2011年 8月 8日

古田史学会報

105号

1、論争のすすめ
 上城誠

2、古歌謡に現れた
「九州王朝」の史実
 西脇幸雄

3、斎藤里喜代さんへの反論
 水野孝夫

4、橿(モチのキ)はアワギ
イザナギは彦島で禊いだ
 西井健一郎

5、古田武彦講演
  九州王朝
  新発見の現在

6,星の子3
  深津栄美

穴埋めヨタ話5
ヤマトタケルは女だった?

古田史学会報一覧

「天の原はあった(古歌謡に見る九州王朝)」 西脇幸雄


古歌謡に現れた「九州王朝」の史実

東京世田谷区 西脇幸雄

■まえがき(本稿の趣旨)
 倭国(九州王朝)の王朝史を古歌謡で跡付けたいというのが、本稿を草した目的である。一般に歌はフィクションであって、金石文などと異なり歴史の研究材料となるようなものではないと考えられている。一般論は確かにそのとおりである。まして、年代記とも違う、たとえば万葉集のような、作者や編者もその成立年代もはっきりしない歌集を歴史の研究対象とはなし難いというのは十分にわかる。ところが、古来からの研究史で万葉の歌には、その成立年代(巻によって違うが、八、九世紀頃か)をはるかに遡る歌が含まれているらしいことははっきりしている。また、万葉集の編者自らが、特に天皇の事跡(行幸など)を公的史書たる「日本書紀」と対照しながら、詞書を書いているのである。つまり単なるフィクションとは言い切れないものが歌の内容に含まれていることもまた、否定しえないのである。八、九世紀にかけて、古事記、日本書紀、風土記の成立があり、これが、「大和朝廷」の政権奪取と大いに関係があることは、古田氏の一連の著述であきらかになっていると言ってよい。日本書紀には、明らかに九州王朝の事跡が、チョロチョロどころか、おおっぴらに顔を出している。さすれば、古今集、万葉集にもその兆候が現れていてもおかしくはない。筆者は既に、「天の原はあった(古歌謡に見る九州王朝)」(注1)においてその一端を明らかにした。本稿はその続編ともいうべきものである。歴史の真実を人の目からすべて覆い隠すことはできない。誤って理解されてきた名歌を正しく解釈することで、歴史の真実が浮かび上がってくる。それを本稿でも明確にしたい。
(追記・以下で〔旧解〕〔新解〕などと記したが、従来の定説の一部改良などでなく根本的に解釈を改めたことを対照したいというつもりの用語である。筆者はこれまでの研究者の業績に敬意を表するに吝かではない。)

■第一章 「淡海の海」は琵琶湖ではない

第一節 夕波千鳥考
 万葉集 巻第三 二六六 
 柿本朝臣人麻呂歌一種
(原文)淡海之海 夕波千鳥汝鳴者
        情毛思努尓 古所念

  「土屋文明 萬葉集私注」(以下「私注」)(注2)によると
 〔旧訓〕近江の海 夕波千鳥汝が鳴けば 心もしぬに 古おもほゆ
○〔旧解〕近江の海の夕波の千鳥よ、汝が鳴けば 心もしをれて古へのことが思はれる。
▽ アフミノウミ 即ち琵琶湖である。○ユウナミチドリ 夕波の中の千鳥。夕波に飛ぶ千鳥。○ナガナケバ 汝千鳥が鳴けば。○ココロモシヌニ 心もなえしをれて。○イニシヘオモホユ 古き近江朝のことが思はれるの意であろう。

▼人麻呂屈指の名歌と定評があるこの歌である。この歌の眼目は、「淡海の海」であるが、まず「夕波千鳥」「汝が鳴けば」について考察しよう。
 「夕波千鳥」を土屋文明は、「夕波に飛ぶ千鳥」、「汝が鳴けば」はそのまま、“汝(なんじ)千鳥が鳴けば”としている。「澤瀉 萬葉集註釋」(注3)では、「夕波」と「千鳥」と体言を重ねる造語法は、「山辺真麻木綿(やまべまそゆふ)」(三・一五七)「夏陰草(ゆふかげぐさ)」(三・五九四)など万葉語の特徴だったという。「岩波 新日本古典文学大系 萬葉集」もこれを踏襲している。
「私注」によると、
  「夕波千鳥」の如きは、少し技巧的すぎる成語であるが、かうした表現はその當時からよろこばれたものと見える。しかし此の語のために一首が幾分軽く響くのは否めないであろう。(下略)
 つまり単なる作歌上のテクニックだというのだ。ところがこの解釈は否である。千鳥が水辺で鳴くことなど日常茶飯事である。どうして人麻呂は、それをきっかけに古(いにしえ)を思ったのであろうか。ここに正しい解釈への糸口があるのだ。夕波千鳥は、この言葉のみ取り出すと、「私注」の批判もわからないではないが、軽いなどとは、実はとんでもない。「夕波千鳥汝が鳴けば」と続けることで、人麻呂得意のたたみかけるリズム感を生み出していて、その次の、「心もしのに」と沈潜してゆく思いとのすばらしい対比の効果を多大に挙げているのだ
 ところが、この句は、諸家が全く気付いていないのだが、鳴くのは千鳥ばかりではない。(筆者追記・「私注」では、「情毛思努尓(こころもしぬに)」と読んでいるが、その後の研究で、「こころもしのに」と読むのが正しいとされている。)

▼夕波千鳥 汝が鳴けば これは、従来は、概ね、「穏やかに波立つ岸辺で、夕暮れに千鳥が鳴いている」と解釈されている。ところが、実は、「夕波が立ち(騒ぎ)、千鳥が鳴き騒ぐ」激しい情景を極めて的確に表現している歌語なのだ。擬人法である。この騒然とした海辺の叙景が、以下の第四句、五句のへの巧まざる導入部をなしている。筆者は、「激しい情景」と言った。なぜそう言えるかは、「千鳥」をどう見るかによる(後述)。

▼心もしのに 古おもほゆ 「心もしのに」の句がまた、各家に誤解をもたらしている。「しをしをと心が萎れるように」とおしなべて読解されている。ところが、 しのに(副詞)一、しぬにノ轉。シナイ靡キテ。ニ、繁ク。(「大言海」注4) 意味は、「繁く」なのである。「しきりに、しげしげと、繰り返して」などの意味である。これまでの萬葉の研究者は、はたして本当に人麻呂の歌を理解したことがあるのだろうか。筆者は、暗澹たる思いである。人麻呂は、未だかって、一度でも、「しをしをと心が萎れる」とか、「うれしい」とか「悲しい」「苦しい」などという情緒語を歌の中に使ったことがあるだろうか。否、一度たりともないのだ。
 「しのに」はおそらく、「篠竹のように」の意味も含ませて(縁語)いるのではないか。篠竹は、当時、弓矢の矢柄に使われたり(ヤダケ)、祈りの場における「斎垣いがき・斎竹いみだけ」にも使われたりしていて(注5)極めて一般的な植物であった。篠山(ささやま)、篠田(しのだ)など地名・人名に多く残っているのは、篠竹が古くから栽培されていた証とおもわれる。
 激しい風を受けて、ザワザワとゆれる群生する篠竹のように、心が「千々に乱れて」の意味を含ませていると考える。

 古おもほゆ 「おのずから(否応なく)昔のことが思い出される」の意である。前述のとおり「汝が鳴けば」に呼応する用法なのである。この「古(いにしへ)」は、「昔(大昔)」などを指すのではなく、個人の経験範囲内の「昔」を意味する。現代のことわざでも、「昔取った杵柄」などという。これは自分が習得した「技芸を思い出しつつ(誇らしげにまたは謙遜して)再びそれを行う」時に言う言葉である。
 すなわち、かって、全く同じ状況下で、この港から船出した人々の上を思っているのだ。まわりの騒がしい状況下でかえって、人麻呂は、古(いにしへ)の出来事への思いに心がいっぱいになっている。どうして、こんな荒れた海を突いて出航したのだ、しなければならなかったのだ。もし、出て行かなかったら、どうなっていただろう。出航した人々は無事だったはずだ。と繰り返し繰り返し、(しきりに)思い出しては自問自答しているのだ。

 そこで、「淡海の海」である。
淡海の海 筆者にとって、永年、「淡海の海」という言い方が不審だった。なぜなら、湖または海を指すなら単に「淡海」でよいはずだ。淡海は近江(おうみ)で、これは琵琶湖を指すと古来定説になっている。ただ、海の語を二度重ねるいいかたに少しく違和感があった。ところが、ここに来て、謎が解けたのである。
▼淡海はアハミと読むのであって、近江(アフミ)とは違うのである。従来の解釈では、淡海に「あふみ」と仮名を振って、近江(おうみ)のこととしている。
 古事記には、『境を定め邦を開きて、近つ淡海に制め、(下略)』(序第一段 稽古照今)と「近つ淡海(チカツアフミ)」と出ている(注6)。こちらが近江である。九州王朝支配下の近畿天皇家にとって「淡海(あはみ)」と「近つ淡海(チカツアフミ)」とを区別しているのだ。そして、アハミはアフミに変わることはなく、アフミがアハミに変わることもない

 これは、国語の音韻の変遷史をみればただちに理解できる。
 「東條操・国語学新講」(注7)によると
 ハ行転呼音 大槻博士の「広日本文典」には転呼音を説明して「仮名ヲ其本分ノ音ニ呼バズシテ他ノ音ニ転ジテ呼ブモノ」とし、あは(アワ 粟)いひ(イイ 飯)くふ(クウ 食)しほ(シオ 塩)等の例をあげており、音便との別について「転呼音、連声等モ畢竟スレバ同ジク音便ナルベケレド、書ニ筆スル上ニテ、転呼音ハ音ヲ変ズレド仮名ヲ書キ替ヘズ、音便ハ音変ズレバ仮名ヲモ変ズ」と記してある。として、仮名遣史上大きな問題となり、平安朝において語中のハ行音は次のような変遷をしたという。
  は Fa ━ wa
  ひ Fi ━ wi ━ i
  ふ Fu ━(wu)━ u
  へ Fe ━ we ━ e
  ほ Fo ━ wo ━ o

 この現象が一般化したのは、院政期、特に保元平治(十二世紀)以後であるという。ただ、特別な例として、「萬葉集」の朝杲(アサカヲ 朝顔)、「新撰字鏡」の宇留和志(?)など早くからこの傾向があったとしている。

淡海の海 アハミノウミと読む。近江の海ならば「アフミノウミ」である。前述のとおり、アハミとアフミは相互に転換はしない。アハミは後にアワミとなった。
 Afami → Awami
アフミは後にオウミ(アウミ)となった。
 Afumi → Aumi → Oumi

淡海=はなんであろうか。 淡水で琵琶湖と見做されているが誤りである。琵琶湖は海ではない。湖を海とも言ったと従来の注釈にあるが、否である。
 そもそも海の民である筑紫の人々にとって、ありかた自体が異なる海と湖を一緒くたにするなどはありえないことだ。一方は、毎日豊かな食料を恵んでくれ、外国との通交の大道ではあるが、危険な存在である。他方は食料をもたらし、飲用もするが、穏やかな存在であるという大きな違いがある。これは“淡い海”という意味である。淡雪は、積もることのない、すぐ消えてしまう雪を意味する。「淡い希望」はたいして実現の望みの持てないはかない希望をいう。淡海、するとこれは淡い海で、すぐ消えてしまう海の意味である。中央アジアのロプノール(古代からその位置を変えるので、砂漠の中のただよえる湖といわれた)ではあるまいし、と思うであろう。そんな海があるのだろうか。実は、これは遠浅の海を指すのである。干潮時には、広い干潟のようになる水深の浅い海をいうのだ。

 それは、わかったが、淡海の海と二度海をつづける不審は消えない。これは、おそらく「粟見(アハミ)」の海の意味ではないかと推測する。「粟見」を「淡海」と綴った国名である。縄文の板付遺跡から水田跡が発見されていて、ニニギらがこの豊かな縄文の王国をねらって侵入したことは、古田氏の記紀神話の精細な分析からあきらかである。稲作に転換する前は、豊かな粟が植えられていたにちがいない。稲作になっても、粟は、重要な穀物で、五穀のうちに数えられている。したがって、この豊かな「粟の畑が見える海」ということで、壱岐・対馬の海の民である天照達が名づけたのではなかろうか。実際、万葉集には同様のいいかたがでている。
 名くはしき稲見の海の沖つ波千重に隠りぬ山跡嶋根は(万葉集巻第三 三〇三)

 この歌の詞書に、「柿本朝臣人麿の筑紫の国に下りし時に、海路にして作れる歌二首」とある。「稲見の海」は、定説では、「播磨国印南」とされている。九州の海域の名称である可能性もなしとしないが、今は措く。
 ここでは、「粟見」に類した「稲見」という地名の名づけかたがあることのみを確認したい。つまり、「淡海」は、近江ではなく、「粟見」という国名または地名であるという考え方が成立すると言える。従って、「淡海の海」という海を重ねる言い方は、「粟見の海」と理解すればなんら不自然ではないということである。

また
 アワ(粟)古く日本へ渡来し、畑に栽培される一年生草本。(中略)和名は五穀の中で味が淡いという意だが、粟の朝鮮音ホアと同源ともいわれている。漢名、粱。(原色牧野植物大図鑑 注8)

 現在こそ、「粟」は雑穀扱いで、粟餅、コハダの粟漬けなどの少数の料理の材料だが、この歌が詠まれた推定六、七世紀頃はまだ重要な穀物であった。
 その当時は、「粟(アハ)」→「味があわい」→「淡い海」の共通点から「淡海(アハミ)」と命名されていたのではなかろうか。
 したがって淡海は、福岡湾に面した国であり「淡海の海」は福岡湾(博多湾)である。福岡湾が遠浅の海であることは、「福岡市史 第一巻明治編」(注9)につぎのように出ている。
 回顧すれば今を距る既に二十年、(中略)由来博多の港たる、海浜遠浅にして二千噸以上の船舶は約二浬の外に碇泊し、貨物の積卸総て艀(はしけ)舟(ぶね)によらざるを得ず。(第二編 港湾)
 また、現在の海図(注10)によっても能古能島付近まで干潮時やく5、10mの水深となっている。現在の博多港は埋め立てにより作られているが、当時の海岸線はもっと内陸まで入っていたとおもわれる。

また、
千鳥 は、チドリ科の小型のチドリではなく、「千の鳥(数多くの鳥)」の意味であろう。筆者が、この歌は海の荒れる激しい情景を描写したと判断したのは、「夕波千鳥汝鳴けば」は「夕波が鳴き」「千鳥が鳴く」を意味する歌語だと解ったからである。「夕波が鳴く」などは、なまなかな表現ではない。現地でそういう状況を実体験しないと出てこない言葉である。歌とは単なる言葉の組み合わせ遊びではないのだ。現代語では「海鳴り」という。これに対応する表現である「千鳥」は「千の鳥」即ち、多数の海鳥を意味することは必然である。おそらく、カモメやウミネコといった中型の鳥だと考える。嵐の日にも飛べるのは、また飛びながら鳴くのはそういう種類の鳥に違いない。もっと言えば、それら千鳥は、荒波に翻弄される多くの小魚を狙っているのだ。
 以上の論証によって「淡海の海」は、琵琶湖ではない、博多湾であると断言できる。

〔新訓〕淡海(あはみ)の海 夕波千鳥汝が鳴けば 心もしのに 古おもほゆ
〔新解〕夕暮れの淡海の海の海鳴りが聞こえ、はげしく数多の海鳥が鳴いている。(お前は何を思って鳴いているのか。)この情景を見ると、(このざわめきの中で強風を受けた篠竹のように心も千々に乱れ、)どうしてもかっての(この同じ状況下でここから船出して帰らぬ船の)悲しい出来事がしきりに思い出される。

 

第二節 ささなみ考

 万葉集 巻第一 三一
(原文)楽浪之思賀之辛崎 雖幸有
        大宮人之 船麻知兼津
〔旧訓〕楽浪ささなみの志賀の唐崎からさき 幸さきくあれど大宮人おおみやびとの船まちかねつ
 「新日本古典文学大系 萬葉集一」(注11)では、
○〔旧解〕楽浪の志賀の唐崎は、今も変わらずにあるが、昔の大宮人の船をひたすら待ちかねている。
 しかし、なぜ船をひたすら待ちかねているのだろう。この歌の極めて重要なポイントはここである。そのほかにも多々疑問がある。以下順次明らかにしよう。

楽浪之=「ささなみの」と読んで、志賀にかかる枕詞としているが、これは枕詞などではない。
 従来説はこれを無条件に「ささなみの」と訓んできたが、字義どおり「らくろうの」と読むべきではないか。
 「楽浪海中有倭人、分為百餘国、以歳時來獻見云」(前漢書巻二十八下地理志)(注12)

 「楽浪海」という日本海を指す中国側の呼称を使っているのである。「楽浪海に面した志賀の辛崎」の意味である。近江の滋賀などでないことは明白である。
 従来説では、楽浪の意味を余り検討していないようである。「浪海」というと大波の立つ海の意味である。「浪」は「波浪(なみ)」であり、転じて「一定せぬ物事」をいう。「楽浪」は「楽浪郡」に由来するが、そもそもは、「浪(一定せぬ物事)を楽する(太平にする)」意味で名づけられたのであろう。紀元前一〇八年漢の武帝が衛氏朝鮮を滅ぼして設置した四郡の一つである。これほど力を入れたということは、「東夷」の国々が中国(漢)にとって、当時は大きな災いであったことは確実である。そういう史実を踏まえると、この歌は「楽浪」に「ささなみ」と訓みを宛てているが、字面とは反対に、「楽な浪」などを意味しない。「ささなみ=大波」の意味であることがハッキリする。

 従来の訓み「ささなみ」を採用するとどうなるであろうか。
「大言海」(注4)にこうある。
 ささなみ(名)細波|泊?|漣?|
(一) 水ノ、風ニ動キテ、細カニ立ツ波。又、さなみ。
    字鏡八十四「大曰波濤、小曰泊?、佐佐奈彌」

 大を「波濤(はとう おおなみ)」、小を「泊?(はくはく さざなみ)」といって現代語で言う「小波(さざなみ)」のみの意味ではないことが知られる。これは大波と理解すべきである。すなわち、篠竹の葉のように先が尖った三角波を意味するのだろう。「篠波、篠浪(ささなみ)」である。荒れている海の形容なのだ。これを漣(さざなみ)と捉えたのでは、「ささなみの志賀の辛崎」と「幸くあれど」との一二句と三句との対比が全く生きてこないのである。書記(天武紀上十七)「諸将軍等、悉會於筱浪」とある。「筱浪(ささなみ)」という言葉が見えている。

志賀の辛崎=滋賀の唐崎(琵琶湖畔)ではない。志賀の島の辛崎である。

雖幸有 さきくあれど 「あれど」は逆接である。また、「さきくある」は「幸さいわいである。幸さち多い。」の意味だ。「岩波本」は、「今も変わらずにある」としている。洵に残念だが、「幸く」に「今も変わらない」などという意味は無い。「幸く」の語釈としては明らかに誤りである。
・「ささなみ(波濤・大波)が立っているにもかかわらず「辛崎は今は幸いである」と言っている。さらにこの歌は一転するのだ、
・すなわち、大宮人が船を待っている不安げな描写となるのだ(次項以下参照)。
第一、漣(さざなみ=小波)が立つ程度ではなんの問題も起きないのである。荒れた海をたとえた「ささなみ(先が尖った三角波)」と「幸くある(穏やかで幸いに満ちた志賀の辛崎)」とを痛烈に対比したところにこの歌の強烈な持ち味があるのだ

幸く(さきく) この語はあくまで、人に対して使う言葉である。辛崎は地名である。場所にたいして使う用語ではない。そこで、筆者は、ハタと気がついた。おそらく志賀の辛崎には、倭国の天皇(または皇太子)の宮殿があったのであろう。それは、志賀の島から「漢委奴国王」の金印が出土したことでも推定できる。金印授与は一世紀である。この歌の舞台は推定六、七世紀である。しかし、古田氏は、この間倭国(九州王朝)の首都は大筋、大きくは動いていないことを縷々論証されている。また「大宮人」という語からも宮殿の存在はうかがわれる。ここは、「辛崎の宮殿に住む方々は幸いである」と詠っているのだ。

大宮人之 従来、「大宮人の」と読まれているが、大宮人がと主格として読むべきである。または強調形で「大宮人し」であろう。旧解は、「大宮人の船」と続けて、“大宮人が乗った船を”“作者(人麻呂)が待っている”と解いていた。
 ところが、この歌は、天皇の御所がある辛崎から船出した船を、大宮人が待ち続けている情景を詠っているのだ。
 大宮人とは宮廷の人を言うのだ。天皇、皇后、皇子、皇女、そしてその連なる高位の貴族のみを指す用語なのであろう。ただの豪族を大宮人とは言わない。すなわち、従来説のように、「一般貴族」を指す用語などではないのだ。「天皇の宮殿(大宮)に住む人」を意味するのだ。このように読み解いてくると、直ちに、「志賀の辛崎幸くあれど」という一種不自然な用語の意味がはたと解る。「幸く」はあくまで、人にたいして使う言葉であって、もし志賀の辛崎が単なる地名であれば、これは誤用といわざるをえない。ところが、そこが、天皇の宮殿と理解するとその用法は極めて適切であることが分かる。辛崎の宮殿に住まわれている方々は、「今は、幸多い方々ではあるけれど」との意味である。そして、そういう大宮人たちが今でも、船を待ちかねているのである。作者の人麻呂はその情景を眼前に見ているのだ。これはものすごい歌である。

▼まちかねつ=この哀切な響きを思うべし。これは、当時の軍船を送り出した家族の痛切な悲鳴である。「篠浪(ささなみ)」をついて日本海に船出した倭国の天皇・皇子と戦士たち、必ず戦果を挙げて帰ってくるものといつまでも待ち続ける家族。これは大宮人が、帰らぬ船を待ち続けていることを詠んだ歌なのである
 まちかねつ ここでポイントは、助動詞「つ」である。国文法では単に過去・回想の助動詞とされているが、誤りである。これは、ある行為・状況が、「繰り返し起きている」ことを述べる助動詞である。現代でも、「彼は、どうしたものかと、碁仇の家の前を行きつ戻りつした。」という言い方があるように、「行ったり、来たり」を繰り返す様子を描写しているのだ。
 大宮人が、おとといも浜に出て、昨日も浜に出て、今日もまた浜に出て、帰らぬ船を待っているのである。
 〔新訓〕篠浪(ささなみ)の志賀の辛崎 幸くあれど 大宮人が船まちかねつ
〔新解〕篠浪(ささなみ)(三角波=波濤)の立つ荒れた海に向かう志賀の辛崎、その宮殿にお住まいの方々は、今でこそ幸いでおられるけれども、その大宮人こそが今でも、かってここから船出した船の帰りをいつもいつも、待って待って待ち続けておられるのだ。
 万葉集 巻第一 三〇
(原文)左散難弥乃 志我能(一云比良乃) 大和太 与杼六友 昔人二 亦母相目八毛(一云将会跡母戸八)
○〔旧解〕楽浪の志賀の〈一本に「比良の」という〉大わだは、今このように淀んでいても、昔の人にまた逢えようか〈一本に「逢うだろうとも思えない」という〉。(新日本古典文学大系 萬葉集一)(注11)

 この解釈では駄目だ。今眼前に見えているような荒れた海をついて、かって船出した人々を待っているのである。「淀むとも」は、現在の事実の逆の条件を述べるのであって、「この荒れた大海が淀んだとしても」ということで、岩波本の「今このように淀んでいても」という解釈は、全く誤りである。志賀の大海が淀んだならば、どこかで時化待ちをしていた船が帰ってくるのではないかとはかない希望にすがっているのだ。また従来の多くの解釈では、「かって繁栄していた大津の宮の船遊びをしていた宮人達に会えるだろうか」としているが、そのような、「亡霊」にでも会うことを期待するような突拍子もない歌は、いくら古代の歌人といえども詠んだ例はまったく無い。
〔新訓〕篠浪(ささなみ)の志賀(一に云う比良)のおおわだ淀むとも昔の人 にまたも会わめやも(一に云う会わんと思へや)
▼〔新解〕大波の立っているこの志賀の大海がもし凪いだとするならば、かって波立つこの岸辺から船出した昔の人々にもう一度会えるだろうか、いや、会えはしないだろう。
 三〇、三一の二首共、唐、新羅の連合軍との海戦に出て行った人々を詠んだものであろうか。あるいは、新羅または高句麗との海戦の情景であろうか。いづれにしても淡海の海は淡水の琵琶湖などではない。

第三節 古田氏の解釈について

 筆者がここに読み解いた、万葉集巻第一 三〇および三一の歌には、旧説の解釈以外に注目すべき解釈を『人麻呂の運命』において古田武彦氏が提出している(注13)。それについて検討しよう。この二首は、実は、同巻第一 二九の長歌の反歌として載せられている歌である。
 従来説は、この長歌を、天智の近江京が壬申の乱で荒廃したさまを歌っていると解釈している。しかし、古田氏は、そうではなくて、仲哀の二皇子忍熊王と香坂王に対して、神功・応神が反乱を起こし、正当な近畿天皇家の跡継ぎが敗れて荒廃した第一次近江京を偲んで歌ったものと解釈された。古田氏は、この二つの反歌に対しての明確な解釈は述べられていないが、これらが琵琶湖に沈んだ忍熊王らを痛んだ歌であるとされている。そして、この裏には、天武の反乱で山崎に縊れた大友天皇への挽歌があるとされている。しかしながら、筆者は、二九の長歌に対する解釈は保留したいと思う。なんとなれば、二九の長歌は大津の都を詠ったようにも見える。ところが、反歌とされる三〇と三一の短歌は、本稿で解き明かしたように、明らかに志賀の島の辛崎を詠っている。また三〇と三一の反歌が果たしてこの長歌に対するものかどうかは疑っている。あくまで、万葉集中の二つの短歌としてこの歌を正しく解釈すると、上述のような結論に至るという事を提示したい。
 これらの歌の正確な作歌時期は特定できないが、九州王朝(日本天皇)にとっては、新羅、唐とののっぴきならない大海戦に突入する前代ではなかろうか。
 また、大局的に見て、人麻呂が近畿天皇家のコップの中の嵐を歌うはずもないというのが、筆者の考えである。
     二〇一〇・九・三記 注および参考文献

・注1「天の原はあった(古歌謡に見る九州王朝)」西脇幸雄著古田史学会会報NO九八・二〇一〇

・注2「萬葉集私注 二」土屋文明校注・筑摩書房・一九八二

・注3「萬葉集註釋 巻第三」澤瀉久敬・中央公論・一九八三

・注4「新編大言海」・大槻文彦編・富山房・一九八二

・注5「祭り風土記上」萩原龍夫著・社会思想社・一九六五・三一頁

・注6「古事記」・倉野憲司校注・岩波文庫・一九九七

・注7「国語学新講」東條操著・筑摩書房・一九六五

・注8「原色牧野植物大図鑑 離弁科・単子葉植物編」牧野富太郎著・北隆館・一九九七

・注9「福岡市史 第一巻明治編」・福岡市役所編発行・一九五九

・注10「倉吉瀬戸━福岡湾」日本水路協会編発行・十二万五千分の一・二〇〇九

・注11「萬葉集 一」(新日本古典文学大系)佐竹他校注・岩波書店・一九九九

・注12「魏志倭人伝・隋書倭国伝・宋書倭国伝」石原校注(岩波文庫)・一九九九

・注13「人麻呂の運命」古田武彦著・原書房・一九九四


 これは会報の公開です。史料批判は、『新・古代学』(新泉社)・『古代に真実を求めて』(明石書店)が適当です。

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