在は京都に住んでいる私には、山のことを「森」と称することは何とも理解しにくいことであった。最初は津軽での和田家文書調査でその用例を知り、次に四国・上黒岩遺跡調査のために地図を開いていて、愛媛・高知にも多数存在することを知って、これは重大な問題を含んでいるのではないかと疑うようになったのである。
 『広辞苑』によれば、【森・杜】は「1. 樹木が茂り立つ所。2. 特に、神社のある地の木立。神の降下してくるところ。3. (東北地方で)丘。」とある。私の今までの認識は1. と2. であった。今回の事例は3. を指すが、この広辞苑の記述は二つの点で正確ではない。一つは既に述べたように、分布は東北地方に留まらないこと。二つは、丘だけでなく千メートルを超す山々も「森」と呼ばれる例が多数あることだ(青森県・二ツ森、一〇八六メートル。岩手県・大白森、一二六九メートル。愛媛県・五代ケ森、一七〇七メートル。高知県・綱附森、一六四三メートル。他)。このように高山に対しても「森」呼称がなされているのだ。おそらく、当地の人々にとっては常識に属することではあるまいか。
結論から言うならば、山のことを「モリ」と呼ぶ勢力が、もともと日本列島に存在していたが、ある時代から「ヤマ」と呼ぶ集団に征服・支配され、モリはヤマと言い替えられ、あるいは「××森山」と重層化し、今日の分布状況を示すに至ったと思われる。この「××森山」という例は東北地方で見るならば南にいくほど分布が濃密となり、北へいくほど「××森」が多くなることから、ヤマと呼ぶ勢力がモリと呼ぶ勢力を駆逐しながら、あるいは同化しながら北上した痕跡を示しているのではあるまいか。
 それでは、その時代はいつ頃であろうか。『記紀』神話などから判断すれば、弥生時代には既にヤマと呼ばれていたのは明白であるから、「ヤマ」勢力の北進開始は縄文以前となろう。とすれば、「モリ」は縄文語である可能性が濃厚だ。地域的に考えれば日本列島のみではなく、大陸も含めたいわゆる粛慎語の可能性も高い。その傍証として、岩波古語辞典によれば「もり」は朝鮮語のMORI(山)と同源、とあるからだ。古田氏は、旧石器・縄文の日本列島は「粛慎列島」であったと既に指摘されているが、本稿で指摘した「森」分布の状況は、この古田説とよく一致する。
氏の多元史観に立てば、愛媛・高知の分布は『魏志』倭人伝中の侏儒国との関連も考えられるし、黒潮の流れに注目すれば和歌山県の分布も説明がつきそうである。また、新潟県以南の激減状態も、弥生時代の九州王朝の勢力範囲が越まで及んでいたことと関連しそうである。関東も同様だ(倭王武の東征)。
 このように、「言語考古学」という視点から地名や言語の歴史性を分析する時、古田説(多元史観など)との一致、言い換えれば古田説でなければ説明できないという事態が明確となるのである。すなわち、言語や地名の、分布と「遺構」状況を丹念に調査解析するという、歴史学の新たな分野「言語考古学」の成立が予感されるのである。なお、詳細は別 稿に譲りたい。
(補記1)本稿で提起した「言語考古学」とは言語や地名の歴史的変遷の研究を目的とするものではなく、言語・地名の歴史性の解析により、古代史の真実に肉迫する学問を意味する。言わば「理論考古学」と同類の学問的性格を有すると考えている。
(補記2)しかしながら、この方法により古代縄文語復原の可能性が存在することも指摘しておきたい。例えば、多数存在する「黒森」という山名の「森」が縄文語であれば、「黒」もまた縄文語の可能性を帯びる。こうした方法で縄文語の復原が可能と思われる。
(補記3)また、古田氏が提案していることだが、縄文海進を利用し、当時の海岸線に相当する地域に、海に関係する「地名群」を検索できれば、それらは縄文海進時に使用された言語であるという論理性を持つ。この方法もまた「言語考古学」に有益である。


芭蕉自筆『奥の細道』」真偽論争の現況

京都市 古賀達也

 昨年十一月発見された松尾芭蕉自筆『奥の細道』について、会報十八号でふれたが、その後、鑑定について異見が出され、いわゆる「真偽論争」が始まっている。芭蕉自筆に異を唱えたのは、山本唯一氏(大谷大学名誉教授・芭蕉研究)と増田孝氏(書の専門家)の二人。
 山本氏によれば「自筆本」(以下、所有者の名前をとって「中尾本」とよぶ)には、芭蕉なら間違うはずのない低次元の誤字脱字が百カ所もあり、俳句にそれほど詳しくなく、かつ、推敲本ともいうべき痕跡を残しているので、芭蕉に近い人物(甥の桃印か)による写 本とする。従って、自筆ではないものの極めて貴重な「草稿写本」であるとされた。
 増田氏は書の専門家らしく、書風全体の流れやリズムなどから、自筆ではなく写本であるとされた。その後、氏は『新潮45』九月号において、単なる下手な写 本ではなく、草稿本に見せかけた悪意に満ちた贋作とされるに至った。
 これら非自筆説に対して、自筆本として発表された、上野洋三氏(大阪女子大教授)は、週刊誌のインタビューに答える形で反論されている。同じく、自筆と鑑定された櫻井武次郎氏(神戸親和女子大教授)も近く著書を刊行され、自筆説を展開されるようだ。
 過日、京都において『新・古代学』3集の対談企画として、古田氏は山田氏と櫻井氏の両氏とそれぞれ個別 に対談を行われた。両氏とも自説に対して自信満々で、一歩も譲らずという内容であった。なお、古田氏は中立の立場で両者の意見を引出しながら、結果 として古田氏を介して両者が「論争」しているかのような、臨場感あふれる対談内容となった。願わくは中尾本が多くの研究者に公開され、デンシトメーターなどの科学的測定も行いながら学問的な論争の展開を期待したい。
 和田家文書偽作キャンペーンとは全く次元の異なった、真の学問論争を『新・古代学』3集において、読者は見るであろう。また、こうした画期的企画に同席できたことに感謝したい。なお、参考のために思文閣出版「鴨東通 信」(No. 二七)に掲載された山本氏へのインタビュー記事を次頁に転載させていただいた。山本氏も『芭蕉の文墨 ーその真偽ー』を思文閣より刊行された。自筆説の上野氏も既に『芭蕉自筆「奥の細道」の謎』(二見書房) を発表されており、こちらも自筆説に至った経緯が詳しく紹介された好著である。ともに読まれることをお奨めする。


『「芭蕉自筆 奥の細道」をめぐって』 山本唯一(大谷大学名誉教授)
            ( 1997.7.23  にて)

 思文閣出版 「鴨東通信」(No. 二七)は、インターネットには掲載していません。


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