英文解説 第三歌と第四歌:

これは舒明に奉(たてまつ)られた歌ではない

 これは万葉集の第三歌と第四歌です。 一般には奈良県の 宇智で間人老が、中皇命に命じられて大王舒明に奉(たてまつ)った歌と解釈されています。しかしながら、その解釈は、図二の英文に見られるように多くの解釈があり、疑問が大変持たれています。

図一、第三歌と第四歌(日本語ですから図はありません。また英語に合わせて中弭としてあります。)
天皇、宇智の野に遊猟(みかり)したまふ時、
       中皇命の間人連老(おゆ)をして獻(たてまつ)らしめたまふ歌
やすみしし わご大君の 朝には 取り撫でたまひ 夕には い寄り立たしし
み執らしの 梓の弓の 中弭の 音すなり
朝猟(あさかり)に 今立たすらし
夕猟(ゆうかり)に 今立たすらし
み執らしの 梓の弓の 中弭の 音すなり
反歌
たまきはる宇智の大野に馬並めて朝踏ますらむその草深野

天皇遊猟内野之時中皇命使間人連老獻歌
八隅知之 我大王乃 朝庭 取撫賜 夕庭 伊縁立之
御執乃 梓弓之 奈加弭乃 音為奈利
朝猟尓 今立須良思
暮猟尓 今他田渚良之
御執<能> <梓>弓之 奈加弭乃 音為奈里
反歌
玉尅春 内乃大野尓 馬數而 朝布麻須等六 其草深野
図二 英文翻訳二例を含む全文

1) 多くの難点があるその解釈には、私たちは今でも理解できない。
 一番目に「朝庭」を「朝庭 あしたには」とは万葉集の他の歌では読まれていない。この言葉は、この歌を含めほとんど全ては「朝廷」と読まれていることである。それに東アジアでは「朝廷」という言葉は皇帝に対して使用されている。いかなる場合にも大王に対しては使用しない。今まで例外は報告されていない。注1)

 二番目には万葉集では「い寄り立たしし」の基本的な意味は、女性が男性や男性の持っている物に寄り添うことである。それゆえ通説訳に従えば大王舒明は、朝には男性役を行い、夜には女性役を行うことになる。万葉集では他には、決してそのような歌はない。

 三番目には 図二や他の解説で見られるように中皇命(なかつ すめら みこと)の役割と人物が特定できない。中皇命は歌を献上させる為だけに登場する。しかしこの歌では、間人連(はしひとの むらじ)が大王舒明に歌を献上するのが全てであって、中皇命が女性か男性かに関わらず、役割と人物が特定できない。万葉集の他の歌ではそのような人物は存在しない。

 四番目に地名が大和とは決められない。宇智のみが、本当かどうかに関わらず大和に関係している。それゆえ大和で歌われた歌と考える可能性はほとんどない。

 従来の解釈では全くこの歌は理解できない。

2) 従来の伝統的解釈の信用が難しいならば、新しい視点が私たちに必要です「朝廷(ちょうてい)」という言葉の存在が、私たちに次の理解を示す。
 一番目にこの「朝廷」という言葉の存在を認めることは、帝(みかど)と大王舒明の存在を同時に認めることになる。従って「中皇命」の存在が問題となる。そうすると「皇(すめろぎ)」という二番目の漢字は最高の存在であり事実としては世界を支配する皇帝という意味です。「命(みこと)」という三番目の漢字は普通は生きている人には使えない神を意味する言葉です。「中(なか)」は私は生まれ育ったところと考える。中皇命は生きている人に関してはもっとも貴い名前である理解される。ですから「中皇命」という名は天子としての皇帝の別名です。同時に天皇はある領域を支配する大王の中の有力な者の一人である二番目の存在です。中皇命は大王舒明を伴っている。
 二番目にこの「朝廷(ちょうてい)」という言葉の理解は、他方いつも仲良く居られるという褒めたたえる表現としての対句である「夕庭 きさきには」の理解を可能にする。「朝庭」という日本語の表現を「みかどには」と読むならならば、「夕庭」を「きさきには」と読むことが出来る。帝(みかど)と后(きさき)は、何時も仲良く寄り添って居られるという意味である。

 この理解は可能である理解のうちもっとも先進的な理解である。

図三 筑紫と太宰府地図(付記 東アジア地図)

3) 歌の中の四個の地名の理解とりわけ「中 那珂 なか」の理解は、この歌が九州の太宰府で歌われたという理解に優れた役割を果たします。

 一番目は狩猟場として太宰府と結びついた内野、大野、馬敷という隣接している三つの地名の存在です。(現在でも筑穂町として一体の地域です)
 二番目に地名、とりわけ「中」という地名を理解することは、この歌を理解するキーワードと考えます。
「なか」は中皇命が生まれ育った所を呼んだものであると理解していますが、他方では中心としての意味である「中」と、仲良くの意味である「仲」と理解できます。この理念は「中弭(なかはず)」にも拡張して適用される思います。注2) 日本語の「中弭」という言葉は福岡市那珂付近で作られた弓の弭(はず)を呼んでいます。そしてそれは太宰府の宮廷から支配される隅々まで弓の弦の鳴り響く音が、お二人の仲の良さと支配の平和さが轟(とどろ)いていると書き留めるべきです。

前書きと最初の節
中皇命が間人連老(おゆ)に獻(たてまつ)られた歌
中皇命は大王舒明を伴って内野から大野に狩を行った
やすみしし わご大君の 朝(みかど)には 取り撫でたまひ
           夕(きさき)には い寄り立たしし
朝猟(あさかり)に 今立たすらし
夕猟(ゆうかり)に 今立たすらし
み執らしの 梓の弓の 中弭の 音すなり

図四 狩り場案内(筑穂町)
図五 太宰府と那珂(なか)

4) この歌で天子としての皇帝が存在すれば、太宰府に大和朝廷に先立って九州王朝が存在したことは明らかである。この提起を確認する進んだ課題は三件存在する。

 1、九州福岡県太宰府市に内(大)裏・ 内(大)裏岡・紫宸殿・ 朱雀門という字地名の存在である。内(大)裏(だいり)は天子の妻がいるところです。内(大)裏岡はそこから付けられた名前です。紫宸殿(ししんでん)は天子のいるところです。朱雀門(すざくもん)は天子のいるところに拝謁する正門です。それから都督府は中国の役所名です。太宰府の名称それ自身が首都である表現です。これらの価値は字地名そのものの存在にあります。これらの太宰府の字地名の現存は九州王朝の存在の証拠です。

 2、『旧唐書』という中国の歴史書では現在の日本列島に倭国と日本という違った二つの国が存在していました。そして『隋書』という中国の記録では、西暦六百年阿毎多利思北孤(あま たらしほこ)という人物が、中国の天子と同じ称号を名乗った。さらに『隋書』によれば、隋の外交使節団は倭国の首都に来ています。この記録によれば、首都の位置は筑紫に有ると評価できる。*3) 筑紫に存在すると判定する理由は、外交使節団は九州にある阿蘇山の噴火を観察している。この二つの中国の歴史書は、七世紀以前に倭国と呼ばれる九州王朝の存在を示している。太宰府という地名は九州王朝の首都が存在した結果です。

3) 上の節で述べた理由が正しければ、放射性炭素式年代測定法と年輪年代測定法という両方の考古学的科学技術手法が最上の助けとなります。
 たとえば太宰府の防衛のための水城では、前の堀から出た木樋の十四炭素年代測定は紀元四〇〇ー四六〇年が検出されました。また対馬の金田城の十四炭素年代測定は紀元五四〇ー六三〇年、紀元五九〇ー六五〇年が検出されました。同様に博多湾に存在した外交使節を迎える施設である鴻臚館から出た木樋では、紀元三四〇ー五二〇年、紀元三九〇ー六三〇年、紀元四六〇ー六六〇年、紀元五五〇ー六五〇年が検出されました。放射性炭素式年代測定法は年輪年代測定法に比べて測定精度は良くないですが、ほとんど全てが白村江の前です。明確なのは年輪年代測定法です。土器などの考古学編年にくらべ、百年ほど編年が繰り上がることです。たとえば弥生時代中期は西暦紀元前100年ー紀元100年が西暦紀元前200年ー紀元1年に移動する。同様に八世紀の郡衙時代 が6世紀から7世紀になります。(資料により誤差の範囲の取り方が違っていましたので、我田引水を避けて書き換えました。これにより“ほとんど”の語句を追加しました。中心値は同じです。大勢には関係ありません。2001.8)
 上に述べたことは太宰府を防衛するために六世紀に水城が構築されたことであり、同様に白村江の戦いの前に壱岐と対馬の狼煙を揚げる要塞の構築された年代が明確になりました。又これらの分析は九州王朝の存在に同意を示し、上に示された解釈の理由を示すものです。
 またこれらの測定により日本書紀の記述が正確であると考える理由は有りません。加えて明らかに白村江の戦いの後、唐の占領軍が筑紫に存在しています。その時に唐の侵略に反対する水城や狼煙台を構築することは問題外です。

 これらの歌の解釈から大和朝廷の前に九州王朝が存在したことを洞察することが出来る。
 私たちはこの歌が大王舒明(A.D 593-641)の時代に作られた歌と理解している。

中皇命、内野に遊猟(みかり)したまふ時、
       大王舒明が間人連老(おゆ)に獻(たてまつ)らしめたまふ歌

やすみしし わご大君の 朝(みかど)には 取り撫でたまひ
            夕(きさき)には い寄り立たしし
み執らしの 梓の弓の 中弭の 音すなり
朝猟(あさかり)に 今立たすらし
夕猟(ゆうかり)に 今立たすらし
み執らしの 梓の弓の 中弭の 音すなり
反歌
たまきはる内野大野に馬並めて朝踏ますらむその草深野

八隅知之 我大王乃 朝庭 取撫賜
          夕庭 伊縁立之
御執乃 梓弓之 奈加弭乃 音為奈利
朝猟尓 今立須良思
暮猟尓 今他田渚良之
御執<能> <梓>弓之 奈加弭乃 音為奈里
反歌
玉尅春 内乃大野尓 馬數而 朝布麻須等六 其草深野
(翻訳 横田幸男)
図六 第三・四歌 (最終解釈 英文)

4) 他の歌と同様この歌の解釈でも、次のことが私たちに明らかになった。
 1、歌で信用できるのは、歌そのものである。歌は第一史料、直接史料。
 2、注釈は第一史料ではない。その歌集を作ったときの編集した人の考え方がどうであったかを示す第二史料である。

 注1) 万葉集で全て「朝庭(ちょうてい)」を、「あしたには」と読めない証明は、東京古田会ニュース(72号 2000年3月)で古田氏がおこなっています。

注2) 旧岩波古典文学大系では金弭(かなはず)と成っていましたが、原文は全て奈加弭(中弭 なかはず)です。

注3) 東アジアでは六世紀、五京制や複数の都が存在しています。太宰府は九州王朝の、その中の都の一つです。九州王朝の都の問題は古田は数年懸案として保留していた問題ですが、最近成案を得ることができました。
 ー『「君が代」を深く考える』(五月書房)「筑紫正倉院」の発見など、その他講演を含むー

(訳 横田幸男)
直訳に成りましたが、誤解を避ける(?)ために、そのままにしました。

 


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