2016年4月9日

古田史学会報

133号

1,「是川」は「許の川」
 岡下英男

2,「近江朝年号」の実在
 正木 裕

3,筑前にも出雲があった
 中村通敏

4,「要衝の都」前期難波宮
 古賀達也

5,「善光寺」と「天然痘」
 阿部周一

6,令亀の法
 服部静尚

7,追憶・古田武彦先生3
蕉門の離合の迹を辿りつつ
 古賀達也

8,「壹」から始める
 古田史学Ⅳ
 正木裕

 

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 「相撲の起源」説話を記載する目的 岡下英男(会報129号)

 


岡下論文『「相撲の起源」説話を記載する目的』の補遺としての考察

筑前にも出雲があった

福岡市 中村通敏

●古田史学の会の会報一二九号に、『日本書紀』の「相撲起源説話」について、九州王朝説では出雲国の野見宿禰が九州の都に簡単には出て来れない、野見宿禰が居たのは奈良県にある「出雲」ではないか、という意見を会員の岡下英男さんが述べられていました。
 岡下英男さんの奈良県の「出雲」説は、それはそれで説得力を持つと言えましょう。ただ、九州には「出雲」がなかった、という点の確認が抜けているようです。
 九州にも「出雲」があるかということについて、以前小生が『鏡王女物語』を著したときに、九州の鏡という地名と出雲の鏡という地名を調べたことがあります。その結果、出雲地方にも「鏡」という地名もあり、おまけとして、九州に出雲の地名があることも知りました。
 北部九州での出雲は、①福岡県大牟田市の出雲町、②福岡県旧筑穂町の出雲、③長崎県長崎市の出雲町です。(他にもあるかもしれませんが)

 先ず①ですが、その町名の起源は、一九一九年の町名整理変更で大字下里の一部が出雲町となりました。
 その新町名「出雲町」の由来ははっきりしません。どうやらその地域に出雲神社があることに因るものようです。
 その出雲神社の由来は、もともとは焚石山鎮守社稲荷石祠であり、幕末期の三池藩領主立花出雲守が任を離れるにあたって祐筆に寄贈した祠だそうです。出雲守の縁での「出雲町」で、出雲の国とは直接関係ないようです。

 ②の「出雲」は現在地名としては残っていません。国道二〇〇号線と県道六〇号線の交差点名に「出雲」として残っているだけです。(写真参照)
交叉点名「出雲」

 そこの地名は現在、飯塚市平塚です。旧町名でしたら、福岡県嘉穂郡筑穂町出雲だったそうです。装飾古墳で有名な王塚古墳の近くです。


 ③の長崎市出雲町は、出雲町遊郭として江戸時代末期から昭和期まで色街として賑わったところです。
 地名の由来は、江戸期にキリシタン撲滅祈願のために徳川家光が出雲神社(別名 出雲町天満宮)を建立したそうです。その神社にあやかって出雲町となったようです。しかし、現在境内にある出雲町天満宮由緒碑には、そのような神社名「出雲」の由来についてまでは書いてないそうです。

 以上の事から推測出来ることは、①は地名起源の点から問題があり、③の方は、天皇のお召に即日応じられるか、という距離的な面での問題があろうかと思います。したがって、②の飯塚の出雲が九州王朝時代の野見宿禰の里「出雲」が候補地として残ります。
 古代にどれくらいのエリアがその「出雲」の範囲に含まれていたか、「筑紫の出雲」と言えば当時の人々に、「あああそこの出雲か」というようなある程度の地域であったということが分かる痕跡があれば、有力候補となりえるかもしれません。
 この地域には古代の地名が残っています。一例を上げますと、この「出雲」のすぐ近くに「大分」(だいぶ)という地名です。筑前大分〈ちくぜんだいぶ〉駅(JR篠栗線)や、大分〈だいぶ〉廃寺という史蹟、大分〈だいぶ〉八幡宮という名勝もあります。私は、壬申の乱の『日本書紀』の記事に出てくる大分君は〈おおいたのきみ〉ではなく、〈だいぶのきみ〉でありこのあたりの領主だったのではないか、と思っています。(添付地図a参照)

大分(だいぶ)と出雲
(添付地図a)

 各種の地名辞典に当ってみましたが「出雲」の字〈あざ〉に行きあたりません。ふと、国土地理院の地図に残っているのではないか、と同院の二万五千分の一の地図に当ってみましたら、前述の交差点周辺に「出雲」、「東出雲」の地名表記を見いだせました。(添付地図b参照)

出雲交叉点周辺 添附地図b

 この地がなぜ「出雲」と呼ばれるようになったのか、その由来は調べてみましたが今のところ不明です。出雲の国の荘園的なものであったなどあれば、と空想の中では期待が膨らみますが。
 もし、この地名の由来が古い、ということになれば、古田先生の相撲の起源についての説もあながち無理とは言えないのではないか、と思います。

 ともかく、岡下さんの論文に、福岡にも出雲があるがその根拠は確かとはいえない、などが入れば、論文がより良い内容になるのではないか、と思い一文を草しました。(二〇一五年一一月二九日)


 これは会報の公開です。新古代学の扉 インターネット事務局 E-mailはここから


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