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東日流外三郡誌とは 和田家文書研究序説(『新・古代学』第1集)へ


「故中谷義夫氏をしのぶ会」で研究報告 史料批判の方法について ひと立ちばなし

古田史学会報
1996年 8月15日 No.15
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古田武彦先生の近況

「故中谷義夫氏をしのぶ会」で研究報告

ーーー『古事記』『新唐書』『東日流外三郡誌』『倭人伝』他ーーー


 本年二月に御逝去された、中谷義夫氏をしのぶ会が、七月七日中谷家(大津市)で催された。故人と交友が深かった関西地区の会員十数名が参加したしのぶ会において、古田武彦氏は東京での十二年間の研究成果 を故人の御霊前に報告された。報告に先立ち、御霊前への拝礼、水野代表のあいさつ、共に「古田武彦を囲む会」を結成された藤田友治氏による故人の紹介が行われた。以下、古田氏の報告の概要を掲載する。

『東日流外三郡誌』と『新唐書』の日本
 『東日流外三郡誌』には安日彦・長髄彦が筑紫の日向の賊に追われて、津軽に流れて来たと記されているが、筑前福岡市に字地名の日の本(ひのもと)がある。安日彦らはここから、ニニギに追われた。すなわち、天孫降臨と言われているニニギらによる日の本への侵略事件だ。安日彦らは津軽へ亡命する際、地名を持ってきた。それが日本中央碑にある日の本であり、後の日本(ひのもと)将軍安藤氏へとつながる。「東日流」とは東へ日本が流れるという、安日彦らが地名(日本)を津軽へ持ってきたことに由来する当て字ではないか。
 そうすると、『新唐書』日本伝に見える、日本は乃ち小国、倭のあわすところとなる、故にその号を冒せりという、の記事もこの天孫降臨事件を述べたものではないか。一世紀から七世紀まで存続した倭国(九州王朝)は、北部九州に先住した日本を侵略した。そして八世紀以後、倭にとってかわった大和朝廷が古く由緒ある日本という国号を使用したと、近畿天皇家の使者は中国側に述べたのであろう。そのことが、「あるいは云う」として『新唐書』に記されたのだ。
 『東日流外三郡誌』に残された伝承と『新唐書』の一致は重要である。

「日の本」地名の淵源と津軽への稲作伝播
 日の本とは、糸島博多湾岸の太陽信仰の聖地に由来している。たとえば平原(ひらばる)は、平は日羅(ひら)で、原は集落を意味するバルであろう。有名な弥生の平原遺跡は縄文時代からの太陽信仰の聖地に侵略者(ニニギ)たちが造った墓だ。すなわち三種の神器をシンボルとしていた集団が造ったものである。
 これら金属器や三種の神器は弥生中期初から現れるが、弥生前期末以前には現れない。こうした考古学的事実はこの時代に大事件が起こったことを示すものだ。それが『記紀』で言う天孫降臨であり、『東日流外三郡誌』には「筑紫の日向の賊」により安日彦らが津軽に追われた、と記された事件を指す。
 更にこのことを裏づける事実として、板付水田がこの時期に断絶していることや、青森県の砂沢遺跡(弥生前期)、垂柳遺跡(弥生中期)の水田が、板付水田と同じ形式で発見されている。これは、安日彦らが稲と稲作技術を持って、津軽へ亡命したことと符合している。しかも、東北ではこの青森県の稲作遺跡が最古であり、南から順次稲作が伝播したという形跡は見られない。これなども、安日彦らの糸島博多湾岸からの亡命という『東日流外三郡誌』の記述でしか説明できない。『東日流外三郡誌』には稲を持った安日彦の絵が記されているが、これだけ考古学的事実と伝承が対応しているのである。
 そうすると、天孫降臨以前にすでに日本や日向(ひなた)、ヒラという地名は存在していたのである。これは縄文時代からの地名と考えざるを得ない。例えば糸島の雷山には、天から巨石が降りてきたという伝承があり、麓にも天降(あまおり)神社がある。これも、天孫降臨よりも古い、縄文の巨石神話を淵源としているもので、後に天孫降臨に関連付けられて、ニニギを祭神としたのであろう。

天皇陵の下まで発掘しなければならない
 侵略者が先住民の聖地に自らの墓を造る、というテーマが平原遺跡でも言えるが、そうなると天皇陵の発掘も石室石棺止まりでは駄 目だ。それでは侵略者の歴史しか解らない。あの広大な天皇陵の地がそれまで何もなかった空地だったとは考えにくい。天皇陵の地下まで掘って、初めて歴史は解るのである。地下まで発掘させろと言ったら、宮内庁はますます反対するだろうが、それでも歴史の真実のために石室だけでは駄 目でその古墳の下まで発掘しなければ、「御主人様」の考古学であり、侵略された側の歴史はわからない。どっちにしても宮内庁は反対するだろうから、遠慮などせずに真実を主張すべきだ。天皇陵の地下まで発掘させよ、と。真実を主張することが、一番強いのである。


史料批判の方法について

建 長 二 年 文 書 ( 三 夢 記 ) を め ぐ っ て

古田武彦

 わたしの研究には、一定の文献処理上の原則が存在する。
 それは、わたし自身にとっては、単に常識的な事がらに属する。しかし、それはしばしば学界の「定説」に相反している。否、むしろつぎのように言うべきであろう。わたしにはもっとも自然な理解方法による帰結と見えるものが、意外にも学界の「定説」と矛盾するとき、そのときわたしは研究を開始する、と。
 この問題について、つぎに簡明にのべよう。わたしたちの眼前に、一つの文献が存在する。それは一個の対象物(Gegenstand)である。これに対する、わたしたち人間の側の方法はいかにあるべきだろうか。その対象の中に、わたしたち現代の人間にとって疑問とすべき点が見出されたとき、あるいはその対象全体が疑わしく見えたとき、直ちにわたしたちはその対象の価値を否定し去ってはならない。すなわち、その対象全体の信憑性を否定したり(後代の偽作と見なす)、その対象の不可解に見える部分を改めたり(原文改訂)、その記事を作者の迷蒙に帰因せしめたり(原文杜撰説)してはならないのである。
 もしかりに、そのような論断を下さねばならなぬときは、あくまで、そのための「必要にして十分な論証」が要請されねばならぬ 。それを徹底して行うことなく、不十分な根拠にもとずく「憶測」や二・三の微証を手がかりにした「推定」によって、右のような論断を行ってはならない。
 そのさい、わたしたち研究者の明徹した視野をしばしばさえぎるものに、「定説」がある。学界の「定説」や「通 念」は、従来の研究史の総体的な帰結として、貴重な「遺産」である。ーーそれゆえ、しばしば生きた研究の新しい進展の妨害物となるのである。なぜなら、そのいわゆる「定説」や「通 念」は、過去の研究史上、必ずしも必要にして十分な論証を経過してきていない場合があるからである。
 ことに歴史学の場合、現状は、その直前に当る封建期という、各文献の「不可侵の権威」が強調されすぎた長い期間に対する、反省期に当っている。否、なお明治以降の時期においてすら、諸権威(たとえば天皇家や本願寺教団の権威)の圧力は、文献に対する疑いの目すら封殺してきた、実績をもっているのである。それゆえ、近代史学者は、これら権威を背景にした文献に対する「疑いの目」を宝とした。これはまことに正しい。しかしながら、その反面 、「必要にして十分な論証」なしに疑い、その疑いが啓蒙主義的なムード(権威をバックにして作製され、もしくは保持されてきた文献を疑惑の目で見ることが「科学的」もしくは「近代的」な態度であるというムード)に支えられて、学界に「定説」化する、という傾向も決して絶無ではないのである。
 これは、決して“疑いすぎることは災いである”といった「復古主義」的な研究思想をのべているものではない。あくまで徹底して疑い、必要にして十分な、確たる根拠をもって断固否定すべきである。それなしに、ムード的に、もしくは薄弱な論拠をもって否定すべきではない、というにつきるのである。なぜなら、そのような薄弱な「否定」は、人間のもつ強靭な否定の精神への尊重、では決してない。逆に、否定的なムードという初歩的な精神領域に満足することに停滞する、浮薄な精神である。
このような研究史上の精神領域の段階に位置するわたしたちにとって、文献を根本的に再検証し、従来のいわゆる「定説」に向って大胆な疑いの目を向ける、それが不可欠の課題とならざるをえないであろう。その場合の具体的な作業はつぎのようである。
 一個の史料に対し、その全体もしくは部分を既成の「定説」が疑っているとき、その「定説」の“疑い”の根拠を再検証する。そしてその“疑い”が単なる思いつきや二・三の微証にしか手がかりをもたぬ 薄弱な「推定」でないか、どうかを、客観的に洗い直す。そしてそこに「必要にして十分な論証」が成立していないとき、わたしたちは敢然として「定説」に反して、その史料に対する「無実の容疑」を解き放たねばならぬ 。
 このことは、逆の場合、すなわち「定説」が一個の史料に疑いなしと信憑しているにもかかわらず、その史料の信用すべからざる事実を発見したとき、必要にして十分な論証をもってその史料の信憑性を勇敢に否認する、−−これと本質的に同じ、人間精神の行為なのである。
 わたしの研究経験においては、最初に歎異抄末尾の「流罪記録」において“その全体の信憑性を疑われている”というケースを見た。次いで、三国志魏志倭人伝において「邪馬壹国」の場合は、その「壹」が誤写 として、「臺」に書き変えられ、それが「定説」化しているという状況に直面した。一定部分の信憑性が疑われていたという事例である。(『「邪馬台国」はなかった』参照)
 今、この論文(※)の場合、建長二年文書(「三夢記」所載)が、その全体の信憑性を疑われていたのである。そしてこの文書を偽作視する、従来の「定説」の論拠を検証して、それが全く薄弱な根拠の上にしか立っていないことを発見した。その上、この文書の内容が先ず鎌倉初期の文書として、さらに親鸞の真作文書としてまさに十分な適格条件を具有していることを論証したのである。
 これに対して、「定説」に立つ論者はつぎのように反駁するかもしれぬ。“いやしくも「定説」を破るには、もっと明確な証拠が必要だ。”と。これはつまりは“親鸞の真筆(もしくはそれに準ずる高弟の筆写 )でないから、信用しがたい。”ということとなろう。しかしこの論者は忘れている。「親鸞聖人御消息集」や「末燈鈔」などは、親鸞の真筆の類なきままに「親鸞の真作書簡の集成」とされて、誰人にも疑われていないことを。さらに大きく忘れている。偽作視する根拠は決して確証たりえぬ 、薄弱なものにかぎなかったことが証明された今、再び「偽作説」を復活させるためには、まさにその「復活意図者」に対して、「必要にして十分な論証」がきびしく要求されている、という肝要の一点を。それなしに、「従来、定説であった」という、“過去の栄光”にのみ依拠して偽作視を立言することは、結局「新たな権威主義」の樹立に他ならず、もはや何の学問的発言でもありえないのである。すなわち、わたしたちは「史料に依拠する」立場を堅持するのであり、「学界に依拠する」立場を排するのである。
(「邪馬台国」の例、省略。)
いかに「定説」が圧倒的多数の信奉を長期間にわたってえていようとも、いったん史料の原文面 の事実に則した理解が提出された以上、右の論証を避けることは、とうてい許されないのである。なぜなら加勢する人数の多少にかかわらず、それは一個の史料に対して、人間のなすべき不可避の義務、もっと端的にいえば“史料に対する、人間の最低の礼儀”に属するからである。
(※「若き親鸞の思想」『親鸞思想--その史料批判--』冨山房刊所収。)
一九八一年一月清書

【編集部】
  本稿は『親鸞思想』に関連して、古田氏が書かれていた未発表論文を、この度同書が明石書店より復刻されたのを期に掲載させていただいたものです。


□□▽▽▽▽▽ひと立ちばなし □□□□□

 洛西で猛烈研究宣言
 「かえりなん、いざ洛西へ」ー。ようやく落ちついた環境で研究生活が続けられるのがうれしくて・・・」と古代史研究家の古田武彦さん(六九)=写 真(略)=。東京の昭和薬科大学教授として一二年間、教育、研究生活を送ってきたが、このほど退職、本来の居住地・向日市物集女の自宅に戻ってきた。
 親鸞文書の真偽を確かめる研究を手始めに、いわゆる「邪馬台国」論争で「魏志倭人伝」など中国文献を当時の解釈で厳正に解読、日本列島の古代史ファンをうならせる著書を次々と刊行。このところ神話などの解釈にも挑戦中。
 「この春以降、神話(の解釈)で成果があったですよ。来年からの年賀状も“自粛”させてもらって、研究に拍車をかけます」と猛烈研究宣言。とはいえ今月七日には、古田学説の熱心な支持者だった大津市民をしのぶ会に参列、最近の研究成果 を披露する予定もたてており、ゆとりも生まれたようだ。
(京都新聞 一九九六年七月二日 夕刊より転載)▽▽▽▽▽
[インタネット事務局 2000.12.20 新聞記事を転記]

 七月二日、京都新聞夕刊のコラム「ひと立ちばなし」に、昭和薬大を退職され京都洛西の自宅へ帰られた古田先生の記事が掲載されましたので、紹介します。
 偽作キャンペーンに奔走し、イジメを引き起こしている某地方紙とは異なり、十二年ぶりに京都に戻られた先生の動向を、「洛西で猛烈研究宣言」と注目、紹介しています。
 宣言通り、英文論文の勉強をしたい、法の起源を研究するためにハムラビ法典をくさび型文字で読みたい、『新唐書』日本伝に天孫降臨の歴史事実が反映している、『古事記』にヒルメ・ヒルコ神話が隠されていた、など、猛烈研究・新発見が続く毎日のようです。(古賀達也)


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