古田武彦講演会 二〇〇一年 一月 二〇日(日)懇談会

名ぐはしき印南の海の沖つ波千重に隠りぬ 大和島根は

 司会の木村さんの話にありましたように、講演で最後を飾るべき話でしたが、出来なかったので今回どうしてもお話ししたいテーマですので、述べさせていただきます。
 まず先ほどの二百五十五番から述べさせていただきます。

天離る鄙の長道ゆ恋ひ来れば明石の門より大和島見ゆ
  天離 夷之長道従 戀来者 自明門 倭嶋所見

 この「大和島 倭嶋」は、今の通説では大阪府と奈良県の県境の山の嶺である。私から見ると苦し紛れというか、乱暴な解釈を全員一致で行っていた。私はそれはおかしいと考えます。その原因は、「倭嶋」の「倭」を「大和(ヤマト)」と読んだことに原因がある。この読みかたでは、それ以上の解釈は成立しない。しかし「倭(わ)」は本来「筑紫(チクシ)」と読みうる字である。それを何時からか、結論から言えば天武が新しいアイディアで『古事記』の構想の元としたように、「大和(ヤマト)」と読み替えた。それは『古事記』の倭健(ヤマトタケル)説話から、そこから「大和(ヤマト)」と読み変えた。ですから、この歌の「倭(わ)」も、元の「筑紫(チクシ)」と考えれば、「倭嶋」も瀬戸内海上の島々と言っていると無理なく理解できる。そうすれば一連の八首の歌と方角も、西から東からと一致する。そういうことを申し上げた。

 それに関連してぜひ申し上げたかったテーマが、この歌です。
巻三
柿本朝臣人麻呂、筑紫國に下りし時、海路にて作る歌二首
三〇三番 名ぐはしき印南の海の沖つ波千重に隠りぬ大和島根は
三〇四番 大君の遠の朝廷とあり通ふ島門を見れば神代し思ほゆ
原文
名細寸 稲見乃海之 奥津浪 千重尓隠奴 山跡嶋根者
大王之 遠乃朝庭跡 蟻通嶋門乎見者 神代之所念

 ここに大和が出てきています。これはどう見ても、倭(チクシ)ではなく間違いなく「大和島根」です。そこに原文がでていますが「山跡嶋根」とある。どう見ても、これは「大和」です。ここに「大和嶋 山跡嶋」があるよ。それで二百三十五番の「大和島 倭嶋」が解決した後、これと取り組んで格闘して参りました。それで解決の糸口を探していましたが、ところがひょんなところから謎を解く糸口が出てきました。種明かしをすれば、さきほどより何回も名前をあげました澤瀉久孝さん。現在は亡くなられましたが京大の教授であり万葉学の大家です。昭和三十年代に『万葉集注釈』という本を出されました。これが今までの中で一番詳しく注を付けてあるといって良い本です。これが「大和島根」にふれておられます。同じく東大の武田祐吉さんもふれておられますが。
 これも二百三十五番の「大和島」と同じで、大阪府と奈良県の境の金剛・生駒連峰という結論になっています。(「根」は接尾語という理解です。)

 ところが、その結論のところに、ホンの少し出ている問題があった。これに私は注目した。淡路島の東海岸(大阪側)に、明石海峡に近い北端に「岩屋(いわや)」というところがある。そこに「大和島」という島がある。
 これは論より証拠。地図を見てください。これは木村さんから頂いた貴重な地図です。この地図は釣具店で買ってきて、釣師・漁師さんたちの使う地図です。岩屋というところが記載されていますが、その地図の海の上に大和島というところがあるのがお分かりでしょうか。地図に矢印が付いていまして、海に○で囲んで、岩のようなでっぱりが描いてあります。そこが「大和島」です。元々は島だったのでしょうが、今は淡路島と陸続きになっている岩の出た所です。その右上となりに「絵島」という地名があります。この「大和島」と「絵島」が二つ並んで岩屋というところにある。
 これについて、澤瀉久孝さんが触れておられ、「これは関係ない。」といずれも一蹴(いっしゅう)されている。「これは『万葉集』に基づいて付けられた地名である。」と考えておられる。だから相手にするなと表明している。
澤瀉久孝さんは『万葉集』にもとづいて後代に付けた名前であるから、これは歌の地名とは違う。そう考えておられた。私も以前は疑問もなく読んでいた。しかし読み返しているうちに、昨年の段階から、これはおかしいなと考えるようになった。
 なぜかと言いますと、「大和島」が『万葉集』にもとづいて付けた地名であるとは、証拠は何も書いていない。そして「絵島」は『万葉集』には出てこない。
 片方は『万葉集』にもとづいて付けた地名。もう片方は土地の人が、自分の頭で作った地名。この説は考え方が、ちぐはぐです。この説明は納得できない。
 しかも澤瀉久孝さんは、非常に精密な論証をおこない、注を付けるすばらしい方である。その詳しさから言えば、ここは論証が不足。現在の漁師さんたちの地図に「大和島」・「絵島」が記載されています。今度は、江戸時代や鎌倉時代の地図を考えてみます。同じような詳しさの地図、木村さんのと同じ釣師さんたちの地図。その地図を取り出してみると、「絵島」があり「大和島」がない。また今の絵島のような島があるが、別 の名前になっている。そうなれば、その説は論証が出来ている。澤瀉久孝さんは、いつも一語一語その調子で論証されている。それを信条にされている。しかしここでは、その証明はなされていない。私は澤瀉久孝さんを高く評価しています。しかし、ここは違う。澤瀉久孝さんは普段に似合わずというか、二百三十五番の「大和島」と同じく、なすべき証拠を挙げていない。しかもその論拠は中途半端で、「絵島」の説明がない。「大和島」については、『万葉集』のこの歌に基づいて、後代に付けた地名だと言っています。そのように断言されています。もちろん澤瀉久孝さんが言われるなら間違いがないと考えておられる方はそれでよいかも知れませんが、私は澤瀉久孝さんを尊敬する立場ですが、同時に間違いを間違いと言う立場です。

 それでやはり現地に行かなければならない。強引に木村さんに現地に行くことを、お願いした。それで朝早く京都を発ち明石に向かった。九時四十五分ころ明石側から明石海峡大橋を渡り、橋の半分を超えたところぐらいから、私の左手の下にある岩屋のところに、ピョコンと島が見えてきた。淡路島の北端に、海の上に団子を縦伸ばししたような岩礁 (がんしょう)の島が見えてきた。やがて橋からは見えなくなりました。あれかも知れないが、やはり現地の人に確認しなければならない。
 それで岩屋インターの観光案内所に行き、そこでたずねました。幸いなことに、落ちついた中年の女性の方に対応していただいた。聞くとその方は、そこで生まれ育った方です。これが大事なのです。その土地の方は「あなたが、明石海峡大橋から見られたその島は、大和島(やまとじま)だと思います。」と言われた。「ヤマトジマ」と「島」を濁音で言われ、絵島は見えませんと言われた。
 このお話で大枠の話は決まりでしたが、自動車道から海岸におりて岩屋に下り、絵島と大和島を見に行きました。行ってみてよかったのは、小さい神社ですが石屋(いわや)神社がある。「石屋」は「イワヤ」と読みます。
 実は木村さんの発見ですが、この神社は大和島を指して「石屋(いわや)」と呼んでいる。別 に岩屋(いわや)がないかと探したのですが、どうもそうではなかった。さらに後で調べてみると、大和島・絵島を含んで「石屋(いわや)」と呼んでいる。確かに海上に岩が飛び出している。それを船頭さんたちが「石屋(いわや)」と呼んでいる。この石屋(いわや)神社でおもしろいのは、船で行きますと、鳥居が海に向かって建っている。船から神社に入れる。九州対馬にもありましたが、船で鳥居から神社に参拝できるスタイルの神社です。漁師たちにとっての古い神社です。「大和島(やまとじま)」・「絵島(えしま)」は間違いなく、そのように発音されている。明石海峡から振り返って見えるのは間違いなく大和島(やまとじま)です。

図1はありません。
図2 野島(淡路島)周辺地図
図3 淡路町地図

図4 絵島
図5 大和島
図6 石屋神社
図7 明石海峡から大和島・絵島を観る
図8 明石港から大和島根を観る


 それで人麻呂の歌で歌われているのは、この「大和島(やまとじま)」では、ないかと考えました。もう一度歌に戻ってください。

巻三、三〇三番
なぐはしき,いなみのうみの,おきつなみ,ちへにかくりぬ,やまとしまねは
 名ぐはしき印南の海の沖つ波千重に隠りぬ大和島根は
 名細寸 稲見乃海之 奥津浪 千重尓隠奴 山跡嶋根者

 ここで「印南の海の沖つ波」の「印南の海」とは兵庫県の姫路の沖合い、今の播磨灘を指すと考えます。それでは人麻呂は今どこにいるか。印南の海の沖合いにいます。もちろん船に乗っています。「印南の海の沖合い」、そこが作歌場所です。立っているか座っているか知りませんが、人麻呂はその海の上にいる。波をみている。
 それで「千重に隠りぬ大和島根は」となります。人麻呂の目は、そこで波を見ている。ということは、目線(めせん)は上から下にいっています。ところが従来の解釈では、いきなり「大和島根」と上を向いている。しかし私以外の理解はすべて「山跡島(根)」、高さ六・五百メートルの金剛・生駒山系を見ています。そうしますと目は、海の波から山の上へと、ぽんと跳ね上がります。私はこれは不自然であると考えます。

 それにこの位置からは、「印南の海」である播磨灘から、金剛・生駒山系は見えない。だいたい明石海峡を過ぎれば見えない。なぜかと言いますと手前に淡路島の山がある。そんなに高い山ではないが、しかし船にいる人麻呂からは高い。それに金剛・生駒山系は遮(さえぎ)られて見えない。
 沖の波を見ていて、(山は)見えなくなったという話ではない。私も今は偉そうに言っていますが、万葉学者は、一つ一つ現地に行って確かめていないのではないか。それで、この歌について私などが圧倒的に有利なのは、妻が兵庫県姫路の出身で、さらに妻の親戚 の人が沖合いの家島にいる。そこに電話をかけて聞きました。さらに有り難いことに水野さん、彼は小学校は小豆島の出身です。六十歳代ですが、彼と小学校の同級生の方が小豆島にたくさんおられる。それで電話をかけて聞いて頂いた。聞いた方の中になんと関西汽船に勤められていた方で、小豆島と大阪港を往復することを生涯の仕事にされていた方から、お話をお聞きすることが出来ました。その方に播磨灘からは金剛・生駒山系は見えるのか。そう聞きますと、見えないと断言されました。

 実は以前は「倭島」の問題の時には、何とか金剛・生駒山系は見えるのではないかと考えました。それで逆に生駒山から播磨灘は見えるのではないかと考えまして、伊東さんに骨折りをいただきました。何回も生駒山に行って眺めて頂きましたが、曇っていて見えませんでした。最後は生駒山にいつも登っておられる常連の方に確認し、やはり見えないということになりました。
(インターネット事務局追加。晴れていても残念ながら大阪市の上空にスモッグがあり、沖合いが見えません。はるか上は晴れています。お正月のみは淡路島が見えますが、もちろん播磨灘は見えません。)

 どうひいき目に見ても、生駒山から見ても播磨灘は見えない。船に乗って確認しようと考えたこともありましたが、関西汽船におられた方が見えないと言っているので、まず見えない。

 以上、どちらから見ましても、見ることはできないと言っていますので見えない。

 これは「倭島」での問題でしたが、以外にも「山跡島根」の問題にも生きてきました。
 つまり姫路の沖合いからずっと手前、明石海峡を離れたところから見えない。つまり見えていて、播磨灘にきて見えなくなったという話ではない。この点からも、この歌の従来の解釈はおかしい。明石海峡から離れてきた距離の問題。この点からも従来の解釈はおかしい。
 もう一つは、目線(めせん)の問題で、上から下に目線を移動していて、いきなりまた上の方を向くのもおかしい。これが本当なら、よほど人麻呂は歌が下手だとなる。長歌の中で、目線がだんだんと上に移るなら良い。それが短歌で、このような五・七・五・七まで上から下に目線を移動しておいて、最後の七で、いきなり生駒連峰が見えた。こんな歌は下の下です。それでどちらから見ましても、従来の定説はおかしい。そういう自信を持つに至った。

 それでは何が見えたのか。ご存じのように「山跡島(根)」です。これでお分かりのように、淡路島岩屋の「大和島」です。ここは岩屋漁港と言いまして船の出発地・出入口です。そこを出て明石海峡から姫路の方に向かう。この場合は朝の満ち潮でしょう。
木村さんから教えていただいたのですが、明石海峡では満ち潮が朝、大阪湾から家島の方に向かって流れていた。逆に引き潮は夕方、逆向きに大阪湾へ向かって流れるそうです。この潮の流れは南の鳴門海峡ほど、激しくはないが方向逆転があります。
 ですからこの場合、朝の満ち潮。人麻呂が、朝出発したのは岩屋漁港。そして振り返ってみたら目の前に「山跡島根」が見える。この場合「島根」という言葉がピタリ合う。なぜならこの場合は、純粋な島でなくて続いている。この岩礁 (がんしょう)は、単なる島でなく淡路島に続いています。ですから「山跡島根」という言葉使いは非常によく分かる冴えた表現です。その「山跡島根」は波の千重に隠れてしまった。非常によく分かる。
 その「大和島」は正方形型の二十メートル、やはり高さが二十メートル近くの岩礁 (がんしょう)の島です。上は小さいですが。その程度の島ですから、その島が隠れて見えなくなった。その言い方に非常にふさわしい。自分たちが出てきた「山跡島根」が、波に隠れて見えなくなった。

 これでこの歌の理解が出来ました。そうしますと、やはり二百三十五番の「大和島 倭嶋」も問題がなくなってきた。ところがこの歌には、まだ大事な一幕があります。

 それで人麻呂の歌が軒並みダウンしてきました。「ダウン」の意味は、人麻呂はたくさん大和で歌を作っていたように見えていましたが、それがほとんどダウン、軒並み九州の歌になりました。特に『万葉集』に多いのは天武と持統の子供たちの為に人麻呂が作った歌が全部ダウン、九州で作られた。人麻呂が、大津皇子など皇子・皇女のために作った歌が、全部九州の歌となりました。
<例は略、『壬申大乱』(東洋書林)をご覧下さい。>

 地名合わせをしている。大和でもおかしかったのが、九州に持ってくるとピタリとあう。これで皇子たちの歌は総崩れ。
 これで納得がいきましたのが、最初からの問題で、『日本書紀』天武記・持統紀には人麻呂が出てこない。一言も出てこない。万葉学者はそれで大変苦労している。
 ところが『万葉集』にはたくさん出てくる。しかし実際、内容はぜんぜん駄目だった。人麻呂が九州王朝のために作った歌を、みな地名を合わせて近畿の歌にしている。地名の一点だけを結びつけるから、ほかも矛盾する。それで合わないところは後世写本を書き直したりする。

 それで『日本書紀』にいないという問題は解決しますが、その中で人麻呂が近畿で歌ったと間違いない歌が、四グループある。
その第一グループが初めにのべました巻一二十九番・三十番・三十一番の歌です。近江の荒れたる都の歌です。これは、奈良県大和と滋賀県近江の地名があり、大和から近江へと歴史と一致していますので、まず間違いなく近畿で詠んだ歌と考えます。
 そして『壬申大乱』(東洋書林)にあわせて云いますと、第四のグループとして、和歌山県紀伊国で詠んだ歌です。そしてもう一つ第三グループは熊野で詠んだ歌です。これは『人麻呂の運命』(原書房)で扱いましたが、熊野の場合は、神武が熊野を越えていったことを歌の背景にして作った歌。それと黒潮を歌っている歌。「古い家や・・・」と恋人が亡くなって私一人が来ている。黒潮がとうとうと流れている。この歌は和歌山で作っている。

 ですから残っている第二グループがある。人麻呂が恋人を大和の飛鳥で亡くしている。それは、巻二の二〇七番から二一〇番。

巻二 二〇七番
柿本朝臣人麻呂の妻死之後、泣血哀慟作歌二首并せて短歌
天飛ぶや 軽の道は 我妹子が 里にしあれば ねもころに
見まく欲しけど やまず行かば 人目を多み 数多く行かば
人知りぬべみ さね葛 後も逢はむと 大船の 思ひ頼みて 玉かぎる
岩垣淵の 隠りのみ 恋ひつつあるに 渡る日の 暮れぬるがごと
照る月の 雲隠るごと 沖つ藻の 靡きし妹は 黄葉の 過ぎて去にきと
玉梓の 使の言へば 梓弓 音に聞きて
[一云] [音のみ聞きて]
言はむすべ 為むすべ知らに 音のみを 聞きてありえねば 我が恋ふる
千重の一重も 慰もる 心もありやと 我妹子が やまず出で見し
軽の市に 我が立ち聞けば 玉たすき 畝傍の山に 鳴く鳥の
声も聞こえず 玉桙の 道行く人も ひとりだに 似てし行かねば
すべをなみ 妹が名呼びて 袖ぞ振りつる
[或る本、名のみを聞きてあり得ねば といへる句あり]
短歌二首
二百八番 秋山の黄葉を茂み惑ひぬる妹を求めむ山道知らずも
              [一云][路知らずして]
二〇九番 黄葉の散りゆくなへに玉梓の使を見れば逢ひし日思ほゆ
二一〇番 うつせみと 思ひし時に
   [一云][うつそみと 思ひし]
取り持ちて 我がふたり見し 走出の 堤に立てる 槻の木の
こちごちの枝の 春の葉の 茂きがごとく 思へりし 妹にはあれど
頼めりし 子らにはあれど 世間を 背きしえねば かぎるひの
燃ゆる荒野に 白栲の 天領巾隠り 鳥じもの 朝立ちいまして 入日なす
隠りにしかば 我妹子が 形見に置ける みどり子の 乞ひ泣くごとに
取り与ふ 物しなければ 男じもの 脇ばさみ持ち 我妹子と
ふたり我が寝し 枕付く 妻屋のうちに 昼はも うらさび暮らし
夜はも 息づき明かし 嘆けども 為むすべ知らに 恋ふれども
逢ふよしをなみ 大鳥の 羽がひの山に 我が恋ふる 妹はいますと
人の言へば 岩根さくみて なづみ来し よけくもぞなき うつせみと
思ひし妹が 玉かぎる ほのかにだにも 見えなく思へば

 それで私は、人麻呂が大和飛鳥で恋人を亡くしたことは、まず間違いがない。これも従来は人麻呂が大和飛鳥で生まれ育ったようだと解釈されていたから、あまりクローズアップされなかった。人麻呂の作った歌が、軒並み近畿でなくなったので、故郷が九州へ引っ越ししてしまった。だいたい今の佐賀県から福岡県の朝倉界わいの土地勘が非常に鋭いようだ。大和に住んでいるのではない。
 もちろんこの歌の時は、二一〇番「我妹子と」とありますから、恋人と大和に住んでいる。しかしそれは九州から、ある用件があって行って、住んでいる。何カ月か1年か知れませんが住んでいる。その時に恋人を飛鳥で亡くした。

 それで結論から言いますと、私が注目しましたのは、二百七番に「我が恋ふる千重の一重も慰もる 吾戀千重之一隔毛遣悶流」とあり、そこに先ほどの三〇三番の歌と同じ「千重」とあります。それでこの妻を失った歌を詠んだのは、明らかに大和です。そうしますと三〇三番「千重に隠りぬ 大和島根は」とは明らかに重なっています。偶然重なったのか。私はそうではないだろう。ですからあきらかに三〇三番の歌で「千重に隠りぬ 大和島根は」と歌っていたとき、彼が思っていたのは大和で亡くなった恋人のことです。「大和島根」というのは小さな島です。その小さな島から大和で死んだ恋人のことを思い出していた。この「大和島根」が隠れていく。恋人の死んだ大和を去って九州へ帰ってゆく。物質的に波に島が隠れた。それだけではない。彼の目に、彼の頭の中では、大和で死んだ恋人のことです。

 私はそのような理解に到達して、この歌が本当によく理解できた。

 そこから先は、私の言い過ぎであるかも知れないが、「名ぐはしき印南の海の」と人麻呂は使っています。「印南(いなみ)」という言葉は他の歌でも使っています。八首の歌でも使っています。ところが「名ぐはしき」という言葉が付いているのは、ここだけです。「名ぐはしき」という言葉の意味は、「名前が非常に目立っている美しいひと・もの」という意味ですが、なぜここだけ付いているのか、そういう問題にぶつかった。他の歌の用例もご紹介すれば良いのですが。
 それで考えてみますと「印南」は「否み(いなみ)」という言葉。否定の意味。あの「否み(いなみ)」を使って、「私は恋人(美しい人)を失ってしまった。」、それが「名ぐはしき印南」ではないか。人麻呂は大変繊細な言葉の使い方をする人です。ですから、この時だけ偶然字数不足だったから、「名ぐはしき」を付けて字数を合わせました。そのようなことではないと思います。引っ付けた理由がある。その理由は「否み(いなみ)」、否定するというニュアンス。その大和と同じ名前をもつ「大和島根」。凄(すご)い詩人ですね。時間がなくて、これで終わらせていただきます。


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