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『「邪馬台国」はなかった』


『盗まれた神話』 ーー記・紀の秘密(ミネルヴァ書房
2010年3月刊行 古代史コレクション3

第一章 謎にみちた二書

古田武彦

 聖典か、虚妄の史書か

 わたしたちの前におかれた“謎の書”がある。古代記録の最後の秘境、それがこの『古事記』『日本書紀』という二冊の本だ(以下『記・紀』と略記する)。
 わたしはこの本の謎に立ち向かったとき、ここに封印された不思議の数々に、いいようもない戦慄を覚えた。そしてどうしてもこの秘密を闇の中から明るみにひき出したいと思ったのである。
 思えばこの二書ほど、数奇な運命によって翻弄されてきた書物も少ないであろう。かつては日本最高の聖典とされ、この本をめぐる自由な論議さえ禁圧されてきた。それは決して遠い昔ではない。わたし自身でさえ、青春のはじめの日々まで、そのような時代のさ中に生きていたのである。
 敗戦とともに一転して、大いなる侮蔑と忘却の運命がこの本の上に訪れた。その語る神話や説話は、多く“虚妄の史実”である、とされ、これが新しき通念となったのである。戦前の世代はみずからの歴史教養に自信を失い、戦後の世代は、この本の語るところをもって、「日本の常識」とすることをやめた。
 わたし自身の場合をふりかえってみよう。三十代は親鸞研究の中にあり、古代世界から遠い場所にあった。ところがある日、偶然の手に導かれて古代史の森の奥深く求めさまようこととなったのである。
その入口の扉には「邪馬壹国やまいちこく」の文字があった。
 “原文の一字一句もみだりに改変せず、『三国志』全体の表記のルールに従って倭人伝を読む” ーーこのルールに従って、従来の「邪馬台国」への改変を非とし、わたしは博多湾岸なる卑弥呼の国「邪馬壹国」へと導かれたのである(『邪馬台国」はなかった』朝日新聞社、一九七一年)。
 さらにわたしは同じ方法に従い、志賀島(しかのしま)の金印や中国代々の史書(『宋書』『隋書』『旧唐書』等)のさし示す日本列島代表の王者を求めた。その結果、前二世紀より七世紀まで一貫して近畿天皇家に先在し ーー筑紫(ちくし)を中心とする九州王朝が中心王朝として存在していたことを知ったのである(『失われた九州王朝』朝日新聞社、一九七三年)。
 これに対し、『記・紀』神話の世界は、これら中国史書の場合とは異なって、いわば“もっとも熱い領域”であるといえよう。なぜなら、ただ学問上の論議だけではなく、さまざまな分野のはげしい対決さえ現実の世界に生じているのであるから。
 けれども、今のわたしに必要なことは、それを左右に顧慮することではない。なぜなら、孤立の探究者たるわたしの属するところは、ただ“真実という名の党派”だけである。そして真実を愛するすべての人々と連帯せんと欲するからである。それ故、一切の現状況を顧慮せず、あたかも『記・紀』の神話にはじめて触れて好奇心に燃える少年のように、無邪気に問い、率直に疑い、それを探究の出発点にしたいと思う。

 

 矛から生まれた国

 わたしの疑いはこうだ。
 第一は、国生み神話にまつわる問題。『記・紀』とも、はじめに国土創生神話がある。今、『古事記』の例を示そう。
 是ここに天(あま)つ神諸もろもろの命(みこと)ちて、伊邪那岐(いざなぎの)命、伊邪那美(いざなみの)命、二柱の神に、「是の多陀用弊流(ただよえる)国を修おさめ理つくりて固め成せ。」と詔りて、天(あめ)の沼矛(ぬぼこ)を賜たまひて、言依ことよさし賜ひき。故かれ、二柱の神、天(あめ)の浮橋に立たし(立を訓みてタタシと云う。)て、其の沼矛を指し下ろして以ちて画(か)けば、塩許々袁々呂々爾(しお こおろこおろに)画き鳴し(かきなし 鳴を訓みてナシと云う。)て引き上ぐる時、其の矛の末より垂(しただ)り落つる塩、累(かさ)なり積もりて島と成りき。是れ淤能碁呂島(おのごろじま)なり。(淤より以下四字は音を以てせよ。)
 其の島に天降(あまくだ)り坐(ま)して天の御柱を見立て、八尋殿(やひろどの)を見立つ。
   (「矛→弟」の新論証については、本書四一一〜四一七ページ参照)

 イザナギ・イザナミの二神が天つ神たちから賜わった「天の沼矛」によってオノゴロ島を造成し、そこに行き、その島に天の御柱と八尋殿を「見立てた」というのである。そして二神はこの天つ御柱をめぐりつつ、次々と以下のような「大八島国」を生んでいった、という。
(1) 淡道之穂之狭別島(あわじのほのさわけしま 淡路島)
(2) 伊予之二名島(四国)
(3) 隠伎おき之三子島(隠岐)
(4) 筑紫島(九州)
(5) 伊伎いき島(壱岐)
(6) 津島(対馬)
(7) 佐度島(佐渡)
(8) 大倭豊秋津島(おおやまととよあきつしま 本州ーー大和または難波なにわを中心にした畿内の地域)
     ( )内は通常の理解。

 古事記の大八島国 謎に満ちた二書 『盗まれた神話』 古田武彦 ミネルヴァ書房

 さて、右の神話を貫く思想を一言でいえば、“天の沼矛の威力から、大八島の国々は発生したのだ”というに尽きよう。まるで有名な「鉄砲から権力は生まれる」というテーマさながらに「古代の国々は矛から生まれた」というのだ。これはまことに“露骨な思想”である。
 ところが一方、よく知られているように、弥生期の日本列島に顕著な「二大青銅器圏」があった(この問題についての最近の諸見解については、後に詳しく論ずる)。
 つまり、(A)「銅剣・銅矛・銅戈どうか圏」(以下「銅矛圏」と略称する)、(B)「銅鐸圏」であり、(A)と(B)の接した領域には「混合領域」がある。
 ところで、先の「矛の独占する国土創生神話」は、ズバリいえば、銅矛圏の中で産み出された神話である(銅矛出土の中心は筑紫、とくに博多湾岸とその周辺)。ことに“銅鐸の一片の影さえ認めることのできない、矛の独占支配”という点からすれば、原点は(A)と(B)との混合領域(瀬戸内海領域)の産物ではなく、“純粋な銅矛圏を原点として産出された神話”だ。そのようにわたしには思えるのである。これが「矛の独占」神話の示す、必然の論理性だ。
 ところが、問題は「大八島国」の分布範囲だ。(4)(九州)・(5)(壱岐)・(6)(対馬)は純然たる銅矛圏だ。(2)(四国)も「伊予」を中心にする名だから、これに準じよう。(1)(淡路島)は銅矛圏の東限である。また、(3)(隠岐)と(7)(佐渡)とは日本海沿岸の島である。この両島は銅鐸・銅矛類ともに著しい出土はない。
 以上は、一応わかる。だが、これらに対して、わたしの不審は(8)(本州)だ。これが大和を原点とする名称であれ、難波を原点とする名称であれ、ほぼ“純粋な銅鐸圏”であることに変りはない。だのに、この国土がなぜ、“矛から生まれた国土”とされるのか。不審である。この領域をふくむ神話ならば、銅鐸が登場して一役買っていて当然ではないだろうか。ことに右のうち「大倭」のついているのは(8)(本州)だけだ。つまり「大八島国」の中心のように見える。それなら、なおさらのこと、銅鐸は中心的役割をになって当然ではないか。 ーー以上がわたしの抱いた率直な疑問だ。
 これに対し、“淡路島の海人あま族がこの神話の生み手だ”とする見解がある(松前健「国生み神話と淤能碁呂島」、『古代文化』XXIII所収、および松前『古代伝承と宮廷祭祀』)。しかし、淡路島の領域は銅鐸圏と混合圏の接点だ。この神話がこの地点を本拠とした種族の手による、つまりここを原点とする産出物ならば、やはり“銅矛と並んだ銅鐸”、もっといえば“銅鐸を主にし、銅剣(瀬戸内海領域に多いもの)を従にした”神話でなければならぬ。 ーーわたしにはそのように見えたのである。
 また、銅鐸とはほかでもない、“大陸製の「銅剣・銅矛・銅戈」の類を熔かして造り直した再製銅器だ”という見方が、ある考古学者によって説かれている(小林行雄『民族の起源』『女王国の出現』等)。
 このように「(一)旧、銅矛類→(二)新、銅鐸(再製)」という時間軸で考えてみると、この国生み神話の成立時期は、(一)の時点だった、と見なすことで、わたしの不審は一応解けるかに見えよう(もちろん、小林説自体には、そのような問題設定はない)。けれども、では、(一)の時期に作られた神話が(二)の時期を経過して七、八世紀の近畿天皇家に伝えられたはずだのに、(二)の時期には重要なシンボルであったはずの鋼鐸が、この神話のみならず、『記・紀』全体の中に一片の影さえも落していないのはなぜか? そう問い返すと、わたしの思惟の行く手は、さらに深い疑いの沼の中へと没してしまうほかなかった。
 また、(二)以後の時期にこの神話が作られたとすれば(これが現今通常の理解であろう)、この“銅鐸の片鱗すら出現せぬ”という事実は、なおさら不審だ。なぜなら、“遠い昔の銅矛以上に、銅鐸の印象の方が新しく、かつ鮮やかだった”はずだからである。したがって、その不可思議さは一層ますばかりである。
 このようにして、わたしは『記・紀』を読みはじめるや否や、冒頭から、解きがたい難問の中に荘然と立ちつくすこととなったのである。

二つの青銅器圏 謎に満ちた二書 『盗まれた神話』 古田武彦 ミネルヴァ書房

 神代紀「一書」の意味するもの

 第二の疑いに移ろう。
 こんどはもつと簡単明瞭だ。『日本書紀』の神代巻には、おびただしい「一書」群がある。
 (本文)古(いにしえ)、天地未だ剖(わか)れず、陰陽分れず、渾沌たること鶏子(とりのこ)の如く、溟幸*(めいこう)にして牙(きざし)を含む。
 ・・・
 一書に曰く、「天地初めて判わかれ、一物、虚中(そらのなか)に在り。状貌言ひ難し。・・・・」
     溟幸*(めいこう)の幸*は、第3水準ユニコード6DAC

といったように、まず本文をあげ、つぎにそれに対する異伝としての「一書」をあげているのだ。そのすべてを表示しよう。

 

 「一書」表

〈神代上、巻一〉

内容
一書の数
天地未剖
6
神生み
2
神世七世
1

国生み(大八洲国)

10
天照達の誕生
11
二神の誓約
3
素戔嗚の追放
3
大蛇退治
6

〈神代下、巻二〉

内容
一書の数
天孫降臨
8
海幸山幸
4
十一
神武兄弟の系譜
4

 

58

 次ぺージ表のように総計五十八個も、「一書」からの引用がある。各段ごとにいえば、最少一個(第三段)から最大十一個(第五段)の「一書」が引用されている。このことは一体、なにを意味するのだろう。『日本書紀』の成立以前に少なくとも十一個くらいは、すでに日本神話を記録した日本古典が成立していた、という事態を意味する。これは当然だ。
 しかし、不思議はこの直後に発生する。巻第三の「神日本磐余彦かむやまといわれひこ天皇(神武天皇)」以降は、パッタリとこの「一書に曰く」が消滅するという事実だ。時に「一に云う」といった形のものはあらわれるけれども、質量ともに神代(巻一、二)の「一書」群の比ではない(ただし、書名を明記した外国史料の引用としては、『三国志』や百済系三史料〔「百済記」「百済新撰」「百済本記」〕の引用がある。 ーーこの三史料については、『失われた九州王朝』に詳しくのべた)。
 「神代」については、これほど国内に古典がすでに乱立していたのに、神武以降、ピタリとそれがなくなるのはどうしたわけだろう。神代については強い興味をもっても、「人間」の時代には関心がなかったのだろうか。そんなことは考えられない。なぜなら、巻第三を全篇神武天皇一人にあてていることでもわかるように、豊富な描写がここに集中されている。だのに、ここには「一書」は存在しないのだ。また巻第七の日本武尊(やまとたけるのみこと)説話や巻第八、九の仲哀・神功説話なども、筆に力をそそいで叙述されてあり、記事量は多い。しかし、先にあげた外国史料のほか、国内史書としての「一書」からの引用は、やはり、ないのである。
 時代が降るに従って史書が増え、各系統の史料が豊富になる、というのなら、話がわかる。しかし、逆なのだ。しかも、自然に漸減する、というのではない。巻第一、二(神代)と巻三(神武天皇紀)との間、という明確な一線でキッパリと掌を返すように一変しているのだ。ここには、当然、その理由があるはずだ。だから、それが明らかにされねばならない。しかしわたしは、『日本書紀』研究史上のいずれの研究書においても、その理由を明白にのべでいるものに出会うことができなかったのである。
 一つの史料をあつかう場合、そこに“なにが書かれているか?”を論ずる前に、その史料の成り立ちと素性、つまり「史料性格」を吟味しなければならぬ。それをやらずに、内容だけ論ずるのでは駄目だ。 ーーこう考えると、こんなに唐突な出没の仕方を見せている「神代」の巻々の「一書」を、その成立の謎を解き明かさぬまま、その内容を論ずることは危険きわまりない。わたしにはどうしても、そのように見えたのである。

 

景行、九州大遠征の疑問

 第三の疑いに移ろう。
 こんどは景行天皇の九州遠征説話をめぐる『記・紀』間の断絶だ。『日本書紀』巻第七に特筆されているこの説話に、多くの不審点のあることはすでに指摘されている。その主要なもの二つをあげよう。
 その一つ。同じ巻のこのあとに書かれている日本武尊の熊襲(くまそ)説話や巻第八、九の仲哀・神功の熊襲説話の場合、現地(九州)の地名がほとんど出現しない。これに対して、より早い時期の景行説話の方だけは、具体的地名が約二十個もハッキリと書かれているのだ。これは不審としかいいようがない。
 その二つ。景行天皇はこの遠征の中で日向(ひむか 宮崎県)に立ちよっている。ここは襲の国(鹿児島県)を討つさいの滞留地とされたように書かれている。ところで、『記・紀』ではこの日向はそもそも「神武東征発進の聖地」であった。だのに、景行天皇は日向に来ても、そんなことはおくびにも出さない。“わが聖祖発進の地にわれ今着けり!”そういった感激の文面など、一切ないののだ。これも全くおかしい。
 これらの疑問は、戦前において、津田左右吉の、すでに鋭く着眼した点である。これに対する彼の帰結はこうだ。“こんな矛盾がいろいろある点からみても、景行の九州遠征説話は、到底本来存在していたものとは思えない。おそらく「後代の造作」にかかるものであろう”と。
 しかし、わたしは思う。“津田の疑いは見事だけれども、その帰結はいただけない”と。なぜなら「後代の造作」いう、その「後代」とは、「七、八(あるいは六 ーー以下略)世紀の近畿天皇家内部の史官たち」にほかならない。では、その彼等自身、右の矛盾に気づかなかったのだろうか。それほど彼等は“頭のにぶい連中”だったのだろうか。わたしには、このような想定は、なにか現代人学者の“見くびり”ではないか、そのように思えてしようがないのである。
 ことに第二の矛盾は問題だ。現代のわたしたちとは異なり、七、八世紀の近畿天皇家内部の史官たちにとって、「神武東征」は、厳たる“歴史の大前提”であったはずだ。これは『記・紀』そのものの内容が明白に証明しているところである。そしていかなる史官といえども、この神聖な大前提を無視して“勝手気ままに造作する”、そんな自由は決してもちあわせていなかった。わたしにはそうとしか思えないのである。
 これに対して、つぎのように説明する論者もあるだろう。“だからこそ、「神武東征」説話の成立は、意外に新しいのだ。その成立以前に「景行遠征」説話は創作された。だから、「神武東征」の影響をうけていないのだ”と。
 しかし、この謎解きにも、やはりわたしを納得させる力がない。なぜなら、もしかりに右のようないきさつだったとしても、八世紀の『日本書紀』の編者たちが、「景行遠征」を叙述するさい、「日向到着の感激の辞」くらい挿入することなど、まことにたやすい極みの「造作」ではないか。「是の地は東征の聖跡にして・・・・」という類の、解説の地の文を一、二行挿入するだけでいいのである。このように考えてみると、この説話の「後代造作説」には、なんともふっ切れない不審の影が拭えない、と思うのは、果たしてわたしだけだろうか。
 しかも、第三に、わたしがこの説話に対していだいた最大の疑惑、それは、この「景行の九州遠征説話」が『古事記』には全く姿を見せない、という、まぎれもない事実だ。この説話の正体が本当に近畿天皇家内部の史官によって、七、八世紀かその前ころに「造作」されたものなら、それが同じ近畿天皇家内部の史官たる太安万侶によって全く無視される、というのは、まことに奇怪至極、なんとも不審極まることではあるまいか。
 太安万侶は、現代の小説家ではない。自分の勝手な判断で、自在に“一人の偉大な天皇の巨大な業績”を示す説話を削除しうる権能を彼がもっていたとは、わたしには到底思えないのである。

 

 韓国の謎

 最後に、第四の疑いを書こう。「韓国からくに」表示の謎だ。『古事記』の天孫降臨のところに、つぎの記述がある。
 此の地は、韓国に向ひ、笠沙(かささ)の御前(みさき)に真来(まき)通りて、朝日の直刺(たださ)す国、夕日の日照る国なり。故(かれ)、此の地は甚だ吉(よ)き地。

 これは、「筑紫の日向ひむかの高千穂の久士布流多気くじふるたけ」に“天降った”ときの、ニニギノ命の言葉だ。
 ここで問題は「韓国に向ひ」の一句だ。従来の「定説」では、天孫降臨は“宮崎県の日向”だ、ということになっている。では、この一句はなんだろう。“日向の属する九州の、その北岸が韓国に向ひ”というのでは、あまりにも“まどろっこしい”話ではないか。この問題は今までにも気づかれ、しばしば言及された。だが、この一節の真義をキレイに解きあかすことはできなかった。天孫降臨は、『記・紀』の物語展開の要だ。いわば神話構成の原点なのである。そこにこんな不明の霧がたちこめていては、とても、『記・紀』神話の謎を万人のための明るみにもち出すことができないのではあるまいか。

 『記・紀』探究の出発の地を示す「疑いの四つの扉」を、わたしは今、提起した。これらはいずれも些末な問いではない。『記・紀』の神話・説話群を理解するために、いずれも不可避の問いである。
 これらに対して明確な答えが与えられたとき、はじめてわたしたちは、『記・紀』の森の暗闇の中から立ち出で、新しき「古代の真相」をかいま見ることができるのではないだろうか。


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