歴史ビッグバンの現在

古田史学会報
1997年 8月25日 No.21


□□古田武彦 関西講演会より □□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□

歴史ビッグバンの現在


古田史学の会 代表 水野孝夫

 この記事は、去る六月二十九日の講演会(講演三時間、レジュメ八ページ)の内容を要約紹介するものです。

 1. 出土がつづく銅鐸と鋳型の解釈
 2. 邪馬「臺」国はあった
 3. 新唐書日本伝から「歴史ビッグバン」
 4. 鬼界島爆発と縄文時代
 5. 「東日流外三郡誌」
 以上の5テーマを扱います。

 出土がつづく銅鐸と鋳型の解釈
  加茂岩倉遺跡出土の銅鐸を現地確認し、荒神谷遺跡出土品との比較、両者に共通 する×印の存在などに関する見解は既に会報等で述べた。改めて整理して述べると、両者は勿論無関係ではないが、性格も時期も異なる。
 荒神谷は鐸、筑紫矛、出雲矛のセットをもち、加茂岩倉は鐸のみである。出雲矛は一般 に銅剣といわれているが、矛か剣かは木柄の長さで分けるべきで、穂先と柄の凸と凹で分けるものではない。ここにこだわるのは出雲神話には「八千矛の神」はあるが「八千剣の神」はないからで、神話との関連を考えるのは当然である。
 荒神谷はオオクニヌシの国譲りのあと独自の祭器をもつことを禁じられたのではなかろうか。ただし「武器型の祭器は許さぬ 」との筑紫側要求を「すべての金属製祭器が許されぬ」と過大に解釈したフシは伺える。ここは「勝手な想像だ」と思われるかも知れないが、和田家文書「東日流六郡誌大要」の「荒覇吐神一統史」に祭器を埋めた話がでてくる(新古代学第二集P.93)。よく読むと「ウチモノを禁じられたのに、祭器ことごとく埋めた」と書いてある。荒神谷−加茂岩倉を結ぶ話が和田家文書で解けてくる。この文書の内容は、おそらく出雲大社の周辺から出たものではなかろうか。出雲大社古文書の存在を予想するが、きっと「この神社の由来は古い、天皇家よりも古い」と書いてありそうに思える。
 加茂岩倉への埋納は弥生後期初頭であろう。これは「神武の近畿侵入」と関係する。侵入まで近畿は銅鐸圏だった。紀記には、神武は苦心の末に侵入に成功し、現地で「神聖」とされていた人々を殺しつくしたむね書かれている。こんなことをウソ・イツワリで書くだろうか。神武架空説はおかしい。弥生後期になると金属器の出土はヤジリを除いてなくなる。小林行雄氏説では「統一権力が生じて、共同体の祭器は不要になり出土しない」と説かれ、考古学界では信じられているようだが、新権力者が金属器を必要としないとは信じられない。銅原料が入手できないので銅鐸をつぶしてヤジリを作るしかなかったのだろう。
 加茂岩倉で注目されるのは、兄弟銅鐸とされるものが奈良の上牧から出ていることである。大和で反銅鐸勢力により駆遂される直前の時期の姿を示している。兵庫県豊岡市の気比遺跡銅鐸との兄弟もやはり加茂岩倉から出ている。気比は山脇近くの穴に玉 砂利を敷いた上に銅鐸が重ね合わされ、御神体のような姿で祭られていた。加茂岩倉も御神体のように大切にはしているが外敵から隠して埋納しているという姿である。
 さて先日出土して会員有志と見学した奈良田原本町の銅鐸鋳型は待ちかねていたものであった。実は出土地区を過去に調査したことがあった。『古代は沈黙せず』で報告したように、金属を加工した土地には「公害」が発生するわけで、出雲と共に昭和薬大の専門家と一緒に奈良も調査した。土地汚染については不明だったが今回出土の幼稚園敷地のそばから三本の水路があるのを知った。農業用としては三本は多いと思い、金属加工のためかと目星をつけていた。鋳型はミゾに捨てられていた。ここは工房跡ではないとされる。しかし工房は遠くないだろう。鋳型の廃棄は「使い捨て」か「永久廃棄」かが問題だ。弥生後期には実物の出土がないから、「永久廃棄」だろう。とにかく銅鐸世界は奈良に実在した。記紀にはない。言い過ぎを恐れずに云えば、天皇家にとって銅鐸は「思い出して欲しくない」ものだった。もっと突っ込むなら
「銅鐸信仰の勢力はどうなったか」という問題がある。神名としては残っている可能性がある。神社名鑑から神名を拾って、記紀にない神をマークすれば候補名簿ができる。もっと大切な問題。「銅鐸信仰の人々はどうなったか」。素直には服属しなかった人々があったと思われる。この人々の行方と「被差別 部落」の問題とは関連し合っているのではないか。

 邪馬「臺」国はあった
 びっくりですか?。正確に読んだ読者にはお分りの筈。三国志では邪馬「壱」国だが、後漢書は邪馬「臺」国であり、どちらも勝手に手直しすることは間違い。では何故、後漢書には「臺」とあるのか。このテーマに取り組んだ。
 三国志の時代、中国の天子に喜ばれたのは「壱」、憎まれたのは「弐」。魏だけへの忠節が尊重され、呉や蜀にも通 じて「保険をかけて」おくことは「弐」(ふたごころ)であった。邪馬倭国はこれを「壱」国と表記した。この字をあてたのは壱与であろうとは、かつて論じたところ。
 では「臺」はなにか、タイまたはダイとよばれる地名があったと考えた。明治政府の調査・明治前期全国村名子字調査書という本がある。すばらしい記録だが戦時に焼けて、ほぼ九州と青森の部などが残った。これで九州をみると字名に「臺」が多い。これを現地調査した。たとえば遠賀郡大鳥居村に和田・丸の内・臺がある。ここは川に挟まれた低湿地であって高台ではない。五ケ所調べたが、いずれも低湿地を埋めて平らかにした、面 積は小さな土地であった(関東でも低い土地だが大面積という)。

さて後漢書に戻ると三国志とは文脈が異なり、
 「三国志では、七万戸の領域を邪馬壱国」
 「後漢書では、大倭王の居所を邪馬臺国」
としている。極言すれば後者は大倭王ひとりを収容できる広さでもよい。
 旧字体の「國」の字は、カコイがあって、祭壇があって、戈がある所を意味している。戈は武器よりも農具であろう。後漢書は三国志に書かれていない倭王の居所の小地名を新しい情報として付加したのであった。従来全く異なる文脈の二つの国を単語だけ抜出して、対応するものとして読んできたのはおかしいことだった。
 こわい話。字名は基本的に漢語は少なく、日本語だ。そして低湿地を埋めたような場所という意味を抽出できた。ところがわりによく似た地形を中国でもタイという。とすれば語源は同じではないか。日本語にはタイラゲル−タイラナと動詞も形容詞もあり、本来の姿を示しているように見える。

 新唐書日本伝から「歴史ビッグバン」
 旧唐書では倭国伝と日本国伝が別にあり、両国は別国として扱われている。これに従えば九州王朝説になる。これに対して新唐書は日本伝のみであり、旧唐書の誤りを正したものとして、古田説を無視しうる根拠と考えられているふしがあった。この問題に取り組んだ結果 、新唐書は旧唐書と異なってはいないことを知った。
 これらの書物をわれわれは中華書局の表点本で利用している。新中国で区切り点をうち、固有名詞をマークした便利なものである。なかに「(八〇五年)至是方釈之。日本国王并妻還蕃」という記事が旧唐書にあった。この年代の日本国王(桓武天皇)が中国へ妻と旅行したなどあり得ない。調べるとこれは「至是方釈之日。本国王并妻」との区切り誤りであった。
 区切誤りがあるかも知れぬと新唐書の日本伝を見直すと「次用明、亦曰目多利思比孤、直隋開皇末、始与中国通 」の箇所がおかしい。用明天皇は隋開皇末(六〇〇)に直(あた)らない。それと目多利思比孤とは隋書の多利思北孤と同じだろうか?「目」にはサカンの読みがあり、代理の意味がある。また「始めて」中国と通 じたと書いてある。倭国が古くから中国と通じていたことは隋書はじめ先行史書にあるところで、崇峻・推古時代に多利思比孤代理を名乗って日本国が「始めて」中国に通 じたと書いてあるのだ。
 新唐書は旧唐書をチャラにせよとは書いてない。新しい情報は補足してあるがプラスして読むのが当然であろう。わたしはこの論証を「歴史ビッグバン」と云っている。(くわしい論証は「学士会会報No. 八一六」に掲載)

 鬼界島爆発と縄文時代
 鹿児島近辺で縄文・草創期の遺物大量出土が報道された。わたしはかって「縄文都市」という言葉を使ったが、今回は「縄文都市圏」といいたいほどすごい。南九州では早くから様々な縄文文化が出現していたが、六千三百年前の「鬼界アカホヤ」の大噴火以来その先進性がとだえることが報告されている。鹿児島県埋蔵文化財センターの新東晃一氏に説明を受けた。また『火山灰は語る』の著者町田洋氏にも質問した。
 このアカホヤ火山灰の分布は遠く佐渡島あたりまで及ぶが、被害想定は鹿児島・宮崎・高知足摺地方は即時全滅、中部九州・四国大半・広島から和歌山に至る瀬戸内海側は奈良も含め半分は生き残れないほどの大被害である。前記の範囲をβとする。またこの降灰以前の南九州淵源の縄文土器の分布範囲は九州全域・四国西半・岡山・鳥取西半を東限とする本州西部である。これをαとする。すると「αマイナスβ」が古縄文文化の生き残った地方になる。これを「(筑)紫(出)雲残存の論理」と呼ぶことにする。記紀神話の中心領域がなぜ北九州(筑紫)と出雲なのか謎であったがやっと解けた。今後、古代史を語るとき、この鬼界爆発を抜きにはできないであろう。
鹿児島は筑紫・出雲にとって先進の大恩人であった。ところが記紀では「クマソ」「ハヤト」などといやしめられている。“大恩人をいやしめる現象”は、中国に東夷¥西戎¥南蛮北狄という用語があるように人類に普遍的にみられるのではないか。「部落」をさげすむというのも同じ。これはまったく思想史的理解にとってだけの一問題ではなく、全人類の全歴史に見られる本質的な現象であろう。
 またエバンズ−メガーズ氏による「バルディビア土器は縄文の渡来である」との説は日本考古学界には受入れられていない。なかで江坂輝彌氏の反論に「渡来なら、なぜ九州南端から来ないか」があった。一理ある。しかしこの火山爆発を考慮すると解ける。南端は即時壊滅し、即壊をまぬ がれた有明湾岸などの人々は逃げ出し、その一部がバルディビアへ到達したのだ。

 「東日流外三郡誌」
 秋田孝季の記した名言を紹介する。
「史実は強し」「信仰に上下なし」「人命を軽んずる宗教は邪道なり」「みずからを神と称する者は神の怒りにより て亡ぶなり」。 いずれも素晴らしい内容をズバリと云いきっている。偽書派が起こしている裁判は、最高裁へ上告されているが、違憲判断にはなじまないだろう。裁判が終結すれば、寛政原本の公開を期待している。
(了)


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