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古田史学会報 1995年 2月26日 No.5

学問の大道

古田武彦

 学問は真実の大道である。真実を目指し、真実に達する。誰人にもそれ以外の目標はなく、それ以外の方法もまた一切存在しないのである。 わたしがかつて「邪馬台国」に非ず、邪馬壱国の立場をとり、それが九州の博多湾岸とその周辺にありとしたのも、史料事実と論理を重んずる、その立場に一貫して固執したからであった。近年、博多湾岸(吉武高木・雀居)とその周辺(吉野ケ里・平塚川添等)に累出する、弥生の宮殿跡群の存在は、わたしの学問の方法が嘘ではなかった事実を明確にしめしている。                
 同じくわたしは「東北王朝」の語を以て、東北地方北辺に一大先進文明の存在したことを暗示した。果 然、昨年の三内丸山遺跡(青森市)の高層木造建築物等の出土は、わたしの指摘が虚でなかった事実を明示したのである。その上、「雲を抜ける如き石神殿」(『東日流外三郡誌』)の一節が、その伝承であり、その文献的な反映であることをいちはやくわたしが指摘しつづけたにもかかわらず、諸報道機関はいっせいにこれを無視し、報道拒否ないし報道回避を行った。日本の未来の民主主義社会にとって、日常生活の「乗車拒否」の類とは比較にもならぬ 危険事態である。
 それのみか、反和田家文書の過激派とも言うべき一派は、『季刊邪馬台国』(五十号等)によって反撃を強めた。それも和田喜八郎氏やわたしに対する個人攻撃と人格中傷である。かつて戦前、津田左右吉に対して蓑田胸喜等「原理日本」一派が展開した卑劣な手口と同じく、全く非学問的な攻撃が核心となっている。
 しかも偽書類(念書)や偽証人を仕立て上げ、それを「証拠」として中傷するという、真に犯罪的な手法に奔った。ここに至ってわたしはかつて十九世紀末、フランスで生じたドレフュス事件における偽造書類・偽証人の“でっち上げ”を想起せざるをえない。 歴史は二度くりかえしたのである。
 ともあれ、真実に勝るものなし。アニュトス・メレトスの輩の中傷が結局ソクラテスの真実を打ち破れなかったように、地上の権力・権威と結託せんとする、偽宣伝やいかなるパフォーマンスによっても、人間と学問の真実は打ち破りえないのである。 今年以降、その醜悪な手口の一切が明らかとなるにつれ、彼等とその同調者の比類なき悪名もまた、未来の歴史の中にしっかりと記録されることとなるであろう。
 右、天と地と学問の神の面前で誓言する。

                     一九九五年 一月十五日


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