2018年12月10日

古田史学会報

149号


1,新・万葉の覚醒(Ⅰ)
 正木 裕

2,滋賀県出土
 法隆寺式瓦の予察
 古賀達也

3,裸国・黒歯国の伝承
 は失われたのか?
侏儒国と少彦名と補陀落渡海
 別役政光

4,弥生環濠施設を
防御的側面で見ることへの
 疑問点
 大原重雄

5,評制研究批判
 服部静尚

6,水城築造は
白村江戦の前か後か
 古賀達也

7,盗まれた氏姓改革
  と律令制定
 正木裕

 

古田史学会報一覧

太宰府条坊の存在はそこが都だったことを証明する(会報150号)
                 「浄御原令」を考える(会報148号)


評制研究批判

八尾市 服部静尚

一、はじめに

 堀川徹氏(注1)の言葉を借りると、
「評制施行時の国司は一定の目的をもって派遣され、目的を果たせば帰還する中央官人であることはおおよそ共通理解といえる」そうだ。これには二つの意味を含む。先ず、評制の開始時期と国郡制では国司の職掌が違う。次に、常駐ではない国司を介しての地域支配が先にあったことになる。
 ここでは、現在の史学界の評制研究を俯瞰した上で、この共通理解の形成根拠を批判しこれを否定する。すなわち、七〇一年の国郡制は、評と郡の呼称の違いがあるものの、(九州王朝の)浄御原律令に准じた制度であったことを述べる。

二、評制研究の俯瞰

 堀川氏は、八世紀以前の地域支配制度研究を次の四点に分類する。
①評制成立時期と意義・背景
 評制の成立は孝徳朝まで遡り、多様化した部民制や国造制の貢納体系の一元化とみなす。

②評官人の官制・官名の理解
 史料が少なくこの研究は停滞気味。

③評制展開論
 成立時期から八世紀までの間で変換点があったとする。山中敏史氏(注2)は、評家の検討から、天武朝の国境画定事業の前後でその性格が分類されるとし、八・九世紀の郡家に継承されていく評家は、七世紀第4四半期以降に新たに建設されたものとする。

④評制と国郡制との関連研究
 古田武彦氏の提起、第一になぜ日本書紀編纂者が評を郡と書き換えたか、第二になぜ天下立評の詔が日本書紀に記載されていないのか、残念ながら現在の史学界はこの重大論点をスルーする。

三、評官人の任用への国司関与

 先に挙げた「評制と国郡制との関連研究」の一つに、郡司と評官人の任用システムがある。
 大宝律令で郡司任用は、①国司による銓擬(国擬)→②式部省銓擬→③大臣(太政官)・天皇への報告(郡司読奏)→④任官の儀、という手順で行われる。国司からの推薦がスタートなのだ。当然、この任用システムは国司の赴任地常駐を前提とする。しかし、評制施行時には国司(国宰とすべきだが以下堀川氏の記述に従う)が常駐していない状況下であるとする。
 鐘江宏之氏(注3)は、「東国国司は大化元年八月庚子条の詔の後に派遣され、翌年三月甲子条の詔ですでに目的を果たして帰還している」つまり常駐では無かったとする。これが冒頭に挙げた共通理解の形成根拠なのだ。

 今泉隆雄氏(注4)によると、孝徳朝の評の総数は約五〇〇と推定されるが、評制施行時(第一回目)のみは国司による銓擬が行われたとしても、その後は(常駐でないので)国司による評官人の銓擬は無かったとする。
 令制下の郡司任用の国擬が行われる時期は、国司が常駐される、つまり天武朝だとする。

四、評制研究を批判する

(一)国司は非常駐か?

 はたして、「東国国司は大化元年八月庚子条の詔の後に派遣され、翌年三月甲子条の詔ですでに目的を果たして帰還している」ことから「評制施行時の国司は一定の目的をもって派遣され、目的を果たせば帰還する中央官人である」のか。原文を見てみよう。()内は筆者の追記。

◆八月丙申朔庚子、拜東國等國司。仍詔國司等曰、隨天神之所奉寄、方今始將修萬國。凡國家所有公民大小所領人衆、汝等之任、
(1)皆作戸籍及
(2)校田畝。
(3)其薗池水陸之利與百姓倶。又國司等、
(4)在國不得判罪、不得取他貨賂令致民於貧苦。
(中略)
(5)又於閑曠之所、起造兵庫收聚國郡刀甲弓矢。邊國近與蝦夷接境處者、可盡數集其兵。而猶假授本主。
(後略)

 国司の派遣に際して、(1)戸籍の製作を指示し(2)田畑の検校を命じ(3)園地水陸の利を百姓と分けよと命じ、(4)国にあっての罪の裁きを禁止するも、(5)空き地に武器庫を建造して国郡の刀・甲・弓・矢を集めて収納し、辺境の国で近くに蝦夷と境を接する場所ではその武器をすべて集め、その数を調べたうえで、元の持ち主に仮託せよとの指示である。

 これらの任務は、左記に示す養老律令での国司職掌を(徴税・訴訟を除いて)網羅する。史学界の共通理解は当らない。
◆(国司の)職掌は、祠社のこと、戸口の簿帳、百姓を字養すること、農桑を勧課すること、所部を糺察すること、貢挙、孝義、田宅、良賎、訴訟、租調、倉廩、徭役、兵士、器仗、鼓吹、郵駅、伝馬、烽候、城牧、過所、公私の馬牛、闌遺の雑物のこと及び、寺、僧尼の名籍のこと。

 とくに注目すべきは(4)の国での裁きの禁止である。なぜわざわざ禁止事項を詔に加える必要があったのか。ここで禁止しなければ国司は赴任地で裁きを行う、そうさせないため詔に加えたとしか考えようが無い。
 つまり、当時の国司の役目として赴任地での裁きも当然のように含まれていたわけである。推古紀の十七条憲法五条・六条・十一条でも、この国司による裁きの任務に触れる。
 しかしこの時だけは、あるいは東国等国司だけはこれを禁止した。国での裁きを禁止しなければならない事情が派遣する側にあったに違いない。赴任国で裁きをすると正当な裁きができないと予測されたのか、正当な裁きであっても(赴任)国で裁きを確定すると百姓らの反発が予測されたのか、いずれかの事情で禁止したのだ。
 以上、大化元年八月庚子条の詔によって派遣された国司を非常駐とする根拠は無い。

(二)通説の国司常駐時期の批判

 堀川氏は国司常駐が、天武天皇十二年から十四年にかけての国境画定事業によって「国司が国という所定の範囲の行政を統括する事実があって、その範囲を調整する必要が生まれた」ために行われたとみる。そして結論として、天武天皇五年庚午条(調の貢納は毎年のことで、その責任を負うところから常駐であるとの判断)を以て、国司が地域社会に常駐するための体制が整えられた時期とする。
 しかし前項で述べたように、既に孝徳朝の時点で令制における職掌と同様の任務を帯びている。さらに日本書紀壬申の乱での国司に関わる記事(美濃・尾張の国司が山陵を造るためといつわって人夫に武器を持たせている。国司たちを通して諸々の軍兵を徴発し急いで不破の道を止めよ。尾張国司守が二万の軍衆を率いて帰順した等)からみても、赴任国の軍兵の掌握が認められる。これを一定の目的で派遣された国司が、たまたまこの戦乱を受けての参戦したとは見るには無理がある。既に国司は常駐していたのだ。

五、さいごに

 古田武彦氏が提起した「なぜ日本書紀編纂者が評を郡と書き換えたか」「なぜ天下立評の詔が日本書紀に記載されていないのか」の問いに、普通の理性で誰にでもわかる論理で答えれば、古田氏の「日本書紀編纂当事者である近畿天皇家が定めた制度ではない」という解答以外に首肯できるものは未だ無い。前王朝(つまり九州王朝)の制度と考えざるを得ない。
 通説批判を終えての結論は、
(1)七世紀中葉以前に国司(国宰)・国造制度が施行されていた。
(2)一斉成立・段階成立かは別にして、七世紀中葉に評制が成立した。
(3)評制成立時期の評官人の任用は主に国司(国宰)の推薦で実施された。
(4)評制成立時期の国司は(例外はあったとしても原則的には)常駐であり、大宝律令の職掌と同等の任務を帯びていた。つまり大宝令の国司職掌は九州王朝の制度つまり浄御原律令(注5)をほぼ踏襲したのだ。
 山中氏(注2)によると、「ほとんどの郡衙遺跡における官衙施設の初現が七世紀末ないし八世紀初め頃とみられるのに対して、陸奥国名取郡衙・武蔵国都筑郡衙・美作国勝川郡衙・伊予国久米郡衙・筑後国御原郡衙などにおいては、七世紀中葉頃に造営された官衙施設とされている掘立柱建物や竪穴住居などの遺構が報告されている」、「しかし、これらの郡衙遺跡の場合でも、七世紀末ないし八世紀初め頃における評衙・郡衙への移行にあたっては、構造が大きく変化したり、あるいは途絶して別の場所に移転したりする状況が認められる」とある。まさに九州王朝の評制から近畿天皇家の郡制への移行痕跡と見れば肯ける。

 

(注1)堀川徹『評制の展開と国司・国造』ヒストリア第二六六号二〇一八年

(注2)山中敏史『古代地方官衙の成立と展開』一九九四年、『評制の成立過程と領域区分』二〇〇一年。

(注3)鐘江宏之『「国」制の成立』一九九三年

(注4)今泉隆雄『八世紀郡領の任用と出自』一九七二年

(注5)服部静尚『「浄御原令」を考える』古田史学会報一四八号


 これは会報の公開です。

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