2012年4月8日

古田史学会報

109号

1、「国県制」と
「六十六国分国」上
 阿部周一

1、七世紀須恵器の実年代
「前期難波宮の考古学」
 大下隆司

2、九州年号の史料批判
 古賀達也

3、「国県制」と
 「六十六国分国」
 阿部周一

4、磐井の冤罪 III
 正木 裕

5、倭人伝の音韻は
 南朝系呉音
内倉氏と論争を終えて
 古賀達也

6、独楽の記紀
記紀にみる
「阿布美と淡海」
 西井健一郎

 

古田史学会報一覧

「橿(モチのキ)はアワギ」の発見 西井健一郎(会報105号)

なぜ、「熊曾国」なのか -- イザナミ神の国生み異聞 西井健一郎(会報119号)


独楽の記紀

記紀にみる「阿布美と淡海」

大阪市 西井健一郎

一、「湖」を知らなかった人達

 記紀にみる「淡海」は「阿布美(アフミ)」と訓み、紀のみが記す「近江」のことであり、勿論、異説もあるが、一般的には現在の琵琶湖または滋賀県の古称と思われている。
 しかし、その認識は紀の編者の造作による誤誘導により生じたものであり、記紀の記述の種本に採録された原伝承ではそれぞれ別地の地名だった、と私は考えている。少なくとも、原伝承時点の「淡海」と「阿布美」は、琵琶湖や滋賀県のことではない。
 紀の「近江」は琵琶湖や滋賀県を意味している。が、淡海と記にある地名を、近江と書き換えた部分が紀にはある。そこは原伝承の「淡海」で起きた事件を滋賀県のものにみせかけるため、紀の編者が「近江」に換えるという造作を施した部分である。とはいえ、記も安康記や顕宗記などでは「近い」を加え、近淡海を滋賀県に見せようとしているが。
 ご存知のように、記には「近江」との文字は見当たらず、「淡海」のみである。ついでに、記紀に「湖」の文字は出てこない。それは原伝承を伝えた氏族が海から切り離された広い淡水域である「湖」のイメージと概念を持たなかったから。唯一、景行記に「水海」が載るが、「走水海」とある。「ハシリのミズウミ」ではなく、「ハシリミズの海」だ。私見では、イザナギに“潮既太急”と云わしめた後述の下関市の小戸(オド)のことである。
 なぜなら、人は笑うが、私は相変わらず、記紀の種本になった原伝承はその下関市彦島の小瀬戸(今でも土地の人が小戸と呼ぶ)域で伝承されてきたもの、との見方で記紀を読み解くからだ。そこがイザナギのミソギをした地であり、そのイザナギを開祖とする人達が伝えた系譜と伝説が、その後裔の天武帝が日本国を立国したことにより、日本全体の史書に決められた、との史観を持つ。その視点からみれば、神世の神話や太古の天皇巻は勿論だが、古事記末巻の推古帝系譜までが小戸域の古伝承を加工したもの、と映(うつ)る。
 本州西端の片田舎で生まれた古伝承を軸にして創作した史書に、近畿朝の歴史をつなぐ段になって初めて琵琶湖が認識されて、その一帯を「近江」と紀は記した。それは天智紀六年三月条に“遷都于近江”とあり、大津市にその遺構があるというからだ。だが、藤原京出土の木簡に「近水海」との地名表記があったそうだから、紀の記述以前の滋賀県や琵琶湖を「近江」といったかは定かではない。ただ、この近水海との当時の地名から、近淡海の表記が作られたのだろう。
 紀は滋賀県を「近江」と規定した上で、記の「淡海」の多くを「近江」に置換した。その結果、説話の舞台が滋賀県に移され、神武東征の虚構に上塗りを重ねた。私見では、神武帝のモデル、原伝承の磐余彦は彦島の丘陵部に巣食うヤソどもを征伐しただけで、近畿までは出かけていない。その後裔の多くもだ。
 そんな偏固な観点から「阿布美」や「淡海」を考察すると、他と違う姿を示すことができる。

 

二、「阿布美」は「逢う海」

 まず、原伝承にあった「阿布美」は、滋賀県の近江の訓でも、淡海の訓でもない。それは「逢海」とあてるべき地名である。なぜなら、アフミ以外の「阿布」は、「会あ う」の意に使われているからだ。
 「阿布○」は、記に下記の三箇所。紀には二例のほか、「阿甫(彌)」が一例ある。
 先刊で紀より原伝承に近いとみる記の「阿布」の一つ目は、仲哀記の歌中の“阿布美能宇美邇 迦豆岐勢那和(アフミの海に 潜きせなわ)”である。二つ目は、履中記の歌中に“淤富佐迦邇 阿布夜袁登賣袁(大坂に アフや乙女を)”とあり、三つ目は顕宗記の“意岐米母夜 阿布美能淤岐米 阿須用理波(置目もや アフミの置目 明日よりは)”だ。紀の三例もこの案件にしか使われていない。
 淡海の訓が「阿布美」とされてきたのは、この三つ目の歌の前に、“此天皇、求其父王市邊王之御骨時、在淡海國賤老媼、參出曰…、賜名號置目老媼”とあり、続く歌中にこの媼を“阿布美能淤岐米あふみのおきめ”と記すからだ。でも、それは記の編者の理解である。
 というのは、「阿布」は第二の例でわかるように「(乙女に)逢(依拠本では遇)う」の意に用いられているからだ。であれば「阿布美」へのあて字は「逢あ ふ海」であるべきである。その推測を裏付けるのが、一つ目の歌が歌われることになる忍熊王が敗戦した地名だ。負けた地を記紀ともに「逢坂」と記す。つまり、その地名は「逢(アイ)」の地か、「逢海」へ向かう坂との意を表す。記の記述に基づけば、そうなる。ただ、逢海は淡海の一部、または淡海全体への別称の可能性はある。
 「逢」は他に、欽明紀の逢臣(あうのおみ)讃岐、天武紀の逢臣志摩の名にみえる。彼等が彦島をルーツとするのかは定かではない。「逢」を「アイ」と訓むと、高志(こし 原伝承は、タカ域+地名語尾シ)へ派遣された大彦と東方へ行った息子の建沼河別(たけぬかわわけ)とが出会う相津(あいづ 崇神記)や、垂仁記のホムチワケを遊ばせる二俣小舟の材料を得た尾張国(尾羽張おはばり神の地からの造作。神武紀の「高尾張(たかおわり =タカ域の尾張邑)を葛城という」と同地)の相津がこの逢の替え字地名とみる。さらに、神武紀の「安芸国の埃宮」の埃(塵埃のアイ)もくさい。同宮は神武記に「阿岐国の多祁理たけり宮」とあるから、もと多紀理媛の奥津宮のことか。勿論、記の国生みの“伊豫國謂愛比賣”や天若日子の喪屋が落ちる喪山がある美濃国の藍見河、崇神帝后・木国造荒河戸辺の娘・遠津年魚(あい)目目微比売などにみるアイも同地だろう。また、継体帝の陵は三島の「藍」とあるのもハテナ?だ。

三、「アハウミ」ならば「アワの海」

 淡海について、神功紀(元年三月)歌中の「淡海」への依拠本の注は「アフミはアハウミ(塩水に対して淡水)の約」と記す。なお、原文は阿布彌(あふみ瀰)であり、淡海とは記されていない。だが、真水を「アハ」や「アハミズ」と訓んだ例は、記紀内に見当たらない。広辞苑も「あわみず」を記載せず、「淡水(タンスイ)」にもアハミズの訓はない。ただ、「真水」には淡水の意を記す。アフミがアハウミの略語とすれば、淡水湖ではなく「アワウミ」、先稿にも触れた「粟あわ海」または「沫あわ海」の略称である。
 なぜなら、原伝承でいう淡海は「アワの海」、つまり「粟あわの地の(前面に広がる)海」だからだ。記紀には「アワ」と訓める地名が多数、登場する。そこの海なのだ。
 アワの地は、記の国生みには“粟國謂大宜都比賣おおげつひめ”とある。記では食物を求めにきたスサノヲ命に殺されるこの大気津(おおげつ)比売は「大の齧(げつ クイ)」媛で、原伝承では「大の咋(くい 首長称号)」か。
 この「大」はビッグの意ではなく、地名の「オオ」域である。記の神生みでは大戸日別神、大年神(大戸主の訛)神譜に奥津比売命、亦名大戸比売神の名が載る。大域は、小戸沿岸でも大戸、つまり関門海峡の大瀬戸寄りの地帯名なのだ。勿論、大国主の大も同じで、大国主への神譜(記)にその母方の祖父は刺国大の神とある。その名からは「刺 さし」地域の「国 くに」地区の「大 おお」集落の地かも。私見では、大域の国地区の刺集落とみるが。刺の訓はサシ。記には佐士布都(さじふつ)神や高佐士野(たかさしの 共に神武記)が載る。原伝承では同地だ。
 オオゲツ媛はその「大」の女首長で、「アワ」の地も治めていたととれる。島北の丘陵部の高天原、つまりタカ域のアマ(海士)地区のハラ集落(カグツチの屍に成る原[はら]山津見の地)の石窟に住む天照大神や尾羽張神の氏族からみると、平地部のアワの地は物なり豊かな地だった。だから後代の天照大神II世も大国主に国譲りを求めたのだ。
 とはいえ、大気津比売とも書けると「大の咋」ではなく、「大の気津(きつ 吉)」の媛とも判じられる。吉は紀に“天吉葛あまのきづはくず”とあるように「クズ」族を意味する。一方、応神記に“吉野之國主くず”が帝に酒を献じたとあるから、実は大国主も原伝承では「大(域)の国主くず」との呼称ではなかったか。ならば、大気津比売は同職の大先輩になろう。

四、アワの地は小戸の東口

 次に、沫那芸(あわなぎ)・沫那美神(記)の沫もだ。「この速秋津日子はやつあきひこ神、次に妹いも速秋津比売神二柱の神、河海を持ち別けて生む神の名は、沫那芸神、次に沫那美神、…」とある。速秋津二神は、速日の開津あきつ、つまり響(ひびき)灘と関門海峡に両端が開いた潮の流れが速い小戸を治める神であり、その子としてアワナギ達を配したのは、アワの地が小戸沿岸に在ったからだ。
 小戸に二門あったことは、紀・イザナギの禊(みそぎ)の一書第一〇に“欲濯除其穢惡、乃往見粟門及速吸名門。然此二門、潮既太急。故還向於橘之小門、而拂濯也”とあるからわかる。景行記は“此之御世、定田部、又定東之淡水門”と記すから、「淡あわ」の地は小戸の東出口・関門側である。
 これらの「アワ」と訓める地名はどのような漢字があてられていようと、原伝承の時代には呼称(音)しかなかったのだから、同じ「アワ」の地のものだ。二キロにも及ばない小戸という狭い地域内での伝承だから、同じ地名の地があちこちにいくつもあったとは考えにくい。
 であれば、イザナミが水蛭子(ひるこ)とともに生む「淡島」もこのアワの地のことだ。奄美大島では船でしか行けない部落名を「○○島」と呼んでいたという。その慣習が九州から移行したものとすれば、太古の下関でも同じだったかもしれない。であれば、淡島は淡邑の意になる。蛭子(ひるこ)とともに子に入れなかったのは、ヒルコとヒルメは天照大神系丘陵氏族の祖神で、彦島の本流の平地氏族イザナギ系の祖神ではなかったから。淡邑はイザナギの親にあたるアワナギの出身地、つまり産む前(近隣征服以前)から自地だったからだ。ついでに、原伝承の「淡道あわみち」も響灘から淡海への海道、つまり小戸のこととみている。
 さて、原伝承の「アワ」の地が小戸の東口とすれば、淡海はどこに広がっていたか。
 それは現在の下関漁港から南へかけての海面である。今でこそ、下関駅が乗る大和町が半島となって小戸東口を関門海峡から隔て、狭めている。だが、大和町の埋め立てを始めた大正末期以前、半島部は砂洲と岩礁が並び、彦島側は入海(いりうみ)をなしていた、という。その入海には壇ノ浦に向かう平家の大軍船団が集結したとの話も残る。
 私見では、日に四回の干満の間、激しく潮が出入りして海面が泡立っていたため、この入海に「沫海あわうみ」との名がついていたとみる。この列岩から急潮が泡立ち尾を引いて流れいく様が、岩が潮を切り裂いて走っているようにみえたため、「岩いわはしる 淡海」との枕詞が生まれたのでは、と疑う。
 もし、柿本人麻呂が記紀の原話がこの地で生まれたことを(私と同じく?)知っていたとするならば、“淡海乃海 夕浪千鳥 汝鳴者 情毛思努尓 古所念(淡海の海 夕波千鳥 汝なが鳴けば 情こころもしのに 古いにしえ思ほゆ)”(万葉集巻三・二六六)の「淡海のいにしえ」とはこの彦島小戸に実在したイザナキや天照大神のこと。それら孝徳帝の白雉の詔に載る“今我親神祖之所知穴戸國”の親神祖達を思い浮かべていたことになるのだが、さて。
           (終)

〔依拠資料、岩波文庫・「記」及び「紀」。注・補注も同書のもの〕


 これは会報の公開です。史料批判は、『新・古代学』(新泉社)・『古代に真実を求めて』(明石書店)が適当です。

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